先週の話になりますが
オペラ歌手養成所同期の仲間が結婚しまして、披露宴に出席させていただきました。
新郎様はヴァイオリニスト、新婦様はソプラノ歌手という音楽家同士。
お二人は在日の方なので、披露宴での衣装もまた母国の民族的衣装で、新婦の深々と腰を落として一礼をする姿がとても美しいのでした。
余興はオペラ歌手の方々(私たちの大先輩にあたる方々)やヨーロッパで活躍なさってるご友人の方。
チョゴリ姿でカルメンを歌う歌手を見られることはこの先ほとんどないと思います。
新郎様のヴァイオリンの音色は甘く聞き惚れ…
も一つ印象的だったのは、太鼓を演奏しながら舞う美女でした。
余興というか、もはやディナーショー!といっても過言ではない披露宴。
お隣に着席なさっていたのが新婦様のお師匠にあたるソプラノの方で(夏に「蝶々夫人」の舞台でいとこ役を演じられ、私自身も大変お世話になった方)
「異文化交流だと思っていれば大丈夫。どんどん盛り上がってくるからびっくりすると思うよ。日本の静寂とした披露宴と全く雰囲気も違うから!どんちゃん騒ぎですごく楽しいよ」と教えていただいていたのですが、
余興の素晴らしい芸術オンパレードは続き、会場内がほぼ立ち上がりゆーらゆら音頭のような舞踊を円になり踊り始めたときには私たちはポカーンとしていたのですが
その踊りと共に我らが同期の新婦様がそのお国の童謡を歌い始めたときの輝きといったら大拍手ものでした。
日本でも、日本の伝統芸術、舞いや演奏ができる人間はほんの一握りしかいないだろうに。同じアジア人として羨ましい気持ちと悔しい気持ちがありました。
母国の芸術をもっと知る教育を受けていれば、きっとあのような幸せな空気をつくる機会も増えるのです。…言い過ぎですかね。
とにもかくにもお二人も私たちも幸せな時間でした。
おめでとうございます。
これからも愛と優しさと音楽溢れるお二人でありますように。
私たちも努力しましょう。
最近、もうひとつ悩んでいたことがありました。
たくさんの人に高橋のうたを聴かせて、校友会の総会に歌わせる場を設けてもらえるようにと、どうにかあそこの場、ここの場、初めて訪れるであろう合唱団の練習に歌いにいきなさい、と動いてくださる方がいらっしゃいます。
本当に御好意なので、紹介していただいた団体が是非とも歌いに来てくださいと言ってくだされば、どんな響きなどデッドスペースであっても、ピアノがなかろうと、アカペラや音源を持ち込んで歌いにいくのです。
ありがたいです。
しかし、「ここで歌いなさい、話をつけとくから」と言ってくださった方の話から
先方があんまり訪問を乗り気でないかな…と感じるやりとりがあったのに、それでもいいからきてね!と紹介者から言われると…
ハッキリお断りしづらいことがありました。
とあるアンサンブルチームの団体に突然現れて、貴重な練習時間をいただいた上で、合唱とは違うオペラアリアを3曲歌わせていただいたあと、
練習を見学して、練習についてのアドバイスをしていけばよいと言われていたのですが、それは交渉前の紹介者の考えであり
歌ってもらうのはかまわないけど、練習についてのアドバイスをしてもらう件は今の段階ではしてもらいたくない、とのこと
と言われ
そりゃ当たり前でしょう。
突然、年配のプライドをもって何十年も活動なさってるチームに若いペーペーの私が行って、興味もない歌を歌ってさらに文句を言っていくなんて失礼にもほどがあるのです。
勇気をもって
「私が伺い、歌いにいくこと自体に問題ないのですが、先方は私が訪問すること自体を疎く感じていらっしゃるように思います。
そういうときに伺うのは、逆に互いに気を張ってしまうのではないかというのが正直な気持ちです。」とお伝えしたのでした。
