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2013/06/15

凪子さんの朝は、ウォーキングから始まる。

夜はロングドレスにピンヒールを履く小さな足をスニーカーに包み、凪子さんはずんずん歩く。朝といっても凪子さんの感覚の朝は第三者にとっては昼で、陽射しもそれなりに強くて、代謝のいい凪子さんの背にはすぐにぷつぷつと汗が浮いてくる。

本日の凪子さんの目的地は、スージーママの家である。

多分まだ寝ているだろう、と思いながら凪子さんは自宅のある三軒茶屋から国道沿いに進路を取り、池尻大橋にあるスーパーで簡単に買い物をし、スーパーの袋を片手に下げて颯爽と歩く。袋の中身はサラダ菜とスプラウト、バナナ、それから林檎にヨーグルト。昔からスージーはこれが好きだった。そんなことを思い出しながら、少しだけ凪子さんは頬を緩める。

凪子さんとママの付き合いは長い。

夜の世界から足を洗って10年経つのに、そしてそれと同時に疎遠にもなりつつあったのに、スージーママは電話口で「明日逢えない?」と凪子さんに告げた。気負いもてらいも時間の流れさえすっとばした誘いに凪子さんは反射的に待ち合わせ場所を尋ねていた。懐かしかったからではなくて、単純に会いたいと思ったからだった。

渋谷にあるスージーママのマンションに辿りつき、凪子さんはちょっと考えてからインターフォンを鳴らした。返答なし。やっぱり寝てるか、そう思いながら合鍵を使って中に入る。玄関口には男物の靴はなかった。昨日べろべろに酔っていたママをタクシーに押し込んだものの不安もあった凪子さんは、まっすぐ帰った印をみてほっとする。

冷蔵庫にスーパーで買った食材を入れ、クローゼットから自分の着換えを引き出して、凪子さんはシャワーを浴びる。勝って知ったる他人の家でさっぱりして身支度すると、コーヒーメーカーのスイッチを入れ、凪子さんはサラダを作る。そのうちにごそごそと音がして、まだ半分眠たそうなスージーママが起きだしてくるという寸法だ。

「おはよう。……今何時?」
「おはよう。まだ2時だからゆっくりしていていいわよ」

2時半に起こしてくれと頼んでいたのはママの方で、だから凪子さんは穏やかに言いながらママの前に林檎を入れたヨーグルトを出してやる。有難くそれを食べながら、ママはキッチンに立つ凪子さんの後ろ姿をなんとなく眺めてスタイルがいいなあと思う。凪子は昔ポールダンスをしていたそうだ。すらりとした背に無駄な肉はついておらず、その代わりに柔らかな包容力を身に纏うようになった友人を同僚として迎えたのは正解だったとママは一人自画自賛した。

「お店、どうするの。七夕に何かしたいって言ってたでしょ」
「うん」

ママは頷く。七夕と言えばこの業界ではどこもイベントを行うが、うちの店はどうしようかと昨日話していたのを凪子さんは覚えていたらしい。店長はやる気があるんだかないんだかという顔でどっちでもいいんじゃないですかと言っていたが、さてどうしたものだろうか。

「正直ね、うちのお店の子たちって変に飾らないほうが良いと思うのよね」
「そうね。みんなちょっと……面白いものね?」

変わっていて、という言葉の代わりを口にして凪子さんは頬笑む。ママの店、ClubJunkStage のホステスは一風変わった経歴の子たちばかりで、彼女たちは全員ママがスカウトないし拾ってきた女の子である。だからママは結局のところ彼女たちに少し甘い。もちろん、過度に甘やかしはしないけれども。

目を細めて葵がマコトがと話しだすママをみて、凪子さんはゆっくりとコーヒーを啜る。
二人の朝は、こんな風にして過ぎていく。
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※この連作は「ClubJunkStage」との連動企画です。登場人物は全て実在のスタッフ・ライターをベースにスギ・タクミさんが設定したキャラクターに基づきます。→ClubJunkStage公式ページ http://www.facebook.com/#!/ClubJunkStage(只今ご予約受付中です!)
※イメージフフラワー選定&写真提供 上村恵理さん

