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広告人・一倉宏氏の場合
言葉に託す。文学青年は、サントリーのコピーライターに。
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高校生のときに、すでに一倉さんの「言葉」への興味は表出していた。
詩を書く仲間の勧めで『ポーの一族』を読み、「これはすごい」と思った。
多感な少年時代を、文学に傾倒するに十分な環境もあった。
1973年に死去した杉山登志さんには、多感な高校時代に大きな影響を受けたし
当時、学研『高3コース』の詩の投稿欄の選者は、寺山修司だった。
初めて文章が他人の目に触れたのは、15歳のとき。
ティーン向けのライトノベル誌『小説ジュニア』に詩を応募、佳作を得る。
この頃に「自分には才能があるのかも」と思ってもおかしくはないと思うのだが、
当時は、夢や目的があって書いていたわけではなかったという。
「これは今でも同じだと思うんだけど…
若いときに書く人って、小説家になりたいとか誰かに何かを伝えたいとかじゃなくって、
”溢れ出ちゃう”ものなんだと思うんですよ。
ものを書くことがかっこいいなんて、思っていたわけじゃないです。」
世の中も決して、安定した時期ではなかった。
大学受験を迎えるころは、学園紛争の余波がまだあった。
一倉さんは、筑波大学の、開校1期生として入学した。
都内の大学キャンパスにシュプレヒコールが響き、立て看板が並ぶなかで、
あらたなコンセプトで建学された筑波大学は、非常に新鮮に映ったという。
「先輩もいないし、前例もない。」
何より、筑波学園都市構想という新たなコンセプトに希望を感じ、そこの
「村民」になった一倉さんは
「無医村だったところに、いきなり大学病院ができちゃったような…」と、振り返る。
専攻は、日本文学。大学生活は、実に一般的だったという。
「学校行って。授業受けて。恋して。スポーツやって。アルバイトして。」
万葉集を研究していた一倉さんは、数年後、学者を目指すか、社会人になるかの選択に行き当たる。文章を書きたいという思いはあったが、雑誌等の編集者は自分で書くことはしないディレクション職。
そんなとき、コピーライターという仕事の存在を知った。
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当時、「コピーライター」という職を募集していたのは、資生堂とサントリーくらいのもの。
それも定期的な募集ではなく、一倉さんが求職した時期は資生堂は募集を出しておらず
サントリーにしても「若干名」という、「いい人がいれば採る」というスタンスだったようだ。
「もう、昔のことなので、覚えている限りですけれど」と辿ってもらった記憶によれば、
当時の選考は、1次試験が「ソフィスティケーション」、2次が「おいしいごちそう」についての課題作文。
サントリーは、一倉さんを求め、小さな狭き門をくぐり、サントリーへコピーライターとして就職した。
”広告のサントリー”らしく、コピーライターの仕事はクリエイティブのコアとして確立されており
30代にはCM企画やキャンペーンスローガンなど、全体のコンセプトに関わる機会もできてきたし
望めば、一生コピーライターの職に留まることもできたのだという。
「あんなに、広告を大事にして、クリエイターをリスペクトする会社は、ないですよ。
いまも変わらない、よき伝統。」
それから四半世紀以上が経った今でも、一倉さんはサントリーの仕事をしている。
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次回予告/Scene3;
広告人・一倉宏氏の場合
独立、そして、「自分の仕事」について。
(7月19日公開)