独唱での試唱会のこと。
場所はユニットで受けたところ(すごく広く響くスタジオ)とかわり、客席が185ほどの講堂のようなホール。
電気は煌々と客席にもステージにも。
ど真ん中で公演監督がきいていらっしゃるという。
完璧にオーディション。
研究生のころにもあまり立ち入ったり歌ったことのない場所で、客席が上に向かって広がっている場所。
声が跳ね返ってくるのが急で、響きの感覚をつかむのに必死になり…出だしで少しぶれました。
言い訳というのは、あれこれ絶え間無く出てくるものです。
客席の明るさで、どこをみて歌えばいいか定まらないから音程もぶれた…なんていっていた時期もありますが、変な言い訳です。
高校生のときに師事していた師匠には
「なにキョロキョロしてるの!あんたは目が大きいから、視線がきになる」
と指摘されたあと
「自分の音楽を見なさい!」と言われたのでした。
自分の音楽を「見る」というのは、実際にはできず、あり得ないことです。
耳で、皮膚で、心で、身体で
自分自身の音楽を見るということ
「客観的」「陶酔」という感覚とはまた別の作業だということに10年経過した最近気がつきました。
9月の7日、15日と所属させていただいている歌劇団の試唱会に出席しました。
これは毎年1度、公演監督に自分をプレゼンするいわいる自己アピールの場であります。
年に3回ほど本公演があり、そのキャスティングのためであったり
イタリアの留学支援などに推薦していただける機会を得られたり…オールラウンドでのオーディションのようなものです。
今回、7日にはユニットで、15日はソロで。
若手でユニット参加はちょっとはやいかな…と思いつつ、当たって砕けろ!私たちのウリはフレッシュさとほんの少しばかりの美貌だ!(思い込み)と自分たちに言い聞かせて尻に火をつけたのでした。
もし、うまくいけばカフェコンサートなどのプロデュースに抜擢していただけるかもしれないのです。
1人でまだまだ歌手として物足りないのなら、中高大と合唱にあけくれた経験やピッタリあう声や息を活かして、素敵な詩の曲を声楽アンサンブルで発信していこう!というアピールでありました。
ソロの場合は、得意なオペラアリアを2曲提出し直前でどちらかを指定されますが
ユニットは10分の時間を与えられ、曲数も自由。
その中でトークやパフォーマンスを含め、完全にコンサートトークショーでありました。
私たちはオペラの2重唱を歌っても歯がたたないことを知っているので、お互いが大好きな邦人作曲家の作品を詩を聞かせるように歌いました。
後は、完全にバロック要素の多い、響きやリズムを心地よく聴かせる作品。
声が似ているので、曲の途中で上下を入れ換えてみたり(後にトークのネタにする)
それになんといっても、私たちは真面目な話をしてもテンポが悪く、馬鹿がばれる。
話ベタなのでトークはどうもノリを求めすぎて漫才になってしまうのです。
「はい、どうもどーも!」的な
流石に、若手の阿佐ヶ谷姉妹を目指して頑張ります!という用意した台詞は言いませんでしたが
私はツッコミ、相方はボケ、茶番劇を繰り返したあとに本題に入る。
試唱会はいつも緊迫した空気でピリピリした空気でとてもふざけることができないのですが、「お客様が入ってないカフェコンサートだと思ってやろう」と半ばヤケクソでした。
トーク内容を秘密にしていたピアニストの方が後ろで爆笑、
前で聴いてくださった審査の方も苦笑かどうかさておき、穏やかに聴いてくださり、私たちのボケツッコミ質疑応答にも反応してくださったので…
これは笑いのセンスをさらに取り入れ、トークで心を掴む勉強をしたらいいコンビになるぞ!と勝手に2人で高ぶったのでした。
みんな同じドレスでユニット感!
