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2011/07/19


広告人・一倉宏氏の場合

独立、そして、「自分の仕事」について。

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「先のことは、考えてなかったですね。とにかく、目の前の仕事が楽しくて。」
サントリーへの就職後、酒屋へ配るチラシや、店頭ポスターから手掛けていく過程でサントリーの子会社であるサン・アドのコピーライター、仲畑貴志氏に出会い、糸井重里氏とも知り合う。
当時は、現代のシステムとは異なり、メーカーの内部のクリエイターが小さな制作物も作っていた。それがだんだんと、代理店にオリエンテーションをし、プレゼンテーションを受け…という流れが主流になってゆく。
「それは、広告代理店の力でしょう。それを、ビジネスにした。」

ものづくりの現場が、メーカーからプロダクションという場所に移りつつあるという感覚もあったのかもしれない。
足掛け9年ほどサントリーに勤め、「ちょうど、脂の乗ってきた時期」と本人も言う30代半ばで
サン・アドから独立した仲畑氏の誘いを受ける形で、サントリーを退き、仲畑広告制作所へ移籍。
さらにその後数年で、仲畑氏のもとから独立することになるのだが、そのきっかけも
「仲畑さんが、もうやめろって言うから…」。
相手の「未来」を強く信じられなければ到底出来ないはずの”追い出す”という行為は、
仲畑氏にとっても、最後にして最高の仕事にあたるものだったのかもしれない。

*     *     *

フリーになった一倉さんは、サントリー社以外の企業のさまざまな課題解決にも関与するようになり、すぐに、「コピーライター・一倉宏」の色を、最大限発揮する仕事と出会う。
生理学、医学、物理学などの天才科学者たち7人を起用した、NTTデータ社のシリーズ広告。
「人と科学」を扱う、難儀で稀な仕事だった。
ただの文学少年だったわけではなく、子どもの頃から理科が好きで宇宙にも興味があったという一倉さんは「よくぞやらせてくれた」という心持だったというが、糸井氏には冗談混じりに「僕だったら、やらないね」と言われたという。
「これができるコピーライターは日本にそういないだろう、という思いでやっていた。」

しかし、独立してよかったか? という問いには、あくまで首を傾げる。
「選ばなかった未来については、わからない、かな。思い返せば、
 大学に残るかどうかっていう選択肢も、入りたかった会社に入れるかっていう運も…
 結果としては、すべてがオーライだった、と思っています。」

「ことば」を紡ぐ立場から軸足を動かそうと考えるふしは、ほとんどない。
CMソングの派生で、音楽の歌詞を書く仕事もここ5~6年は多く手がけているが、
広告より圧倒的に自由なはずの作詞の仕事も、「自分のなかで使っている力は同じ」という。
積極的に事務所を大きくしようとか、弟子を取ろうとかいった動きも、一倉さんにはない。
「僕だって、来年、仕事できなくなってるかもしれない、とは思いますよ。
  それか、自分が走れなくなって、走れなくなるから、仕事が来なくなる、とか…。」
とは言うが、「リスクヘッジ」や「経営」を志向はしない。
糸井重里氏の「ほぼ日手帳」のヒットを引き合いに出すと、「ああ。」と妙に納得して、
「僕には、そういう幅の広さは、ないと思う。」と、きっぱりと言った。

「僕には……ことば以外の仕事は、できないと思う。」
それこそが、天職を見つけた人間だけが言えることではないだろうか。

*     *     *

わたしが最後にした質問は、「コピーって、何ですか?」
一倉さんは、ひとことひとことを刻むように、ゆっくりと答えてくれた。
「コピーは…ことば。
 ことばがもつ可能性として出来ることは、コピーにもかならず出来るはず。
 人に伝える…というと月並みだけれども、人に”何かを渡す”手段として。」

じゃあ、その「ことば」って? と、重ねて聞こうとして、止めた。
一倉さんが、著書『ことばになりたい』の帯で、自分の名前の横につけた一行を思い出していた。
“すべてのきもちは、ことばにできる。”

「…まだいっぱい、やれることはあると思う。」
人の気持ちをことばにするのがコピーライターの仕事である限り、そこに終わりはないのだろう。
そして、一倉さんの生き方にも。

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次回予告/Scene4;
広告人・一倉宏氏の場合
After Talk
(7月26日公開)

2011/07/19 08:00 | yuusudo | No Comments