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終わりは、あっけなかった。はじまりの仰々しさに比べ、離婚は紙切れ一枚で済む。もめごとの素となるほどの財産もなく、子どもも幸いなことにまだおらず、私たちは静かに二人の生活を終えて離婚届を提出すると、それぞれの日常を再開した。
私はあっけないほど簡単に、ひとりでの生活に馴れた。ちょうど繁忙期に差し掛かったころで、思い悩む暇がないほど忙しかったのもよかったのかもしれない。企画書を作りプレゼンをし営業に駆け回って、くたくたにくたびれた体が欲するだけの睡眠は思ったよりも深かった。眠れないかも、と悩んでいたのがバカバカしくなって、自分の好みの硬さの寝具を一式新たに買い替えた。新しいふかふかの布団はやっぱり気持ちよくて、結婚していたころは遠慮して買い控えていた高反発のマットレスにごろりと寝転がる。そうしたら、不眠気味だったのが嘘みたいに熟睡できるようになった。我ながら現金な身体だと呆れた。
結婚生活がストレスだったわけではない。共同生活者としては、ちょうどよい距離感だった。節度と距離を守った、快適な関係。お互いに踏み込まない。違う。――いつの間にか、踏み込めなくなっていた。
結婚して3年。普通の夫婦なら、とっくに“らしく”なる期間だと思う。付き合う前は、そのドライな感じがよかった。自分を尊重してくれているのだと思っていたから。付き合ってからは、その節度ある丁寧さを好ましく感じた。私の価値観を大事に考えてくれているのだと思ったから。
でも本当は、なんとなく気付いていた。私は彼にそこまで興味がなかったのだ。彼も私に干渉するほど、熱意を持っていなかったのだ。本当はきちんと、お互いがお互いについて理解したり共感したり反発したり一緒に未来について考えたりすべきだった。夫婦なら。家族になるつもりであったなら。でもしなかった。出来なかった。それをする代わりに、私たちは沢山の不義理をして別れた。お互いがお互いのことを大事にしているポーズをとってはいたけれど、私も彼も、お互いよりも自分のほうが好きだっただけなのだ、たぶん。
身軽になったのだと思った。好きなだけ仕事のことが考えられて、お給料全部を自分のためだけに使うことが出来る。好きでもない料理もしなくてもいい。新しいショップで新作のバックを買ってもいいし、流行りのマクロビカフェに行ったっていい。嫌味かな、なんて考えながらソムリエ資格の勉強をする必要もないし、旅行だって好きなタイミングで行ける。自由だ。自由なのだ。
でも、自由であることが、孤独だとは誰も教えてくれなかった。
心が通っているんだかいないんだか分からない夫婦だったけれど、いなくなってみると寂しかった。いつもあると思っていたお店が閉店してしまったような、その程度の寂しさではあったけれど、きっと恋でもすれば忘れてしまう程度の寂しさだけれど。
それでも。
その程度は、私は彼を好きだったのだ。
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*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。