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2013/12/23

m260

 

「すいません、ラジオ、切ってもらえませんか」

気のいい人だったのか、タクシーの運転手はすぐにスイッチを切ってくれた。なのにモヤモヤした気持ちが急激に全身を支配していくのがわかった。パーソナリティに罪はない。彼女はただ、年中行事としてのそれに触れただけなのだ。わかっているのにどうしても過敏に反応してしまう自分が情けなくて悲しくて、ため息をついて窓の外を見る。クリスマスが近づくこの時期は、まだ夕方だというのに煌くようなイルミネーションと幸せそうなカップル達が街を埋め尽くしているみたいだった。

 

――クリスマスは会えないと、最初からわかっていた。
アメリカと、日本。飛行機に乗れば半日足らずで行き来することはできるけれど、お互い仕事を抱えている。向こうはホリディにも関わらず独り身を理由に休日出勤で、私もまた年末納期の案件を抱えている身だ。その分年末にはたくさん会おうねと約束したのはついこの間のことだったのに、こらえ性がなくなったのか、目の奥が熱くなった。
彼に逢いたくてたまらないのに。一分一秒でもそばにいたいのに。
そう思うと、呆れたような彼の笑顔がまぶたに浮かんだ。

 

最初は完璧過ぎる人だと思っていた。外資のエリート。立ち居振る舞いもスマートで、女のあしらいにも慣れていて、不自由していない人だと一目見てわかった。だから、必死でアタックした。好きになったのは私のほうで、彼が欲しくて、色仕掛けでもなんでも全部やった。安い女だと思われても良かった。犬のように私は懐き、彼も絆されるようにして付き合ってくれた。彼女にしてくれると言ってくれたとき、私はその言葉を言わせたのだと自覚していた。それぐらい、彼は私には不釣合いな男だった。少なくとも、スペックとしては。

今はもちろん、彼が完璧――いわゆる女が望む完璧さを備えていないことぐらいはわかる。家事は全然できないし、ネアカなようで根暗だし、実はナイーブで子供のようなところだってあるし。でもそれがなんだというのだ。私は彼が好きだ。付き合ってもらえている間は、彼が隣にいることを許してくれる間は、そばにいたいと思った。できる限りその時間を引き伸ばしたくて、子供のように駄々も捏ねた。だから、彼がわたしに見せてくれる一番多い表情は呆れたような顔ばかりだった。「よくもまあお熱が続くね。」それでもほんのり甘いその顔が、私はとても好きだった。

 

街中がクリスマス一色で、カップルばかりで、でも、彼は日本にいない。私もアメリカにはいけない。仕事はきちんとしよう、とそれは無言の了解で、だからこそ必死で毎日働いているのだ。くだらないクレームにも頭を下げ、お茶を入れ、書類を作って。彼はきっともっと程度の高い仕事をしているのだと思うといくらでも頑張れた。近づきたいと思って、必死で。

手の中で、携帯が震えた。

着信したのは彼からの、帰国予定日を知らせるメールだった。最後に付け加えられた、「早く会いたい」の言葉が嘘みたいに嬉しかった。
私は想像する。年末の街を一緒に歩いているところを。今街を歩いているどのカップルより幸せな顔で歩いているだろう自分のことを。そしてそれを見る彼の呆れたような顔を思えば、クリスマスだって乗り切れるような気がしていた。
年末まで、あと少し。
車窓を流れる景色をさっきよりも落ち着いた気持ちで眺める。現金だけれど、今、この瞬間は誰よりも私が幸せだと思った。
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*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。

 

08:27 | momou | ■flora World 260「樅/時間」 はコメントを受け付けていません
2013/12/09

m259

 

彼と初めて会ったとき、頭のいい人はいるのだなあ、とひどく驚いた記憶がある。若くして難関と言われる国家資格を複数取得し、独立開業して既に数年が経っているというその人はわたしの驚きを柔らかくいなし、僕は恵まれているのでと穏やかに笑った。

その人と一緒に仕事をするようになって、早数年。

最初の印象は日々を経てさえも変わらずにはあるのだけれど、追加された情報も少なからずある。例えば、やたらと夜に弱いとか。今目の前の彼は真っ赤な顔で、ふわふわと雲を踏むような足取りで歩いていた。ちなみに手に持っているのはノンアルコールのカクテルである。当然、素面だ。