07:26 | momou | flora world番外編:凪子×ダリア/優雅 はコメントを受け付けていません
2013/06/03

思いだす彼女はいつもカメラを構えていた。今時デジタルではないアナログカメラは却って高価なのだというが、彼女のそれは誰かからのお下がりだったらしい。細い首にはいつも重たそうなストラップが食い込んでいて、なんだか痛々しいもののように僕の目には映った。買い替えたら? そう指摘した時、彼女は笑って首を振った。重いほうがいいの。重たくないと駄目なの。理由は教えてくれなかった。

彼女の写真は変わっていた。
変わっているというか、被写体がまず一般的ではなかった。彼女が好んで撮るのは道端の猫の死骸や煙草を踏みつぶす人の足、投げすてられた空き缶、そういったものだった。普通の人なら目をそむけたくなるような、意識して視界から外すようなものにばかり彼女はレンズを向け、シャッターを切った。そういうときの彼女はなんだか鬼気迫ってすらいた。

僕は彼女の写真があまり好きではなかった。自分の中の後ろ暗いところを覗かれているような気がした。それは僕だけではなかったらしく、彼女の写真は公募展でも黙殺された。それでいいのだと彼女は言った。

「あたしの写真なんて価値はないもの」
「じゃあなんで撮るの? 賞に出すのは評価されたいからじゃない」

他人ごとのように彼女は頷き、それから困ったように眉を寄せた。手元には現像から戻ってきたばかりの写真が並んでいる。モノクロに焼き付けられた光景は都会ならありふれたものばかりだ。ゴミを投げ捨てる人の手。しおれて先が黒ずんだ花束。たった一人で遊ぶ子供。写真の中の景色はその色調のせいだけでなく暗澹たるもののように見えた。

「意味なんてなくていいの、私は私が忘れないように撮ってるの」
「何を?」
「こういうことを。人の悪意とか分かってるけどどうしようもないこととか」

直ぐ忘れちゃうから。放っておいたら目に入らないから。賞に出すのも同じ、と彼女は眼を伏せたまま言った。公募に出せば少なくとも誰かはこの写真を見るでしょう?

「分かってほしいとは思わないの。あなたも私の写真嫌いでしょう」

迷った末に頷いた。確かにずっと眺めていたいというような写真ではなかった。小さく切り取られた風景は否応なく僕の中の汚れた部分を引きずり出す。あれは僕の足、僕の手、僕が殺した猫。実際にそれをしたことがあってもなくても、居心地が悪くなる写真だ。

「胸糞悪いって言われたこともあるよ」

彼女はそう言って、だからあなたが好きだよとキスをした。
おかっぱの髪がさらさらと頬に触れてきた。

今、僕と彼女は直接的な接点を持たない。彼女は都内に残り、僕は地元で仕事を得た。だから彼女の写真を見る機会もなくなった。それは別に悪い事じゃないはずだ。ありふれている学生時代のエピソードとして誰もが所有している記憶だろう。

けれど僕はときどき思い出す。彼女がまだカメラを構えているのだろうかと。
見えすぎるあの目が今日も悪意を切り取っているのかと思うと、それはなんだか痛々しいような気がするのだった。
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*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。

08:05 | momou | ■flora World 248「金糸梅/悲しみを止める」 はコメントを受け付けていません
2013/05/20

――また、没。

通算で3回目の駄目だしを食らい、戻ってきた企画書をシュレッダーに突っ込んだ。じじじじと裁断されていくのは書類だけじゃない。細い紙の束を吐きだし続ける箱の前で佇む俺を、フロアの連中は空気のように扱っていた。ああ、またかという視線すらもらえない。エリートばかりが集まるこの会社に入れたことを喜んだ俺は、その中で事実落ちこぼれの部類に入っているのだった。

