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2014/06/30

11年のアメリカの生活を終え、日本に帰国してから12年がたち、
とうとう大人になってからの日本滞在歴の方が長くなった。

こうなると、アメリカに住んでいたことが、幻にも感じる。

そんな中、NY時代に務めた会社の社長の墓参りに、
6泊4日の弾丸旅行でNY-ボストンへ行って来た。

墓参り当日、駅で待ち合わせ、皆で遅めの朝食を食べる。
朝食と言えば、卵料理。

オムレツにスクランブルエッグ、目玉焼き
ハッシュドポテト、マッシュドポテト、フレンチフライ
パンだって、トーストなのか、イングリッシュマフィンなのか、ウィートなのか

とにかく選択肢が多い。

ひととおり注文し終わり、皿が運ばれる。

スクランブルエッグとハッシュドポテト、
イングリッシュマフィンを注文した私の皿にはトーストが、

オムレツとイングリッシュマフィン、
フレンチフライを注文したはずの友人の皿にはハッシュドポテトが

それと同じで!と注文した社長の奥さんの皿には
オムレツとフレンチフライだけで、パンがのっていない。

かろうじて『イングリッシュマフィンを頼んだんだけれど』と伝える私の声に
被さるように、『I know, I know』とウエィトレスのおばさん

数分して皿がやってきたその上にはイングリッシュマフィンがふたつ。
間違えたトーストを持っていく気配もない。

注文時に、オムレツはチーズ入りができるの、とか
ポテトはフレンチフライになる?とか、
イングリッシュマフィンがあるなトーストじゃなくてそっちがいいわ、とか、
いろいろ会話したのに、あれはなんだったんだ、と。

どれひとつとして正しいオーダーが揃った皿がないとは!

そんな雑多なサービスに、
『このパン食べちゃおうっか、ん、意外にうまい』
とか、
『フレンチフライこっちの食べなよ』『まぁハッシュドポテトでもいいか』
と食べ始める私たち。

なにしろこの出てきたメニューを正しく取り替えるのに、
これがまた労力がいることを知っているみんな。

その力を発揮すべきタイミングは今ではなく、絶対そのうちまたやってくる。
何も朝食ごときで体力を使ってしまう場合ではない。

そんな旅の思い出。

そうだった、アメリカって、NYって、そんな土地でした。
幻だったアメリカでの生活が、
あっと言う間に、ちゃんとした記憶になって蘇った一瞬でした。

11:58 | masaki | 卵料理と幻のアメリカ生活 はコメントを受け付けていません
2014/06/21

ご馳走することを
“That (bill) is on me”とか、“treat”とかを使うけれど
常々『割り勘』ってどう言うだっけと思っていた。

映画では常にドラマが進行中なせいか、そういう細かい会計の話は省略され、
pay individuallyとか、bill divideという辞書通りのコトバは
個人的な意見か、味気もなくしっくりきてなかった。

アメリカにいる時は、学生時代が主で、自分のものは自分で払うのが基本、
日本人やアジアの友人とは割り勘はよくあったけれど、
アメリカ人とは複数で食べたものを皆で割る『割り勘で』の習慣はあまりなかったし、
ご馳走になった時には、いやいや割り勘で、なんていう経済力もなく
ありがたくご馳走されていた。

日本にいる今、あえて突き詰める必要もなく、疑問はおざなりになっていた。

数日前のNY行きの機内で
映画『エージェント:ライアン【JACK RYAN: SHADOW RECRUIT】』を見ていたら
あっさり冒頭で、“We split the check.”という会話がなされ、
これだ!と目が輝いた。

『割り勘』は正確に言うと、自分の頼んだ分だけを払うのとは異なり
複数人のオーダーを均等に割ることである。

もし、前者の『自分の分だけ』となると“separate the check”になる。
後者の『均等に』分けるから“split”になる。

言われれば読んで字のごとくだけれど、言語は実際に使ってみないと吸収されない。
単純な言葉だけど、ひとつ語彙【vocabulary】が増え、少し嬉しい瞬間だった。

11:27 | masaki | 割り勘/splitting the check はコメントを受け付けていません
2014/06/21

ご馳走することを
“That (bill) is on me”とか、“treat”とかを使うけれど
常々『割り勘』ってどう言うだっけと思っていた。

映画では常にドラマが進行中なせいか、そういう細かい会計の話は省略され、
pay individuallyとか、bill divideという辞書通りのコトバは
個人的な意見か、味気もなくしっくりきてなかった。