 

「あれさえなければ完璧なのにね」

これは彼に巡る風聞を締めくくる最後の一言としてよく言われる。

彼はそのスペックの高さで女性陣からの人望は絶大なのだが、特定の誰かとうまくいったという話を聞かない。チームを組んで仕事をしており、彼とは最もよく話している私のもとへは彼となんとかして近づきたいという若い女の子達が日々訪れ、その度に彼の都合を聞いてセッティングまで世話を焼くのだけれど、ぜんぜん続かないのである。なぜか。おそらく、彼が異様に夜に弱く、七時を回ると眠くなってしまう――十時を回ると大体寝ている―ということに尽きる気がする。食事をして、さあこれからという段に既に睡魔に支配されているような体では女の子との会話がつまらないからと誤解されるのもむべなるかなということか。

「別に、つまらないっていうわけじゃないんですよね。ただ、眠いんです」

目をこすりながら、彼は弁解するように私を見た。時刻はもうじき八時になろうというところだ。そうだよね、と頷いてみせると彼は我が意を得たりとばかりに話し始めた。

「大体なんでみんな食事って言うと夜なんです? 朝でもいいじゃないですか」
「朝はみんな眠たいのよ」
「僕は夜の方が眠いです」

ちなみに彼のいう朝というのは午前四時頃を指す。ほとんどの平均的日本人女性はまだ寝ている。それがどうにも理解できないらしく、彼はその優秀な頭脳をくるくると回転させながら嘆いていた。

「まあいいじゃない。あなた、それ以外は完璧なのだし」

ぶすくれた子供のような表情になった彼のためにノンカフェインのお茶を頼んでやり、私は自分のためにビールを追加した。夫はもう帰っているだろうな、とちらりと思う。今のプロジェクトが始まってから、私の帰りはだいぶ早くなった。もちろん、朝はそれだけ早くなってもいるわけだが。文句ひとつ言わず、生活リズムを合わせてくれる夫には感謝をしてもしきれない。

「いいなあ。僕もはやく結婚したいです」
「そのうち現れるわよ、たぶんね」

なんの根拠もない私の言葉に彼はしょげた犬みたいな顔で頷いて、はやくそういう人を紹介してくださいね、などという。そんなことを人に頼んでいるうちはダメなんだけどなと思いながら、私はうちの課の女の子たちの顔をひとつひとつ思い浮かべていた。あの子はどうだろうか、それとも彼女は?
彼に釣り合う女の子は、なかなか見つかりそうにない。
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*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。

07:54 | momou | ■flora World 259「アロエ/万能」 はコメントを受け付けていません
2013/11/25

m258

あたしたち付き合ってどれぐらいになるのかな、と彼女が言った。僕は思わず「え?」と聞き返した。ごった返すハンバーガーチェーン店のなかでは何を話すのでもいちいち声を張り上げなければならなくて、それは彼女だって十分わかってるはずなのに、その呟きはなんだか妙に小さくていつも自信満々で元気な彼女には似合わなかった。

「付き合って、って……まだ三ヶ月くらいじゃないかな」
「違う。もう三ヶ月よ」

なのに、まだあたしたちこういうとこでしかデートとか出来ないわけ?

刺すような目線に、僕は正直なところ返す言葉もなかった。だって時間もないじゃないか、とか、休みの都合だって合わないし、とか、瞬時に浮かんだ言い訳は言葉になるまえに霧散した。彼女はそんな僕を見て、ひどくつまらなそうな顔でオレンジジュースを啜った。

 

僕らが付き合うことになったのは、学祭がきっかけだった。

地域の親睦を深めるためという名目で各校が参加する、年一回の大きなイベント。僕も彼女もその実行委員になっていて、幾度となく顔を合わせるうちになんとなくそういうことになっていた。キャンプファイヤーを見ながら手をつないだのがいまのところ物理的な意味での唯一の接触で、お互いに忙しいから顔を合わせるのは帰宅前のわずかな時間だけ。電車待ちの10分かそこらをここで過ごすのが、精一杯のデートだった。