不動産営業に見切りをつけてコンサルに転職したのが今年の春で、俺はそのとき限りない程の自信に充ち溢れていた。前職では売り上げも伸ばしていたし、顧客の反応も良かった。扱う物件が多かったこともあって、俺はその地域では一番の成績を誇った。ただ、その分労働と給料が見合わないような気もしたのも事実で、もっと稼げる仕事に転職したかった。だから前々から当たりをつけていたこの会社に採用されたときは飛び上るほど嬉しかった。

外資企業のいいところは、完全とはいかないまでも大部分が実力主義で報酬を決めてもらえることだ。頑張れば頑張った分、売りあげれば売りあげただけの評価がなされるというのは俺にとって最大の魅力だった。ここなら自分は正当に評価してもらえる、そう思って飛び込んで来た異業種だった。けれどそれは誤算だった。正当に評価された結果が、今の俺の状態なのだから。

「悪くはないんですけどね、なんか二番煎じって気がするんですよね」

俺より二つ下の部長は、そう言って提案書を却下した。二番煎じ。具体的にどこが悪いという訳ではなく、内容がありふれていると云いたいのだろう。斬新な企画を求められていることは分かっても、それは俺の中にはストックがないものだった。

この会社の手掛ける案件は幅広い。自社物件のマンションや戸建を次から次に売る前の仕事のノウハウはユニークな企画を求める仕事に活かせる道は少なかった。同僚たちもほぼ別業種からの転職組で、追いつきたいとデザインの勉強を初めて見ても付け焼刃なのは分かるのだろう。俺に任せられるのは前の会社と似たような中小の不動産企業のコンサルティングで、そこで働いていた身であれば同業種のデザインは見尽くしている。自然、出てくるのは見たことのあるものばかりになってしまうのだった。

自分でもこのままではよくないと分かっている。斬新な企画。新しい手法。会社の運営をトータルでサポートするという仕事は非常に魅力的だったが、反面評価が出にくい部分もある。社員評価のシステムを考えるのも会社ごとに仕組みが違い、一概に過去の手法を切り捨てるわけにもいかない。それが分かっているからこそ、俺は迷ったし迷いは企画に現れる。

「向いてないんじゃないのかな」

部長の言葉を思い出し、畜生と臍を噛む。才能がないと云いたいのか。才能なんて後付けじゃないか。なめんな、と俺は思う。次こそはきっと納得させてみせる。次こそは俺を認めさせてやる。

ぎらぎらした情熱と粉砕されていく俺自身を見つめながら、俺は必死で新しい企画を練り直す。

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*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。

12:41 | momou | ■flora World 247「プラタナス/天稟」 はコメントを受け付けていません
2013/05/08

ゴミ出しをして洗濯を干し一通り掃除機を掛けてしまうと、やることがなくなってしまった。まだ午前中。なのに何にもやることがない。いや、探せばあるにはあるのだけど、さしあたって今日中に片付けなければならないほどのことは、何もない。
何もないので、昼間っから布団を敷いて、横になった。読みかけの本でも読もうかと思ったけれど、そのうちにとろとろとまどろんだ。
夢の中なのか現実なのか、子供の声が遠くから木霊のように聞こえてくる。

お試し保育、というのに子供を預けて三日目になる。
シングルで子育てをしなければならない私にとって保育園を探し出すまでは戦争のような日々だったが、無事一歳になる前になんとか預かってもらえる目途が立った。その準備期間も兼ねてスタートした保育園通いは幸いなことに上手くいっていて、子供は大してぐずることもなく保母さんにあやされて上機嫌で遊んでいるらしい。今のところ最年少ということもあって他の子からも苛められることなく遊んでもらえているようだと聞いて、なんだか急に肩の荷が下りてしまったような気分だった。

来週から復帰しますと会社に連絡を入れたのが先日のことで、一昨日から病院だの銀行だの役所だの、手続きをしなければならないところを片っ端から駆けずり回って書類を書いたりハンコを押したりばたばたと手続きを整えた。子を産み育てるということはこういう些事が積み重なっていくことなのかもしれないと思うほど、至る所で住所氏名年齢子供の生年月日を書きまくり、そのどこでもやたらと窓口の人が親切で慇懃で困惑するほどだった。もうすぐ一歳のお誕生日ですね、と言いもしないのに告げられたり微笑まれたり、そういう類の優しさはなんだか不当に与えられるもののような気がして妙に居心地が悪かった。だからしゃかりきになって一日で全部回ってしまった。早く終わらせなきゃ。早く終わらせてあの子を連れて家に帰ってご飯をたべてお風呂に入って眠らなきゃ。何かに憑かれたように自転車で街中を走って、夜には憑かれたように眠った。

