広告人・横山隆治氏の場合
“リスクを張った”ADKi、そして、デジタルの新たな可能性。
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DACでやり残したことはある。メディア側にいるとやりにくいことも、当然あった。
「DACを上場させた後、リスクを張らなきゃっていう思いもありました。」
ADKインタラクティブ(以降ADKi)社の立ち上げを横山さんはそう振り返る。
「広告会社のフロントに立つデジタルアドマンを作りたいとは思っていました。
いくらプランニングスキルがあっても、お客さんと直でコミュニケーションしてる
エージェンシーの人間にデジタルスキルがなければ結局、伝わらない。」
リテラシーの問題は現場においては最大の課題となる。
「たとえば、外国人のクライアントのところに、英語を喋れない人間を営業にしますか?
サービス業ってやっぱり、そういうものではない。フロントラインで解決できなければ・・・」
それは、旭通信社でキリン担当の営業をしていた頃の経験から得たものだった。
販売力の水平拡大をしていくためには、下請けではなく直営業会社であることが必要だったのだ。
* * *
「最初はメディアバイイング。そしてソリューション提供→直営業→自社メディアやアプリ開発。
そういう流れで、やっていきたかった。」
本人がいう順番通りに、ひとつずつ橋を渡ってきた。
そしてADKiの「次」は、かなり前から横山さんの頭の中にはイメージがあった。
オウンドメディア――すなわち、自社メディア。
著書『トリプルメディアマーケティング』でも横山さんは自社メディアの重要性について記している。
お金を払って媒体枠をおさえる「ペイドメディア」が中心だった時代から、
生活者の信頼や評判を得る場である「ソーシャルメディア」が必須課目になるほど
マーケティングデザインは大きな変化を遂げている。
各メディアを有機的に連携させるための主軸となるオウンドメディアの機能は
自社の情報を発信するメディアに留まらず、マーケティングROI(投資対効果)を図る装置ともなる、マーケティングの域を超えた重要な経営課題である――、と。
「今まで、メディアプランニングは、掲載面の情報を知ってさえいればよかった。
それがレップの役割。
でも今、リスティング広告も行き詰まっているでしょう。種を蒔かずに、刈り取りばかり。
これからは、広告を出す面や枠だけではなく、“オーディエンスデータ”のプランニングが
大事になる。掲載面の情報ではなく、広告するブランドのユーザープロフィールなどの
情報に精通しないといけない。」
そのオーディエンスに関するデータを“所有し”、プランニングして広告の配信先をマネジメントしていくことがこれからの時代、自社メディアを基軸にしたマーケティングの大きなミッションとなる、と確信を持って言う。
「可能性、なんてもんじゃない。」
デジタルにはまだ可能性があるか、なんて議論は横山さんはとうの昔に通り越していて、
今この時代だからこそ出てきた新しい使命がある。
広告コミュニケーションとデジタルテクノロジーの融合による、全体最適を図ることが
これからの時代のデジタル広告の肝要となる――その確信を、形に。
2011年7月。
デジタルインテリジェンス社をMBOした。
横山さんの、最後の挑戦になるのだろうか?
それはきっと、横山さんだけの問題ではなくなっているはずだ。
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了
Special Thanks to R.Yokoyama
※「月刊広告人」は、9月に1ヶ月間のお休みを頂き、10月に連載を再開致します。
広告人・横山隆治氏の場合
デジタル広告の未来を賭けた、激動の90年代。
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広告代理店営業として、まさに幅広い領域を手がけていた横山さんがその後デジタルの世界にどっぷりと浸かっていったのは、2人の友人の影響によるところが大きい。
一人は、現・デジタルガレージの厚川欣也氏。
そしてもう一人は、ベンチャーキャピタリストであり、現MITメディアラボ所長の伊藤穰一氏だ。
青山学院大学時代、バンド仲間だった厚川氏が立ち上げたフロムガレージ社と、
横山さんは卒業後 親交を深めるようになっていた。
フロムガレージは、元々就職活動時に光文社を落ちた者どうしとして友達になった厚川氏と
現・デジタルガレージ社長の林氏が、就職先がなくて共にガレージで立ち上げた会社である。
シリコンバレーの伝説のようなことは、日本でも起きていたのである。
92年には伊藤氏がフロムガレージに加わり、ヤフーを日本に持ってこようとしていた孫正義社長にオブザーバーとして意見を求められていたりした。
大きな流れが起きていることを、身近で感じた。世界に目を向ければ、インターネットの勃興は明白だった。こと日本はといえば、インターネットといえばまだメールかNewsgroupくらいしか利用されていなかった。
