6月も終わりだというのに、まだコラムを書いていませんでした(苦笑)。
最近、興味がchoreography以外のところに行ってしまっていて、コラムに書けるような活動をしていなかったこともありますが、このままではJunkStageを落ちこぼれてしまいますので(爆)、せめて一本だけでも書いておこうと思います。
今年も5月3日に行われた「東京オープン」を皮切りに、ボディビルの大会シーズンが始まったわけですが、私は当日家事都合により行けなかったのです。
そのため、これまでまだシーズンが始まったという実感がなかったのですが、この6月23日に大阪で「オール関西ミスボディフィットネス選手権」及び「ミス健康美関西オープン選手権」が行われたので、これを私にとっての「シーズン開幕戦」と位置付け、観戦してまいりました。
さっそく、開会式の写真からご紹介してまいりましょう。
この日は同時に「大阪クラス別ボディビル選手権」「大阪マスターズボディビル選手権」「大阪ジュニアボディビル選手権」も開催されていましたが、いずれも男子選手のみ行われました。
また、プログラム上には「オール関西ミスフィットネス選手権」も記載されていたのですが、参加選手がいなかったため行われませんでした(苦笑)。
次は、ボディフィットネスの方をご紹介いたします。
こちらは、身長163cmを境に2つのクラスに分かれていますが、163cm以下級に5人、163cm超級に3人のエントリーがありました。
第1ラウンドが黒ビキニ、第2ラウンドがオリジナルのワンピースで審査されましたが、第3ラウンドではオリジナルビキニではなく、第2ラウンドと同じワンピースでの審査でした。
そしてこちらが健康美ですが、エントリーしたのはこの選手1人だけでした(爆)。
しかししっかり、ビキニでの第1ラウンドとワンピースでの第2ラウンド、そしてビキニでパフォーマンスを行う第3ラウンドと、しっかり行いました。
この見事なプロポーション、美しいポーズをご覧いただければ、優勝選手にふさわしい内容であることは、おわかりのことと思います。
そしてボディフィットネスでは、163cm以下級の優勝選手と163cm超級の優勝選手によって、「オーバーオール決勝」が行われました。
結果、163cm以下級の選手が優勝し涙したのでした。
また大会では、審査員などの大会スタッフとして現役選手が参加していたり、出場していない選手が応援などで来場していることもあります。
大会終了後には、ロビーで選手と応援していた人たちが一緒になって、記念撮影していたりする風景もありました。
そんなこんなで充実していたこの大会、わざわざ大阪までいった甲斐がありました(笑)。
さて、来月はきちんとノルマを果たさないとなあ(苦笑)。
5月も終わりに近づいて、そろそろ尻に火がついてきた頃にこのコラムを書くわけですが、どうも最近意欲がわきません(苦笑)
こういうときは、連載物に限ります(爆)。
というわけで、久々にこれをお送りいたしましょう。
忘れた頃にやってくるストリップのネタですが(原爆)、時系列的には昨年11月に書いた1995年時点から再開する形になるかと思います。
さて、私がパソコン通信で開設していたストリップファンの集まり(BBS)ですが、参加しているメンバーはおおむね2つに分かれていました。
片方は、特定の踊り子の「追っかけ」をやっている方々で、BBSでも主導権を握っていた皆さんでした。
そしてもう片方は、特定の踊り子にのめり込むことはなくストリップそのものを楽しんでいる、いわゆる「一般客」の皆さんでした。
別の表現をするなら、前者は「踊り子ファン」で後者が「ストリップファン」と言ってもいいかもしれません。
さらに細かくいえば同じ「ストリップファン」の間でも、ストリップを「風俗」としてとらえる人と「choreography」として理解する人と分かれていたかもしれません。
そして私自身はといえば、「ストリップファン」でストリップは基本的に「choreography」と考えていましたが、「風俗」としての一面も否定しないというのが、当初のスタンスだったと思います。