「たしかに、あたしも忙しいけど」

彼女は言う。あなたも忙しすぎる、って。仕方ない。僕たちはそれぞれにやることがあり、結果を残さなければならない立場にある。それは彼女も分かっていたはずだ。事実、彼女との付き合いで成績を落とさないよう、僕は睡眠時間も削って勉学に励んでいる。もし向上どころか現状維持すらも厳しくなったら、彼女との付き合いを両親に禁止されるのは目に見えていた。それは嫌だ。人生初彼女がこの子で良かったと僕は心から思っているし、時々憂いを帯びて伏せられたまつげの長さにドキッとしたり、不意に見せる弾けたような笑顔はやっぱり可愛い。性格だって完璧ではないにしろ長所の方が短所より多いし、同じ年だし、まあまあお似合いだって自分では思う。

でも、彼女はそうじゃないんだろうか? 僕よりいい男なんて……まあ、ザラにいるけれど。

「思ってたよりあなたって子供っぽいのよね」

大人びた仕草で伸びてきた前髪を払い、彼女は心底そう思っているということを強調するかのように肩をすくめた。僕は縮こまって、次に来る舌鋒に備えた。気の強い彼女は実行委員会の会議でも並み居る委員たちを前に堂々たる意見を披瀝していたし、そういうところに惹かれたのは事実だけれど、その鋭さが自分に向けられることがあるなんて思ってもいなかったのだ。浅はかにも。

「でも、実際子供なんだし、今日はこれで許してあげる!」

もう時間だから行くね、と僕の頬にリップ音を立ててキスを残し、彼女はランドセルをしょって出て行った。ほんのりと赤くなった頬を意識して僕は固まり、その小さな後ろ姿をぼおっといつまでも目で追っていた。

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*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。

07:16 | momou | ■flora World 258「八手/分別」 はコメントを受け付けていません
2013/11/11

m257
不思議なもので、離婚してからの方が彼のことをよく思い出す。

例えば料理を作りながらああこれは彼の好物だった、とか、買い物にいっても彼の好んでいたテイストの服ばかりが目に付いた。これは未練とは違う。納得ずくで結婚し、納得ずくで離婚して、私たちは世間で言われるような修羅場には縁のない夫婦だった。

けれど数年間ともに暮らした人と離れたことで、どこか欠落感が漂うのも事実だ。これはあなたの使っていたカップ。これはあなたの好きだった歌手の歌。
ともに暮らしていた頃は、そんなことを意識することもなかったのに。

 

夫婦というより兄妹みたいだね、と私たちはよく言われた。

顔も似ていたし、背格好も近かった。恋愛というほどの感情もないままなんとなく付き合って、周りに押されるようにして籍を入れた。プロポーズの言葉は「そろそろけじめをつけましょうか」だったと思う。私の言葉に彼はちょっと考えてから頷いて、そうだねと生真面目に呟いた。隣の席でそれぞれに抱えた案件の書類を作りながら、残業中の会話だった。

一緒に住んでみると、彼は生活のパートナーとしては非常にいい相手だった。過度の清潔さも要求されず、適当にだらしない。彼の方でも私にはさほど多くを求めなかった。二年間隣の席で仕事をしてきたせいか、感情のスイッチになるツボはわかっている。共同生活は驚く程スムーズに始まり、思ったよりも快適だった。そうしていつの間にか本当の兄妹のように私たちは家族になるのだろうと思っていた。

離婚を切りだしたのは彼の方だった。

「今日内示が出た。海外に駐在になる。たぶん長期で」

ついて来て欲しい、と彼は言った。私は迷った。ちょうど自分の手がけたプロジェクトがようやく軌道に乗ったところで、同じ部署にいる彼はその様子をよく知っていた。仕事は子供のようなものだった。思いもよらぬところで手がかかり、泣いたりぐずったりして進捗は滞り、予定通りになど行くわけがない。彼自身、そうした仕事の成果が認められての海外出向になったのだ。ここで私に日本を離れろというのは仕事を捨てろということと同義だと、薄々は察していたのだろう。しかも長期で。私たちの勤務先でいう長期というのは、十年や二十年の長さではない。

いかない、と答えた私を彼は責めなかった。だろうね、と笑っただけだった。

そうしてただの他人に戻るための儀式のように薄い紙一枚を大事に回覧し、署名をし、押印をして、二人で役所に出しに行った。一緒にいない夫婦など意味なんなんかないよね、と話し合った末の決断だった。

