広告人・佐藤達郎氏の場合
-動き続ける。世界も、人も。
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真ん中を退き、参謀に回った佐藤さんが、よく言っていたという言葉がある。
「僕が理屈を考えるから、きみはとにかくおもしろいものを書け。」
今、佐藤さんが教えている学生にはグラフィックデザイナーの卵が多い。
「学生の自由な発想は強い。美大生はやっぱりセンスも高いし、
すごくひねってるクリエイティブでもすぐ理解する。」
随分と時代は変わったが、逆に
「80年代は、今思えば本当につまらなかった」という。
「枠の中で技を競う。新しいチャレンジもしにくい。テレビCM全盛期の頃、
広告でスマホを宇宙に飛ばそうなんて、誰も考えなかったじゃない。」
※筆者追記 Samsung GALAXY S II「Space Balloon プロジェクト」
「たしかにものすごく動いてるけれど、大騒ぎする必要はない。
もともと、伝統芸能をやりたいような人が来るところじゃない。
20世紀の後半が変わらなさ過ぎた。10年変化のない中にいると
もう変わらないって思ってしまう。本当に危険なのはそのこと。
歴史を振り返っても、それまで命かけて新聞広告作っていたのが、
50年前にいきなりテレビが出てきた。
それで、映画や映像出身の人が業界に入ってきたりして、俄然面白くなった。」
佐藤さん本人が、気づいているのかいないのかは、わからない。
しかし、佐藤さんが「広告の話」をしているとき、それはいつもかならず
「広告の仕事をしている“人”」の話をするのだった。
登場する後輩たちの名前につく形容詞はだいたい、「スーパー優秀」。
大学教授になった、というと、どうしても現役引退を想像するが、
今も含めて、クリエイティブから離れたと思ったことはないという。
「今も、論文を書くとき、タイトルからしてコピーワークしている。
それで研究費も決まったりするから、真剣ですよ。
相手がどう思うか、どう言えば伝わるのか。インサイトも分析してね」
結果は、上々だそうだ。さすがコピーライター、と思うが
佐藤さんは、しばらく前から「いちコピーライター」の枠の中にはいない。
「コピーだけやってて、成功してたら、谷山雅計になってるよ」
そうしたら、組織の活性化も美大生の講師もやっていないだろう。
「でも、コピーはいまでも好き。
世の中を騒がせるような一言じゃなくても、生きてて言葉を抽出することって
すごく大変で、すごく大事じゃない。」
“職業”。
それは社会の中で分担する“役割”ではなく、人の生き方そのものであるようだった。
了
佐藤達郎(さとう・たつろう)
株式会社アサツー ディ・ケイ、博報堂DYメディアパートナーズ社を経て、2011年4月より多摩美術大学教授。専門は、広告論/マーケティング論/メディア論。コミュニケーション・ラボ代表、コンサルタント、クリエイティブ・ディレクター。
2004年、カンヌ国際広告祭フィルム部門日本代表審査員。著書に『教えて! カンヌ国際広告祭 広告というカタチを辞めた広告たち』他多数。
最新著書『「これからの広告」の教科書』2015年6月10日刊。
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Special Thanks to MR T.SATO
広告人・佐藤達郎氏の場合
デジタル時代の到来で生まれた、新たな使命。
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佐藤さんは、クリエイティブ計画局の局長になっていた。
広告代理店で局長といえば、その上にはもはや取締役くらいしかないポジション。
「局長になる前は、カード会社の仕事とかしていて、現場が楽しくて…
局長はな…と思っていた。でも、200人いるクリエイティブ部門の
マネジメントにも、それなりに興味はあった。」
与えられた任務は、長沼新社長率いる新しいADK社の「ビジョン検討委員会」。
「ADKらしさを作る」―いわば組織のブランドデザインだった。
一方、時は2000年代初頭。確実にデジタルの大きな波が来ていた。
博報堂のメディア事業部門に特化した「博報堂DYMP(メディアパートナーズ)」社から、佐藤さんに声がかかったのはそんなタイミングの2008年だった。
今まで通りに電波や雑誌のスペースを売る媒体買付だけではもはや広告会社は生き残れない――クリエイティブ部分を強化したいという、はっきりとした強い意向があった。
メディアとの関係性が先にあり、それを生かして広告企画を行う従来の広告会社のやり方は、クリエイティブの企画を売ることで媒体を買ってもらえるという欧米のメディア企業とは真逆。
