ミュージックレストラン、アルテリーベでのコンサートが終わり、扁桃炎になったみたいですがじっとしてる間もなく次の譜読みです。
先日の本番で私はやっばりバロック歌手を極めたほうがいいのでは…?と確信にちかいものを感じましたが、、次は「ラ・ボエーム」です。バロックとは真逆に近いヴェリズモ。
5月2週目から稽古が始まります。
気持ちが滅入っていて…もうヤケクソ気味ですが…ハッキリいってHPはゼロに近いです。
でも嫌々ではなく、鞭打つような感覚に近い。
本番直後に落ち込んでいたら、
歌劇団の先輩から「技術なんてビタミンと一緒でいつも不足してるから、大切なのは目の前のお客さんが楽しいかどうかだと思う。フレッシュさだって、充分武器だからがんがんやっちゃえ!!」というお言葉をかけてもらいました。
本番前からモヤモヤしていた理由がわからず…
この数日噛み砕いた結果は
「自分が100%できる技術やパフォーマンスと、理想像があまりに掛け離れているのではないか?」ということ。
私たちならここまでできるはずだ!という過信ではなく、構想していた舞台内容から余りに掛け離れたものを提供してしまったという納得のいかなさ。
ドルチェにティラミスを提供予定だったのに、材料の関係でモンブランを出した…そんな感覚。
ただの準備不足というより、スタッフ同士の意識や伝達不足からなる副材料の手配ミスとかに近い
お客様がお世辞でも「オペラでこんなに盛り上がるのもすごいね」というような意見をくださっても、自分自身が素直に聞き入れられないような状態に陥っていました。
「今できることを提供」から「納得いけるものだけを提供したい」という気持ちに変わってきたのかな…と若手ながら気づきました。
若手だからフレッシュさがいいんだ!と言われる期間も長くはない。
「納得いくもの」はきっと一生かけてもできないのが、芸術なのですが。
悩んでいる暇があるので、レッスンいってきます。
町田でのコンサートが終演しました。
今回のコンセプトはNHKイタリア歌劇団(1956~1976年まで、NHKが指揮者、演出家、ソリストを本場から招き、8次にわたって上演した公演)
が上演したイタリアオペラから名シーンを抜粋したアリアあり、重唱ありのコンサート。
わたしはモーツァルトの「フィガロの結婚」から手紙の二重唱、プッチーニ「ラ・ボエーム」ムゼッタのワルツ、別れの四重唱で出演しました。
そのほかは、「愛の妙薬」「セビリアの理髪師」「リゴレット」「道化師」「イルトロバトーレ」「オテロ」
全体的に内容が重くコンサートで聴くにしても体力がいるようなプログラム。
私のような軽いレッジェーロ系の歌い手は軽快なオペラに向くので今回のプログラムのどこに組み込まれるんだろうと。
「フィガロ」は確実とわかっていながらも、まさか女中スザンナではなく伯爵夫人(スザンナ役より深みのあるおっとりとした声質)のパート。
コンサートでさらによく歌われる二重唱といっても私みたいなピヨピヨ声に夫人がつとまるのか?と内心不安で演技だけは夫人に見えるように挑みました。
「ラ・ボエーム」ムゼッタを歌うことになったのは、おそらく7月に出演が決まっているため宣伝も兼ねてなのだと思っていたのですが。
アリアも四重唱も初めて取り組むシーンだったので発注から1ヶ月でレッスンにレッスンを重ねてつくりました。
ただ、四重唱は…ふたつのストーリーを同時進行。複雑なため、1回の合わせだけで本番に乗るのがとにかく恐怖で他のキャストの皆さんの余裕と、本来、オペラの現場だと稽古に稽古を重ねてシーンをつくるので、その重要性を重く感じました。
コンサートといっても演技つきなので…特にムゼッタと相手役マルチェッロは喧嘩して罵りあっているし(歌というより叫んでるか嫌味を言い合ってる)
初役といえども、コンサートといえども、オペラのワンシーンを切り取ってお届けするので、情景や心情、空間を普段よりも表にでるように表現しなければなりません。
コンサートにいらっしゃっているのはクラシック通のお客様だけではないので。
昨日は所属する歌劇団の団会員企画のためのキャスティングオーディションをかねた試唱会がありました。
提出した曲は、かなり悩みましたが…
1週間前に出演したコンサートでも挑戦した「ドンパスクワーレ」から「あの眼差しに騎士は」
