Home > 新着記事 > senami

2012/03/24

「俳句は『私は見た』で
短歌は『私を見て』である」と
どなただったかおぼえていないが
おそらくは短歌の人の自虐的かつ洒脱な
しかし非常に鋭いツイートを見たことがある。
 
「怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。
おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。」
と言ったのはニーチェである。
自分自身というものがあるいはこころというものはいつも何よりの深淵であり
自分というものは突き詰めれば突き詰めるほどに得体の知れない怪物である。
 
短歌のことを考えそれに費やす時間が日々減ってきている気がする。
 
短歌を詠んでいないと命にかかわるような時期、
正気を保ってられないような時期があった。
今はそこから(状況的に)抜けた。
 
こだわりつづけ内面をどこまでもどこまでも
奥底まで探求し続けどんな微細な変化にも
何かの兆候を見つけてそこからどんどん突き詰めていく。
 
そのようなことを続けていくには時期や期間、あるいは
ここから先は戻ってこれないというような限界設定という
ようなものが一定必要なのではないかと思う。
 
我執、といってもいいのだがそのようなところに
気づけばとらわれているというようなことの多い
自分であるからこそ
ここにもそれほどこだわりすぎないほうが
いいような気が今はしている。
ここ、というのがどこのことかはわからないけど
おそらく自分を見つめ掘り下げ描写するということ。
 
有限のエネルギーと時間をどこに使うか。
 
たとえば笑顔でおはようと言うことにすべてをかけたい。
 
何を言うか、ということについては一定満足をした。
何をするかということについてこれから日々実行をし続けていきたい。
 
 
 
・ 七・七の十四文字分自分が入る 見つめるほどにわからなくなる (瀬波麻人)
 
 
 
星だって、じっと見つめればちいさなひかりはかえって見つけられなくなるもの。
ぽわんと(目を凝らさずに)夜空をながめていたい。
 
 

06:51 | senami | 夜空をぽわんとながめていたい(短歌日記 2012.03.24) はコメントを受け付けていません
2012/03/20

きのう書いたことと
今書きたい気持ちが
必ずしも連続していなくて
きのうはきのうの
今日は今日の話として
続きではない話を書くが
17日の夜は当コラムサイト
ジャンクステージ運営理事で小説家の
桃生苑子さんと5時間くらい飲んだ。
 
5月に仙台に行ったあと立ち寄った
福島でお会いしてから二度目ましてだ。
ゆべしをいただいた、また。
 
デッドボールにあたる話とか
5時間なのでまあ、それはまあ
いろんな話をしたわけだけれど
二度目ということもありかなりディープに
話したいことを話し聞きたいことを聞いた。
予想してなかったような話もたくさん聞けた。
 
人とのつながりを何によって
感じることができるか、
信じることができるかという話をした。
 
いい話ができたと思った。
人と会うのはいいことだと思った。
たましいの深い話をときどきしないとだめだと思った。
人に会うのも会いに行くのも
会いたいという人がきてくれるのも二度目ましてもいいと思った。
 
 
 
・ あと何度旅をするだろ どれほどの人とあうだろ あいたいと言う (瀬波麻人)
 
 
 
それはまた別のお話 つながってるけど

おやすみ

04:12 | senami | それはまた別のお話(短歌日記 2012.03.19) はコメントを受け付けていません
2012/03/19

ある重要な知見に気がついた
人生史上にのこる重要な日であった。
 
カエルの王子の話でも
美女と野獣だってそうだけど
他人からなにかをしてもらったり
あるキーワードを言ってもらうことで
かかっていた呪縛やわるい魔法がとけて
ぱーっととすべてが晴れていくということがある。
そういう感じ。
 
自分ではわかっていたつもりのことだったんだけど
それを他人から心のこもった言葉として言ってもらえる
ことのありがたさ、そのすさまじいまでのパワーというものを感じた。
 
ほんとうにこれしかないというキーワードや言葉、行為を自分にむけて
もらうことで一瞬で呪縛のとけることもある。
 
縛るのも言葉
解くのも言葉
 
そしてたどたどしくても一生懸命伝えようとしたことが伝わるという体験をした。
話しているうちに自分が何を言いたかったのかということがはじめて明確に言語化
できそれを伝え相手にも正しくそのままのサイズや温度、質感で受けとってもらい
そして誰かに言ってもらえなくてはどうしようもなかった決定的な言葉を得た。
 
