« 福島で会った人への私信 | Home | ジャグラーの視点 »
広告人・田中徹氏の場合
ワンスカイ、そしてGTへ。“クリエイティブ・ブティック”の内側。
——————————————————————————————————
2度目のカンヌから帰国した後、田中さんは、新設された「CR統括局」へ異動した。
賞を取っているクリエイターを集め、切り込み隊としておもしろいことを仕掛けていこうという部署。
佐々木宏氏を筆頭に、岡康道、多田琢、川口清勝、麻生哲朗…と錚々たる面々。
「黄金時代ですか」と聞くと、「特殊部隊」と振り返ったあと、言い直す。
「…いや。外人部隊かな。」ーいわゆる大企業の会社員らしくないという意味だろうか、
ほどなくして、岡氏、多田氏、川口氏、麻生氏は続けざまに独立する。
田中さん自身も、大きな会社組織のなかで「管理職」という殻をまとった自分に気付いた。
組織の中では上へ行かないとつまらないという理解は、あった。
しかしそこに自分の心の満足がないことに思い当たったのではないだろうか。
人には、自分が一番心地いいサイズというものがある。
年収を追いかければ青天井で、仕事を競えばこれも終わりが無い。
色々なものと戦っているようでいて、結局は自分ひとりと戦っているだけなのかもしれない。
仕事と自分のサイズがぴったりはまることが、もしあるのだとすれば、それが一番幸福な状態であることに疑いはないだろう。
田中さんにとっての、「最適なサイズ」とは何だったのだろうか。
「“快適に仕事すること”を考えたとき、働く環境が小さいほうがよかった。
管理職になった瞬間に、“キミたち残業はイカンよ”とか、そんな切り替えできないし、
それに限らず、やっぱり何かがヘンだって、思ったんです。」
00年に再びカンヌ審査員をつとめた田中さんは、電通の退社を決めた。
カンヌから帰国する飛行機の中で、「ワンスカイ」という新しい会社の社名が浮かんだ。
* * *
「仲間と問題を解決していく過程が好きです。必要とされてる人が、必要とされてる場所で
がんばって、それで、ひとりじゃできないものが、できていくでしょう。」
だから、ひとりでやっていくことではなく、会社を作ることを選んだ。
「たとえばサッカー日本代表が、“こいつが好きだから一緒に頑張る”って思っているかというと、
勿論内側はわからないけど、僕には、そこがモチベーションのコアだとは思えない。
プロアスリートは勝つための技術を最優先しています。
でも僕は、仕事もなるべく楽しくやりたかったし、一緒に仕事をするみんなにも
そうであって欲しかった。
そのためには、才能だけじゃなくて人格も必要。
結果だけを追い求めるなら、本当は、優秀なだけの人間を集めればいいのかもしれない。」
― あるいは、それで“事足りる”、というべきか。
経営者としてはダメなのかもしれないけれど、と、前置きしてから言う。
「…そこまで冷徹には、僕はなれなかったってことだよね。」
「人」を見て会社を作った田中さんにとって、強力な存在となったのは内山氏だった。
“つづきはWebで”
いまでは当たり前―いや、何も考えずに使っていることすらある、CMのぶら下がり。
決まった秒数で完結するいわば様式美であったTVCFの、もどかしくも美しい制約は終わりの始まりを走り、SMAPを起用したNTTの広告で取り入れたその手法はヒットを飛ばした。
その際、デジタル領域をプロデュースしたのが内山氏だった。
当時、デジタルの作法を心得たクリエイターがまだごく少ない中、内山氏は異色だったという。
その後、ADKから伊藤直樹氏という逸材も加入するが、これも田中さんは
「すごいやつが来てくれた、と思ったよ」と、手放しで絶賛する。
かたや、電通としてみれば、片っ端からクリエイターに辞められておもしろいわけがないが、
喧嘩別れになるどころか、ワンスカイは電通の子会社として守られながらスタートした。
傍からは飛び出した形に見えるが、愛した会社と仲間のいる電通は「優しかった」という。
「あれだけ大きい会社が、いくつもの例外を認めてくれた。そういう会社なんですよ。」
数年して、実績から仕事が入ってくるようになった際に、電通資本から独立。
新しい会社を立ち上げたものの住所も電話番号もそれまでと変わらなかった。
ただ、屋号だけが変わった。
会社名、“GT”。
自動車レースの1カテゴリでも知られる「SUPER GT」も示すように、
本来「大旅行」を表す“Gran Tourismo(グラン・ツーリズモ)”からとった長距離移動を可能にした自動車の形式名。
「車輪が好きだった」「車の仕事がしたかった」「VWの広告を眺め続けていた」 という田中さんがつけた、「目的地まで、快適に」という思いだった。
田中さんが壮大な目的地へクライアントを運ぶ車は、
人口ロボットみたいなききわけのいい今時のマシンじゃなくて、チームプレーとドライバーの腕力でマシンを押さえつけて走らせていた頃のものなのかもしれない。
「世の中変えてやるとか、申し訳ないけどそんな高尚な思いで会社をつくったわけじゃない。
だって僕、もともとネクタイをしない職業は何かというところからスタートしているから。
広告業はまだまだ一般的じゃなかったし、杉本さんのところでアルバイトしているときに
クリエイターの人たちがみんないいクルマに乗っていて、まぶしかったですね。
田中さんの記憶のなかの「広告業界」の風景は、いつも爛々としていて、
そして ― 常に、ヒトとクルマがセットなのだ。
——————————————————————————————————
次回予告/Scene4;
広告人・田中徹氏の場合
― 広告は、数字に負けるか?
(6月28日公開)