そしたら、ぽかっと時間が出来てしまったのだ。

やろうとすれば時間なんか簡単に潰れる。DVDを観たっていいし買いものに行ったっていいし、あの子を迎えに行くまでは何をしてもいい。でも、何をする気にもなれない。何かをしようという気にならない、不思議と。

疲れているわけではないと思う。だってちゃんと寝たし、食べてるし。うちの子は夜泣きも少なくて余所様の話を聞くと申し訳ないと思うほど本当に手が掛からない。なのに唯一思い浮かんだことが昼寝、というのはなんだか情けないようにも寂しいようにも感じられ、それでも私は布団から身を起こすことが出来ないでいる。

とろとろ。

今頃あの子も保育園で眠っているのだろうか。おかあさんと同じに。
与えられたエアポケットのような時間で、私はうとうととまどろんでいる。
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*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。

12:04 | momou | ■flora World 246「白水仙/ エゴイズム」 はコメントを受け付けていません
2013/04/15

一人暮らしをして初めて、今までどれだけ自分が何もせずに生きてきたのかを知った。

朝起きて一番最初に洗濯機を回す。歯磨きをしながらカレンダーをチェックして、ごみを纏める。これが結構大変で、きっちり分別して回収日に出さないと家の前に戻される。誰が見張っているのだが知らないが、ご苦労なことだろうと思う。

僕が春から住みだしたアパートは全部で6世帯しか入っていない。みんな同じような独身者のようだ。1DKの部屋は実家の居間と似たような広さで、つまりあまり多くの人数は抱えられないということらしい。住人達とは挨拶くらいしか交渉がないが、どうも勤め人は僕だけのようだ。出勤の時間になってもすれ違うこともない。

隣の人がどんな人かもわからないなんてと眉を潜める母親を説き伏せ、お金ならバイトするからと父を説得して、僕は入社と同時に家を出た。頑張れば通えない距離ではない。片道二時間強だが、先輩の中にはその時間を掛けて通勤している人もいると聞く。でも僕は、どうしても一人暮らしと言うものをしてみたかった。

夢の一人暮らし。

別に女の子連れ込み放題、なんて言葉に気を惹かれたわけじゃない。第一僕には彼女がいない。連れ込もうにも相手がいなければどうしようもない。じゃあなんでと聞かれたら、社会人になるからだと答えるしかない。

僕は早く大人になりたかった。大人になって、一から十まで自分で責任を取れるようになりたかった。勿論それが幻想だと言うのは越して早々に気が付いた。家具や家電は親の金で買ったのだし、勤めに出ると言うのは思ったよりも大変だった。憧れの有休にはまだまだ遠く、仕事についても今のところはせいぜいコピーかシュレッダー。責任のせの字もないことをそれでもミスなくこなせるようになるまではという、これは会社の温情らしい。

「いまのうち遊んどけよ。2年目からはこき使われるぞ」

OJTについてくれた先輩はそんなことを言って笑っている。入社3年目だというのに、なんだか既に頼もしそうな背中である。名指しで電話が掛かってきたり、ホワイドボードに踊る直行という響きに憧れたり。自分があと2年でそこまで到達できるかは心もとないと正直思う。でも、いつかは、と思うくらいは許されるだろうか。

就活をしていたころ、思い描いていた将来は暗澹たるものだった。特にしたいこともなくやりたいと思う程の熱意を向ける対象もない。だから手当たり次第にエントリーシートを送り面接を受けことごとく玉砕して、最後に残ったこの会社に就職した。僕を採用した理由は「真面目で馬鹿そうだったから」だそうだ。新入社員歓迎会で酔っ払った先輩の口からその驚愕の事実を聞かされて、僕はひそかに落ち込んだ。真面目はともかく馬鹿とはなんだ、馬鹿とは。