 

離れてみて、私は思っていた以上に彼が好きだったのだと初めて知った。

この店は彼と行った、あの服は彼がいいと褒めた、そんなことばかり次々と浮かんでは消える。そんなに思うのなら別れなければ良かったのにと事情を知る同僚はいうけれども、それとこれとはまた別の話だ。一人になって知る彼のこと。彼もそんな風に私を思い出すことはあるのだろうかと思いながら、花屋で彼の好きな花を買った。
青い色のその花を抱いて帰りながら、今日は温かいものを食べようと思った。

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*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。

08:13 | momou | ■flora World 257「ブルーサルビア/永遠にあなたのもの」 はコメントを受け付けていません
2013/11/11

m257
不思議なもので、離婚してからの方が彼のことをよく思い出す。

例えば料理を作りながらああこれは彼の好物だった、とか、買い物にいっても彼の好んでいたテイストの服ばかりが目に付いた。これは未練とは違う。納得ずくで結婚し、納得ずくで離婚して、私たちは世間で言われるような修羅場には縁のない夫婦だった。

けれど数年間ともに暮らした人と離れたことで、どこか欠落感が漂うのも事実だ。これはあなたの使っていたカップ。これはあなたの好きだった歌手の歌。
ともに暮らしていた頃は、そんなことを意識することもなかったのに。

 

夫婦というより兄妹みたいだね、と私たちはよく言われた。

顔も似ていたし、背格好も近かった。恋愛というほどの感情もないままなんとなく付き合って、周りに押されるようにして籍を入れた。プロポーズの言葉は「そろそろけじめをつけましょうか」だったと思う。私の言葉に彼はちょっと考えてから頷いて、そうだねと生真面目に呟いた。隣の席でそれぞれに抱えた案件の書類を作りながら、残業中の会話だった。

一緒に住んでみると、彼は生活のパートナーとしては非常にいい相手だった。過度の清潔さも要求されず、適当にだらしない。彼の方でも私にはさほど多くを求めなかった。二年間隣の席で仕事をしてきたせいか、感情のスイッチになるツボはわかっている。共同生活は驚く程スムーズに始まり、思ったよりも快適だった。そうしていつの間にか本当の兄妹のように私たちは家族になるのだろうと思っていた。

離婚を切りだしたのは彼の方だった。

「今日内示が出た。海外に駐在になる。たぶん長期で」

ついて来て欲しい、と彼は言った。私は迷った。ちょうど自分の手がけたプロジェクトがようやく軌道に乗ったところで、同じ部署にいる彼はその様子をよく知っていた。仕事は子供のようなものだった。思いもよらぬところで手がかかり、泣いたりぐずったりして進捗は滞り、予定通りになど行くわけがない。彼自身、そうした仕事の成果が認められての海外出向になったのだ。ここで私に日本を離れろというのは仕事を捨てろということと同義だと、薄々は察していたのだろう。しかも長期で。私たちの勤務先でいう長期というのは、十年や二十年の長さではない。

いかない、と答えた私を彼は責めなかった。だろうね、と笑っただけだった。

そうしてただの他人に戻るための儀式のように薄い紙一枚を大事に回覧し、署名をし、押印をして、二人で役所に出しに行った。一緒にいない夫婦など意味なんなんかないよね、と話し合った末の決断だった。

 

離れてみて、私は思っていた以上に彼が好きだったのだと初めて知った。

この店は彼と行った、あの服は彼がいいと褒めた、そんなことばかり次々と浮かんでは消える。そんなに思うのなら別れなければ良かったのにと事情を知る同僚はいうけれども、それとこれとはまた別の話だ。一人になって知る彼のこと。彼もそんな風に私を思い出すことはあるのだろうかと思いながら、花屋で彼の好きな花を買った。
青い色のその花を抱いて帰りながら、今日は温かいものを食べようと思った。

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*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。

08:13 | momou | ■flora World 257「ブルーサルビア/永遠にあなたのもの」 はコメントを受け付けていません
2013/10/21

m256

そのドアを開けると、いつも決まって珈琲の香りがする。

蝶番に取り付けられたカウベルが時代がかった音を立て、喫茶店のような調度のカウンターで待っていると、いかにもマダムと呼びたくなるような女性が姿を見せた。

「お待ちしてました。どうぞ中へ」

香水かと思うほど濃厚なエスプレッソの匂いを身にまとった女性は、そう言って柔らかく微笑んだ。

 