アメリカにいる時は、学生時代が主で、自分のものは自分で払うのが基本、
日本人やアジアの友人とは割り勘はよくあったけれど、
アメリカ人とは複数で食べたものを皆で割る『割り勘で』の習慣はあまりなかったし、
ご馳走になった時には、いやいや割り勘で、なんていう経済力もなく
ありがたくご馳走されていた。

日本にいる今、あえて突き詰める必要もなく、疑問はおざなりになっていた。

数日前のNY行きの機内で
映画『エージェント:ライアン【JACK RYAN: SHADOW RECRUIT】』を見ていたら
あっさり冒頭で、“We split the check.”という会話がなされ、
これだ!と目が輝いた。

『割り勘』は正確に言うと、自分の頼んだ分だけを払うのとは異なり
複数人のオーダーを均等に割ることである。

もし、前者の『自分の分だけ』となると“separate the check”になる。
後者の『均等に』分けるから“split”になる。

言われれば読んで字のごとくだけれど、言語は実際に使ってみないと吸収されない。
単純な言葉だけど、ひとつ語彙【vocabulary】が増え、少し嬉しい瞬間だった。

11:27 | masaki | 割り勘/splitting the check はコメントを受け付けていません
2014/05/31

以前『エレベーターの中での出来事』でもちょっと触れたけれど
NYの西58丁目にあるHudson Hotelがとても好き。

マンハッタンという土地柄、部屋は決して広くないけれど、
看板のない入り口をエスカレーターで上がると
日がサンサンと照り緑溢れる中庭のあるロビーラウンジが現れる。

住んでいる時は地元のホテルに泊まる機会なんてないので
いつも散歩しながら見る、その“扉”だけを見て、
絶対好きなホテルに違いないと、直感だけの確信を持っていた。

念願叶って初めてチェックインした日はあいにくの雨で、
ロビーの真ん中のその中庭にシトシトと雨が降り注いでいた。
建造物の装飾が古めかしくて、昔行ったロンドンの街を思い出す。

翌日は晴れていて、雨ですっかりほこりも落ちたのか
空気が澄んでいて、中庭はこうである、というものが出来上がっていた。

ボストンのイザベラ・スチュワート・ガードナー美術館の中庭にも似てて
絵画のような、美しい絵になる空間。

イザベラ・スチュワート・ガードナー美術館もまた、以前コラムでも書いたように
わたしのお気に入りの場所のひとつである。

通り沿いの狭い、小さな扉だけの外観からは想像がつかない空間。

なんだか次元がおかしくなって、別世界に迷い込んでしまったのではないか、
というのがその時の印象で、でも素敵に違いないと思った直感が当たり
とても嬉しかった。

思えば長く住んでいた54丁目のアパートも、
居間の窓から中庭の木々が緑豊かに茂り、表の喧騒など全く聞こえない、
もしかしたら外には何もなくて、自分しかいないんじゃないかと思うような
不思議に閉じられているのに安心感のある空間だった。

好みというのはそれほどぶれず、生きていると
そういうものが一個一個増えていくものなのだろう。

近々またNYに行く機会が訪れるけれど、今回は別のホテルの宿泊になる。

いつかまた泊まりたい、と思うけれど、それはいったいいつのことになるのか、
そしてそれまであのホテルはあるのかしら、とか思う。

09:14 | masaki | Hudson Hotel / 好きな要素が集まる空間 はコメントを受け付けていません
2014/05/01

タイタニック
【Taitanic】1997年

2度も映画館に行っておきながら、タイミング悪く完売でまだ観れていない
『アナと雪の女王【Frozen】』、TVや映画館の予告が流れたり、
ラジオで主題歌の『Let it go』を聴くと、
何故か『タイタニック』が頭に浮かび離れず、久しぶりにDVDを観ることにした。

“ターミネーター”でも“エイリアン”でもなく、
この映画でジェームズ・キャメロン【James Cameron】監督の名前を覚える。

映画館で2度観をしたのは、アル・パチーノの
『エニイ・ギブン・サンデー【Any Given Sunday】と思っていたら
1997年の“タイタニック”の方が先だったことにも気がつく。