色っぽく美人な未亡人、おっさんを天才的演技で騙すノリーナに近づけるかどうか…と悩んできましたが、いい加減大人にならなければならないと尻に鞭打ってこの曲を練習してきました。
ここ数年、声がビアンカ(白い)だと先生から言われ続けていました。
色気はともかく、大人の女に近づく努力をするために選曲したのでオーディションで未完成でも構わないから向き合ってきた曲を全力で歌おうと思いました。
「自分の中から出てくるものだけで勝負しても一生食っていけない」というお言葉を先輩からきいたばかりだったのですが、
そもそも自分の内面から自分自身が出ていこうともしていない、さらに自分の中にも必要なものがない身で勝負していたので、とにかくまとめる力もないくせに「内気な歌」から外へ殻を破りたかったのです。
先週のコンサートでは、トップバッターにこの曲を演奏し、トークを入れました。
「私はみるからに子役で、今一番色気がほしいがばかりにノリーナのアリアを練習してきました」というと会場がドッと湧いたのですが…
(ということは…誰が見ても子どもにしか見えない…ということなんだな。それはそれで才能か)
その1週間後に、試唱会。
今までは愛好家くさいだとか、まだまだ素人と思われることを怖がってきました。
しかし、この日は自分を守って小さくなって歌うのはやめ強気で歌い放してきましたが、このような選考会であえて挑戦的な曲をもっていき手応えを感じず勝手に玉砕することに対しては平然といたり丈夫なハートはまだもっていないようです。
ぶつかりにもいかないなら前進すらもない。守るものは今の私にはなにもないのに。
先週のことですが、某劇場のファミリーコンサートの旅公演で岐阜の可児へ。
可児市の小学3年生が大きなホールに集結し、芸術鑑賞会ということで、夏に家族向けに上演していた雰囲気とはまたちがう客席のテンション。
幕が上がる前からワクワクして落ち着かない様子。
脚本もファンタジーで、ところどころ参加型でみんなで一緒に歌えば、悪役の頑なな心も溶けるという設定。子供たちの、自分たちにもなにかできないか、と乗り出す勢い、姿勢も見てとれました。
今の小学3年生はこんなにも一生懸命に綺麗な声で歌うのかと、何度も涙腺が緩みました。
歌うことが恥ずかしいと思い始めることのないように、そのままの素直な心を持ち続けてほしいというのは…ありきたりな大人の感情なのかもしれません。
音楽を通じ、人を思いやる心を持ち続ける。
「音楽は人々を幸せにするために生まれたのだから」
と主人公の台詞。
音楽の魔法が大人になっても解けませんように。
「音楽は心をつなぐ」
こんなにも素敵な音楽教育の公演に関わることができて幸せです。
一ヶ月、ジャンクステージコラムの執筆をおやすみしていました。
私は「自称表現者」として生きているので、舞台やステージに立つことはもちろん、ポートレートモデルやこのような場に文章をもって表現することも大事にしてきたつもりでした。
しかし、ありがたいことなのに、いくつもの稽古場をかけもちするようになると、
表現する場、いわゆる稽古やレッスン、オペラやコンサートの本番などを「こなす」ような状態になってしまうと、自分がなぜこの職業を選んだのか考えることなく、最悪な場合、嫌々、譜面や稽古に向き合ってしまうこともあるのです。
「舞台人という生き物は、舞台に立っていないと廃れていく」
と、劇団研究生時代、パントマイム講師からのお言葉。
1年に最低3回はステージの上に立つことを考えて行動しなさい。舞台人は舞台上で成長していくものだから、養成所に通い、レッスンに出席していることに安心するな。ともいわれたものです。
実際、私は性格がひねくれていて、全日制のため毎日のレッスンに嫌々通っていました。
もう声楽家の卵として活動をしていましたが、自分自身で全日制のクラスを選択したのにです。
これはおそらく大きな劇団に所属して守られている安心感と、どうせ見た目がよくなきゃ仕事なんかくるわけないと考えてしまいました。それだったら、修了する1年間は「修了した証」を得るまで毎日をこなして生活しようと半分脱力状態でした。
しかし、そのお言葉は
研究生というのは常にステージに乗る機会が与えられているわけではなく、
3回は舞台に立ってやろうという根性でいろ!そして突然そのチャンスがやってきたときにも万事対応できるように、毎日の訓練を自分のものにしなさい。という教えでした。