* * *
93年に横山さんは旭通信社でJAAAの海外研修員としてフロリダで双方向マルチメディア実験に携わった。
94年にはWired Japan誌が日本へ上陸、インターネットテクノロジーの最先端を伝えていた。
「アメリカでは、“アメリカが情報ハイウェイで世界経済の覇権を取り戻す”ということと、
“代理業は崩壊するぞ”というふたつのことをいっていました。
社で話してもあまり理解はされなかったけれど、大津波が来るという実感があった。
それは、デジタル領域に限ったことではなく、広告会社の業態そのものを変えると
感じていました。」
バブル時代の“Japan as NO.1”をいつまでも引きずっている場合ではない。
デジタル領域におけるプロダクトを持たなくてはならない。
そして、まったく新しい価値を持つプラットフォームを作り上げること――
96年春、横山さんは、博報堂との共同事業として、DAC社を立ち上げた。
検索エンジン当時最大手であったInfoseekを日本に持ってくるためである。
「えー、バナーというのはですね…」という説明から、必要だった。
ヤフーの説明をすると、当時旭通信社会長であった稲垣氏は
「横山さん、これは、ミニコミですね。」と言った。
* * *
旭通信社、デジタルガレージ、博報堂、読売広告社、第一企画、I&Sと
競合各社が集ってひとつの会社を作る前代未聞の事態は、日本経済新聞の一面にも出た。
情報漏えいなどの問題が何かひとつでも起これば、こうした流れすべての芽を摘んでしまう緊張感も大きかった。
しかし横山さんは当時を楽しそうに振り返る。
「最初は、出向者4人のみの小さな組織で。
トイレも一つしかなくて、掃除は全員がローテーションでやっていましたよ。」
専売できるInfoseek(現・楽天)という商品があり、
セールスできる得意先があり、会社の基盤を支えてくれる親会社があった。
「これで失敗するなら、この先なにもできないだろう、と思っていました。」
しかしDACがInfoseekを専売にする一方で、
現在も競合であるデジタルメディアレップのCCI社はヤフーを専売していた。
「Infoseek対Yahoo!を、DAC対CCIにはしたくなかった。勝敗は既に決まっていたからね。」
デジタルという新しい流れに、日本の広告会社をきちんと直面させること。
そのために競合だった複数社とのアライアンスも実現した。
しかし「何の媒体を獲るか。勝つか、負けるか。」という次元の問題になっていた。
それは、急速に注目され始めたネット広告のバブルの到来にも、後押しされる形となった。
「2年目以降は、もう、ヤフー以外のすべてを扱えないと勝てないというような状況になっていた。
そこで、ダブルクリック社へ行って、アドネットワークを作ろうという構想を固めました。」
インプレスの四家氏が、最初にDACネットワークに加わってくれた。
99年には、i-modeが始まったばかりの頃、世界で始めて『モバイル広告』を配信した。
100人ほどいた営業社員には、当時、横山さん自ら毎週ひとりづつ営業報告をさせていたという。
「社員からしてみたら、相当うるさかったでしょうね」と、笑う。
そしてDACを設立から4年半で上場させると、横山さんは2006年に
古巣である旭通信社へ、形を変えて戻った。
旭通信社は、第一企画と合併し、「アサツー ディ・ケイ(ADK)」になっていた。
「最後のご奉公」と本人も言うように、これまでのデジタル領域の経験を業界に生かすために。
ADKインタラクティブ社の誕生だった。
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次回予告/Scene4;
広告人・横山隆治氏の場合
“リスクを張った”ADKi、そして、デジタルの新たな可能性。
(8月31日公開)
広告人・横山隆治氏の場合
今も続く大学時代の交友、そして『巨人の星』をきっかけに旭通信社へ。
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大学時代というものは、多くの人にとって、遅れてやってくる青春のようなものだ。
横山さんの場合、それは「懐かしいもの」ではなく、大学時代の出会いが、
その後の人生にダイレクトに関わっている。
在籍した青山学院大学の英文科には、クラス50名のうち男子学生はたった8人。
当然結束して仲がよいわけだが、その中には現Dreams Come Trueのベースの中村正人氏や脚本家の一色伸幸氏がいた。
加えて当時の青山キャンパスのロケーションは、さまざまな文化発信の震源地でもあった。「青山にVANあり」とまで言われた、1960年代に一世を風靡したアパレル企業VAN社があり、お隣の代官山にはヒルサイドテラスができたばかり。
「アウト・オブ・眼中」というフレーズは当時横山さんが作ったワードだったとか。
「英語を勉強したかったんだけれど、英語といえばシェイクスピアばかりで」
という横山さんは、この時代に「言語学」と出会う。