わざわざ街で一番大きいスクリーン(のはず!)の映画館で観た記憶が鮮明で
巨大なタイタニックの映像も、今でも空気感がある楽曲も、あの時の感動が湧き上がる。

今の家のモニターが11インチ程と極小なのに、ステレオどころかモノなのに
あの時、巨大スクリーンのある、あの広い劇場に座った気分になる。
五感が覚えている人間の記憶と、涙腺の条件反射とは面白い。

ストーリーが、というより映像のすごさと音楽の組み合わせへの感動、
そして今見ても何故か涙が出てくるから不思議だ。

一体何に感動しているのか、分からないのに泣ける。

いつもみたいに言葉を拾うと、
感動のバランスが崩れてしまいそうなところを、頑張ってみる。

ざっくり言うと、貴族社会のローズと、一般階級のジャックの悲恋バナシである。
きっともう、ネタばれ、なんていう最新作でもないので終盤のシーンから。

沈没したタイタニックから、凍える海に放り出されたふたり、
ジャックがローズを励まし、そしてどんなことがあっても生きろと言う。

Promise me now, Rose.
約束してくれ

And never let go of that promise.
守ってくれるね?

そして、通りかかる救助船が、ローズに気がつかず通り過ぎようとすると
彼女の手を握ったまま生き絶えたジャックの手を振りほどき、船を追う。
海へと沈んで行く彼に、そして自分に、ローズは繰り返し言い聞かせる。

I’ll never let go. I promise
あききらめないわ 絶対に

物理的に手を話すことをlet goとも言え、それに反するように約束を破らない、
never let goと言う、そのlet goの対照的な表現に心打たれる。

あ!なるほど、“アナと〜”の主題歌、“Let it go”がここのletにつながるの?と、
ここで思い当たる。きっとだいぶ使い方も意味も違うのだろうけれど、
自分の気持ちに正直にそして懸命に生きる、という部分は同じココロを感じる。

とにかく何よりも、主人公ローズ【Rose】が、諦めず、生き抜き、子をなし、
長くその過去を語らなかった、ヒトの深いところでの強さ、に、
何故そこまでするのか、と思う反面、大なり小なり人は皆ソレを持っていて、
そしてそこになんの理屈的な理由がなくココロだけがある、ってとこが
もう泣くしかないから、泣くだけ。

1997年とは、2001年NYの同時多発テロを経験する前でもあって、
あの時タイタニックが沈没する様を見て、まさか今、ワールドトレードセンターから
木の葉のように舞う人と、ビルが崩れ行く映像を思い出すとは想像もしてなかった。

アメリカに住んだ11年を塗り替えるように、帰国してからの生活も12年となり、
本当にあの土地にいた、という記憶も風化され、自分でも本当か疑わしいのに、
あの劇場の椅子がやけにリアルに思い出されたり。

いつの間に、自分の中にソンナコトが積み重なっていったのだろう。
でも何も抗うことはできず、本質は変わらない。
ただ、そこにココロはあるだけ、永遠の謎です。

02:13 | masaki | タイタニック/ココロの行き先 はコメントを受け付けていません
2014/03/31

最近ひょんなことからNYの友人と10年ぶりに連絡が復活する。
もう日本に帰国してるんじゃないかと思っていた友人、
ふと思い出してくれたのか、メールをくれた。

ところが、普段使わないメールだったので、3ヶ月も気がつかず、
返信する時はむしろもう逆に連絡がとれなくなっている、なんてことになってないかと
返事が来るまで気が気でならなかった。

こういう再会は、すごく嬉しい。

人が行き交う雑多な日々、生活に忙殺されてしまいがちな中、
すれ違わず、出会えるのは、少しでもお互いを気にしているから、だと思ってしまう。

そう言えば昔、ヒトと待ち合わせをしていたのに時間だけ決めていて、
場所を決めていなかったことがあった。

それが、どういう訳か、駅のホームで会えてしまう。
それは偶然もあるけれど、お互いに今、相手が何をしているか、と考えた上で
あそこにいるに違いない、と確信を持つ想像の賜物、必然的な結果と思う。

