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わたしは、心の中に棚をいくつか持っている。
手前の棚には、ちょっと笑える失敗だったり、他人に自慢してもいやらしくならない程度の自慢話――例えば、芸能人の誰それとどこかですれ違ったとか、社内のゴルフコンペでとび賞をもらったとか、その類の話が収められている。この棚は一番開ける頻度が高く、飲みの席では大活躍で、わたしは場を盛り上げるのがまあまあ上手ということになっている。
棚はいくつかの階層になっていて、深くなればなるほど、その鍵は厳重に掛けられており、普段は棚の存在を意識することすらない。その棚の一番下、最も奥深くに隠したものを、わたしはときどき思い出さざるを得ず、その度に、唇を噛んでその鍵を掛け直す。
今日その棚が開いたのはデスクが放ったひとことだった。
「申し訳ないんだけど、そのコーナー、……ちゃんにお願いすることになったから」
言葉ほどには詫びの色も欠片のない表情で、上司はわたしの手元から分厚いフラットファイルを持ち出した。呆気にとられる間もないほど一瞬の出来事だった。わたしが睨みつける視線の先で、名指しをされた後輩は無邪気に与えられたビックチャンスに喜んでいた。
その仕事はうちの雑誌の定期連載のひとつで、食べ歩きレポのジャンルに入る。他誌の類似コーナーと違うのは、必ず食品そのものと一緒にライターであるわたしが映りこんでいるということだった。雑誌のコンセプトが“女性のすてきなお一人様ライフを応援”するというものだったから、取材対象店は必ずわたし一人で入れることが条件で、その証拠として自分撮りをする。それが面白いと読者もついて、企画の開始からはもう五年が経っていた。
「納得いきません。あれはわたしの育てたコーナーですよ」
「それは分かるわ。でも、あなただって読者アンケートには目を通しているでしょう?」
読者はあなたには飽きたのよ、とデスクは書類から目もあげずに言った。指摘は事実だった。このごろ、このコーナーの評価ははかばかしくない。かつては人気コーナーの上位だったのに。マンネリ化してきているのが原因かと、各国料理やゲテモノ料理まで食べ歩き、人の行かないようなニッチな店を探しあるいているうちに、体重も五キロ増えた。
「てこ入れが必要なの。読者はあなたのようなお一人様のプロになりたいわけじゃないのよ」
わたしは項垂れ、新しいコーナーの概要を聞いた。
新卒で入ったばかりのフォトジェニックな後輩が選ぶのは、彼氏も連れていけるおしゃれな穴場の店になるそうだ。
心の一番奥の棚に、その瞬間、緑色のぶよぶよした塊が新しく生まれ、鍵をこじ開けて胃を逆流し喉元の奥までせり上がってきたことを、わたしは今、自覚した。
普段わたしは心の中の棚を意識することはない。
それは厳重に鍵を掛けられ、存在そのものを忘れ去られて一番奥の深いところに眠っている。けれどもその鍵は容易に開いて、その度にもう二度とこの鍵が開きませんように、棚そのものが無くなりますように、とのたうちまわりながらわたしは祈る。呪うように。
わたしは今夜、全ての予定をキャンセルして部屋に戻って、アルコールとサンドバックの滅多打ちで自分を慰めることになるだろう。叶わない願いと、暴れそうになる自尊心を酒と暴力で慰めて、どうにか明日を迎えるだろう。
それが分かるから、わたしはなんとかしてこみ上げてくる塊を呑みこんだ。
吐いた後のように喉にささくれを残す感情は、ひどく苦い味がした。
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*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。