広告人・横山隆治氏の場合
今も続く大学時代の交友、そして『巨人の星』をきっかけに旭通信社へ。
——————————————————————————————————
大学時代というものは、多くの人にとって、遅れてやってくる青春のようなものだ。
横山さんの場合、それは「懐かしいもの」ではなく、大学時代の出会いが、
その後の人生にダイレクトに関わっている。
在籍した青山学院大学の英文科には、クラス50名のうち男子学生はたった8人。
当然結束して仲がよいわけだが、その中には現Dreams Come Trueのベースの中村正人氏や脚本家の一色伸幸氏がいた。
加えて当時の青山キャンパスのロケーションは、さまざまな文化発信の震源地でもあった。「青山にVANあり」とまで言われた、1960年代に一世を風靡したアパレル企業VAN社があり、お隣の代官山にはヒルサイドテラスができたばかり。
「アウト・オブ・眼中」というフレーズは当時横山さんが作ったワードだったとか。
「英語を勉強したかったんだけれど、英語といえばシェイクスピアばかりで」
という横山さんは、この時代に「言語学」と出会う。
高校時代からの親友であり、現・武蔵大学社会学部長の栗田宣義氏が当時ICU(国際基督教大学)にいた。同郷でその後も東京に残る数少ない友人の一人である。
栗田氏の紹介により、上智大学の教授の下で、横山さんは、言語学の統計の研究を始めた。
「PCを使って分析作業をする、マーケターとしての最初の仕事だったといえるかもしれない。」
* * *
大学卒業後、旭通信社(現・アサツー ディ・ケイ)へ就職。
1958年に生まれた横山さんは、少年時代を『鉄腕アトム』が始まった日本アニメ全盛期で過ごした。旭通信社を選んだのも、『巨人の星』のエンドロールに流れていた同社の社名をよく覚えていたためという。
「電通も博報堂も、当時は知らなかったけど、旭通信社は知っていた。毎週見ていましたからね。
広告会社であることは、就職活動で初めて知ったけれど…。」
さらに、後の横山さんを知る人間からは意外としか言いようがないが、
当時は「CMプランナー」を志望し、クリエイティブ試験を受けたのだという。
思わず「えっ…」と言うと、
「…でしょう。でもあそこでCMプランナーになってたら、僕、きっと今、悲惨。
何もできなくなって、失業してますよ。」
デジタル広告を語るとき、大きく2つのアプローチが存在するとよく言われる。
ひとつは、「クリエイティブ」。ときにそれまでの既成概念すら打ち崩し、
ひとの琴線に触れて気持ちをうごかす、昔ながらのパワフルな手法。
もうひとつが、「配信手法」。誰に届けるのか、その媒体の向こうにはどんな人がいるのか、
を分析することによって、バラまくのではなくセグメントしていくテクニカルな手法。
デジタル広告は検索連動型広告やターゲティング広告によって、この道で光を見出してきた。
そして横山さんといえば、この後者を広告業としてマネタイズした代表的な人物なだけに
クリエイティブを志したというのは、尚更に意外だった。
旭通信社は、横山さんをクリエイティブではなく営業に配属した。
キリン、資生堂、日清食品という大型クライアントに恵まれ、結果として当時志望したCM制作にも多く関わり、アニメから音楽イベントまで幅広くキャンペーンを扱った。
今でも親交の大変深い、当時キリンの真野氏ともこの頃、企業担当者と代理店営業という立場で出会う。
当時、バイトが手書きで管理していたキリンのテレビスポット進行表をデジタル化するなど、大学時代統計の研究で培ったプログラミングの技量を発揮する一方、
当時ソード社にいた、現・ヤフージャパン社長の井上雅博氏とは、偶然にも
マラソンイベントの表彰状を三浦海岸で一緒に作ったりもしていた。
「超アナログ」から、「デジタル」までを、営業時代に幅広く経験したことになる。
「キリンさんの仕事は、本当に印象に残っていますね。
ラベルに電話番号を載せて、投稿を吹き込めるようにしたキャンペーンを企画しました。
それを、ラジオと連動させて、ラジオCMとして広告を作って。
なんの変哲もない、生活者の日々の声なんだけど、それが最初のインタラクティブな
仕事だったかもしれない。
回線がパンクするほど反響があったし、ラベルってメディアなんだって確信しました。」
——————————————————————————————————
次回予告/Scene3;
広告人・横山隆治氏の場合
デジタル広告の未来を賭けた、激動の90年代。
(8月24日公開)