諦めなくっていいんだな、って思った。
うまく言えなくたって伝えようとしていいんだなって思った。
 
 
そこから学んだ知見は
「解決のフィールドをわける」
ということであるのだがその中身については
次回以降にあらためて書きたい。
 
まずは充足した気分のまま
身体のすみずみまでよろこびと安心をいきわたらせる。
細胞のひとつひとつが生きかえっているのを感じる。
 
 
 
・ あちこちの細胞たちが死んでいたことに気づいて深呼吸する (瀬波麻人)
 
 
 
酸素をいきわたらせる。

07:15 | senami | 解呪(短歌日記 2012.03.18) はコメントを受け付けていません
2012/03/15

今日はたしなめられた日だった。
問題意識があって、
自分はそのソリューションをもっている
と思うと会議等でしゃべりすぎてしまって
かえって組織や全体、集団として発揮しえた
かもしれないはずのパワーを封じ込めてしまう
ことにもなりかねない。

何年か前にもっと顕著にやりすぎてしまうひどい時期があって、
そういう自分的な課題や傾向、弱点を意識したからこそ、
今、集団や参加者全員の力を活かすための
ファシリテーションとか会議手法、全体としての力の発揮の
しかたみたいなことを一生懸命やりはじめてるんだよなあ
とあらためて思いあたった。

今日は正直よくない面も出たが、
だからといっていちいち落ち込んでたら
時間もエネルギーもロスしてしまうので
すぐに切り替えそのあと落ち着いた
いい会議をもつことができたので、
そのことを前向きに評価したい。

言ってくれた人には感謝したい。

ほんと、わかっていてもやってしまうし
気がついたらもうそういうモードに
入りかけてる、ということがあって
過信しすぎず謙虚にしかし大胆にやっていきたい。

最近は、行動面で実際なにをするか
ということを重視していて、
言葉や意味にとらわれて
身動きがとれなくなることのないよう
思い悩みすぎないようにしたいと思っている。
ひとりの頭の中で起こることよりも、もっと現実は
素敵な気がする。人を信じるということはそういうことで
あるのかもしれない。

・ 信じれば飛び立つ鳥のあるように私がどうにかしなくてもいい (瀬波麻人)

08:20 | senami | 短歌日記 2012.03.14「鳥」 はコメントを受け付けていません
2012/03/13

 
 
 
・ 今ならば理由が分かる震災の後であなたは選択をした (瀬波麻人)
 
 
 
きのうは仕事が終わってから、
神戸元町にて初開催された
ちょんせいこさんの
ホワイトボード・ミーティングの講座に参加した。
認知症高齢者にかかわるケース会議が圧巻だった。
 
少し話をするだけで、あるいは会った瞬間に、
またはいっしょにすごす何気ない時間の中に
直接的に励まされたわけではないのに
とてもこちらの活力を引き出してくれる人がいる。
ちょんさんもそういうパワーのある人だし
ぼくが好きな人、こうなりたいなと思う人は
みんなだいたいそういう人なので、
そうなりたいなと思ういい時間でした。
 
ツイッターのほうでCSP=コモンセンス・ペアレンティング
についての質問をいただいてそれが虐待防止や予防のための
なにかのきっかけになるかもしれないしどういう縁でなにが
プラスにつながっていくかわからないのでプロフィールに
入れておいてよかったなと思った。
 
今月のスケジュールはびっしりだ。
 
 

08:28 | senami | 短歌日記2012.03.12「ホワイトボード・ミーティング」 はコメントを受け付けていません
2012/03/11

日曜の朝もいつもとあまりかわらない時間に起きる。
朝食を食べたあと、
家から山方向に徒歩10分くらいのところにある
貯水池のまわりを走る。
ここを走るのははじめてだったが1周2.7kmで
半分くらいが土の道で木や花がたくさんあり
うぐいすの鳴く気持ちのいいコースであった。
今日は13km走った。
シューズをかえてから非常に調子がよく
かかとの痛みは一切ない。
それでもこのくらいの距離を走るとあとから
少し膝に痛みがあるがあとにひくほどのことでは
なさそうだと思う。
 
午後は歌人の穂村弘さんと脳科学者の茂木健一郎さんの
対談を聴きに行った。打ち合わせのない状態でその場の
ふたりがリアルタイムに生み出していくライブは非常に
エキサイティングで対談が終わってからも興奮しすぎの
状態がしばらく続いた。
 
