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美しくなりたい、と思わずにいられる女はいったいどれだけいるのだろう。たとえば女優のように整った顔で、モデルのようにスレンダーな体型だったらと願わずにいられるような女は。いるとしたら、既にそれを手にしている存在なのではないかとわたしは思う。
わたしには理想の存在がいる。彼女は夭折したバレエダンサーで、驚くほど均整の取れた肢体に小作りの整った顔の持ち主だった。楽曲を理解するために物語を読み込んでいるのだとインタビューで語る笑顔はほんとうに晴れやかでうつくしかった。表現力を磨くために膨大な量の本を読んで知識を得る努力をしていたことも、そうして得た名声でチャリティイベントを開いては慈善団体に寄付していたことも、すべて彼女が死んでから知ったことだ。それだけの功績がありながら、彼女は生前そういったことは一切伏せて万事控えめに身を処していた。本業としていたバレエでさえ、プリマの陰に隠れるようにして逝ったのだった。
(どうして、黙っていられるのだろう)
不思議だった。名声欲はなかったんだろうか? あれだけの美貌を利用しようとは考えなかったのだろうか。あんなにも恵まれた人生を得ていたのに、それを誇示したいとは思わなかったんだろうか。
わたしは、わたしなら。そんな風に考えて自嘲する。なんて卑しい。持ってもいないもののことを考えて、身のほどもわきまえずに手を挙げて。卑しくて、醜い。そう考えて落ち込むことすらおこがましいことのように思えて、暴走する自意識を持て余した。わたしは認められたかった。美しいのだと。容姿だけではなく、その心映えも美しいのだと――誰かに、言ってほしかった。言われるはずがないことを一番自分が分かっていて、それでもその評価が欲しかったのだ。ないものねだりだ。馬鹿みたいだ。
だけど、それでも、わたしには切実で、とても欲しい言葉だった。
一度だけ、美容クリニックを訪ねたことがある。誰ともすれ違わないように完璧に配慮された部屋のなかで、手に汗をかきながらカウンセリングシートを書いた。なりたい理想の顔はバレリーナの名を挙げたが、一世を風靡した女優によく似たドクターは知らなかった。そして、淡々と料金の説明を行った。わたしがなりたい顔、なりたい体になるためにはプロテーゼを入れたり脂肪吸引をしたり骨格を削ったりする必要があり、それにはそれぞれにお金がかかるとのことだった。
ひるがえせば、お金さえ出せばある程度は美しくなれるのだ。それは福音にも思えた。そのつもりで貯金をはじめ、でも実際には踏み切れなかったのは、中身の卑しさを消すことはできないと思ったからだった。彼女を真似て、ボランティアにも取り組んでみた。自分を磨くという名目でカルチャースクールで英詩を学び、会社の制度を利用して資格もとった。そしてその全てを誰にも言わずにやってみた。それらは楽しさも難しさもわずらわしさもあったけれど、黙っている、ということそれ自体がひどく難しかった。
わたしは。わたしも。
自分を主語にせずに話すことは、なんて難しいんだろう。
わたしは、憧れている存在がある。彼女は心も体も顔も、すべて美しかった。非の打ちどころのない美しさに憧れることも分不相応だと思うけれど、それでも。
わたしは“美しいひと”に憧れる。
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*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。