映画みたいなワンシーンは、意外に身近に転がっている。

それはまた、『飲みに行こう!』と言っていて、一向に実現しないのは
どちらかが社交辞令なだけだから、という残念な出来事にもつながる。

そんな嬉しい再会があったけれど、悲しい別れもあった。

10年ぶりに連絡をとりあった彼女が、少し間をおいてから、
私がNYで勤めていた会社の社長が、一昨年亡くなったよ、と伝える。

ショックだった。

それこそこの夏、大学時代を過ごしたボストンと、その後7年過ごしたNYを旅行し
社長にも挨拶に行こうかと思っていた矢先。

ネットで調べると、一昨年のことなのに幾つかニュースとして出てくる。
読売新聞の写植職人としてアメリカに渡米(と聞いている)、
MacのDTPに移行した時期に、日本語出力を扱える会社として起業。
私が勤めていた頃は、アメリカ中、は言い過ぎだけれど、
それこそほとんどの日系印刷物がその会社で製版され納品されていった。

そんな会社で7年、製版の基礎から、写植的な文字組みの美しさ、
元々の専攻だったデザイン、と順番にこなしていく。

日本にいたら出会わなかったような、バイタリティのあるデザイナーさんタチ。
うっすら『広告代理店』というものがあるのを知ったのもココ。
いろんな人を紹介してもらい、お世話になった。

今思えば、ポッと大学出たての私を、よく使ってくれたものだ。
人の入れ替わりの多いオフィスだったけど、
私だけじゃなく、みんなを家族のように扱ってくれた。

残業夜食の韓国料理のデリバリーとか、毎朝社長と奥さんと共に出勤してくる
ボストンテリアとフレンチブルドッグのポピーとビビアンとか。
よく説教されもしたし、社員旅行でいろいろな地へ連れて行ってもらったりもした。

人が集まるオフィスだったのは、やっぱり、社長の人柄で、
ビートルズにピンクフロイド、シャデー、仕事は音楽なしでは進まない。
後半はモー娘。からつんく、あややまで乱入、笑。

何がどうだったのか、そんな詳細説明なんてするもんじゃないけれど、
それこそ私の今は、あの時代を抜きには語れない。

今、社長がいなくなったと聞いたNYを思うと、切なくなる。
最後に会ったのはいつかなんて、思い出せない。

ヒトがいなくなるのは、とても簡単なのだと、
もっと会いに行けばよかったと、
何が自分を遠ざけていたのかと、後悔はするけれど、
やりたいことはやる社長だったから、幕際も社長らしいと、そう思うことにする。

弔う、は英語でどう言うのだろう。
decent, dedicated, memorial, to console

社長のいないNY、改めて訪ね、歩き、
そしてそっと社長を偲び、お礼を伝えたい。

11:30 | masaki | NYの社長 はコメントを受け付けていません
2014/03/21

その土曜日、7時58分
【Before the devil knows you’re dead】2007年

2度目の転職が落ち着いた頃。
でも劇場で観たわけではなく3年後の2010年にDVDで観る。

ヒトのちょっとした欲望は、自分の中で持ち続けるなら
社会的にも、建前上人道的な意味でも罪になりようがない。

けれどそれを実現すべくその境を超えた途端、
複数の人の欲と命が絡み、大抵はその欲は良くない結果となり、
後悔し、開き直り、狂い、罪を認め、許しを乞い、消えていく。