ただそれは一面事実でもあるのだった。僕は未だにゴミの分別を間違え、コピーの量を間違え、シュレッダーにクリップを引っかけてしまったりする。これは責任ある大人という以前の問題だ。でも、いつかは。
いつかは出来るサラリーマンになるために、僕は真面目にひとつひとつをこなすのである。
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*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。

06:53 | momou | ■flora World 245「山躑躅/ 燃える思い」 はコメントを受け付けていません
2013/04/01

鏡の中の顔は、なんだかとてもむくんでいた。ぶさいく。ううって唸ってから、わたしはぱちんと頬をはたき、猛然と化粧を開始する。化粧水、乳液、美容液、下地、ファンデーション。女の肌は幾層ものベールに覆われている。パウダー、ハイライト、チーク。戦闘服に着替えている実感がわたしの血肉の隅々まで浸透する。

今日から新年度。新しい一年がまた、始まる。

教師が聖職であったのはもう随分前のことらしい。
氷河期と言われ始めた時期に運よく欠員補充で採用されて、わたしは今年で七年目になる。ベテランとまでは行かないが、新人でもない。クラス担任のほか部活動も一人で任されるようになり、比較的若いというだけで行事の際はコマネズミのように使い走りを云いつけられる。教材の手配から作成、レジュメの準備、やることは山のようにあった。一般企業に就職した友人たちは「夏休みがあっていいね」なんていうけれど、そんなのはとんでもない話だ。丸一日の休みなんて殆どとれない、子供たちが学校に来ている間は当然のこと、帰ってからも採点だの宿題の添削だので自分の時間はほぼゼロだ。切れまなく忙しないせいで友人とは疎遠になり、同業者との話題もほぼ愚痴オンリー。毎年毎年もうやめよう、もう辞めてやろうと思いつつ、まだ辞められないでいるのは、もしかしたら4月1日があるせいかもしれない。

この日、子供たちはまっさらな顔で登校してくる。
一番ぴかぴかしているのは当然のこと新一年生だ。つい先日まで中坊だった尻尾を引きずって、それでもどこか妙に気負った顔をしているからすぐわかる。二年生もクラス替えがあるからか妙に緊張した面持ちだ。三年生はまあそれなりに落ち着いては居るけれど、それでもやはり新年度というのはどこか雰囲気が違う。

教室に入ると、生徒たちが一斉にわたしを見る。
値踏みされるような視線、ああやっぱりという顔、それから妙に大人びて先生なんて関係ないって顔した子供たちを眺めると、わたしはなんだか猛然とやる気が出てしまう。
たとえ、その前日に失恋したばかりであったとしても。

コンシーラー、マスカラ、仕上げに唇に紅を引いて新しいジャケットを羽織る。
さっきまでのおたふくが、鏡の中でもう先生の顔をしている。
そんな自分に満足して、わたしは昨日の失恋をすっぱり忘れる。
今日から、新しい一日が始まるのだ。新年度。わたしの可愛い子供たちに、不細工な顔は見せられない。
先生は先生らしく。歌うように呟いて、わたしは家を後にする。
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*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。

 

07:37 | momou | ■flora World 244「カリン/ 努力」 はコメントを受け付けていません
2013/03/18

よちよち歩きだった娘が大きくなって、片言で一番最初に喋った言葉は「ママ」だった。
もちろん、僕のことではない。育ての母とも言える、僕の母のことでもない。けれどそれを一番喜ぶべきひとは、あの日からまだ帰ってこない。

あの日を境に、僕らの生活は一変した。

まず家に住めなくなり、僕は実家の母のもとに身を寄せた。まだ一歳の娘を育てるには僕はあまりに無力だった。母はぼろぼろの僕らを何も言わず受け入れてくれ、一番最初にお風呂を沸かしてくれた。あんた、まずはあったまりなさい。水が出る、という当たり前のことに感動することすら、あのとき僕は忘れていた。抱いたまま湯船に入れた娘は、泣き叫びすぎて腫れた眼のまま温かな湯船でくうくうと寝息を立てていた。