長年組織のデザインに関わってきた佐藤さんは、その非常にクリアーな方向性に惹かれた。
長年のクリエイティブ分野を、手を動かす立場としては退くことになる。
しかし、ほとんど迷いなく決断できたのは、やはり部下の存在あってこそだったと言う。
「優秀な部下が多すぎて、もう、別に自分はいなくてもいいかな? って。
だいたい、“コイツは凄い”と思う人は、年下ですね。」
* * *
広告業界に「新たなスター」が生まれ始めたのもこの時代だ。
今まで、広告業界でいえばスターというのは「凄い画を撮る人」や「凄いキャッチコピーを書く人」などだった。
しかしデジタルコミュニケーションが生まれて、領域は無限に広がった。
建築を専攻していたような人がプログラムを書いて見たこともないクリエイティブを作り出したりと、思いもよらない手段で世の中に流行を生んでしまうようなことが起き始めた。
今でこそデジタルは広告業界の花形としてひとつのポジションを得ているものの、
出始めの頃は「Webは物好きがやっている」「低予算だから好きにできる」などと言われ、企画ひとつ取っても見たことが無さ過ぎて社内の理解も得にくかった頃である。
佐藤さんの新たな仕事が生まれた。それは端的に言えば
「なぜ秋葉原でコスプレ動画を撮るとナイキのシューズが売れるのか。
それを62歳の役員に説明すること」。
まさにそのことに邁進した佐藤さんの情熱の源は、どこにあったのだろうか。
「説明しきれないがゆえに、通らなかった」
なんてことが、あってはならない企画があった。
それを作り出す才能ある若手が「理解も評価もされない」
なんてことも、あってはならなかった。
――佐藤さんが汗をかき続けた原点には、そういった思いがあったのではないか、と
私はあくまで想像を巡らせていた。
いま、佐藤さんは 美術大学で、10代からのクリエイターの卵たちに
「自分の作品をどうやってプレゼンテーションするか」を教えている。
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次回予告/Scene4;
広告人・佐藤達郎氏の場合
いま再び、クリエイターとして。
(6月26日公開予定)
広告人・佐藤達郎氏の場合
狙ったコピーライター職。飛び込んできたニューヨーク出向。
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「子どもの頃は、ビートルズになりたかった。」
私の時代には「イチローになりたい」男の子が沢山いたことを思い出したが、
佐藤さんの場合、スターに影響を受けたというより、ものを書く原点がそこにあった。
バンドに明け暮れた中高生時代も、作詞作曲活動のほうに熱を込めていたという。
ものを書いて食べていける職業というのは今も当時も大変に希少だが
幸いにして、コピーライターという職業の存在を早いうちに知った。
当時、クリエイティブ職には経験者の中途採用しかしていなかったADK社に
宣伝会議の受賞歴を引っ提げて応募し、見事入社する。
さぞや鳴り物入りだったのではないかと想像するが、
「いや、全然。若い時から、CDに向いているタイプと言われるたびに、
コピーがいまいちって言われてるのかな、と思って落ち込んだ」
と、あくまでも本人は語る。
CD(クリエイティブディレクター)というのは、クリエイティブチームの中のトップだが、全体を俯瞰し、ときにチームマネジメントや交渉調整までを行うゼネラリストでもある。
今では早くして独立したり、業界の方も変化し若いCDというのも存在するが
当時の広告会社では、最初はTVCMプランナーやデザイナー、コピーライターといった専門分野で修業をし、年齢が上になるにつれて出世のような形でCDになるという場合も多かった。
一方で、広告業界の巨匠とよばれるような人たちのなかには、
「いくつになっても現役コピーライター一筋」と、究極の専門職として生きる道を選ぶ人もいる。
いちクリエイターとして広告人生を歩み始めた佐藤さんに転機が訪れたのは、1991年。
アメリカにある、世界最大級の広告会社のひとつ、BBDO社への出向が決まった。
会社としても初めての試みであり、様々な部署の人から声を掛けられては応援されたが
必要以上に肩に力が入ることもなかったようだ。
「初めてのことをやるって、実はラクなんだよ」との言葉に、はっとする。
前例がなければ、目に見えない厄介なものに縛られることもない。
* * *
米国のエージェンシーのクリエイティブの現場では、
コピーライターとアートディレクターは「パートナー」と呼ばれ、常にコンビで動く。