自分に与えられた環境が当たり前の環境になっていくと、どんなにありがたい環境でもその‘ありがたさ’が薄れてしまうものです。
自分の与えられた仕事にマイナスな疑問と感じたときは、一呼吸。
すべての人に同じチャンスや環境を与えられるわけでは決してないということ。
オペラ歌手養成所を修了した後、入団推薦者枠から漏れ、精神的に落ち込んだところへ
大学時代に所属していた合唱団の校友団体から原稿依頼をうけたことがありました。
声楽家としてこれからどうもがけばいいのかのわからないのに執筆できるわけないと思ったのですが、
普通大学を卒業し、どうしてオペラの世界を志したのかを書いてほしいということで「歌う理由(わけ)」という題名で書いたのですが、そちらの幹事の方からこんなメッセージをいただけたのを思い出しました。
『ご自分の過去から現在に至る姿をじっくり考えなおし、冷静に見ている・…そんな感じに受け止めました。
今の、この時代に自分の“道”を探している人がいっぱいいるはずです。その、探し方すら分からない人もいる・…あなたよりさらに若い方・・・現役生とか・・・・にきっと共感してもらえるんじゃないかと思い、うれしく掲載させていただくことになりました。
うたが歌えるだけの人も、絵が描けるだけの人も、スポーツが出来るだけの人、文章だけが書ける人・…それぞれいっぱいいますが、今からの時代は”それ一本”だけじゃ厳しいんじゃないかしら?あなたの場合、歌のほかにエッセイなどとコラボしたらいいかもしれない・…なんて勝手に思ってしまいました。』
文章表現をするようになって、今まで自分のために自分勝手に文章を書いてきました。
こんな人生を送ってきた若手の表現者がいる、くらいに読んでくださればいいやと軽く思っていました。
コラムに対しても、「ありがたい表現場所」として大切にこれからも執筆してまいりたいと思います
どんなに「ひどい現場だ!」と憤慨しながら帰ってくる稽古場であっても
本番が終わって打ち上げという、関わったすべての者がお酒を交わす場所に行くと
なぜだろう、「この現場に入ってよかったな」と思うわけです。
稽古進行中、本番さっさと終わってしまえだとか「打ち上げ?いくもんか」とひどいことを思い続けていても
打ち上げに顔を出すのは礼儀だと考えているので、
主宰や演出、指揮者、そして裏方、オーケストラ、出演者のみなさんのお顔をみると気持ちがコロッとかわるのです。本当に不思議な空間ですね。
これはきっと、人が集まって初めて創り始めることができるものに携わっているからです。
どんだけ不満が爆発しようと、私ひとりだけで不満がたまっているわけではなく
それぞれのポジションで意見があったり、滞りがあるのを別のポジションの方が気づいて交通整理をしてくださったり
(例えばあくまで一例として、
演出面でトラブルがあって端役すぎてあまり取り合ってもらえないときに、メインキャストの全くシーンに関わらない方が舞台全体を見てくださってフォーメーションやタイミングをみてアドバイスしてくださり、演出側に伝えていただけるとか)
自分たちで解決しきれなかったのは情けないけど、助けていただけたりそんな瞬間をたくさん思い出すのです。
一つの舞台でこんなにもたくさんの人が関わっている。
再演とでもならないと、同じメンバーで同じ舞台を二度とつくることはない。
一期一会とはまた違うけど、最後の最後にご縁に感謝する場所なのです。
私よりも音楽業界では先輩にあたる歌い手で、ずっとフリーで活動していた方に
今後同じ大きな舞台でご一緒したい一心で、私の所属させていただいている歌劇団へ入団をお勧めしてみたのです。
急に入団オーディションを勧めたため、準備期間は1ヶ月もありませんでしたが、さすが!入団合格となりました。(ちなみに私は選曲から仕上げまで1年かけてオーディションに挑みました。)
その入団者説明会でこういう注意があったそうです。
「我々はお客様は夢をみるためにきているので、夢を壊すような言動は日常生活から謹んでくださいね。普段の格好なども。」と。
このお話は、私が幼少時代にお世話になっていたバレエ団の大先生も仰っていた言葉なのです。
バレエ団のレッスンにいくお洋服から気をつけなさい。常に人から見られているのですよ。と。