質疑応答では表現と倫理、
あるいは事物や出来事の一回性の前に立ち止まる
ということと社会生活の両立ということについて
質問をしておふたりの話をきけた。
 
いい講演会だった。
 
昼はパスタを、
夜はマクドナルドでハンバーガーを食べました。
帰り道でビルのあいだにきえていく夕日をみました。
 
 
 
1年前あなたはどこにいてなにをしていましたか。
1年後の今日どんな1日をすごしましたか。
これからどんなふうに生きていきたいですか。
私はこれからどんなふうに生きたいですか。
そんなことを考えた1日だった。
 
 
 
・ すごしたいようにすごした一日だった特番だらけのTVをつけずに (瀬波麻人)
 
 
 

10:47 | senami | 短歌日記2012.03.11「今日」 はコメントを受け付けていません
2012/03/10

9日の夜は豪勢なふぐを食べた。
酒代込みで4万円くらいしたので宿泊費とかをふくまない
純粋な一食の食事の値段としては自分史上最高額で
実際たいへんおいしくいただきました。
二度目はそうそう行けないだろうから貴重な経験をしました。
ちなみにお店はこんなところです。
http://r.tabelog.com/hyogo/A2803/A280301/28001348/
 
それから夜は地元神戸のホテルに泊まって
今日は観光をしました。猛禽をたくさん見ました。
 
やっぱりここは俺の街だな、と思った。
神戸に住んで3年半くらいか。
状況的な事情があって神戸に移り住むことを1日で決めて
一時期、4つの家を行き来するような生活があって一瞬一瞬の判断を
迫られながらもなんとか綱渡りの時期は終わったのではないかと思っている。
だから今は身体中の力をぬいて臨戦態勢を解いて安心した生活をおくるほうが
いろんなことはうまくいくのだろうとあたまではわかっているのだけど
なかなかそうは器用に切り替えられない。
今は今なりのあたらしい局面があらわれてはいるわけだけど
深刻にはならないようにからだをうまくならしていきたい。
こわばっているところをほぐしていくようにゆっくり力をぬいていきたい。
今ではここは俺の街だといえるし、神戸はとても好きな街だ。
 
そのへんのこと考えてもやっぱりちゃんと
持病の内分泌系異常について
放射能治療を受けたほうがいいんだろうなとは思う。
お医者さんからは5~6年前からすすめられていたのだけど、
後戻りできない治療だけに判断保留しつつ様子を見ながらやってきている。
副作用、ということもあるがそれ以上に、
「治療」によって思考や性格、行動、能力、判断、熱量やこころざしが、
つまりは自分自身が今とは、
今までの自分の知ってる自分とはちがう自分に
かわってしまうのではないかということがこわかった。
今でもこわいしそういうことをとてもおそれていることにかわりはない。
それでもたぶん本格的な治療を受けた方がいいんだろうなという気に今はなってて
かわる自分もきっと自分自身に受け入れられると思いたい。
まだ決断は完全にはついていないが前向きな方向で考えていこうと思う。
悩む。けどだいじょうぶだ、と、思いたい。
 
なにをとるか。どういうリスクを引き受け
どのような自分であれば引き受けられるのか、
考えてもどうせ答えはないが、もうたぶん受けた方がいいんだろうな
という気はしていてそのまわりをぐるぐるしている感じである。
 
今の俺にやりたいことはやったか。
やるべきことややれることを可能な範囲で実現したといえるか。
どちらもおおむねイエスといいたい。
 
もういいか。次に進もう。
 
まあとにかく考えすぎるより
その時ほんわりからだがくつろぐことを日常的にいくつかさねていけるかだと思う。
そういうことの力がどれほど偉大で重要であるか、千の理屈よりもそのような体験を
重ねていきたい。
うまくいえないが、自分自身が無力であるという感覚と
しかし人は誰も、自分を含めて誰も、無力ではないという感覚は両立しうるものであるし
そのようなことを両立させる謙虚なそしてあくまで顔を上げた体勢を保ち続けることが
重要なキーになっているのではないかという気がしている。
 
 
 
・ 猛禽の風切羽は音もなく獲物を捕らえるための形状 (瀬波麻人)
 
 
 