高校時代からの親友であり、現・武蔵大学社会学部長の栗田宣義氏が当時ICU(国際基督教大学)にいた。同郷でその後も東京に残る数少ない友人の一人である。
栗田氏の紹介により、上智大学の教授の下で、横山さんは、言語学の統計の研究を始めた。
「PCを使って分析作業をする、マーケターとしての最初の仕事だったといえるかもしれない。」
* * *
大学卒業後、旭通信社(現・アサツー ディ・ケイ)へ就職。
1958年に生まれた横山さんは、少年時代を『鉄腕アトム』が始まった日本アニメ全盛期で過ごした。旭通信社を選んだのも、『巨人の星』のエンドロールに流れていた同社の社名をよく覚えていたためという。
「電通も博報堂も、当時は知らなかったけど、旭通信社は知っていた。毎週見ていましたからね。
広告会社であることは、就職活動で初めて知ったけれど…。」
さらに、後の横山さんを知る人間からは意外としか言いようがないが、
当時は「CMプランナー」を志望し、クリエイティブ試験を受けたのだという。
思わず「えっ…」と言うと、
「…でしょう。でもあそこでCMプランナーになってたら、僕、きっと今、悲惨。
何もできなくなって、失業してますよ。」
デジタル広告を語るとき、大きく2つのアプローチが存在するとよく言われる。
ひとつは、「クリエイティブ」。ときにそれまでの既成概念すら打ち崩し、
ひとの琴線に触れて気持ちをうごかす、昔ながらのパワフルな手法。
もうひとつが、「配信手法」。誰に届けるのか、その媒体の向こうにはどんな人がいるのか、
を分析することによって、バラまくのではなくセグメントしていくテクニカルな手法。
デジタル広告は検索連動型広告やターゲティング広告によって、この道で光を見出してきた。
そして横山さんといえば、この後者を広告業としてマネタイズした代表的な人物なだけに
クリエイティブを志したというのは、尚更に意外だった。
旭通信社は、横山さんをクリエイティブではなく営業に配属した。
キリン、資生堂、日清食品という大型クライアントに恵まれ、結果として当時志望したCM制作にも多く関わり、アニメから音楽イベントまで幅広くキャンペーンを扱った。
今でも親交の大変深い、当時キリンの真野氏ともこの頃、企業担当者と代理店営業という立場で出会う。
当時、バイトが手書きで管理していたキリンのテレビスポット進行表をデジタル化するなど、大学時代統計の研究で培ったプログラミングの技量を発揮する一方、
当時ソード社にいた、現・ヤフージャパン社長の井上雅博氏とは、偶然にも
マラソンイベントの表彰状を三浦海岸で一緒に作ったりもしていた。
「超アナログ」から、「デジタル」までを、営業時代に幅広く経験したことになる。
「キリンさんの仕事は、本当に印象に残っていますね。
ラベルに電話番号を載せて、投稿を吹き込めるようにしたキャンペーンを企画しました。
それを、ラジオと連動させて、ラジオCMとして広告を作って。
なんの変哲もない、生活者の日々の声なんだけど、それが最初のインタラクティブな
仕事だったかもしれない。
回線がパンクするほど反響があったし、ラベルってメディアなんだって確信しました。」
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次回予告/Scene3;
広告人・横山隆治氏の場合
デジタル広告の未来を賭けた、激動の90年代。
(8月24日公開)
Prologue
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多方面にメディア露出している著名人的なクリエイターとは、違う。
しかし広告業界の現代史に、横山さんの存在は不可欠だ。
横山隆治さんは、広告代理店・旭通信(現・ADK アサツー ディ・ケイ)を経て
日本初のデジタル・メディアレップであるDAC社を立ち上げ、
その後 インタラクティブエージェンシーのADKインタラクティブ社を率いた人物である。
そしてこのたび、ADKインタラクティブ(以降ADKi)を退き、また新たな道を行く。
当時(といっても今から1~2か月ほどのこと)、横山さんは「渦中の人」であった。
ADKi社からの突然にも思える退社は、ちょっとしたニュースになっていた。
退社の直後、横山さんにインタビューする機会に恵まれ
そのことを尋ねると、穏やかな笑顔でこう言った。
「好きな仕事をいつか、オーナーシップでやりたいとは、ずっと思っていたんですよ。」
好きな仕事、という「個」が強調される言葉にちょっとした違和感を覚えたのは、
長年「立ち上げ」、「指導し」、「道を作る」側であるところの横山さん、という印象が
私の中にもあったためだろう。
「好きな仕事」の中身を聞くと、「adと、デジタル」という両輪を挙げた。
「好きだし、それが僕のスキル。軸のないところにスキルは生まれないでしょう。
真ん中に、何を据えるのか。何でもできます、は、何も出来ないと言っているのと同じ。
スキルや、そこにドメインがない人間ほど、最近は、やれアジアだ海外だと言ったりするしね。」