要するに、日常から人間性を疑われるようなことをするな、おこすなということですが、今回注目したいのはそこではありません。
というのも、私はパフォーマーの仕事だけでは、生活ができないので副業としてアルバイトをしていますが
その同僚の主婦の方にも「うたやってるんだ~。夢を追っているんだね。」と言われました。
以前にも書いたことがありますが、私は「夢を追っている」という言葉をかけられるのが好きではありません。
オファー先に対して与えられたパフォーマンスを提供することが大前提。
「仕事の報酬は仕事です。」とある元バレリーナのデザインプロディーサーの方が言ってらっしゃいました。
ステージでのパフォーマンスが、次のステージのオファーにつながること。
ステージでの姿を観にきてくださったお客様が、次のステージも観にきてくださること。
あの劇場で演じてみたいだとか、この団体や演出家の方のつくる舞台にキャスティングされたい、ニューイヤーコンサートに出演できるような魅力ある歌手になりたい、所属する歌劇団で常にキャスティングされるような歌手を何十年かかってもなってみせる!だという希望や願望を「夢を追っている」と考えるのかもしれません。ただ「夢を追ってる」ってパフォーマンスを求められてもないのに押し売りしているほうなイメージを個人的にはもっています。私だけでしょうか。うーん。
しかし、舞台のオファーがなければ、自身を観にきてくださるお客さまが途切れてしまえば、その夢さえも追えなくなります。
数日前、地方の校友会でお初にお目にかかった30代の方に「すごく楽しくて楽そうな生活送ってるんだね」とぼそっと言われ、とても傷つきました。
大学卒業時に就職なり院に進むなり、教師の道を選ぶことはできましたが、私が選んだ生活です。
でも舞台の本番は楽しいですが、正直、とてもじゃないけど「楽」な生活ではないことは心を大にして言いたいです。
応援してくださる方や初めて自分の姿を観られる方に「夢をうる」いや「みせ」続けることと、
自分自身が「夢を追い」続けることは、どうやっても楽にできることではないのです。
最近、終演した「フィガロの結婚」(のちに感想アップします)にいらしたお客様の一人が、終演後のロビーで声をかけてくださいました。
『夏のお芝居を観て、あなたの先生役が素敵で、今日も楽しみに観にきたんですよ』
ストレートプレイを観て(1時間中5分ほどのちょい役だったのに)、3時間以上もあるオペラに足を運んでいただけたということ。
これは、私が役者でもあり、声楽家としてとてもうれしいことで、芝居しか観ない方や合唱しか興味のない方がオペラにも興味をもっていただけるように、舞台上ではたらきかけていきたいことです。
(ちなみに、そのオペラの登場時間も2時間上演してようやく初登場。)
夢をうる、という意味のひとつをとても実感できた瞬間でした。
この「夢をうる」という言葉は最初にでてきた、歌い手の方が口にした言葉なのです。
「夢をおってるんだね~」と言われて少しムッとしてしまう話をしたときに、「追ってるんじゃないだよ、うってるんだよ。今度からそう言いかえしな。」と教えてくださいました。
クリスマスコンサートで「二重唱のひととき」という部で歌わせていただいた二重唱のこと。
ペルゴレージ作曲のオペラ「奥様女中」で登場人物はセルピーナ(ソプラノ)、ウベルト(バス)、ヴェスポーネ(黙役)の三名。今回は黙役なし。
全部演奏しても40分前後の喜劇オペラなのですが、物心ついたころから屋敷に仕え、わがままに育った女中が旦那さまに「ほかの人じゃなくて私と結婚したらいいじゃない!私のことすきでしょ!」と言い寄るシーンを演奏しました。
聴きにきてくださっているお客様の大半は合唱の愛好家であり、オペラを聴きにいく機会はそこまでないし
マエストロ(指揮者)も本業はオペラ歌手。この部でしか歌わない!ということで
どれだけ「聴かず嫌い」でも楽しんでいただけるステージをつくれるかでした。
二重唱といってもストーリーの中のワンシーンなので、どんなキャラがどんなことを言ってどうもめているのかが伝わらないと観ているほうからしたらポカーンなのです。
その二重唱のあと、どうストーリーが展開されるのか?と思っていただければ、コンサートでオペラの二重唱を演奏したかいがあるのです。
合唱団に助演で出演してくださったバスにも「こういうところではもっとポピュラーなメリーウィドーとかを歌うべきだ」なんて指摘をいただきましたが。