次はソロを報告します。
月初めのお話です。
お世話になっている合唱団の元メンバーの方の闘病生活を励ますため、ご自宅の真鶴までメンバーみんなでお見舞訪問しました。
小田原より先の海沿いの住宅地であります。
その方は、自宅に音楽室を作り地元のみなさんとのふれあいを考えておられたようでお宅の倉庫部分を音楽サロンのように改造なさって、素敵なグランドピアノがありました。
私はその方にお会いするのは初めてで、ドキドキしていたのですが、優しく出迎えてくださいました。
長年、一緒に歌ってきたメンバーと懐かしい曲を歌うのでした。
中でもご一緒した「ふるさとの四季」という曲集は日本歌曲や四季にまつわる童謡が合唱で
ふるさとから始まり春から冬まで巡ったあと、またふるさとの3番に戻ってくるという美しい合唱曲であります。
日本の曲は、心が穏やかになったりそのとき過ごしている季節にさしかかると「あぁ、もうこの季節なんだな」と風景を投影させ心や和音の中にまた四季を感じます。
9月の真鶴は海がキラキラしつつ、開けっ放しな窓からたまに涼しい風がふくのでちょうど夏と秋の通り道のようで…
もみじを歌いにさしかかったときには、晩秋の真鶴の海や山はまたどんな表情になるのだろうと想像しながら歌いました。
一緒にかけつけてくださったピアニストの方がピアノコンチェルトなどを数曲披露してくださったのですが、ちょうどナイチンゲールのさえずりを表現したメロディで、外の小鳥が応えるようにさえずったのでした。
これは、ホールでは感じられない自然と音楽のリンク。
開けっ放しの開放感ある音楽室だからこそ。
音楽や歌は、心を穏やかにします。
とっても素敵な空間でした。
しばらく落ち込んでいたのですが、前向きに考えて復活したことを書いておこうと思います。
一言でいうと
仮決まりだった役が数時間のうちに白紙に戻った
ということです。
ずっと演じてみたいなぁという役でした。
出番は中盤にワンシーンしかないし、小さな役ではありますが。
昨年、小さな団体ではあるけど尊敬する師匠が演じてらしたのを拝見して余計に演じたくなりました。
近い将来、必ず歌いたいな…と。
今年、その演目を公演するときいて
「もしまだキャストが決まってないようだったら、私やりたいです」と売り込むほどでした。
「ノルマあるよ?」全くもってかまいません。
6月ごろ、そんなことがあり
8月に入り、同期の仲間にメインキャストのオファーがきたという報告があり…ソワソワしてようやく「公演の件ですが○○役でお願いします」と条件や詳細が送られてきました。
やっときた!!やったー
と二つ返事で返信をし、正直嬉しい気持ちと安心した気持ちでいました。
3時間後
「ブッキングしていました。
もう一人の返事待ちの後で再度、連絡させていただきます。」
…ブッキング
…返事待ち
私は「お受けします」と返事をした後なので、その時点で私は次点であることを思いしらされ落ち込み
さらに再度連絡というのは一週間待ってもこなかったのでした。
最終的に、どんな経緯だったのか状況などを教えてはいただけましたが
とてもガッカリした旨を伝えると
「そんな大きな役ではないしガッカリすることない」
と逆に励まさされました。
小さい役にしろ、演じたかった役にかわりないのです。
しかしながら、縁がなかったということは
また違う役が巡ってくる予兆かもしれない、と前向きになりました。
とあるオペラ団体のキャスティングオーディションにいってきました。
受付して早々、台詞のプリントを渡される。
そう。芝居というか台詞審査ありでした。
オペラのオーディションで台詞ありというのは初めてでした。
手渡された楽譜より台詞に気持ちの重きをおくのは役者魂でしょうかね。
私が受けた役は他の役にはある長台詞や独白というのはないので、相手があっての会話、審査員席から演出家が相手役をしてくださったのでした。
一段高めの舞台にいるのに客席側とやりとりするなんて…とても違和感でしたが…
それでも新鮮でした。
しかし、オペレッタなどのキャスティングオーディションには、台詞演技は必要だな…と前々から思っていました。
音楽が抜けて丸々演技をみせるシーンで、演技ごころがないと、しんどいですもん。
かといって私みたいに歌が中途半端なのに、演技面に力入ってしまうのも…。
歌唱審査からフワフワ衣装でクネクネ踊りながら歌っている方もやっぱりいて…
これも、アンサンブルでしか登場しない役なのに相手役なしでそこまでやっていいのか
それミュージカルじゃないの?レベルを直前に見せられたのですが…これはこれで個性のアピールですもんね。
ストレートプレイ初日。
簡単に感じたことをレポート。
初日マチネ
満席御礼の中、お客様の反応を手探りで慎重に演技してゆく、というのは初日独特の緊張感と空間。
登場するだけでザワザワと笑いが起こる、アドリブがウケるというのは台本の本質というより、役者の『表現力』や『ヒラメキ』という面が受け入れられているのかもしれない。
ただ、「ここウケてほしいとこやでー!」とドヤ顔で押し付けがましくやるのは、サーっと冷める。
私の出番は中盤しかないが、他のキャストがあっためてくれた後の新キャラ。