しかし、BBSの主導権を握っていた「踊り子ファン」の皆さんとの交流が深まるにつれて、私の考えも変わってきてしまったようでした。
それにつれて、BBSは「踊り子ファン」のほぼ独壇場と化した感があり、「ストリップファン」の肩身が狭くなってしまったのではないかと思っています。
といいますのは、「ストリップファン」は自分の楽しみが最優先ですが、「踊り子ファン」にとってはそれ以上に踊り子のことを優先する傾向が強く、踊り子が不快に感じるような楽しみ方を否定することが、しばしばありました。
そのため、自分の楽しみ方を否定された「ストリップファン」の多くは「沈黙」を選ぶようになり、ますます「踊り子ファン」の勢力が強くなっていったのでした。
今振り返って思うに、「ストリップファン」と「踊り子ファン」はどちらもストリップ劇場からみれば「客」には変わりないのですが、そこに求める楽しみが異なるために互いに反目しあうことになってしまったのかもしれません。
それでも、劇場の中ではそれほど露骨な対立はなかったと思うのですが、ネット上のBBSという場で図らずも、両者の対立の構図が露呈してしまった感じでしょうか。
今では私はこういう場(BBS)を設けたことが、そういう「対立の場」になってしまったことを、率直なところ後悔しております。
とまあ、暗い話になってしまうのであまり書く気が進まなかったのですが、なんとか次回で締めくくりたいと思います。
ちょっと前の話で申し訳ありませんが、ゴールデンウィークの5月4日に愛知県のリトルワールドで、「オリエンタル・イリュージョン・サーカス」を見てまいりました。
このサーカスは、ロシア・キルギス・トルコなどのシルクロード沿いの国々のアーティストが集まったもので、サーカス芸のほかに魔術(イリュージョン)やベリーダンスなども盛り込んだ、エキゾチックな感覚豊かなサーカスでした。
論より証拠、まずは写真をご覧いただきましょう。
オープニングの後、最初の演目は男女2人組による空中アクロバットでした。
男性の力強さと女性のしなやかさが見事にかみ合った、見応えのあるパフォーマンスでしたね。
続いては、コロコロ転がるローラーの上でバランスをとりながら芸を見せる「ローリングバランス」でしたが、この高さでやってのけるのですからすごいですね。
さらに、1人の女性による空中リングのアクロバットが続きました。
こちらも、抜群の体の柔軟性を生かした、見事なパフォーマンスでした。
なにしろ「オリエンタル・イリュージョン・サーカス」と銘打っているだけに、イリュージョンすなわち魔術も当然演目の中に入っていました。
鎖でがんじがらめにされた上で箱に閉じ込められた男性が、いつの間にか脱出していたというマジックでした。
そして最後の演目は、ジャグリングでした。
男性3人が肩車して、高いところからジャグリングを見せてくれました。
忘れてはいけないのは、このサーカス公演を華やかに彩ったベリーダンサーの皆さんです。
彼女たちの踊りあってこそ、「オリエンタル」という雰囲気が出てくるというものではないでしょうか。
以上、簡単にサーカス公演の内容をお伝えしましたが、6月30日までリトルワールドにて公演中ですので、機会があったらぜひご覧ください。
早くも4月が終わろうとしていますが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。
さて4月といえば、「浜っ子」(横浜市民)として忘れてはならないものがあります。
そう、大道芸です。
今年は20・21日に「ヨコハマ大道芸」、27・28日には「野毛大道芸」が行われました。
ヨコハマの方は雨にたたられ、プログラムの変更を余儀なくされましたが、野毛の方は天候にも恵まれ、多数の観客が集結しました。
もっとも、観客が集結してよいことばかりではありません(苦笑)。
あまりに観客が多いと、観賞場所の確保に苦労するんですよ。
そこで28日は、今まで野毛では使わなかった、折りたたみ椅子を持っていきました。
これを使うと、座って見る観客と立って見る観客の境目に陣取って、どちらにも迷惑をかけずにしっかり視界を確保できるのです。