来訪の目的である商談は、事前の打ち合わせ通りなんの問題もなく完了した。
途中、いくつかデザインについての質問を挟まれたが、いつもどおりサンプルチェックに立ち合うことを条件に合意し、最終的には契約書に双方納得して印を押した。

彼女は有り体に言って理想的な客だった。
無理強いはしないし、コストについても常識の範囲でしかうるさくなく、常に納期に余裕を持って発注してくれる。木材という生モノを扱う以上、イメージの違いにうるさいことはどの客であっても変わりなく、加工前の状態を確認してくれるのは互いにとってむしろありがたい話だった。

彼女の会社に木材を入れるようになって、もう数年になる。もともとはアンティークテーブルを専門とする輸入代行業をしていたそうだが、現地のデザイナーと組んで商品開発も手がけるようになり、それでうちとも縁ができた。おっとりとした外見に見合わずてきぱきとした働きぶりで、今でも社員も置かずに本人が飛び回っているらしい。
実際に会うのは年に1回程度しかないが、僕は彼女に会うのが楽しみだった。

「ところで、最近の掘り出し物は?」

趣味だという珈琲を淹れてくれながら彼女は聞く。好奇心に目を輝かせ、その一瞬だけはマダムが少女のようないたずらっぽい顔付きになる。僕は思い出すふりをしながら、意味深に手帳を開いた。そのなかには彼女の好きそうなとっておきのオーク材が映った写真が挟んである。

「北海道でミズナラが出たんですよ。樹齢100年」
「本当!?」

思ったとおり身を乗り出した彼女に写真を見せ、僕はそれを入手した経緯を話した。まだ生木なので材にできるのは当分先の話になるが、彼女は熱心に聞いてくれる。既にいくつか打診があることを伝えると、深く深く息を吐いてから、食い入るように写真を見つめた。

「こんないいもの、久しぶりじゃないの」
「そりゃそうですよ。社長は頑として突っぱねてますが、床材にしたいって問い合わせもあって」

彼女は同意を示し、そうでしょうねと呟いた。床の間に使うのは狂いもなく、樹齢のいった高級材に限られる。味のある巨木も好まれるが、これは真っ直ぐで節もない。肌もきれいだ。使いどころが広く、また造形から言っても美しい材になりそうだった。

「これ、欲しいわ」

ごくりと喉を鳴らして彼女は言う。それが小さな子がスーパーで菓子をねだるような声なものだから、僕は笑いを咬み殺す。やっぱりな、と思った。社長もきっと喜ぶだろう。この人は木が好きだ。木の価値をちゃんとわかって、それに見合う仕事をしてくれる。だから買ってくれるならこの人に、と昨日話したばかりだった。

「いくらなのか聞くのが怖いけど、買うわ。値段は見てからでも?」
「もちろんですよ」

日取りを決め、楽しみだと微笑み合う。まるでデートのようだなと思いながら、僕は目の前で優雅に動く彼女の指が白樺のように綺麗だと目を奪われたままだった。

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*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。

08:20 | momou | ■flora World 256「縷紅草/常に愛らしい」 はコメントを受け付けていません
2013/10/07

m255

 

わたしは、心の中に棚をいくつか持っている。

手前の棚には、ちょっと笑える失敗だったり、他人に自慢してもいやらしくならない程度の自慢話――例えば、芸能人の誰それとどこかですれ違ったとか、社内のゴルフコンペでとび賞をもらったとか、その類の話が収められている。この棚は一番開ける頻度が高く、飲みの席では大活躍で、わたしは場を盛り上げるのがまあまあ上手ということになっている。
棚はいくつかの階層になっていて、深くなればなるほど、その鍵は厳重に掛けられており、普段は棚の存在を意識することすらない。その棚の一番下、最も奥深くに隠したものを、わたしはときどき思い出さざるを得ず、その度に、唇を噛んでその鍵を掛け直す。

 