自身が、未来も含めて極めていく領域を考えた時、自然と分野は収斂されていった。
そんな横山さんの新しい船出を祝う会が、先月開催され、
会場にお酒も回った終盤、ある方がスピーチでこんなことを言っていた。
「横山さんは、こんな年になっても、まだ新しいことをはじめる。
横山さんは、こんな年になって、まだこんなに戦っている。」
戦っている。おそらく、そうなのだろう。
加えて、今回のインタビューを終えたあと、「betしている」業界人生だと、私は感じた。
それはもちろん、ダーツの放投のような運任せの賭け事ではなく、
広告やメディア業界の未来という、やたら重いモノを賭けた選択の連続だったのではないか。
信じた道を進まなければ、そこに道は拓かれず
つまりリスクと障害なきところに道は生まれない、とも言い換えられるのかもしれなかった。
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Scene2;広告人・横山隆治氏の場合
今も続く大学時代の交友、そして『巨人の星』をきっかけに旭通信社へ。(8月10日公開)
広告人・一倉宏氏の場合
After Talk
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一倉宏さんに、 ことばについて聞きました。
●「ことばの役割」について
―サントリーもサン・アドも、キャッチコピーをまず作り、そこから組み立てていった。
広告における、コピー、つまりことばの役割とは何でしょうか。
「コピーは、部品ではなく、世界観そのもの。
部品にされちゃうことは、多々ありますけれど。
主役でなくてもいいんです。“ことばで引っ張る”ってよく言うけど、
別に引っ張らなくてもいい。じんわりとでも、四隅に居てもいい。
でも、どこにいてもいいけれど、とにかく、世界観を規定するもの。」
●「ひらめき」について
―アイディアをひねり出すプロセスを、ときに「降ってくる」と表現しますが、
偶然の産物のように称されることをクリエイターは大概、嫌がります。
「“降ってくる”っていう比喩しかできないっていうだけじゃないかな。
“探す”のか、“拾う”のか、“落ちてる”のか、“こじあける”のか。
だって…ひらめきじゃないことばなんて、あるのかな。」
●「表現とロジック」について
―クリエイティブ表現は、アイディアと思いつきで出来ているわけではない。
戦術と戦略の交差を、どこから発想しますか。
「企画書を書くときは、ロジックは後。
もちろん、何も考えないというわけじゃない。
いろんなことを考えたあとに“たぶん答えはこういうことだ”と出てくるものがある。
もしそこが正しければ、その表現にはロジックでも行きつけるはず。
出口を見つけてから、そこに途中のロジックでたどりつけず、
なんかおかしいぞ、となるならば、出口が間違ってるのだろう、と思って、戻る。」
●「文体」について
―「一倉イズム」を期待されていると感じること、自身で思う自分の文体はありますか。
「広告こそ、なんでもあり。
堅くごりごりでパッションたっぷりで行くこともあれば、お色気たっぷりでやることもある。
風俗小説からノンフィクションから恋愛小説から純文学まで、使い分ける。
器にあわせて形を変えるというより、どんな器をつくるのか、がクリエイティブの楽しみ。
なにがなんでも心情寄りにするってわけではないけれど、
結果的に<叙情的>なことば、というのは自分の個性とかクセのようなものかもしれない。」
●「広告の仕事」について
―自由度、そしてアーティスティックな側面の大きい作詞などと比べて広告の仕事とは。
「広告の大きな力は、浸透力の大きさ。
過ぎ去るもの早いけれど、その分、旬を作る仕事でしょう。
広告は、圧倒的に露出する。
そこにお金も投じていくわけだから、当然といえば当然なのかもしれないけれど、
じゃあ、流せば流しただけ反響があり評価されるかといえばそういうものじゃない。
その規模を無駄にせず、それだけ流れるんだからすこしでもいいコミュニケーションに
しないとね。」
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了
Special Thanks to H.Ichikura & W.Sakamoto / 一倉広告制作所
広告人・一倉宏氏の場合
独立、そして、「自分の仕事」について。
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「先のことは、考えてなかったですね。とにかく、目の前の仕事が楽しくて。」
サントリーへの就職後、酒屋へ配るチラシや、店頭ポスターから手掛けていく過程でサントリーの子会社であるサン・アドのコピーライター、仲畑貴志氏に出会い、糸井重里氏とも知り合う。
当時は、現代のシステムとは異なり、メーカーの内部のクリエイターが小さな制作物も作っていた。それがだんだんと、代理店にオリエンテーションをし、プレゼンテーションを受け…という流れが主流になってゆく。