そういうものが極端に、客観的に描かれ、観た時の衝撃はものすごかった。

もうひとつの好きな要素は
主演のフィリップ・シーモア・ホフマン【Philip Seymour Hoffman】。

脇役的にいろんな映画に出ていていたけれど
2005年のカーポーティ【Capote】を映画館で観て、名前を覚えた。

つい最近亡くなったことを聞き、
彼の映画と言えば、と思ったのが、この映画。

シーモア演じる兄のアンディ【Andy】と
イーサン・ホーク【Ethan Hawke】演じるその弟ハンク【Hank】。
それぞれの理由からお金が必要なふたり。

『絶対誰にも迷惑がかからない強盗』と言うアンディの計画、
そんなうまいことなどある訳がなく、すべり落ちていくふたり。

境を超えたアンディの、そこに行きつくまでが絶妙なシナリオで描かれ
後半のキーとなる父親が時折交差し、サスペンス調にストーリーが進行する。

改めて見直すと、邦題とは全く異なる、原題の深い意味を知る。

映画の冒頭に現れるタイトルに続く序章。

MAY YOU BE IN HEAVEN HALF AN HOUR
早く天国に着きますように

そしてタイトル。

BEFORE THE DEVIL
KNOWS YOU’RE DEAD
死んだのが 悪魔に知られる前に

主語は“YOU”、自分が願っていることではない。

調べると、アイリッシュの言葉 “May you be in heaven a full half-hour
before the devil knows you’re dead” に由来しているとか。

早く、と言っているけれど、逃げ切れる猶予は30分しかなく、
それは人生の罪を地獄の閻魔様に申し開きできる時間、ということかしら。

やましいことがなければ逃げる必要もない。
少しでも自責の念があればその30分が、長くも短くもなる。

映画の結末につながるこの言葉、ぜひ機会があれば観て欲しい

06:42 | masaki | その土曜日、7時58分/本当の後悔というモノ はコメントを受け付けていません
2014/02/28

きみに読む物語
【The Notebook】2004年

注: ネタバレあり

私は記憶がいい方ではない、というより、すこふる悪い。
人に関しては少なくても日々定期的にどこかで会っていれば覚えているし、
仕事内容に関してなら『その時』の記憶はむしろいい。

けれど会わなくなったり、プロジェクトでチーム編成が変わると、片っ端から忘れる。

記憶の手順が、まず風貌、歩き方、雰囲気、色に例えるなら、誰の知り合いか、
今まで会った誰かに似ているとか似ていない、ということから頭に入り
そこで名前にその要素がインプットされ頭に定着する。

新しい言葉を取得するのに似ている。

忘れる時はその逆。まず名前、風貌、
そして、一緒に過ごした事柄さえどんどん忘れる。
単に思い出す回数が減ると忘れる、ということだと思うけれど、
自分でもひどいヒトだわ、と思う時が度々あるぐらいすっぱりなくなる。

だからなのか、記憶がなくなることに正直あまり怖さを感じない。

けれど最近読んだ小川洋子さんの『博士の愛した数式』の博士や
映画『メメント』の主人公のように、短時間しか記憶が持たなかったり、
この映画のアリーのように認知症だったり、という『病気』になると
別の話なんだとおぼろげに思う。

何よりもいつも一緒にいる家族や親しい友人の思いが一方通行になり、
時々正気に戻る瞬間、相手を忘れてしまう自分に悲しむのだろう。

ストーリーも終盤、根気よく物語を話し聞かせるノア【Noah】を
アリー【Allie】は思い出す。そして言う。

How much time do we have?
残りの時間は?

“we”、自分がどのくらい正気でいられるのか、というより
どのくらい相手を認識して、それが二人の時間として持っていられるのか

英語の文章には必ず主語が入るので
誰が誰を主においてその言葉が発せられているのか、がわかりやすく
アリーがノアとの時間をどれだけ大事にしているのか、が伝わってくる。

結局は一緒にいることも大事だけれど、その時にどれだけお互いのことを考えているか
そういう気持ちが、重要なのだなぁ、と。

前半はいわゆる若者のありきたりなラブストーリーで、特に特別ではないが、
その物語が書きとめられ、読まれ、共に思い出されると突然過去が輝いてくる。

今を作るのは過去であり、今は未来を作る、
前半の丁寧な描き方が後半とても活きてくる、今を大事にしよう、と思える映画です。

07:57 | masaki | きみに読む物語/ふたりの記憶 はコメントを受け付けていません
2014/02/27

コラム “節目/wait for the right opportunity” で、ちょっと書いたが
『長い間意識して避けてきた』英語を使う仕事に
積極的に携わるようになって2年目に入る。

メールで書いてあることも、言われることも『なんとなく』分かる。
けれど『なんとなく』では仕事にならない。

そもそも10年前に私が使っていた英語は、いわゆるビジネス英語とは程遠く
言ってみればデザイン制作の観点での、『業務進行』用語であって、
最終確認の『制作物』さえ見せれば十分コミュニケーションがとれていた。

相手がいて、プレゼンしたり、論理的で、説得力のある、
何かを取りまとめるスタイルではない。

じゃあ、今どうする?