今日その棚が開いたのはデスクが放ったひとことだった。

「申し訳ないんだけど、そのコーナー、……ちゃんにお願いすることになったから」

言葉ほどには詫びの色も欠片のない表情で、上司はわたしの手元から分厚いフラットファイルを持ち出した。呆気にとられる間もないほど一瞬の出来事だった。わたしが睨みつける視線の先で、名指しをされた後輩は無邪気に与えられたビックチャンスに喜んでいた。

その仕事はうちの雑誌の定期連載のひとつで、食べ歩きレポのジャンルに入る。他誌の類似コーナーと違うのは、必ず食品そのものと一緒にライターであるわたしが映りこんでいるということだった。雑誌のコンセプトが“女性のすてきなお一人様ライフを応援”するというものだったから、取材対象店は必ずわたし一人で入れることが条件で、その証拠として自分撮りをする。それが面白いと読者もついて、企画の開始からはもう五年が経っていた。

「納得いきません。あれはわたしの育てたコーナーですよ」
「それは分かるわ。でも、あなただって読者アンケートには目を通しているでしょう?」

読者はあなたには飽きたのよ、とデスクは書類から目もあげずに言った。指摘は事実だった。このごろ、このコーナーの評価ははかばかしくない。かつては人気コーナーの上位だったのに。マンネリ化してきているのが原因かと、各国料理やゲテモノ料理まで食べ歩き、人の行かないようなニッチな店を探しあるいているうちに、体重も五キロ増えた。

「てこ入れが必要なの。読者はあなたのようなお一人様のプロになりたいわけじゃないのよ」

わたしは項垂れ、新しいコーナーの概要を聞いた。
新卒で入ったばかりのフォトジェニックな後輩が選ぶのは、彼氏も連れていけるおしゃれな穴場の店になるそうだ。
心の一番奥の棚に、その瞬間、緑色のぶよぶよした塊が新しく生まれ、鍵をこじ開けて胃を逆流し喉元の奥までせり上がってきたことを、わたしは今、自覚した。

 

普段わたしは心の中の棚を意識することはない。
それは厳重に鍵を掛けられ、存在そのものを忘れ去られて一番奥の深いところに眠っている。けれどもその鍵は容易に開いて、その度にもう二度とこの鍵が開きませんように、棚そのものが無くなりますように、とのたうちまわりながらわたしは祈る。呪うように。

わたしは今夜、全ての予定をキャンセルして部屋に戻って、アルコールとサンドバックの滅多打ちで自分を慰めることになるだろう。叶わない願いと、暴れそうになる自尊心を酒と暴力で慰めて、どうにか明日を迎えるだろう。
それが分かるから、わたしはなんとかしてこみ上げてくる塊を呑みこんだ。
吐いた後のように喉にささくれを残す感情は、ひどく苦い味がした。
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*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。

08:17 | momou | ■flora World 255「シクラメン/嫉妬」 はコメントを受け付けていません
2013/09/23

電柱の陰から彼女が現れたとき、不覚にも僕は目が離せなくなってしまった。

目の前にいる“彼女”から目が離せなくなってしまったのは、その異様な風体のせいだった。過剰なほどのフリル、幾重にも重なった段のあるスカート、まだ残暑が厳しいこの時期にぴったりと覆われた腕、そして何より腰まで届きそうなほど長い三つ編み。……顔には皺。脳裏で必死に与えられた情報を反芻する。会長の一人娘。まだ独身、確か今年五十になる――。

「……あのう、貴方が?」
「はい、そうです。お待ちしておりました、お嬢様」

遠慮がちに問いかけられて、初めて僕は頭を下げ、慌てて自己紹介をした。彼女は鷹揚にそれを聞き流し、意外なほど優雅な挙措で少女のように腕を預けた。

 

初めて訪れると言う竹下通りのど真ん中でも、彼女は臆せず胸を張って歩いた。

年齢に見合わない少女趣味、場所に合わないこの服装は雑踏の中でも人目を引く。僕は正直居心地が悪かったが、彼女は奇異の目で見られることに慣れているのか立ち並ぶ舖を興味深げに覗いていた。年齢から言ってそんなに歩きまわっては疲れるのではないかと休憩を幾度か申し出たけれど、彼女は穏やかに首を振って拒否した。