「それは、広告代理店の力でしょう。それを、ビジネスにした。」
ものづくりの現場が、メーカーからプロダクションという場所に移りつつあるという感覚もあったのかもしれない。
足掛け9年ほどサントリーに勤め、「ちょうど、脂の乗ってきた時期」と本人も言う30代半ばで
サン・アドから独立した仲畑氏の誘いを受ける形で、サントリーを退き、仲畑広告制作所へ移籍。
さらにその後数年で、仲畑氏のもとから独立することになるのだが、そのきっかけも
「仲畑さんが、もうやめろって言うから…」。
相手の「未来」を強く信じられなければ到底出来ないはずの”追い出す”という行為は、
仲畑氏にとっても、最後にして最高の仕事にあたるものだったのかもしれない。
* * *
フリーになった一倉さんは、サントリー社以外の企業のさまざまな課題解決にも関与するようになり、すぐに、「コピーライター・一倉宏」の色を、最大限発揮する仕事と出会う。
生理学、医学、物理学などの天才科学者たち7人を起用した、NTTデータ社のシリーズ広告。
「人と科学」を扱う、難儀で稀な仕事だった。
ただの文学少年だったわけではなく、子どもの頃から理科が好きで宇宙にも興味があったという一倉さんは「よくぞやらせてくれた」という心持だったというが、糸井氏には冗談混じりに「僕だったら、やらないね」と言われたという。
「これができるコピーライターは日本にそういないだろう、という思いでやっていた。」
しかし、独立してよかったか? という問いには、あくまで首を傾げる。
「選ばなかった未来については、わからない、かな。思い返せば、
大学に残るかどうかっていう選択肢も、入りたかった会社に入れるかっていう運も…
結果としては、すべてがオーライだった、と思っています。」
「ことば」を紡ぐ立場から軸足を動かそうと考えるふしは、ほとんどない。
CMソングの派生で、音楽の歌詞を書く仕事もここ5~6年は多く手がけているが、
広告より圧倒的に自由なはずの作詞の仕事も、「自分のなかで使っている力は同じ」という。
積極的に事務所を大きくしようとか、弟子を取ろうとかいった動きも、一倉さんにはない。
「僕だって、来年、仕事できなくなってるかもしれない、とは思いますよ。
それか、自分が走れなくなって、走れなくなるから、仕事が来なくなる、とか…。」
とは言うが、「リスクヘッジ」や「経営」を志向はしない。
糸井重里氏の「ほぼ日手帳」のヒットを引き合いに出すと、「ああ。」と妙に納得して、
「僕には、そういう幅の広さは、ないと思う。」と、きっぱりと言った。
「僕には……ことば以外の仕事は、できないと思う。」
それこそが、天職を見つけた人間だけが言えることではないだろうか。
* * *
わたしが最後にした質問は、「コピーって、何ですか?」
一倉さんは、ひとことひとことを刻むように、ゆっくりと答えてくれた。
「コピーは…ことば。
ことばがもつ可能性として出来ることは、コピーにもかならず出来るはず。
人に伝える…というと月並みだけれども、人に”何かを渡す”手段として。」
じゃあ、その「ことば」って? と、重ねて聞こうとして、止めた。
一倉さんが、著書『ことばになりたい』の帯で、自分の名前の横につけた一行を思い出していた。
“すべてのきもちは、ことばにできる。”
「…まだいっぱい、やれることはあると思う。」
人の気持ちをことばにするのがコピーライターの仕事である限り、そこに終わりはないのだろう。
そして、一倉さんの生き方にも。
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次回予告/Scene4;
広告人・一倉宏氏の場合
After Talk
(7月26日公開)
広告人・一倉宏氏の場合
言葉に託す。文学青年は、サントリーのコピーライターに。
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高校生のときに、すでに一倉さんの「言葉」への興味は表出していた。
詩を書く仲間の勧めで『ポーの一族』を読み、「これはすごい」と思った。
多感な少年時代を、文学に傾倒するに十分な環境もあった。
1973年に死去した杉山登志さんには、多感な高校時代に大きな影響を受けたし
当時、学研『高3コース』の詩の投稿欄の選者は、寺山修司だった。
初めて文章が他人の目に触れたのは、15歳のとき。
ティーン向けのライトノベル誌『小説ジュニア』に詩を応募、佳作を得る。
この頃に「自分には才能があるのかも」と思ってもおかしくはないと思うのだが、
当時は、夢や目的があって書いていたわけではなかったという。
「これは今でも同じだと思うんだけど…
若いときに書く人って、小説家になりたいとか誰かに何かを伝えたいとかじゃなくって、
”溢れ出ちゃう”ものなんだと思うんですよ。
ものを書くことがかっこいいなんて、思っていたわけじゃないです。」
世の中も決して、安定した時期ではなかった。
大学受験を迎えるころは、学園紛争の余波がまだあった。
