いってらっしゃい、と手を振っていた子は、角を曲がって彼女の後姿が見えなくなるとすぐにくるりと向きを変えた。目が合う。距離を図るようにじりじりと後ずさって駆け出した背にためいきをつくと、台所の片づけをすべく僕は家の中に引っ込んだ。
「私バツイチだし子連れだよ。いいの?」
プロポーズしたとき、彼女はそう言って心配そうに僕を見た。それは前から聞いていたことだった。シングルマザーとなった彼女は猛烈に忙しく、朝は滑り込むように出社して夜は一度退社して子供にご飯を食べさせ、眠らせ、そうしてまた会社に戻ってくる、そんな生活をしている人だった。無理しているように傍からも見えた。だから手伝いたいと思ったのだし、実際手伝えば彼女は喜んでくれ、喜ばれると嬉しくなって僕はどんどん彼女に傾倒していった。彼女も彼女で寸暇を惜しんで僕との時間を作ってくれ、時にはデートのようなこともした。こちらは定時退社が標準装備の部署にいたから、時間はどうとでもなったのだ。
だから、だんだんに娘のお迎えを委ねられるようになり、気心が知れるにつれて食事やお風呂も任せられるようになり、気がつけば同棲のような形になってきて、遂に籍を入れたのがつい先週のことになる。両親からは大反対を受けたが、彼女の気配に馴染んだ家は居心地がよく、まして一緒に済めばそれだけ共に過ごす時間が増えるだろうと思ったのだ。
その予想は今のところ概ね当たっていたのだが、たった一つにして重大な誤算が発生した。彼女の娘――今は僕の子である、花がなんだか急によそよそしくなったのだ。
今まではお風呂も一緒でべったり、って感じだったのに。
「照れてるのかな。まだ、パパって呼ばれていないんでしょ?」
「うん。未だに名前に君付け。でもさ、こないだまであんなに懐いてくれてたのに」
「大丈夫大丈夫。時間がたてば元に戻るって」
彼女は鷹揚に笑っているけれど、僕としては心配で気掛かりで仕方がない。別に無視するとか、食事を食べないとか、そういう反抗的仕草は見せてこないけれど、花はけっこう気が強い子だ。もしかして僕が彼女を奪ったとか思っている? まさか。
苦笑して洗い終えた食器を伏せていると、項のあたりに視線を感じた。振り向くとさっき逃げていったはずの花がじっとこちらを見つめている。睨むような視線の強さにたじろぎつつも笑いかけると、花はにこりともせずに近寄ってきて、むんずと僕の腕を掴んだ。
「どうしたの」
「あげる。……こーくんは、はなのだからねっ」
渡されたのは、庭に咲いていた待宵草だった。ぽかんとしつつお礼を言うと、花はまた脱兎のごとく駆けだして行った。やれやれ。僕はモテモテだったんだなあ、と思いつつ、花瓶に水を張って生けた。
彼女が帰ってきたらこの花瓶に目を止めて、どうしたのだと尋ねるだろう。楽しみだな、と思いつつ、僕も出勤すべくエプロンを脱いだ。視線の向こうでは、花が相変わらずこちらの様子を伺っている。
女の子って面白いなと思いつつ盗み見た横顔は、やはり彼女にそっくりだった。
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*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。