佐藤さんは、日本人ADと共にペプシの仕事を任され、主にCM企画を行っていた。
ひたすら企画し、ラフを書き、ディスカッションをして、CDへ提案する。
しかしその「本業」の脇で、真に佐藤さんの興味を引いていたのは広告会社のあり方の違いだった。
「時代もあるけれど、その頃のBBDOは、CMの仕事が8割で花形。
10億未満の仕事なんてやらないし、いわゆるBTLの仕事なんて別会社。
じゃあそんなにADKと別世界なのかといえば、規模としてはさほど変わらない。
BBDOのニューヨークオフィスが当時800人、ADKは1000人くらいだったから。」
月に一度、日本に送っていたレポートの内容も自然と組織論が多くなっていった。
「それから、ものすごく客観的になれた。マンハッタンの真ん中にいると
働く場所も、住む場所も、ずっと同じところにいなくてもいい。
ニューヨークは“そういう街”だから、他人のことは気にかけない。
いわゆる常識みたいなものを、自然ととっぱらうようになっていた。」
帰国した佐藤さんの仕事は、組織をデザインすることだった。
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次回予告/Scene3;
広告人・佐藤達郎氏の場合
デジタル時代の到来で生まれた、新たな使命。
(6月19日公開予定)
Prologue
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「尊敬している人はいますか?」
今までも毎回聞いてきた質問に、やはり「沢山いる」と即答が返ってくる。
ただ、そこにまず出てきた名前は、私にとっては少々意外なものだった。
「伊藤直樹。」
勿論、伊藤直樹さんは、天才と呼んで誰も否定しないであろうトップクリエイターだ。
しかし私を驚かせたのは、挙げられた人物が皆、年の若い方ばかりだったこと。
普段この質問をすると、皆さん、師匠や巨匠、目標としていた方の名前を挙げる。
それだけに、この質問の答えに意表をつかれたと共に、なるほど、と思った。
佐藤さんというのは、こういう人なのだ。
* * *
佐藤達郎さんは、1981年にコピーライターとして現 株式会社アサツー ディ・ケイ(以下、ADK社)に入社。以後四半世紀以上、同社でクリエイティブ畑にいたあと、博報堂DYメディアパートナーズへ。
現在は多摩美術大学で教授として広告論、メディア論などを教えている。
クリエイターという専門職でありながら、けしてヒールというわけでもなく
大きな会社で局長にまで登りつめたサラリーマンとしてのエリートでもあり、
しかしそうして長らく務めた会社をキッパリ辞めてしまう潔さも併せ持つ―
そして今は、「先生」。教えているのは、コピーではない。
単に職歴の年だけを追っていても、特殊さが際立つ。
必要最低限の情報だけをインプットして、直接佐藤さんにお話を聞くことにした。
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次回予告/Scene2;
広告人・佐藤達郎氏の場合
BBDO出向時代のマンハッタンで(6月12日公開)
「月刊広告人」をご覧の皆さま、いつもありがとうございます。
次号のインタビューは5月中旬公開を予定しております。
引き続き、月刊広告人をよろしくお願い致します。
須藤 優
「月刊広告人」をご覧の皆さま、いつもありがとうございます。
次号のインタビューは5月中旬公開を予定しております。
引き続き、月刊広告人をよろしくお願い致します。
須藤 優
広告人・山崎浩人氏の場合
“日本”を見つめ直した、震災後の決断。
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「遠回りをしている場合じゃないじゃん、って思ったんだよね。」
山崎さんは当初、あの震災で日本のマーケティングが変化すると信じて疑わなかった。
自らにとっての「豊かさ」を見直し、本当に大事なものにしかお金を使わないという
価値観の中で、マーケティングや広告の役どころは、当たり前に変わるはずだった。
が、クライアントも変わらず、広告会社も変わらない。
もちろん変わったものもあった。
しかしそれらは、たいがいが、公式に組織が変わったのではなく「分かっている人達」が個人の力で変えたものだった。
「もう、ひとりでやろう」。
3.11後の山崎さんは決心した。
「日本企業を、なんとかしたい。」
外資系クライアントの多い会社らしからぬ答えが返ってきた。
日本企業は、その技術力と比較すると世界でほとんど評価されていない、と山崎さんは言う。
「グローバルブランドランキングでも、日本の1位企業がようやくの11位。