住所がまだあの家のままである娘を預かってくれる保育園はなかったが、母が健在でいてくれるおかげで僕は仕事を続けることが出来ている。仕事は前にもまして忙しくなった。櫛の歯が抜けるように、同僚たちがぼろぼろと姿を消していったからだ。子供のために避難するというものが大半で、残ったのは五十の声を聞いたものや独身者や、どうしても離れられない事情を持つ者ばかりだった。女の子は、ほとんどが辞めて県外へ出て行った。忙しいな、仕事の量は減っているはずなのに、と明るい声で残った者たちは愚痴をこぼし合い、僕らは無言で空いた机を片付けた。OAの操作に不慣れな先輩たちが若いからという理由で僕に事務仕事を押しつけるようになったのは多分に温情なのだと思う。外は危ないから。子供のように扱われるのはどこか面映ゆく、そして恐ろしいことに今僕らが置かれているのは現実なのだと思わされた。同じような年頃の後輩は、今持って決して魚を食べない。どんなに勧められても箸を付けることさえしない。

「これでもましになったんです。前は見るのも嫌だった」

この魚が食べていたのはもしかしたら、とそんな風に考えてしまうのは、海に近い場所に住んでいたものの業のようなものなのだろうか。

考えることを放棄するように僕は仕事に没頭し、帰れば娘の寝顔を見た。ママはどこに行ったんだろうね? すやすやと寝息を立てる娘の顔はあくまでも無邪気で天使のように見える。あの日の記憶などどうか残りませんように、と祈りながら、僕もどうにか眠りにつく。どこに行ったんだろうね、君は。早く帰ってこないと、この子が君の不在に慣れてしまうよ。そしてまた、僕も。そう思いながら、とろとろまどろむ夢は懐かしい人の面影を僕にまだ見せる。忘れられるわけがない。忘れられるわけなんて、ない。

あの日から三度目の御彼岸が来て、桜が咲いた。
いつもなら毎年訪れていたはずの墓所へはまだ行っていない。ママと名を呼んだ娘と母と三人で、まだ僕らは君の帰りを待っている。

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*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。

08:27 | momou | ■flora World 243「彼岸桜/ 心の平安」 はコメントを受け付けていません
2013/03/04

ずっとずっと好きな人が、いる。

深夜急行のホームで電車を待つ間、必要もないのに何度も切符があるかを確かめた。ポケットの中の乾いた手触り。わたしをあの人のところへ運んでくれる切符。そして同時に、それはわたしをあの人のところから引き離す切符があることを意味する。帰るために。わたしと、わたしの持つ仕事のある東京へ連れ帰ってくれる一枚を、予約するとき一緒に買った。我ながらその冷静さには妙な気持ちになるほどだった。帰らなくてはならない、と思った。どんな結果になろうとも、どんな状況であろうとも。

 

会社の先輩と後輩。
わたしたちの関係を客観的に表現するなら、それ以外の言葉はなかった。新卒で入った小さな事務機メーカー。右も左も分からず、パワポの使い方やマクロの組み方、請求書の印字方法、営業のアポの取り方、納品の段取り、取引先のアフターフォロー、覚えるべきことは山のようにあった。先輩は、仕事の全てに右往左往していたそんなわたしを指導してくれたひとだった。同期が殆ど辞めてしまったせいで、その人は一人で五人分くらい働いていて、そういう人にこんなくだらないことをいちいち尋ねるのは気が引けたけれど、早く使えるようになりたくて、楽をさせてあげたくて、わたしは犬のようにその人のあとをついて歩いた。そうすれば、教わることを口実に傍にいられた。初歩的な事務作業なら一人で出来るようになっても、一人前だからと外回りに放り出されても、わたしはその人と会話をする口実をひねり出して一日一回は会話するようにしていた。あまりにも露骨なその様子に、社長から忠犬なんて渾名を付けられたくらいだ。小さい会社で、だから社員の皆は何となく微笑ましい様子でその人をからかい、わたしに発破をかけ、そのたびに先輩はいつも困ったような顔をしていた。事実困っているかどうかは分からなかったが、それでも下がり気味の目尻と太い眉毛が、困惑しているように見えたのだった。