機能美というべきなのかこれも。
生命の神秘というべきなのかこれも。

10:16 | senami | 短歌日記2012.03.10「ふぐを食べた」 はコメントを受け付けていません
2012/03/09

iPhone4のOSをiOS 5にアップデートしたところ
リマインダーという基本アプリがインストールされた。
 
内容的に要はTo Do Listで、
仕事でもプライベートでもいいんだけど
やらなきゃいけないことや気になってること
〆切のある仕事なんかのスケジュール管理に
自分には今これだけのやるべきことがあって
それぞれの〆切はいつで、という感じに一括管理できる。
設定すれば指定日時にほらもうじき〆切ですよ、っていう
感じのお知らせをしてくれたりもする。
 
これがなかなか便利で今自分のスケジュール管理は
iPhoneアプリのさいすけとGoogleカレンダーを連携させたもの
で管理しているのだがそれとの併用で一応もれなく管理できる。
 
自分自身のやるべきことやそのタイミングなどの管理を機械に
任せてしまえばまあなんていうか秘書がいるみたいなもので
自分の思考や意識の中にそのことを常駐させておく必要がなくなり
必要な時期がくるまで手ばなしておくこと、むだに意識のメモリの
一部を占有され続けなくてすむ、ので非常に重宝している。
 
ちなみに今入ってるリマインダーの項目は
「課長に借りてる本を読んで返す(ハシズム)」だ。
そうそう。借りっぱなしの本とかそのまま忘れてしまわないようにねー。
 
 
そいでね。To Do Listは確かに便利でお役立ちだしこれからがしがし使って
行こうと思うんだけど、同じくらい、あるいはそれ以上に大事だなって
思っているのはNot To Do Listなのね。
 
やらないこと。
やらないでいいこと。
やるべきでないこと。
やめること。
 
特に「やめること」だろうな大切なのは。
なにかをやってる時間というのは
別のなにかをやらない時間、できない時間であり
自分にとってのTo Do、つまりは信念、価値観、
大事にしたい時間、成し遂げたいことetc.を
達成していくためにまず大事なことは「やめる」
ということなのではないかと思う。
 
1日は24時間、誰にも平等であり
不公平のないこの時間をどのように按分するか。
限りある自分の意識や心的エネルギーをどこに
どれだけ費やすことができるのか、そういうことを
考えるうえで「やらないでいいことをやめる」
「自分の信念、価値観、生き方において大事にしたいもの
と照らし合わせてなにをやめれば別のやりたいことができる
時間をもつことができるのか」そういうことを考えたほうがいい。
 
やめる、にもエネルギーがいる。
しかしそれは必要な痛みであるのだ。
 
Not To Do Listの作成をすすめる。
今やっていることでやめることはなにか。
それによってはじめられるorより大事にできることはなにか。
心に問いかけてみよう。
 
 
 
・ 右・左・下・下 顔にみえますそれも かわいい顔にみえればいいか (瀬波麻人)
 
 
 
天満のある場所にはじめて行った。
建物に一歩入ったところで満足したので
まずはそこまでで第一歩だと思った。
いつか必要となるかもしれない場所に足を運んだ。

07:21 | senami | 短歌日記2012.03.08「Not To Do List」 はコメントを受け付けていません
2012/03/07

朝は30分で4km走った。
平日朝だと仕事に差し支えず
気分よく出勤できるペースと
いうことでこのくらいが当面は
標準的な距離、ペースになりそうだ。
週末は10km超が目安か。
 
朝、妻の前で少し泣いた。
 
その後ぼくは朝食を食べながら
このようにともに朝食を食べている今という日が
ぼくにとってどれほどうれしいことかという話をした。
 
会社では課長との個人面談があり今年度体制の振り返りや
来年度にむけての課題整理などの話し合いをした。
自分が正しく的確に評価されるとともに
いい意味でうまくあつかってもらでていると感じ
あらためて今年度の同僚、部下、上司に対してありがたく
感謝の気持ちをつよく抱いた。
 
午後は助産師さんのお話を
子育て中のお母さんたちといっしょにきく機会があって
セックスにかかわる話はいのちにかかわる話なのだ、
だから性教育は必要なのだということなどをきいた。
そのエネルギーはいのちへの讃歌に満ちておりしばしば
不思議に涙がでてきた。他の人たちも泣いていた。
今日はよく泣く日だと思った。
 
夜、ふたたび選択理論について考えていた。
選択理論においては
「ほんとは○○をしたいのに○○することをがまんして××をする。」
ということは理論上起こりえない(はずだ)。
所与の条件や過去の記憶や以前起こったことがどうであれ
あくまで今の行動を選択するのは自分であるから
「今××をするということは自分が××をすることを選んでいるからだ。」
と考える。すなわちすべての(自分に対する巧妙な)言い訳は無効化される。
「今○○をしたいから○○をする。」以外にはなにもない。
 
