« 正体不明のウィルス・続編 | Home | Salon de l’agriculture 2013(その1) »
ずっとずっと好きな人が、いる。
深夜急行のホームで電車を待つ間、必要もないのに何度も切符があるかを確かめた。ポケットの中の乾いた手触り。わたしをあの人のところへ運んでくれる切符。そして同時に、それはわたしをあの人のところから引き離す切符があることを意味する。帰るために。わたしと、わたしの持つ仕事のある東京へ連れ帰ってくれる一枚を、予約するとき一緒に買った。我ながらその冷静さには妙な気持ちになるほどだった。帰らなくてはならない、と思った。どんな結果になろうとも、どんな状況であろうとも。
会社の先輩と後輩。
わたしたちの関係を客観的に表現するなら、それ以外の言葉はなかった。新卒で入った小さな事務機メーカー。右も左も分からず、パワポの使い方やマクロの組み方、請求書の印字方法、営業のアポの取り方、納品の段取り、取引先のアフターフォロー、覚えるべきことは山のようにあった。先輩は、仕事の全てに右往左往していたそんなわたしを指導してくれたひとだった。同期が殆ど辞めてしまったせいで、その人は一人で五人分くらい働いていて、そういう人にこんなくだらないことをいちいち尋ねるのは気が引けたけれど、早く使えるようになりたくて、楽をさせてあげたくて、わたしは犬のようにその人のあとをついて歩いた。そうすれば、教わることを口実に傍にいられた。初歩的な事務作業なら一人で出来るようになっても、一人前だからと外回りに放り出されても、わたしはその人と会話をする口実をひねり出して一日一回は会話するようにしていた。あまりにも露骨なその様子に、社長から忠犬なんて渾名を付けられたくらいだ。小さい会社で、だから社員の皆は何となく微笑ましい様子でその人をからかい、わたしに発破をかけ、そのたびに先輩はいつも困ったような顔をしていた。事実困っているかどうかは分からなかったが、それでも下がり気味の目尻と太い眉毛が、困惑しているように見えたのだった。
わたしが入社して五年経ったとき、その人は突然退職した。奥さんの看護のために実家に戻るという話だった。奥さんがいる、という現実と目の前の人がそれに付随する原因でここから居なくなる、ということが、なぜか上手くかみ合わなかった。結婚しているらしいことは知っていた。でも、だからといって、その人がわたしから離れていくなんて考えたこともなかったのに。
ごめんな、と先輩はなぜかわたしに謝った。送迎会で社長が酔っ払ってしまい、タクシーを捕まえに出たときのことだった。何に対する謝罪なのか、わたしは今でもよくわからないでいる。引き継いだ大量の仕事のことなのか、それとも、隠していなかった好意に答えられないことなのか。報いられないことは自分が一番よくわかっていたのに、たった一言謝られただけで、なぜか無性に腹が立った。
見くびるな、と思った。
ずっとずっと、好きな人がいる。
その人にきちんと好きでしたと言い、そうして振られるためだけに、わたしは締切の近い仕事を置いてここまで来た。言われた方はたまったものではないだろうが、わたしはわたしの事情のためだけに、深夜急行に今夜、乗る。
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*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。