わたしが入社して五年経ったとき、その人は突然退職した。奥さんの看護のために実家に戻るという話だった。奥さんがいる、という現実と目の前の人がそれに付随する原因でここから居なくなる、ということが、なぜか上手くかみ合わなかった。結婚しているらしいことは知っていた。でも、だからといって、その人がわたしから離れていくなんて考えたこともなかったのに。

ごめんな、と先輩はなぜかわたしに謝った。送迎会で社長が酔っ払ってしまい、タクシーを捕まえに出たときのことだった。何に対する謝罪なのか、わたしは今でもよくわからないでいる。引き継いだ大量の仕事のことなのか、それとも、隠していなかった好意に答えられないことなのか。報いられないことは自分が一番よくわかっていたのに、たった一言謝られただけで、なぜか無性に腹が立った。

見くびるな、と思った。

 

ずっとずっと、好きな人がいる。

その人にきちんと好きでしたと言い、そうして振られるためだけに、わたしは締切の近い仕事を置いてここまで来た。言われた方はたまったものではないだろうが、わたしはわたしの事情のためだけに、深夜急行に今夜、乗る。

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*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。

07:11 | momou | ■flora World 242「ミモザアカシア/ 秘密の愛」 はコメントを受け付けていません
2013/02/18

終了を知らせるチャイムが鳴ると、なんだか急に春が来たような気がした。

勿論、それは気のせいだ。まだ寒いし、長くて短い試験期間が終わったことから来る条件反射みたいな連想にすぎない。後ろから解答用紙を預かって自分のものを重ねて回し、僕は伸びをしながら彼女の姿を探していた。
彼女はちょうど、前髪を止めていたピンを外しているところだった。

 

彼女とは図書館で知り合った。

資料のコピーをするために並んでいた時、遠慮がちに声を掛けてきたのだった。その本、終わったらかしてもらえませんか。なんだかひどく申し訳なさそうに言われ、一瞬何の事だかわからずきょとんとしたら、更に抱えていた本を指差された。それは指導教授が書いた美術史論の教材で、図書館には一冊しか所蔵されていないものだった。慌てて了承の返事を返すと、彼女はあきらかにほっとしたような顔をした。生真面目そうな表情が緩んだ瞬間、開け放してある窓から桜の匂いが吹き込んで来た。

そのときはそれで終わった。必修が一緒だったので、彼女の姿はそれからもたびたび見かけたが、自分から声を掛けることはできなかった。彼女はいつも友達と行動を共にしているようだったし、一人でいるときは前をまっすぐ見つめて、なんだか難しいことを考えているように見えた。彼女はなんのアルバイトをしているんだろう、とか、学食のメニューでは何が好きなんだろう、とか、そういうことを考えながら、僕はこの一年間彼女を観察し続けて暇をつぶした。僕自身は本当に暇な学生だったので、毎日勤勉に大学に通っていたが、彼女も相当でほぼ毎日その姿を図書館なりカフェテリアで見かけることが出来たのだった。

「出来ましたか」
「まあまあでした。そちらは?」

なぜか敬語で話しかけてしまったのだけれど、別に彼女は驚いた顔もせずに問いかえされてへどもどした。はあ、なんとか。それは良かったです。ものすごく他人行儀な会話をしつつ、他人なんだから当然かと思った。確かに僕らは他人なのだ。ただ一年間、同じ教室にいたというだけの、袖振りあうことすらない、赤の他人。そしてその繋がりもこの試験をもって終了する。春休みが明ければそれぞれの専修分野に進むから、おそらく彼女と同じ教室に座る機会自体がなくなってしまうだろう。