「一度、ここを歩いてみたかったのよ。あなた付き合わせて悪かったわね」

はあ、とも、いいえ、とも付かない返事をもごもごと口の中で転がしている僕には頓着せず、彼女は臆することなく若者でごったがえす街をゆく。途中、ゴシックロリータ系のショップを覗き、アクセサリー屋で手鏡を買い、最後に並んでアイスクリームを食べた。滴が落ちそうになるのを舐めとる舌は、どこもかしこも乾いたふうの彼女にあって驚くほどみずみずしかった。

「今日、あなたは休日出勤という形になるの?」
「いいえ。今日は完全に休日です」
「まあ。それじゃ、わたし貴方のお休みを潰してしまったのね」

ごめんなさいね、と彼女はひどく申し訳なさそうに言う。親子ほど離れている彼女の案内を務めるのは勿論仕事の一環だった。昨日会長から営業で一番若いのを、と指名されてのことだ。ただ、仕事であることは伏せるようにと申し渡されていた。

「憧れだったのよね。……父は心配性だから」

一人歩きも出来なかったし、送り迎えは車だし。ずっとこの街に憧れていた、この街には自由が溢れているような気がした。淡々とアイスクリームを食べながら語る彼女は、この街そのものよりもこうしてただ目的もなく歩くことそれ自体に焦がれているように話した。その目は熱を孕んでどことなく夢見ているような気さえした。

「最後に教えて。貴方の目から見て、わたしの服装はこの街で浮いているかしら」
「いいえ。自由って感じがします」

僕は答えた。最初は確かに面食らった、でも確かにこの服は彼女に似合っていた。原宿。信条をファッションとして身に纏うことを、おそらく一番許される街。

「よかった。いっぺん、こんな服を着てボーイフレンドと歩いてみたかったのよ」

悪戯っ子のように笑った口元は、年齢より遥かにチャーミングだった。

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*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。

07:27 | momou | ■flora World 254「白孔雀/可憐なひと」 はコメントを受け付けていません
2013/09/02

あーあ。またやっちゃった、って我に返ったのは家に着いてからだった。

買い物袋の重みで両手が痛い。ショッピングバックを肩から下げると、痺れてきた肩を回してあたしは今日買ってきた品物を床に並べた。ガラスの置き物、ダウンコート、革製のブーツ、ゴブラン織りのセンタークロス、万年筆、時計。それ以外にも控えだけ貰って来たのがいくつかあった気がする。ソファと、カーテンと、あとなんだっけ……百三十万なにがしのお金と引き換えに手に入れた品物の価値は高いのか安いのか分からなかった。

ときどき、こうなることがある。
こうなる、というのは要りもしないものを買ってしまうことだ。金額の多寡は時期によってまちまちだけど、今回はマシな方だった。でもわたしが意識して抑えたわけじゃない。単にカードの限度額の上限に達して会計が出来なかったからだ。いかがいたしますか、と妙に媚びて笑った販売員の顔を睨みつけ、わたしは枠いっぱいに買い物をしてきたのだった。

クレジットカードは魔法のカードではない。目に見えないお金は無限にあるわけではなく、設定された枠内でしか浪費の夢を見せてくれない。以前はそんな無粋なものはなかった。勤め先を変え、夫の名義で作られた家族カードは、最初から魔法の限度を決められているのだった。

わたしは急に色あせた目の前の品物を眺めた――お店の中ではキラキラと宝石のように輝いて見えた、一瞬でも。今度こそ本物だとおもったのに。

うちの蛍光灯のひかりでは急にみすぼらしくしょぼくれた戦利品にうんざりして、かさ高い箱を破った。あーあ。自分の口から漏れる馬鹿みたいな呻きはだんだんに笑いに変わる、あーあ。あはははは。現実味のない金額が、現実的なモノになって、目の前にある。夫はまだ知らない、わたしのこの奇行を。結婚する時母は必死になってわたしに言った、「もうやっちゃ駄目だからね」。カウンセリングルームに通わされ、なんとかというセラピーも散々受けてきたことも、わたしは一切隠して夫に嫁いだ。あのとき誓った通り、この衝動はずっとおとなしくなりを潜めていたのに。

欲しいから買うわけじゃない。手に入れたいから買うわけじゃない。モノそれ自体に価値があるわけじゃない、少なくともわたしにとっては。じゃあ、なんで? 欲しいものは、欲しかったのは、別にこんなガラクタじゃなくて、もっと違う、なにか別の。本物の。わたしをこんな衝動から解放してくれる、なにか、別の――

 

バックにつっこんだままの携帯電話が、鳴る。
夫だ。何も知らない、まだ知らない、夫からの電話。今から帰るという合図。
知られたら? でもまだ大丈夫、引き落としは月末だ。だからまだバレない。大丈夫大丈夫。

わたしは深呼吸して着信に答え、ごく短い会話を交わして通話を切る。とりあえず帰ってくるまでに品物をどこかへ隠さなければならない。どこへ? どうやって?