世界では商品単価100円台の消費財を扱う企業がブランド価値1位ですよ。」
その陰には、技術力を重視するあまり、マーケティングをおろそかにして他国に抜かれていく、
ある意味「真面目」な日本らしい姿があったのではないだろうか。
しかしそれを「美徳」と呼ぶのは、もはやお人好しすぎる。
日本企業のブランド価値をつくり直す―
山崎さんは目下、日本企業がグローバル時代に勝ち残るためのやり方を考えている。
幸いなことに、周りにも、それを体現しようとしている人たちの姿があった。
その大きなテーマを、自分だけでなく業界全体で考えることができないかと、
実務だけではなく、セミナーの企画実施など場作りにも力を入れている。
それはもはや、従来の広告会社の仕事ではないかもしれない。
組織の枠組みの中では、理解も評価もされないかもしれない。
しかし山崎さんからは、逡巡はまったく感じられない。
しかし、よく言われるような、「広告会社崩壊」などというラディカルな姿勢は
山崎さんはまるで持ち合わせていない。
広告会社の今後は、一体どうなるのだろうか。
最後の質問に、山崎さんは、広告会社の「中の人」として答えてくれた。
「ドコモが親会社のNTTを凌駕したように、
広告会社の“媒体”ではない領域を扱う子会社が本体を凌駕するときがくるのかもしれない。
クライアントのほうが業界の事をよくわかっている、ノウハウがあるというのは当たり前で
そこを、広告会社は業務実績の幅広さで対峙してきたわけでしょう。
色々な業界を知っていて、色々な会社の事例を知ってて……
自分たちの強みを、見失っていた部分もあるんだと思う。
あんな震災が起きた後の今だからこそ、広告のあり方を見直すべきときなんじゃないかな。」
きっと、山崎さんの受難の時は、これからもしばらく続くだろう。
しかし、自ら選び取ったものであっても、周りから与えられたものであっても、
“使命”を手に入れた人間は、走るための原動力に満ちている。
日々の仕事に、矜持や使命はあるだろうか。
自戒も含め、いまだからこそ、一歩止まって、考えさせられるインタビューだった。
了
山崎浩人(やまざき・ひろと)
モバイルキャリアレップ他CEOを経て、ネオ・アット・オグルヴィ株式会社 チーフ・マーケティング・プロデューサー。社団法人日本アドバタイザーズ協会「第10回Webクリエーション・アウォード」にて、2012年「Web人 of the year」受賞。中央大学ビジネススクール 戦略経営アカデミー講師。
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Special Thanks to MR H.YAMAZAKI / Ogilvy & Mather (Japan) Group / cyber communications inc.
広告人・山崎浩人氏の場合
10年ぶりに帰って来た広告会社の現場で、見たものとは。
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流れに逆らわない。
世の中の側が動いているのだから、自分も動いて当然だろう―
身軽な決断からは、そんな印象さえ受ける。
かくして山崎さんが再び移籍したのは、携帯電話のキャリア会社。
動きの早かった先行他社を追って動いていた、そのさなかだった。
すぐに広告グループだけを切り出して別会社化し、2年後に山崎さんはCEOに就任する。
「なぜ広告を?」と思われるかもしれないが、当時の携帯電話キャリア会社には
NTTDoCoMoなら電通とD2C、KDDIなら博報堂とmedibaなど、広告会社と「レップ」と呼ばれるメディアを販売する専業会社が組んでそのマネタイズを支える構造があった。
その横のつながりは深い。
「日本で、モバイル広告という新たな市場を構築する」という志のもと、各社はモバイルを新たなプラットフォームにすることに一丸となった。一人勝ちで抜きん出ることを目指すより、仕様を合わせてまずは「市場を作る」ことが優先と考えたのだという。
しかし、物事の黎明期にはつきものの「選択と集中」の潔さの中、予想外のことも起きた。
出向元であった携帯電話キャリア会社は、経営の方針を転換。
伴って、CEOを退いた山崎さんは、広告会社に拠を移し、今度はテレビとモバイルの掛け合わせによる事業の可能性を模索する道を選んだ。
* * *
山崎さんの常駐するネオ・アット・オグルヴィ社は、広告業界世界1位である英国WPP傘下の
「オグルヴィ・アンド・メイザー・グループ」に属する。
10年ぶりに戻ってきた広告会社の「現場」にブランクは感じなかった。
「むしろ、エージェンシーの仕事が変わっていないことに衝撃を覚えた。」