一倉さんは、筑波大学の、開校1期生として入学した。
都内の大学キャンパスにシュプレヒコールが響き、立て看板が並ぶなかで、
あらたなコンセプトで建学された筑波大学は、非常に新鮮に映ったという。
「先輩もいないし、前例もない。」
何より、筑波学園都市構想という新たなコンセプトに希望を感じ、そこの
「村民」になった一倉さんは
「無医村だったところに、いきなり大学病院ができちゃったような…」と、振り返る。
専攻は、日本文学。大学生活は、実に一般的だったという。
「学校行って。授業受けて。恋して。スポーツやって。アルバイトして。」
万葉集を研究していた一倉さんは、数年後、学者を目指すか、社会人になるかの選択に行き当たる。文章を書きたいという思いはあったが、雑誌等の編集者は自分で書くことはしないディレクション職。
そんなとき、コピーライターという仕事の存在を知った。
* * *
当時、「コピーライター」という職を募集していたのは、資生堂とサントリーくらいのもの。
それも定期的な募集ではなく、一倉さんが求職した時期は資生堂は募集を出しておらず
サントリーにしても「若干名」という、「いい人がいれば採る」というスタンスだったようだ。
「もう、昔のことなので、覚えている限りですけれど」と辿ってもらった記憶によれば、
当時の選考は、1次試験が「ソフィスティケーション」、2次が「おいしいごちそう」についての課題作文。
サントリーは、一倉さんを求め、小さな狭き門をくぐり、サントリーへコピーライターとして就職した。
”広告のサントリー”らしく、コピーライターの仕事はクリエイティブのコアとして確立されており
30代にはCM企画やキャンペーンスローガンなど、全体のコンセプトに関わる機会もできてきたし
望めば、一生コピーライターの職に留まることもできたのだという。
「あんなに、広告を大事にして、クリエイターをリスペクトする会社は、ないですよ。
いまも変わらない、よき伝統。」
それから四半世紀以上が経った今でも、一倉さんはサントリーの仕事をしている。
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次回予告/Scene3;
広告人・一倉宏氏の場合
独立、そして、「自分の仕事」について。
(7月19日公開)
Prologue
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「コピーライター 一倉 宏」
誰かが、「クリエイターは歳を食うとCDを名乗る」と言っていたが、
一倉さんの名刺の表面にある文字は、それだけだ。
まとめて、「生涯、いち物書き」―― 言葉を交わす前に、そんな意志を感じた。
そう、一倉さんは、あえて主観的な言葉を使うが、「スゴイ」のだ。
私が広告の世界へ惹き込まれていったのは一倉さんのコピーに出会ったことがきっかけだが、
何がスゴイかというと、今でも書き続けている、ということだ。
冒頭の引用ではないが、クリエイターはある程度まで来ると仕事を「任せる」ことが仕事になる。
そうやってみんな、下の世代を、ひいては広く業界を、育てていく。
しかし、一倉さんは、現場の一線にい続ける。
おまけに、今年のTCCグランプリまで、獲っていってしまう。
すぐれた広告の制作者を顕彰する、東京コピーライターズクラブ主催のTCC賞。
JR東日本・東北新幹線 東京~新青森間全線開業の広告シリーズでの、電通の髙崎卓馬氏とのW受賞を拝みに、汐留のアドミュージアムで開催されたTCC展へ行ってきた。
「MY FIRST AOMORI はじめての青森」
くしゃくしゃの一枚のメモの走り書きが、丁寧にのばされて展示されていた。
髙崎氏との初めての青森ロケの夜、場末のスナックで一倉さんが走り書きしたメモだった。
まだ方向性を決めきってしまいたくなかった髙崎氏は、そのときはあえて薄い反応を示したが、その後何十枚にも及ぶコピー検討の会議の席で、実は取っておいたこのメモを出した。
その瞬間、企画がひとつの方向へ向かって走り始めた―― 髙崎氏はそんなエピソードを寄稿していた。
「コピーは、部品ではない。」
一倉さんはこの月刊広告人のインタビューで、そう言った。
アートディレクションが効いたグラフィック広告の後に、CMのブーム、そして「メディア統合」とキャンペーン志向…と広告業界のトレンドは日々変われど、変わらないのはそこに「言葉」があることかもしれない。
言葉はときに直接の「せりふ」として生活者に話しかけ、
ときに表には出ない「コンセプト」として、裏側でどっしりすべての表現物の糸を引く。
“広告”の本質的な使命は、「人の気持ちをうごかす」こと。
制作の現場で言葉を紡ぎ続ける一倉さんに、そのひとつの原点を見た。
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Scene2;広告人・一倉宏氏の場合
言葉に託す。文学青年は、サントリーのコピーライターに。(7月12日公開)
広告人・田中徹氏の場合
― 広告は、数字に負けるか?