夫が帰るまで、あと一時間。
わたしは座りこんだまま、携帯の液晶に浮かぶデジタル表示が変わるのを見つめている。
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*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。

09:09 | momou | ■flora World 253「イソトマ/強烈な誘惑」 はコメントを受け付けていません
2013/08/19

いってらっしゃい、と手を振っていた子は、角を曲がって彼女の後姿が見えなくなるとすぐにくるりと向きを変えた。目が合う。距離を図るようにじりじりと後ずさって駆け出した背にためいきをつくと、台所の片づけをすべく僕は家の中に引っ込んだ。

「私バツイチだし子連れだよ。いいの?」

プロポーズしたとき、彼女はそう言って心配そうに僕を見た。それは前から聞いていたことだった。シングルマザーとなった彼女は猛烈に忙しく、朝は滑り込むように出社して夜は一度退社して子供にご飯を食べさせ、眠らせ、そうしてまた会社に戻ってくる、そんな生活をしている人だった。無理しているように傍からも見えた。だから手伝いたいと思ったのだし、実際手伝えば彼女は喜んでくれ、喜ばれると嬉しくなって僕はどんどん彼女に傾倒していった。彼女も彼女で寸暇を惜しんで僕との時間を作ってくれ、時にはデートのようなこともした。こちらは定時退社が標準装備の部署にいたから、時間はどうとでもなったのだ。
だから、だんだんに娘のお迎えを委ねられるようになり、気心が知れるにつれて食事やお風呂も任せられるようになり、気がつけば同棲のような形になってきて、遂に籍を入れたのがつい先週のことになる。両親からは大反対を受けたが、彼女の気配に馴染んだ家は居心地がよく、まして一緒に済めばそれだけ共に過ごす時間が増えるだろうと思ったのだ。
その予想は今のところ概ね当たっていたのだが、たった一つにして重大な誤算が発生した。彼女の娘――今は僕の子である、花がなんだか急によそよそしくなったのだ。
今まではお風呂も一緒でべったり、って感じだったのに。

「照れてるのかな。まだ、パパって呼ばれていないんでしょ?」
「うん。未だに名前に君付け。でもさ、こないだまであんなに懐いてくれてたのに」
「大丈夫大丈夫。時間がたてば元に戻るって」

彼女は鷹揚に笑っているけれど、僕としては心配で気掛かりで仕方がない。別に無視するとか、食事を食べないとか、そういう反抗的仕草は見せてこないけれど、花はけっこう気が強い子だ。もしかして僕が彼女を奪ったとか思っている? まさか。

苦笑して洗い終えた食器を伏せていると、項のあたりに視線を感じた。振り向くとさっき逃げていったはずの花がじっとこちらを見つめている。睨むような視線の強さにたじろぎつつも笑いかけると、花はにこりともせずに近寄ってきて、むんずと僕の腕を掴んだ。

「どうしたの」
「あげる。……こーくんは、はなのだからねっ」

渡されたのは、庭に咲いていた待宵草だった。ぽかんとしつつお礼を言うと、花はまた脱兎のごとく駆けだして行った。やれやれ。僕はモテモテだったんだなあ、と思いつつ、花瓶に水を張って生けた。

彼女が帰ってきたらこの花瓶に目を止めて、どうしたのだと尋ねるだろう。楽しみだな、と思いつつ、僕も出勤すべくエプロンを脱いだ。視線の向こうでは、花が相変わらずこちらの様子を伺っている。
女の子って面白いなと思いつつ盗み見た横顔は、やはり彼女にそっくりだった。
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*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。

11:45 | momou | ■flora World 252「待宵草/移り気」 はコメントを受け付けていません

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