ナビゲーションの方にあらすじは話していただくとして、寸劇をいれることでウケを狙いました。
バロック時代のメイド服ではなく、現代のいわゆる萌え的なメイド服を衣装として着用。
演奏するシーンまでの流れをそれはもうおおざっぱにコントちっくにセリフをつくり、日本語で演技してからの演奏。
曲中を和訳して芝居のセリフとして「もうそろそろ私の魅力に気づいてもいいと思うの。だって私はこんなに、美人だし、上品だし…」と途中で客席から大拍手が起きましたが、日本ではナルチシズムをおおっぴろげにいう文化はあまりない?からかしら。
それとも、そんなナルシストなセリフを口にしているのが、おじさまおばさまのお客様からは痛々しく思ってかわいそうだから同情から拍手をしてくださったのか、まぁどっちにしても客席から反応があったことはとても喜ばしいことでした。
コンサートとはいえ、二重唱演奏するのもやっぱり演技をしたいです。
舞台の演出や美術にも著作権があります。
衣装を着て記念に撮影した写真や舞台上や大道具、セットなどを撮影した写真をSNSにアップすることを禁止にする団体が最近多いです。
カーテンコールで全員が手をつなぎお辞儀をしている写真なんかを「◯◯を観にいってきました!」とアップしてくださるお客様もいらしたりするのですが、基本的にはよろしくありません。
私も自主公演だからそんなに厳しくないだろうとアップし主宰から叱られたことがあります。
主宰がOKしたものや公式サイトにアップされたものを転載するのを許可してくれる団体もあります。
そこで、最近気になったこと。
あるオペラの日本語訳されたものを日本語上演するときの翻訳者に対して著作権はいきるとして
そのオペラをカットしたうえで繋げるためにお芝居を挟む「台詞」をある団体Aの演出家が作成しテキストとして残し上演した場合、この台詞は演出家側に著作権がいく。
その演出家の主宰団体Aの公演を観にきた団体Bの主宰がAに対し「うちも公演したいから、楽譜と公演記録DVDを買わせてくれ」と頼み、台詞のテキストまでは引き渡さなかった。
DVDから芝居の台詞を団体Bが書き起こして、Bの団体でそのまんま芝居まで上演するのは…
これは著作権侵害にあたるのではなかろうか?
というのも、今その状態を目の当たりにしたばかりで、驚愕したばかりなのであります。
飛び入りで稽古に入ったBの団体でそのまま台詞も同じだったため、Aの演出家にその旨を伝えると「台詞のところはもともと楽譜にないから…おかしいな。」という返答だったので…これは…。
上演前にどうにかしたいところではありますが…。
マスネ作曲の「サンドリヨン」というフランスもののオペラがあるのですが、
3年前に妖精の子分的な6人精霊たちという役でアンサンブルの役ではありますが、縁あって一番下の低音パート精霊6を再び演じることになりました。
3年ぶり3回目となる精霊6。
音域は五線譜を下にいく音がたくさんあり、ソプラノにはとてつもなく低いパートなのです。
今回、お話をいただいた経緯というのも、3年前に精霊として共演した同い年のソプラノから
「1月末の本番に、精霊がまだ一人決まってなくて時間もないけど本番日が押さえられるなら歌ってほしい」ということでした。
最初は精霊5でどうか?ということでしたが、初めて音楽稽古に合流した日に、きちんとパートを決定はしておらず
主宰から「みんなソプラノを希望してますから!」とバッサリと言われ、正直私もソプラノ歌手ゆえ、低音がでるからという理由でキャスティングされまだ安定しないまま喉をつぶすのは…と思ったのですが
どのパートでも役を全うするのみ!と「経験したパートは6ですからどの音域でも」と大きな態度をとったら、「できるなら6をやってほしいわ!」ということで三たび一番下のパートに振り分けられたということです。
久々に歌った精霊。
しばらく低音をガーガー歌うことをやめていたため、稽古後は喉がガリガリし違和感を感じましたが、マエストラからは「よくそんなに低い音域が鳴りますね」と感心していただきました。
また、アンサンブル役としてキャスティングされ
一人のソリスト、ソプラノとして本当のソリストデビューまでまだまだ時間がかかりそうですが、舞台にオンステできる機会に感謝して数少ない稽古に向かおうと思います。