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GTは、結成初年度にX-BOXの仕事で一躍注目を浴びた。
世界からも評価され、日本のクリエイティブ・ブティックの急先鋒のように躍り出た。
「たまたま大きい仕事が目立ってるだけじゃない?」と本人は真顔で言うが、
日本でも、GTとは何者なのかという趣旨の記事が出たくらいである。
傍から見れば絶好調の印象があるが、感慨深かった仕事を聞くと田中さんは沈黙する。
良かったことも、悪かったことも、大きな仕事も小さな仕事もあったはずだが、
そうした案件個別の問題より
「…毎回、トラブルや難題をみんなでどうやって切り抜けたか、のほうが印象に残っていますね。」という。
田中さんにとって心地のいいサイズで、同じくその環境を心地いいと感じてくれる人が
集まり、自然体で仕事をする。そして、ひとりではできないものを生み出す。それが、GTの存在と、田中さんの満足との真ん中にある、唯一の必要十分条件なのかもしれない。
「僕らのルールは、携帯電話に出ることと、犯罪を犯さないこと。これだけ。」
社長の肩書きを持って、変わったことは当然ある。
「やばいな、っていうことは要所要所ありますよ。だから手も抜かなくなったし。
サラリーマンだったら、通帳見て眠れないとか、ないでしょう。
でも、なんだかんだで間に合ってきた。」
クライアントに尊敬できる人がいれば「その人のために」となるし、独立後改めて
フリーの人の気持ちがわかって、「あの時は悪いことをした」と思うこともあるという。
田中さんの中では、いつも人が中心だ。
だが、「人」を中心と据える田中さんのパーソナリティとは異なり、
業界からは「インタラクティブエージェンシー」と、“カテゴリ領域”で認識されることも多い。
GTには、インターネットが現れ、広告にどう利用していくのかが模索された時代に
自由な発想で多くの事例を作ってきた実績が多くあるためだろう。
「アナログも、デジタルも、どっちもやりたかった。それだけなんだけどね。」
という田中さんは、デジタルを礼賛することを決してしない。
「コンピュータで人間は幸せになれただろうか。
より忙しくなって、一時が万事。携帯電話くらいで止まればよかったのかも。
レコード屋さんや本屋さんは減っちゃったし、なくしたものもいっぱいある。」
その感覚は決して、田中さんだけが懐古するものではない。
この2011年6月に復刊した、雑誌『WIRED』の13年ぶりの最初の特集は
“テクノロジーはぼくらを幸せにしているか?”だった。
いま、私たちが思うよりもずっと多くの人が、行き詰まりと答えとを求めているのかもしれない。
* * *
広告にも、「効いているほうの半分」と、「効いていないほうの半分」があるとよく言われる。
これは、「目に見える効果」と「目に見えない効果」とも言い換えられる。
情報が整理され、行動が分析されるインターネットとそのテクノロジーは、確かに偉大なのだろう。しかし、情報は広告ではなく、数値化できないものが胡散臭いわけではないこともわたしたちは知っている。
「リサーチからは、新しいものは生まれない。」
全てを数字にしてしまったら、実もふたもない ―― 一方で効率や理論は拠り所ともなる。
「僕らの仕事は、理屈に負けちゃうんだよ。」
だからどれだけ人の心を動かしたのか、そんな見えない効果を業界は「広告賞」に求めた。
それは、数字と理論に駆逐されてしまいそうな中にある、ひとつの光だったのかもしれない。
しかし世の中は再び変わりつつある、と田中さんは言う。
「特にこの数年。大きくは、リーマンショックとあの大震災。
広告は“消費を促す”もの。それだけが変わっていない。
でも、“本当に必要なモノはなんだろう?”ってことをみんな考え始めている。
電気がないなら、夜暗くてもいいじゃん、って、思ってるでしょう。」
価値観のレベルで、「わたしたちは、何を求め、どこに向かって走っているのか?」というものが揺らぎ始めているのは、程度の差こそあれ多くの人が感じている“現在”ではないか。
これは、変化し続けるのが常である世の中で、
特に「広告」にとって、本質的な変質を遂げるかもしれない。
「消費」が人の心を動かさなくなるとしたら、「広告」とはどこへ行くのだろうか。
逆に、やや「情報」や「理屈」に寄りつつあった広告は、数字で測れない「人の琴線」とともに存在してきた原点にふたたび還る可能性もある。
必要以上に力むことをしない田中さんは、自然体のまま穏やかに言う。
「まあ、僕も、子ども小さいし、まだ働かないとねえ…。」
まだ見ぬ、明日の広告の世界への“グラン・ツーリズモ”は、続いている。
了
田中 徹(たなか・とおる)
GT INC.代表。クリエイティブディレクター。
電通、ワンスカイを経てGT INC.を設立。
ACC CM FESTIVALグランプリ、TCC最高賞ほか受賞歴多数。
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Special Thanks to T.TANAKA & FUKUDA-san / GT Inc.
