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「俳句は『私は見た』で
短歌は『私を見て』である」と
どなただったかおぼえていないが
おそらくは短歌の人の自虐的かつ洒脱な
しかし非常に鋭いツイートを見たことがある。
「怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。
おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。」
と言ったのはニーチェである。
自分自身というものがあるいはこころというものはいつも何よりの深淵であり
自分というものは突き詰めれば突き詰めるほどに得体の知れない怪物である。
短歌のことを考えそれに費やす時間が日々減ってきている気がする。
短歌を詠んでいないと命にかかわるような時期、
正気を保ってられないような時期があった。
今はそこから(状況的に)抜けた。
こだわりつづけ内面をどこまでもどこまでも
奥底まで探求し続けどんな微細な変化にも
何かの兆候を見つけてそこからどんどん突き詰めていく。
そのようなことを続けていくには時期や期間、あるいは
ここから先は戻ってこれないというような限界設定という
ようなものが一定必要なのではないかと思う。
我執、といってもいいのだがそのようなところに
気づけばとらわれているというようなことの多い
自分であるからこそ
ここにもそれほどこだわりすぎないほうが
いいような気が今はしている。
ここ、というのがどこのことかはわからないけど
おそらく自分を見つめ掘り下げ描写するということ。
有限のエネルギーと時間をどこに使うか。
たとえば笑顔でおはようと言うことにすべてをかけたい。
何を言うか、ということについては一定満足をした。
何をするかということについてこれから日々実行をし続けていきたい。
・ 七・七の十四文字分自分が入る 見つめるほどにわからなくなる (瀬波麻人)
星だって、じっと見つめればちいさなひかりはかえって見つけられなくなるもの。
ぽわんと(目を凝らさずに)夜空をながめていたい。