言い方をかえると、
今ここの目の前の関係をよくするのならそのためにできることをしていますか
ということになる。「以前にあんなことがあったから」とか「前のときこうやったから」
「相手が△△だから(私はこんな態度をとるしかないorこうするしかない)」ということは
おかしいんだよね。今目の前の関係をよくしたいなら今ここでできる最良の選択を行動して
実行すればいいし、相手との関係の中で感じたプラスの気持ちをどれだけ言葉にして伝えて
いますか、ということになる。いいことやうれしい気持ちはつたえずに不満や嫌な気持ちに
なったときだけ声をあげるのでは目の前の人との関係がよくなるはずはないよねえ、
ということである。
 
こういうことはある意味ぼくの専門分野であり何百回もそういうことを学んできたし
言ってきたし人に対してできる範囲で実行してきたとも思っているのだが、しかし、
それでもハマる時にはあっさりとハマる。しかも自分自身がその状況になってる時には
なかなか客観視して気付けない、あるいはどうしようもないという言い訳を自分にゆるして
しまったりもするものだと思った。
 
毎日いろんなことがあるがあらゆる場面で笑顔で楽しくやっていけるのではないかという気もしている。
 
どれほど人は人を抱きしめたいのか、
どれほど人は人に抱きしめられたいのかを思った。
そんな一日であった。
 
 
 
・ 赤ちゃんってあったかいわね(泣いているけど)わたしもあなたもあったかいね (瀬波麻人)
 
 
 

10:46 | senami | 短歌日記2012.03.07「選択理論」 はコメントを受け付けていません
2012/03/06

『グラッサー博士の選択理論』読了。
570ページほどあるブ厚い本だが
たいへんおもしろく一気に読めた。
 
この本を読みはじめたのは今朝だが
昨日の日記に書いていたこととほぼ
どんぴしゃの内容であまりのタイミングに
なかば茫洋とした気分になった。
 
出会うべき本、出会うべき言葉、
出会うべき人との出会いはこのように
今ここぞというタイミングで出会うものなのだろう。
 
最近読んだ別の本と同じ、
映画「風と共に去りぬ」の中のレット・バトラーの
台詞のまったく同じ箇所が文中に引用されていて
そのことにも驚くような偶然(ではないのだろうきっと)
を感じた。
 
必要なものは必要なタイミングで現れる。
きっといつでもそうなのだ。
気付けるかどうか。
自分がそのような状態でいられるかどうかの問題だけが
いつもかわらずにあるのだろうと思う。
 
『選択理論』において繰り返し出てくるのは
コントロールの問題。まさに、という内容だ。
 
著者は繰り返し言う。
「自分にコントロールできるのはまったくの唯一自分の行動だけだ」と。
 
架空のチョークで描いたおおきなサークルの中に今あなたは入った。
この解決のサークルの中では
「すべき」も「ねばならぬ」も「あなたがしなさい」もない。
あるのは「私がします」だけであると。
そしてそのサークルの中にはいつでも入ったままでいられるし
いつでもチョークでその円を自分のまわりにおおきく描くことができる、と。
 
非常なる良書であった。
 
 
 
・ 三月のよく晴れた朝顔を上げる雨の日もまた笑顔でいよう (瀬波麻人)
 
 
 
つまり手ばなすのは人でも事物でもなくコントロールなのだ。
自分以外のすべての他人、ただ一人の例外もなく、に対するコントロールを手ばなす。
そして自分が自分をよくコントロールできる理性的な人間であるという
思いこみからもフリーになる。
そのうえで、雨の日もまた笑顔でいたい。
晴れたり降ったりするのは自分にはどうしようもないことで
そしてまたそれは誰かが誰かをこまらせようとしてやっているわけでもないので
そのことによって自分のコントロールを失うことも奪われる必要もない。
笑顔でいるのは(=いられないのは)誰のせいでもなく自らの選択であり意志なのだ。
選択理論の核となる考え方である。
 
解決のサークルを描くチョークを(もし望むのであれば)あなたにもあげる。
 
 

10:19 | senami | 短歌日記2012.03.06「レット・バトラー」 はコメントを受け付けていません

« Previous | Next »