ともあれ、さっそく写真でご紹介いたしましょう。
まずヨコハマ大道芸ですが、観賞したのは21日だけでしかも途中まで雨が降っていたため、観賞できたのはベリーダンスの「アルカマラーニ」と、サンバの「エスコーラ・ヂ・サンバ・サウーヂ」だけでした。
ベリーダンスの方は、屋外でやる予定が雨のため屋内になり、逆光で撮影にはかなり苦労しました。
サンバの方は、夕方近くなってようやく雨が上がったところで行われ、なんとか撮影できたものです。
一方、野毛大道芸の方は27・28日とも観賞して、かなり充実していました。
定番の「在日中国雑技芸術団」のパフォーマンスはもちろんのこと、こう見えて実は大道芸12年のキャリアを誇る「カナ」嬢、そしてスペイン人男性と日本人女性によるアクロバットデュオ「YUMIRKO(ユミルコ)」など、見応えのあるChoreographyを堪能できました。
さて、5月はどのようなChoreographyを見ることができるでしょうか。
4月も、早くも3分の2が過ぎてしまいました(苦笑)。
私事ではありますが、このたび転勤し新しい職場での生活が始まりました。
3月までの職場とは違って、男ばかりではありますが雰囲気も明るく、自分を取り戻しつつあることを実感しています。
また、先日母方の祖母が99歳で亡くなり通夜・葬儀などあって、その点でも忙しくてコラムに手が回らなかったことをお許しください。
さて、この数ヶ月の間は、ライター仲間のたかはしういかさんのステージを、いくつか拝見することができました。
そこで、その観賞記録をこちらで書かせてもらおうと思いました。
もちろん、ういかさんご本人も承諾済みです(笑)。
ういかさんは、歌だけでなく演劇やパントマイムなども手がけていて、これらはまさに「choreography」と言うべきものです。
よって「番外編」ではなく、本編として今回のコラムを書かせていただく次第です。
3月16日には、東京は赤坂のジャズバー「杜のうた」で、ミニオペラライブがありましたので、こちらは夫婦で鑑賞させていただきました。
こじんまりとしたジャズバーでオペラというのが、なんか新鮮ですよね。
当日会場に到着すると、なんとういかさん自らお出迎えしてくださいました。
昼食付きでなんと3000円という、破格のコストパフォーマンスを誇るこのライブ、しかも最前方の席でしたので、これは実にこたえられません。
なにしろ、わずか1メートルばかりの距離で、ういかさんはじめとする歌手の皆さんの、生の歌が聴けるのですからね。
今回のメンバーは、歌手3人とピアニスト1人という構成で、歌手はソプラノのういかさんにテノールの佐藤慈雨さん、そしてバスの吉田拓人さんでした。
佐藤さんは、昨年3月に見たオペラ公演の「リタ」で「自由だ!」と日本語で叫んだ、リタの夫を演じていた人で、今回は進行役も務めていました。
また吉田さんは「拓人(たくと)」のお名前通り、本業は指揮者だそうです(爆)。
なおピアニストは、現役音大生の石川花蓮さんでした。
ライブは2部構成で、1部・2部とも最初にオペラのとあるシーンを再現した寸劇が演じられ、そこから歌に入っていくのですが、ここでういかさんの演技力が生き、アドリブとは思えない絶妙な受け答えを見せてくれました。
歌の方も、オペラ歌曲だけではなく日本の歌もしっかり歌いあげていましたね。
個人的に印象に残っていたのは、佐藤さんの「フニクリ・フニクラ」で、途中でなぜか歌詞が「鬼のパンツ」になってしまいました(原爆)。
(「鬼のパンツ」は「フニクリ・フニクラ」にコミカルな日本語の歌詞を付けたもので、NHKの「みんなのうた」でも放送されていたのです)
「リタ」でも笑いを取っていた佐藤さん、さすがこちらでもしっかり笑いをとっていきましたね(笑)。
今回初めての試みだったそうですが、今後もぜひ続けてほしいと思います。
そして4月6日には、雨の中代官山の「シアター代官山」に出かけてまいりました。
ここはかの「劇団ひまわり」の本拠地で、その専用劇場が「シアター代官山」というわけです。
こちらでは、ういかさんは「Bouquet-たえまなくねがうしあわせに-」と銘打たれたお芝居に出演していたのです。
