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2016/06/13

m316

散歩から帰る道すがら、わたしは初めてそのケーキショップでケーキを買った。チーズケーキと、フルーツタルトを一つずつ。いつもガラス越しに見ていたショーケースを店内で覗くのは、なんだか不思議な感じがした。そして、なんだかふわふわした気持ちで、ケーキが倒れないように、いつもより慎重に慣れた道を戻った。

 

退職することについて、わたしは誰にも一言も相談をしなかったから、理由を説明することもほとんどなかった。親には一応電話をしたが、母の反応はごく薄かった。母は母の世界があり、その中での重要度で測れば娘の仕事などだいぶ優先順位も低いのだろう。給与はたいして変わらないと話すと、安心したのか話題はさっさと流行りの俳優のゴシップに流れた。

仕事を辞めたのは、辞めてもよい経済状況になったからだった。先月、宝くじがあたったのだ。ほとんどアホのような高額当選で、通帳に記帳された数字は年収の約25年分ほどになった。わたしはそのお金の半分で店子付きのアパートを買った。そして、その収入を自分の労働で超える可能性について考え、おそらく無理だという結論に達し、退職した。仕事への未練はあまりなかったし、辞表を出してもお義理程度にしか引き留められることもなかった。

退職したら、やりたいことをなんでもやろう。今まで忙しく働いてきたんだから、趣味でもなんでも我慢しないでやろう。そう思ったのに、――わたしには、やりたいことがひとつもなかった。

グルメな食事をしようにも相手はおらず、旅行に行くのは面倒くさい。好きだった漫画のシリーズを全巻揃え、録画機能付きの大型テレビを買ったら、おそろしく贅沢をした気になった。ちょっとやけになって化粧品をフルラインで買い替え、ワンピースやサンダルといった仕事では絶対に着ることが出来ない服を買い、デパートの高い喫茶室でコーヒーを飲んだら、それでもう十分だった。わたしは服にこだわりがあるわけでもないし、飾り立てて見せたい相手も特にいなかった。

 

というわけで、最近はケーキを買うことが、一番やりたいことになっている。

三日に一度ほど、わたしは長い散歩をする。そこで見つけたパティスリーでケーキを買う。特別な日ではないのにケーキを買う、しかも一つではなく二つも! 一つだけ買うのは恥かしいし申し訳ないと思って始めたのだけど、今はその行為がもたらす多幸感がとてもとても好きだ。

帰ったら、この間買って来た豆を挽いてコーヒーを淹れようと思う。行き付けになりつつある近所のケーキ屋さんで薦めてもらったブレンドだが、よそのケーキにも合うだろう。
やりたいことはまだ、見つからない。
でも、今からパティシエの勉強をすることも、悪くないかな。それともお店の経営だろうか。
わたしには時間がある。だから、焦らずに考えようと思っている。

2016/06/13 07:53 | momou | No Comments