しかし、クライアントである企業側の課題は明確に変わっている。
「昔のように、クライアントの側から、“こういう製品が出るのでオリエンをしますから来てください”という仕事はどんどんなくなっている。」
“面を取るためにメディアを売る”という広告会社の変わらないビジネス構造に対し、
山崎さんが自分の思うやり方を通せたのは、会社の元々の特性によるところも大きかった。
「持ち物がないから。」
その理由を、シンプルにそう語る。
ネオ・アット・オグルヴィ社では、自社メディアを持っているわけでも、電波の権益を握っているわけでもない。そうした「売らなければならないもの」を持つということは、一見、特権のように見えて、足枷になることもある。
広告会社の売り物といえば「媒体」を真っ先にイメージするが、ネオ・アット・オグルヴィ社には、媒体部という部署も存在しない。
「営業部隊と、企画部隊と、あとはコンサルとクリエイティブだけ。ネオ・アット・オグルヴィの事業
領域はデジタルだから、メディアの提案が必要であれば、営業が他の広告会社に発注する。」
いわゆる電通や博報堂といった広告会社とは、まるでポジショニングが違うのだ。
「だから、高額でマスメディアを売らないと収支が成り立たない、という構造に陥ることがない。
でも、本当はそれが当たり前なんだよね。
メディアプランニングは、プレゼンの場でだって、最後のほうのページでしょう。
それを全面に出されても…と、クライアントなら思うよね。」
「売りモノありき」でない山崎さんの行動様式は、外部のスタッフに接する際も共通だった。
「キャンペーン事務局をやっています、という会社が、インサイトに詳しかったり、
データ入力の会社が解析に強かったり、会社の売り物には直結してないけれども
価値のある意外なものを持っていたりする。
話を聞くうちに、じゃあ、そっちやってよ!ってなる。」
イレギュラーなチーム編成による仕事で、自分の新たな役割も明確になった。
「インサイト調査の人はマーケティングに落としたことがない、と言うし、
クリエイティブの人はマーケターと直接やることがない、と言う。
でもそれを直接くっつけると本当におもしろいことが起きる。
間にあるのは“戦略”で、それが広告会社の仕事の醍醐味だと思うようになった。」
戦術の発見と、スタッフィング。山崎さんの立ち回りは、ネオ・アット・オグルヴィ社での肩書「プロデューサー」そのものになっていった。
しかし、当初期待されていたような「マネジメント」職としては、なかなかにうまくはいかず苦戦していたのも事実だった。
組織を作ること、自分の仕事のやり方をメソッドとして会社で浸透させることの難しさ―
そんな頃、突如日本を襲ったのが、あの3.11の震災だった。
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次回予告/Scene4;
広告人・山崎浩人氏の場合
“日本”を見つめ直した、震災後の決断。
(1月9日公開予定)
広告人・山崎浩人氏の場合
テレビ全盛期に、“広告”の立ち位置を考える。
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山崎さんが最初のキャリアをスタートさせたのは、中堅の老舗広告会社。
入社2~3年目にはバブルが訪れ、マス広告の全盛期だったといっても差し支えないだろう。
マスメディアグループでTV、雑誌をはじめとしたマス広告の媒体を担当。
メディアとは何かを勉強する基礎的な期間となったという。
2年目で営業に配属され、社長に向かってみんなの前で「聞いていない」と言い放ったが
「営業だからフロントマンではあったけれど、プロデューサー的な思考を
2年目から持てたのはとても良い機会だった」と振り返る。
予想外だった異動を経たのち、その会社での後半4年間は、TVCF最盛期。
山崎さんの担当クライアントでも朝の情報番組の提供をしていた。
違和感を感じたのはその頃だったという。
「“何が”というよりも…、本当に、感覚。番組を見ている人の年齢とかが、
クライアントの商品と合わなくなってきていないか、と思ったんです。
でもテレビには、効果の出しようがないから、その感覚の根拠も掴みきれなかった。」
このCMは届いているのか?その答えはさっぱりわからない。
違和感はしだいに「そもそもテレビって…」という疑問になり、手ごたえのなさに変わってゆく。
クリエイティブの華やかさよりもマーケティングの世界に憧憬を抱いたが、
広告会社の「マーケティング」は、実態はリサーチ業務だけということもしばしば。
