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地球の舳先から vol.300
気仙沼(2013)編 vol.4(全5回)
気仙沼の観光案内課、気楽会の最大の特徴は人めぐり。
この日もたくさんの地元のメンバーや、別の地方から帰ってきた気仙沼
ゆかりのメンバーの皆さんが町をめぐりながら自分の話しをしたり、
いろいろな人をめぐって話を聞かせてもらう場をセットしてくれていた。
参加者もいつもバリエーションが豊かで、木の診断士?的な専門家や、
僧侶の先生、気球家(あげるほう)など。
現在は文筆家で、以前この地で教員をしていた方もいて非常に面白い。
以前参加したときは平地から出発したが、今回のツアーは高台から下りていく。
視界がひらけた場所で、その更地の面積の多さに目をみはった。
津波の被害が甚大な南気仙沼地区で、まず当時の写真をもって説明してくれたのは桑原さん。
競馬ライターとしても活動しており、このコラムでもインタビューを行わせて頂いたことがある。
桑原さんは当時、この更地が目立つ地区の真ん中の病院で働いていた。
津波の浸水にあわせておばあちゃんを背負って上の階へと避難させ、翌日になってから
ヘリで救出されたというが、「70代くらいの人のほうがむしろ落ち着いていましたよ」という。
救出されたあと、スコップをかついで、がれきの中、道を作りながら病院へ戻った。
約2週間後の3月29日には小さな空き家で院長のもと病院を再開させた。
卓球台での診療に、「日本一狭い整形外科だったと思いますよ」と当時を振り返る。
「ここは魚市にいちばん近い病院。漁師の患者さんが多いです」という解説に参加者から
漁師でも病院にかかるのか、と意外の声が出ると苦笑した。
「骨折してるのに、出港するんだからあと1時間で治せとか、無茶言いますよ。
インフルエンザで船に乗るのだけは、本当にやめてほしいですね」
次に向かったのは、旧・河北新報ビル。以前ツアーに参加したときにも話を聞いた場所だ。
1次避難所に指定されていたここには70人ほどが集まり、自動販売機を壊して飲料を得たり
社旗用のロープを命綱がわりに準備するなどまさにサバイバルな状態だったという。
今回、はじめて中に入ったのだが、公民館としてリニューアルオープンしていた。
解説してくれた小山さんが、「この3部屋を、3班に分けて生活しました」と案内してくれる。
施設は大変きれいにリノベートされていて想像もつかないが、階段の柱にはここまで津波が
きたという表示が貼ってあった。
「顔もわかってて、協力しやすかった。防災・減災の1番の鍵は地域の人のコミュニケーション」
と当時を振り返る。「減災」。新しい言葉だったがそれこそが進めるべき対策だろう。
その旧河北新報ビルからほんのわずか区画を進んだところに、小山さんの店はあった。
小山さんは気楽会の代表メンバーでありながら、お菓子屋さんの跡継ぎなのである。
ふかひれゼリーの看板を出していた当時の店舗の写真を見せてくれる。
2階の喫茶店は、気楽会のミーティング場所になっていたという。
「僕はいつか必ずここへ帰ってくる。隣の土地も買っちゃって、店を大きくして」
2年前にもこのツアーに参加し、当時の様子を語ってくれるメンバーも同じ人が多いのだが
これから先、しかも目先でなくてもっと先の話がたくさん出てきたことが印象的だった。
次に向かったのは魚市場。ここの魚屋、安藤さんのファンは私だけではないだろう。
安藤さんは有名人なのだが、「防潮堤イラネとか言って、あいつらアホじゃねえかとか思ってるでしょ!そういえばあのテレビに出てた魚屋バカそうだったし気仙沼のやつみんなあんな感じかとか」と、謙遜(?)する。
安藤さんの男前っぷりはぜひとも以前のインタビューでご確認いただきたい。
気仙沼、とくに魚市の近くに店をかまえる方々の震災対策や、逆に陸地で逃げ遅れた人が
多く出たことへの驚きと衝撃、最近取りざたされている防潮堤問題について話を聞く。
こちらではその詳細を自粛するが、船を休めに来た漁師さんに「いつもありがとう!」と
絶叫した姿と、「気仙沼いいとこですよ。太陽と、おいしい魚と、ちょっとバカな人たちと」
というからりとした言葉が胸を打った。
人の話を書いていたら、やっぱり長くなってしまったので、今回はこの辺で。
次は午後の人めぐりツアーをご紹介したいと思う。
つづく