この人誰?!という空気の中、いきなり個性的なことをやろうとしたのでは…意味不明なのかもしれない。
アドリブは嫌いじゃないほうだったが、基本的に台本にない台詞がなくても「面白く」できると思うので…どうか自分の技量を絞り出したい。
ポートレートフォトグラファーの登竜門の
「ポートレート専科2014」の会場に被写体として写っている作品を拝見にいき
モデルとしては完全にアマチュアな私(非常に撮影しにくいだろうと自覚している)は、展示された自分の姿に不思議な感覚を覚えました。
そもそも、ポートレートモデルをやってみたい!と思ったきっかけというのが
美しい自然や日常や人間を被写体とした写真を観るのが好きなだけだったのが
「私は人の目からどのような人間に映っているのだろう?」と疑問に感じるお年頃になったからでした。
「撮影されたい」というより、写真というものは真実を正直に写すものだと信じていたので、
ファインダー越しに見える私は私そのもので、綺麗に写して!より、私の根暗だったり寂しさや偏屈な性格を全部写真で見てみたいという完全なエゴでした。
フォトグラファーからすると「美しいものを残したい」ので、この子綺麗に写りたくないのかな?なぜ笑顔にならないんだろう、どうして撮影されたいんだろうと不思議に思われたかと思います。
当時は、申し訳ないくらい困惑させただろうな…と思います。
それが、ポートレートのあり方を被写体なりに考えるようになりました。
同じ感動や穏やかさを共有し、その空間を残したいからシャッターを切るのではないか、と勝手に想像しました。
私は極度の人見知りな上、コミュニケーション能力や表情が乏しく、他人をプライベートで楽しませることは苦手です。
ですが、何も話さなくても落ち着くな…と感じさせることはもしかしたらできるかもしれません。
そして、「なんなんだこの子?能面だけど何考えてるんだろ。」と思って下さった物好きな方は知ろうとしてくださるかもしれません。
作品を展示してくださった中野さんに初めて撮影していただいたのは23歳のときでした。
何百とシャッターを切ったあとに「君はどうしたら笑顔になるの?」と呆れられたのを覚えています。
尖って「お酒を飲んで下ネタを言っていれば、表情も穏やかに開放的になります」と答えたら本当にワインを飲まされたのでした。
今、私は27歳で今回の作品は久々なポートレート撮影だったのですが…
撮影前に「人間性を風景と投影させたものを撮影してほしい」とわがままをいいました。
私は役者や表現者をやっているけど、
ポートレートに関しては明るいハツラツとした美人を演じることに嫌悪感を感じるのです。それは演じた誰かであって私自身ではないからです。
「君はそのままで無表情でいいんだ」と中野さんからは絶対きくことのなかった答えをいただきました。
暗い冷たい3月の逗子海岸
孤独感だったり野望だったり複雑な気持ちが大きな波と共に映ったものが一枚でもあれば嬉しいなと思っていました。
その中の一枚を選んでくださいました。
先週は毎日、某劇場主催のファミリーコンサートの裏方スタッフとして関わらせていただき、
毎日劇場入りしていたわけでありますが、
無事千秋楽まで終えたことを報告いたします。
今回の私の任務は、映像キュー出しというものでした。
オペラやミュージカルで、幕や内幕背景は大抵、布で描かれたものですが、
演出で使用されたのが「プロジェクションマッピング」。
記憶に新しいのは東京駅の丸の内口での立体物に映像を投影するパーフォーマンス。
立体的映像により、背景やシーンの様子が変わっていくので舞台なのに3D映画を観ているような感覚でした。
コンサートといえども、不思議の国にアリスをモチーフにしたミュージカルに近いストーリーに基づき、物語に沿って演奏が導入されていきます。
キャラクターたちが全員で歌えば、世界が色づきカラフルになる、
オーケストラ(楽器を弾く森のキノコたち=ガッキノコ)が喜んで揺らいだり
悲しいシーンになれば雪がチラチラして真っ白な世界…など、舞台には大きなパネルのようなキノコ型のパネルがあり、そこに映像を投影していました。
台本や演技、音楽のキッカケで風景に変化を入れてゆく、というわけで私は歌い出しやマエストロの指揮振りはじめ、キャラクターの動作(鞭を打つ振りおろし、冒険に出発しアクションをする要所要所のタイミングなど)を台本、楽譜、舞台を
視界や感覚を研ぎ澄まして、映像担当スタッフにキューを出していきました。
コンマ秒ずれるだけで、照明、SEなどとズレたりすることがあるので全てに慎重に。
最新の演出方法に感激しながら、舞台稽古、衣装付き稽古、ゲネプロ(リハ)、本番4回公演を観させていただいたのですが、全く飽きることなくワクワク…
担当さんは「最新といえどもやっぱり、シッカリした幕で場面転換したほうがいいという意見もあるよ」とおっしゃっていましたが、ファンタジーものでところどころ魔法が感じられるものだったので子どもゴコロをくすぐられるのは3D的な視覚で素晴らしかったと思うのです。
また企画や台本、選曲についてもたくさん感激したことがありますのでそれは次回。