タイトルから想像できるかと思いますが、舞台は結婚披露宴会場となったとあるレストランで、その披露宴を巡って起きる様々なトラブルに、頭を抱えながらもなんとか披露宴を成功させようという、ブライダルプランナーたちの奮闘ぶりをコミカルに描いたものでした。
ういかさんが演じていたのは、そのブライダルプランナーにスタッフの1人で小道具係の「戸川」さんでしたが、なんと披露宴の演出で派手な衣装で踊るシーンもあり、ういかさんの持ち味が実によく出ていたのではないかと思います。
こちらは撮影禁止ということで、写真で雰囲気をお伝えできないのがちょっと残念ですが、参考までに昨年の12月14日に同じシアター代官山で観賞した、パントマイム発表会の写真をご紹介してしまいましょう(笑)。
それにしても、ういかさんの「引出し」の多さには本当に驚かされます。
歌ってよし、踊ってよし。演じてよし。
そのうえ、しゃべると笑いも取れる(爆)まさに「マルチタレント」という表現がぴったりの人だと思いました。
そして、これほどの人材がJunkStageのライター仲間のお一人であることは、大変すばらしいことだと思います。
というわけで、これをお読みの皆さんにも一度ういかさんの舞台をご覧になることを、お勧めしたいと思います。
伸びゆく「初花の芽」が花を開かせるまでを、見届けようではありませんか。
さて3月ももうおしまい、相変わらずぎりぎりで申し訳ありません(苦笑)。
ただ、実は4月から職場を変わることになりました。
いわゆる「人事異動」というやつですが、このためにここのところ忙しくて、こちらまで手を回す余裕がなかったことをご容赦ください。
仕事のことはこちらでは書くまいと思っておりましたが、率直に申し上げてこの1年間は26年間にわたる私の地方公務員生活の中でも、ワースト3に入るであろうひどい年でした。
上司・同僚に仲間外れにされ、いくら仕事をしても報われない、ただ職場にいるだけでも苦痛な日々でしたね。
明日から出向く新しい職場に何が待っているかはわかりませんが、なにより自分に正直に生きることを最優先に、気持ちを新たに臨みたいと思います。
さて。前置きが長くなってしまいましたが、前回「番外編」をお送りすると予告させていただきましたが、なにぶん今月まだ1回しか更新していないので、とりあえず本編を一本お送りしておきましょう。
最近お送りしてきたシリーズの、続編です。
さて、前回はカメラをデジタルカメラを切り替えたところまでお話しさせていただきましたが、2006年以降ははデジタルビデオカメラに切り替えておりました。
といいますのは、choreographyの「瞬間」だけでなく「動き」も記録して残しておきたいという気持ちが前からあったのですが、デジタルビデオカメラで静止画も同時に記録することにより、その両立が可能になったからでした。
しかも、ハイビジョンならば静止画も写真として必要十分な画質を得ることができることもあって、昨年まではこの路線で撮影していました。
しかし実は、最近になって再びデジタル一眼レフカメラに回帰する動きがあったのです。
確かに、ビデオカメラなら写真とビデオを同時に撮影できるメリットはあるのですが、その画質は専用のデジタルカメラに比べるべくもなく、また縦長の写真は取れないという落とし穴がありました。
最近ボディビルの方で撮影仲間もできたのですが、彼もデジタル一眼レフを駆使して、私が恥ずかしくなるくらい見事な写真を撮っていました。
そこで私も、昨年末にキヤノンの「EOS 7D」というデジタル一眼レフを購入してしまいました。
以前愛用していた、「EOS Kiss Digital」に比べて画素数は3倍の約1800万、連写性能も1秒間に8枚というマシンガンみたいな「馬力」を誇り、頑丈なボディとあいまって実に頼りになる「相棒」といえるでしょう。
このEOS 7Dを使って撮影したchoreographyの実例は、こういう感じです。
お気づきの方も多いと思いますが、今年1月13日にさいたま市で観賞した大道芸のパフォーマンスの写真です。
まだこのカメラで撮影したchoreographyは、これしかないのです(苦笑)。
