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広告人・横山隆治氏の場合
デジタル広告の未来を賭けた、激動の90年代。
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広告代理店営業として、まさに幅広い領域を手がけていた横山さんがその後デジタルの世界にどっぷりと浸かっていったのは、2人の友人の影響によるところが大きい。
一人は、現・デジタルガレージの厚川欣也氏。
そしてもう一人は、ベンチャーキャピタリストであり、現MITメディアラボ所長の伊藤穰一氏だ。
青山学院大学時代、バンド仲間だった厚川氏が立ち上げたフロムガレージ社と、
横山さんは卒業後 親交を深めるようになっていた。
フロムガレージは、元々就職活動時に光文社を落ちた者どうしとして友達になった厚川氏と
現・デジタルガレージ社長の林氏が、就職先がなくて共にガレージで立ち上げた会社である。
シリコンバレーの伝説のようなことは、日本でも起きていたのである。
92年には伊藤氏がフロムガレージに加わり、ヤフーを日本に持ってこようとしていた孫正義社長にオブザーバーとして意見を求められていたりした。
大きな流れが起きていることを、身近で感じた。世界に目を向ければ、インターネットの勃興は明白だった。こと日本はといえば、インターネットといえばまだメールかNewsgroupくらいしか利用されていなかった。
* * *
93年に横山さんは旭通信社でJAAAの海外研修員としてフロリダで双方向マルチメディア実験に携わった。
94年にはWired Japan誌が日本へ上陸、インターネットテクノロジーの最先端を伝えていた。
「アメリカでは、“アメリカが情報ハイウェイで世界経済の覇権を取り戻す”ということと、
“代理業は崩壊するぞ”というふたつのことをいっていました。
社で話してもあまり理解はされなかったけれど、大津波が来るという実感があった。
それは、デジタル領域に限ったことではなく、広告会社の業態そのものを変えると
感じていました。」
バブル時代の“Japan as NO.1”をいつまでも引きずっている場合ではない。
デジタル領域におけるプロダクトを持たなくてはならない。
そして、まったく新しい価値を持つプラットフォームを作り上げること――
96年春、横山さんは、博報堂との共同事業として、DAC社を立ち上げた。
検索エンジン当時最大手であったInfoseekを日本に持ってくるためである。
「えー、バナーというのはですね…」という説明から、必要だった。
ヤフーの説明をすると、当時旭通信社会長であった稲垣氏は
「横山さん、これは、ミニコミですね。」と言った。
* * *
旭通信社、デジタルガレージ、博報堂、読売広告社、第一企画、I&Sと
競合各社が集ってひとつの会社を作る前代未聞の事態は、日本経済新聞の一面にも出た。
情報漏えいなどの問題が何かひとつでも起これば、こうした流れすべての芽を摘んでしまう緊張感も大きかった。
しかし横山さんは当時を楽しそうに振り返る。
「最初は、出向者4人のみの小さな組織で。
トイレも一つしかなくて、掃除は全員がローテーションでやっていましたよ。」
専売できるInfoseek(現・楽天)という商品があり、
セールスできる得意先があり、会社の基盤を支えてくれる親会社があった。
「これで失敗するなら、この先なにもできないだろう、と思っていました。」
しかしDACがInfoseekを専売にする一方で、
現在も競合であるデジタルメディアレップのCCI社はヤフーを専売していた。
「Infoseek対Yahoo!を、DAC対CCIにはしたくなかった。勝敗は既に決まっていたからね。」
デジタルという新しい流れに、日本の広告会社をきちんと直面させること。
そのために競合だった複数社とのアライアンスも実現した。
しかし「何の媒体を獲るか。勝つか、負けるか。」という次元の問題になっていた。
それは、急速に注目され始めたネット広告のバブルの到来にも、後押しされる形となった。
「2年目以降は、もう、ヤフー以外のすべてを扱えないと勝てないというような状況になっていた。
そこで、ダブルクリック社へ行って、アドネットワークを作ろうという構想を固めました。」
インプレスの四家氏が、最初にDACネットワークに加わってくれた。
99年には、i-modeが始まったばかりの頃、世界で始めて『モバイル広告』を配信した。
100人ほどいた営業社員には、当時、横山さん自ら毎週ひとりづつ営業報告をさせていたという。
「社員からしてみたら、相当うるさかったでしょうね」と、笑う。
そしてDACを設立から4年半で上場させると、横山さんは2006年に
古巣である旭通信社へ、形を変えて戻った。
旭通信社は、第一企画と合併し、「アサツー ディ・ケイ(ADK)」になっていた。
「最後のご奉公」と本人も言うように、これまでのデジタル領域の経験を業界に生かすために。
ADKインタラクティブ社の誕生だった。
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次回予告/Scene4;
広告人・横山隆治氏の場合
“リスクを張った”ADKi、そして、デジタルの新たな可能性。
(8月31日公開)