「顧客の声をマーケティングに」―そう謳ったテレマーケティング会社と出会ったのはその頃。
いっこうに見えてこなかった「顧客」。
リサーチではない、事業を下支えしている「マーケティング」という存在―
これだ、と思った山崎さんは転職を決意する。
史上最年少での役職ポストが用意されていたが、出世欲が好奇心に勝つことはなかった。
* * *
テレマーケティング会社とはいえ、コールセンターの「仕組み」の部分を
インフラ化し売り物にしていた会社だったため
コールセンターの3大顧客である「通信・金融・通販」の業界の深い部分に触れる事が出来た。
事業会社に移ってすぐに感じたのは、「広告は遅い」という点だった。
広告の業務領域は、プロモーション。
商品を世に出す、言い換えるのであれば産みの最後のプロセスである。
これまで、最後の最後の部分だけを見て、売る方法を考えていたのかと驚愕もした。
時は、CRMの黎明期。
「1 to 1 マーケティング」という言葉が流行り、市場シェアから顧客シェアへと視点が移っていた。
その後、ITの普及があり、データマイニングという概念が出てくるなど、マーケティングの世界も大きく動いていたが、世には「モバイル」という革命が訪れようとしていた。
1999年2月、iモード誕生。2002年6月には、そのドコモの広告スペースを開発・販売する―つまり、モバイルマーケティングという全く新しい領域をマネタイズするべく―
ディーツーコミュニケーションズ社(現・D2C社)が生まれた。
その頃、山崎さんのもとにひとつのオファーが届いた。
「携帯電話のキャリア会社が、ポータルサイト・広告・決済の統合ビジネスをやろうと
しているから、手伝ってほしい」
「モバイル」という生まれたてのフィールドで、山崎さんがこれまでやってきた「マーケティング」と、時代の寵児である「モバイル」を統合する―
それは、想像するだけで悶絶するほどワクワクする、新しい未来の形だった。
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次回予告/Scene3;
広告人・山崎浩人氏の場合
10年ぶりに帰って来た広告会社の現場で、見たものとは。
(12月26日公開予定)
Prologue
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「所属の会社はどこでも、自分のやるべきことは変わらないから。
どこの会社にいても、社外の人たちと一緒に仕事をしてきたからね。」
現在、ネオ・アット・オグルヴィ社へ常駐という形で勤務する山崎浩人さんは、そう語る。
その経歴は、非常に目まぐるしい。
マスメディアを中心とする広告会社から、事業会社へ。
事業会社でのCRM関連の経験を生かす形で、携帯電話のキャリア会社へ。
その会社から広告事業を切り出す形で別会社化した組織のCEOを務め、
“結果的には”、広告会社へ帰ってきた。
2011年、「若者のクルマ離れ」をテーマに自動車メーカー8社が共同で行ったプロジェクト「Drive Japan」において、山崎さんは17社以上に及ぶチームのプロデューサーとして立ち回った。
これがきっかけで、「Webクリエーション・アウォード」では「Web人 of the year」を受賞。ノミネートは個人としてであったが、「あくまで、17社40名以上のこのプロジェクトの代表としての受賞と認識している」とコメントしている。
自身は、「マネジメントよりも自分が動くほうが好き」というが、
山崎さんからは、広告人にままある、一匹狼気質というかある種の“孤高感”がない。
このフラットさは何なのだろう、と、某所で最初に山崎さんにお会いしたときに
わたしが感じた好奇心は、そのコメントがよく説明しているだろう。
世の中があり、自分があり、その中間に、仕事人としての自身が居る。
冷静に、自分を眺め、あるべき立ち位置に移動してきたその仕事人生は
一見とても能動的なようでいて、世の中の流れに突き動かされてきた結果なのかもしれない。
「一歩先」を見つめるのは、そう難しいことではない。
誰もが自分の専門領域に対しては「かくあるべし」「きっとこうなる」というものを持っている。
しかしそれを、「今ここにある仕事」に変換する作業というのは、言うならば“とてもシンドイ”。
それでも誰かが一歩を踏み出さなければ、道はできない。
道を作るべく、まさに「立ち回って」きたのが、これまでの、そして今の山崎さんだ。
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次回予告/Scene2;
広告人・山崎浩人氏の場合
テレビ全盛期に、“広告”の立ち位置を考える。(12月12日公開)