広告人・田中徹氏の場合
ワンスカイ、そしてGTへ。“クリエイティブ・ブティック”の内側。
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2度目のカンヌから帰国した後、田中さんは、新設された「CR統括局」へ異動した。
賞を取っているクリエイターを集め、切り込み隊としておもしろいことを仕掛けていこうという部署。
佐々木宏氏を筆頭に、岡康道、多田琢、川口清勝、麻生哲朗…と錚々たる面々。
「黄金時代ですか」と聞くと、「特殊部隊」と振り返ったあと、言い直す。
「…いや。外人部隊かな。」ーいわゆる大企業の会社員らしくないという意味だろうか、
ほどなくして、岡氏、多田氏、川口氏、麻生氏は続けざまに独立する。
田中さん自身も、大きな会社組織のなかで「管理職」という殻をまとった自分に気付いた。
組織の中では上へ行かないとつまらないという理解は、あった。
しかしそこに自分の心の満足がないことに思い当たったのではないだろうか。
人には、自分が一番心地いいサイズというものがある。
年収を追いかければ青天井で、仕事を競えばこれも終わりが無い。
色々なものと戦っているようでいて、結局は自分ひとりと戦っているだけなのかもしれない。
仕事と自分のサイズがぴったりはまることが、もしあるのだとすれば、それが一番幸福な状態であることに疑いはないだろう。
田中さんにとっての、「最適なサイズ」とは何だったのだろうか。
「“快適に仕事すること”を考えたとき、働く環境が小さいほうがよかった。
管理職になった瞬間に、“キミたち残業はイカンよ”とか、そんな切り替えできないし、
それに限らず、やっぱり何かがヘンだって、思ったんです。」
00年に再びカンヌ審査員をつとめた田中さんは、電通の退社を決めた。
カンヌから帰国する飛行機の中で、「ワンスカイ」という新しい会社の社名が浮かんだ。
* * *
「仲間と問題を解決していく過程が好きです。必要とされてる人が、必要とされてる場所で
がんばって、それで、ひとりじゃできないものが、できていくでしょう。」
だから、ひとりでやっていくことではなく、会社を作ることを選んだ。
「たとえばサッカー日本代表が、“こいつが好きだから一緒に頑張る”って思っているかというと、
勿論内側はわからないけど、僕には、そこがモチベーションのコアだとは思えない。
プロアスリートは勝つための技術を最優先しています。
でも僕は、仕事もなるべく楽しくやりたかったし、一緒に仕事をするみんなにも
そうであって欲しかった。
そのためには、才能だけじゃなくて人格も必要。
結果だけを追い求めるなら、本当は、優秀なだけの人間を集めればいいのかもしれない。」
― あるいは、それで“事足りる”、というべきか。
経営者としてはダメなのかもしれないけれど、と、前置きしてから言う。
「…そこまで冷徹には、僕はなれなかったってことだよね。」
「人」を見て会社を作った田中さんにとって、強力な存在となったのは内山氏だった。
“つづきはWebで”
いまでは当たり前―いや、何も考えずに使っていることすらある、CMのぶら下がり。
決まった秒数で完結するいわば様式美であったTVCFの、もどかしくも美しい制約は終わりの始まりを走り、SMAPを起用したNTTの広告で取り入れたその手法はヒットを飛ばした。
その際、デジタル領域をプロデュースしたのが内山氏だった。
当時、デジタルの作法を心得たクリエイターがまだごく少ない中、内山氏は異色だったという。
その後、ADKから伊藤直樹氏という逸材も加入するが、これも田中さんは
「すごいやつが来てくれた、と思ったよ」と、手放しで絶賛する。
かたや、電通としてみれば、片っ端からクリエイターに辞められておもしろいわけがないが、
喧嘩別れになるどころか、ワンスカイは電通の子会社として守られながらスタートした。
傍からは飛び出した形に見えるが、愛した会社と仲間のいる電通は「優しかった」という。
「あれだけ大きい会社が、いくつもの例外を認めてくれた。そういう会社なんですよ。」
数年して、実績から仕事が入ってくるようになった際に、電通資本から独立。
新しい会社を立ち上げたものの住所も電話番号もそれまでと変わらなかった。
ただ、屋号だけが変わった。
会社名、“GT”。
自動車レースの1カテゴリでも知られる「SUPER GT」も示すように、
本来「大旅行」を表す“Gran Tourismo(グラン・ツーリズモ)”からとった長距離移動を可能にした自動車の形式名。
「車輪が好きだった」「車の仕事がしたかった」「VWの広告を眺め続けていた」 という田中さんがつけた、「目的地まで、快適に」という思いだった。
田中さんが壮大な目的地へクライアントを運ぶ車は、
人口ロボットみたいなききわけのいい今時のマシンじゃなくて、チームプレーとドライバーの腕力でマシンを押さえつけて走らせていた頃のものなのかもしれない。
「世の中変えてやるとか、申し訳ないけどそんな高尚な思いで会社をつくったわけじゃない。
だって僕、もともとネクタイをしない職業は何かというところからスタートしているから。
広告業はまだまだ一般的じゃなかったし、杉本さんのところでアルバイトしているときに
クリエイターの人たちがみんないいクルマに乗っていて、まぶしかったですね。
田中さんの記憶のなかの「広告業界」の風景は、いつも爛々としていて、
そして ― 常に、ヒトとクルマがセットなのだ。
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次回予告/Scene4;
広告人・田中徹氏の場合
― 広告は、数字に負けるか?
(6月28日公開)