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2016/03/07

m311

故郷へ向かうために、久しぶりに車を運転した。おっかなびっくり踏み込んだアクセルは思いのほか重くて、慣れない道をナビにしたがっていくつも曲がり、高速に乗る。ラジオをつけていない車内は静かで、時折ナイロンの包みが擦れて小さな音を立てた。助手席に乗せてある、姪へのプレゼント。今年十二歳になった彼女は母親に似たぶっきらぼうな口調で、定期を入れるパスケースが欲しいのだとねだってきていた。

姪は僕の姉の子供だ。よっつ違いの姉は、僕にとって神様みたいな存在だった。力は強いし体は大きいし声も大きかった。僕はいつも姉の前ではいい子だった。だって、僕の生活のほぼ半分以上は姉によってその質を左右されていたのだ。共働きの両親にかわって小学生のころから姉は台所に立っていたし、掃除や洗濯も率先してやっていた。徐々に僕と家事を分担するようになったけれど、それだって姉が教えてくれなくてはできなかっただろう。歴代の彼女たちが賞賛してくれる料理の腕は、全部姉が教えてくれたからこそだ。

「あんた、ホントに子供なのね。だから何も出来ないのね」

ため息をつきながら、出来の悪い生徒を叱るように姉は根気よく僕に繰り返した。ピーラーで誤って指の皮を傷つけたとき、ポケットに千円札を入れたままのジーンズを洗濯してしまったとき、揚げ物をしてやけどしたとき。姉は泣く僕を慰めはしなかったが、その代わりに怒りも叱りもしなかった。まだ自分だって子供だったはずなのに。

姉は、まじめで努力家で、どちらかといえば地味だった。実家から通える国立大学を卒業し、指導教授の推薦である会社の経理に収まった。こう聞けばなんとなく誰もがイメージするお堅い女史だったのに、僕の知らない間に恋をして、あっという間に一児の母になった。未婚の母だった。

「ねえちゃん、いいの? あと戻りできないよ」
「戻る気なんかないよ。だって、もうかわいいって思ってるんだから」

病室で、二十九歳の姉はいとおしげに腹を撫でた。強い強い大きな姉が泣いたのは、僕の知る限り姪を産んだ時だけだ。難産で、予定日よりもひと月ちかく生まれた姪は本当に小さくて、生きているのが嘘みたいだった。小さい爪があることにびっくりして、髪の毛が生えたことにびっくりして、いちいち驚いている僕を見て姉はおかしそうに笑っていた。

姉は姪を得て変わった。沢山食べるようになったし、冷めた顔をすることが減って喜んだり嬉しがったりすることを惜しまなくなった。姉はいつも、全身全霊で娘を愛していた。大好き、大好きとからだじゅうで伝えていた。
あの春の日に向こうへ行ってしまった、姉。
終業式の帰り、姪と海の近くをドライブするのだと言っていた。姉だけが、帰らなかった。

 

姪は不器用な子だ。姉によく似ていて、甘え下手で、強がっている。僕を自分の母に倣って名前で呼び、僕のことを家来みたいにして遊んでいた可愛い姪は、今年から中学生になる。
もう五年。まだ五年。
母をなくした娘と姉をなくした弟は、どっちもまだ、傷だらけだ。

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*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。

2016/03/07 02:51 | momou | No Comments