ビジネス英会話に通いたいとも思う。何か英会話の教材を使うのも一手とも思う。
けれどやみくもにレッスンを受けるのではなく、
何か軸を持ってコースを選びたい、と決めかねている。

そんな最近、ちょっと気がついた。

オフィスにいて、日々のやりとりや、多量にある英語の資料を読み解いていくと
よく使う表現や、作成する資料のフォーマットが見えてくる。

大学時代に繰り返し提出し続けた、Essayを構築しているようである。
後は繰り返しコピーし、慣れ、使えるものに体得していけば良い。

そこが見えてくると、自分に何が不足しているかがぼんやり見えてくる。

『英語でプレゼンする力』、今目指したいところはそこ。

振り返ってみると、大学時代にEssayはよく書いたが、
“debate”は取得した授業にはなかった。

決して討論が好きなわけではない。
大きな組織の中ではモノが出来上がるまでには
様々な検討が行われそれは常に資料と会議でまとめられる。

少なくとも今、私はデザイナーではなくプロデューサーで
できればクリエイティブ・プロデューサーというものを目指したい思っていて
伝わらなければ、それは妄想の域を出ることはできない。

大真面目に宣言してみたものの、
結局は“目的のある”コミュニケーションが好きなだけとも思う。

ゆえにおしゃべりとか、長電話とか、トピックがないと不思議と苦手である。

更に個人的には英語自体を勉強することは、今でも決して得意ではないけれど、
英語を手法として自分のスキルや視野が広がることは
いろんな未知の発見があって、やっぱり楽しい。

伝えようと思って発した言葉が伝わる、どんな形であれそれは共感であり
幻ではなく自分以外のヒトがいるということであり、
ともすると私以外は幻なんじゃないかと疑い続けている私にとって
その感覚が一番嬉しいワケで。

11:59 | masaki | 人生2度目の英語体得 はコメントを受け付けていません
2014/01/31

ゼロ・グラビティ
【Gravity】2013年

今年の初映画は「ゼロ・グラビティ」。
ウォーキング with ダイナソー【Walking with Dinosaurs】と2択だったが、
ウォーキング〜が吹き替えばかりで時間が合わず〜グラビティに。

まわりの評判が良いのに、具体的なストーリーは話題にあがらなくて、
つまり大宇宙に圧巻される映画かな、と思いつつ映画館に向かう。

そしてやっぱりその映像と宇宙空間の緊迫感に圧巻されて映画館を後にする。

なるほどー、確かに。何をどう説明するものでもなく
何よりも今時の映画にない、約90分という短さが潔く、すごい。

あらすじは簡単。

科学者ライアン【Ryan】と宇宙飛行士のマット【Matt】、
宇宙での作業中に事故に遭い、宇宙船は大破、宇宙ステーションすら大破し
文字通り宇宙に“放り出される”。

酸素には限りがあり、燃料にも限りがあり、
宇宙で過ごすための機材がひとつひとつ失われて行く。

起承転結なんてなくて、ただ順番に選択肢が削ぎ落とされて行く感じ。

事故にあって一度は離れ離れになったライアンとマット、
再会し、ゆっくりと宇宙を漂いながら、最寄りの宇宙ステーションに向かう。

世間話しの延長で、ライアンは辛い過去をポツリポツリと話す。

そんな話をしたことも忘れた頃に、絶妙なタイミングでマットは言う。

Ryan, you’re going to have to learn to let go.

あきらめろ

と。

あきらめること=let go
それを学べ=learn to

そしてそれは、have to=強制的に、努力して、しなくてはならない。

これでもか、と『あきらめること』の本質が盛り込まれる。

それを無重力でただただ流され、漂う状況で発せられると、
諦めることって、ただ手を離すだけではなくて、
手を離したものも、自分もコントロールできず漂うままになる。

辛いのは、ものすごいスピードをもって離れるわけではなく
目に見える範囲で、徐々に、徐々に物理的に心理的に離れてていく
そういう辛いコトを、あきらめる、っていうんだな、と実感したセリフだった。

11:58 | masaki | ゼロ・グラビティ/learn to let go はコメントを受け付けていません

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