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よちよち歩きだった娘が大きくなって、片言で一番最初に喋った言葉は「ママ」だった。
もちろん、僕のことではない。育ての母とも言える、僕の母のことでもない。けれどそれを一番喜ぶべきひとは、あの日からまだ帰ってこない。
あの日を境に、僕らの生活は一変した。
まず家に住めなくなり、僕は実家の母のもとに身を寄せた。まだ一歳の娘を育てるには僕はあまりに無力だった。母はぼろぼろの僕らを何も言わず受け入れてくれ、一番最初にお風呂を沸かしてくれた。あんた、まずはあったまりなさい。水が出る、という当たり前のことに感動することすら、あのとき僕は忘れていた。抱いたまま湯船に入れた娘は、泣き叫びすぎて腫れた眼のまま温かな湯船でくうくうと寝息を立てていた。
住所がまだあの家のままである娘を預かってくれる保育園はなかったが、母が健在でいてくれるおかげで僕は仕事を続けることが出来ている。仕事は前にもまして忙しくなった。櫛の歯が抜けるように、同僚たちがぼろぼろと姿を消していったからだ。子供のために避難するというものが大半で、残ったのは五十の声を聞いたものや独身者や、どうしても離れられない事情を持つ者ばかりだった。女の子は、ほとんどが辞めて県外へ出て行った。忙しいな、仕事の量は減っているはずなのに、と明るい声で残った者たちは愚痴をこぼし合い、僕らは無言で空いた机を片付けた。OAの操作に不慣れな先輩たちが若いからという理由で僕に事務仕事を押しつけるようになったのは多分に温情なのだと思う。外は危ないから。子供のように扱われるのはどこか面映ゆく、そして恐ろしいことに今僕らが置かれているのは現実なのだと思わされた。同じような年頃の後輩は、今持って決して魚を食べない。どんなに勧められても箸を付けることさえしない。
「これでもましになったんです。前は見るのも嫌だった」
この魚が食べていたのはもしかしたら、とそんな風に考えてしまうのは、海に近い場所に住んでいたものの業のようなものなのだろうか。
考えることを放棄するように僕は仕事に没頭し、帰れば娘の寝顔を見た。ママはどこに行ったんだろうね? すやすやと寝息を立てる娘の顔はあくまでも無邪気で天使のように見える。あの日の記憶などどうか残りませんように、と祈りながら、僕もどうにか眠りにつく。どこに行ったんだろうね、君は。早く帰ってこないと、この子が君の不在に慣れてしまうよ。そしてまた、僕も。そう思いながら、とろとろまどろむ夢は懐かしい人の面影を僕にまだ見せる。忘れられるわけがない。忘れられるわけなんて、ない。
あの日から三度目の御彼岸が来て、桜が咲いた。
いつもなら毎年訪れていたはずの墓所へはまだ行っていない。ママと名を呼んだ娘と母と三人で、まだ僕らは君の帰りを待っている。
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*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。