「何か、用ですか?」

言葉に詰まっている僕を不審に思ったのか、彼女は微かに語尾を上げて尋ねた。

「いや、今日で最後だなと思って」

僕は答えた。彼女は穏やかにそうですね、と返事をくれた。その流した前髪から、桜のような匂いがした。春の匂い。それがあまりにもいい匂いで、では、とすぐにでも席を立ってしまいそうな彼女と二度と話せなくなりそうで、僕は思いきってこう切り出した。

「打ち上げをしませんか。試験終了の」
「あなたと、ですか?」
「いけませんか」

こちらの剣幕に気圧されたのか、彼女は一瞬目を瞬いて、かまいませんよ、と頷いた。それから、少し笑った。
白い八重歯は花びらのようで、ああ、春が来た、とまた思った。
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*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。

08:24 | momou | ■flora World 241「オンシジューム/ 遊び心」 はコメントを受け付けていません
2013/02/04

恋をすると、わたしはお菓子が作りたくて仕方がなくなる。

朝も昼も夜も時間に関係なく、猛然と台所に立て籠り、小麦粉をふるいバターを湯煎しチョコレートを刻み木べらで混ぜる。さく、さく、さく、さく。心地よい疲弊感に包まれるのは、オーブンの中で香ばしいにおいが立ち上るころで、結果として出来あがったケーキなりクッキーなりマフィンなりを連日連夜ぶっとおしで食べ続けるのも毎度のことだ。

これは一種の病気みたいなものかもしれない。

食事は殆どコンビニか外食ですませてしまう。季節限定、とかのワーディングにも興味はない。けれど、はしかみたいな恋にかかると、わたしはパティシエの修行をするかのごとくストイックにお菓子を作り続ける。

作るお菓子にも微妙にはやりすたりがあるらしく、無自覚で作る割には毎日同じものを食べ続けることになる。三年前、大好きだった人がいたときは毎日カヌレを作ってた。去年、片思いしていた時はアップルパイばかり焼いていた。自分で作っているとはいえ飽きることは飽きるのだけれども、だからといって違うものを作ろうとは思えないのだ、こういうときは。

そして、今年好きになった人は、チョコレートが好きなのだそうだ。
従って、うちの狭いキッチンはここのところ甘い匂いばかり漂わせることになる。

二月は、うちだけではなくて街中がとろけるようなカカオの香りに包まれている。
有名ブランドの宝石のように美しいショコラ、おもちゃのようにカラフルなボンボン、リキュールを潜ませた生チョコレート。それらに交じって戦うだけの美貌も気位も持たないわたしのチョコレートは、ラッピングも掛けられずアルミホイルに包まれて、毎日わたしのデスクに並ぶ。時々は同僚の子が立ち寄ってはつまんでいく。ああ、もうじきバレンタインだね、なんて頓珍漢な事をいう上司もいる。手作り、期待してるよ。にこやかに去っていく後ろ姿に、誰がお前になんかやるかと思う。

わたしは、本当はこのお菓子を彼に捧げたい、のかもしれない。

今回だけじゃない。カヌレもアップルパイもスイートポテトもシフォンケーキも、全部彼らに食べてほしかった。おいしいとは言わなくていい。それでも、食べて欲しかった。

差し出せば食べたかも知れない、彼らも。でもわたしはそれが出来ず、黙って自分の胃袋に消した。恋のおしまいのお菓子の味は、はじめとちがってとても上手にできていて、その巧みさがなんだかとても切なかったけれど。

「あ。今日は、チョコレートなんですね」

急に話しかけられてどぎまぎした。彼だ。チョコレート好きというのは本当だったらしく、しげしげとわたしの机の上を覗きこんでから、一粒いいですか、と断ってつまみあげてぺろりと食べた。

「あまいですね」
「……チョコレートですから。甘すぎますか」
「おれはもう少し苦めのほうが好きかなあ。次、期待してますね」

ごちそうさまでした、と礼儀正しく彼は会釈をしてフロアの角を曲がって行った。
次、があるということが、こんなにも嬉しいだなんて初めて知った。

つまみあげたチョコレートは、舌の上でとろりと溶けて、甘い。
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*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。

10:36 | momou | ■flora World 240「薔薇/ 恋の誓い」 はコメントを受け付けていません

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