4月になれば、地元横浜での「ヨコハマ大道芸」及び「野毛大道芸」で、遺憾なくそのパワーを発揮してくれることと思います。
そして、5月から始まるボディビル大会シーズンでも、活躍してくれることでしょう。
というわけで、私がchoreographyを残すために使ってきたカメラの変遷をお伝えしてまいりました、このシリーズをこれにて締めくくらせていただこうと思います。
ご高覧、ありがとうございました。
今月も早くも月半ばとなりました。
やはり年度末は公私ともに忙しく、なかなかこちらの方まで手が回りませんでしたが、今回はなんとか書いてみましょう(笑)。
今回も、前回の続きでカメラについて書かせていただきます。
1990年代ではもっぱらコンパクトのフィルムカメラでchoreographyを撮影してまいりましたが、21世紀に入って大きな変化がありました。
そう、デジタルカメラがこの頃から手の届く値段になってきたのです。
初めて買ったデジタルカメラはオリンパスの「C-100」で、2001夏に買いました。
わずか130万画素(1280×960ドット)でズームもありませんでしたが、けっこう撮ろうと思えば撮れるものなんですね。
このカメラでの作品例は、こちらです。
これは2001年の7月から9月の夏休みシーズンにかけて、東京・池袋の屋内型テーマパーク「ナムコナンジャタウン」で行われていた、中国雑技のパフォーマンスを撮影したものです。
この頃のデジタルカメラは、画素数の少なさもさることながら画質も今とは比べ物にならないほど低く、また次の撮影が可能になるまでの時間もかなりかかったため、動きのあるchoreographyの撮影にはまだとても耐えられるものではありませんでした。
ですので、当時はフィルムカメラも並行して使っていました。
上と同じパフォーマンスをフィルムカメラで撮ると、こうなります。
こちらは、現像後のネガフィルムをスキャナで読み取ってデジタル化したものですが、やはりこちらの方が質の高い画像ではないかと思います。
私が完全にフィルムカメラからデジタルカメラに乗り換えたのは、2004年にキヤノンのデジタル一眼レフカメラ「EOS Kiss Digital」を入手してからのことでした。
しかしながら、ご覧いただきましたように当時の性能の低いデジタルカメラであっても、どうにか観賞に耐える写真を撮影することは不可能ではありません。
また、このJunkStageのライターの方で、携帯電話で芸術的な写真を撮影する方もかつておられました。
もちろん、携帯電話のカメラの性能も向上著しいものがありますが、あのおまけのような小さなレンズを通して、本格的な一眼レフカメラで撮った写真にも劣らない、見事な写真をコラムに掲載されていたことを、今でも記憶しています。
ここで私は、あるひとつのことわざを思い出すのです。
「弘法筆を選ばず」
これは、弘法大師(空海)のような優れた書家ならば、どのような筆を使ってでも立派な書が書けるという意味ですが、写真撮影についても同じことが言えるのではないかと、私は思っております。
すなわち、優れたカメラマンであるならば、どんなカメラでも芸術的な写真を撮ることができるものなのだと。
それこそ携帯電話のカメラや使い捨てカメラであっても、「いい写真」が撮れないということは決してないんだと思うわけです。
私もカメラに関しては、できるだけシンプルな構成で撮影に臨むようにしていますが、その中でchoreographyの魅力を十分に切り取れるような写真を撮りたいと、常に思って撮影に臨んでいるつもりです。(あくまで「つもり」ですが・・・)
今回はなんか、偉そうなことを書いてしまいましたね(苦笑)。
さて次回は、まことに勝手ながらしばらく封印してきた「番外編」を、書かせていただこうと思います。
え、フィギュアスケートの世界選手権はどうしたって?
まだ録画も見ておりません(爆)。
まあ、男女とも来年のソチ五輪の出場枠を3つづつ確保できたのですから、よろしいのではないでしょうか。
さあ、2月も今日でおしまいです。
尻に火がついてきたところで、もうひとつコラムをお届けいたしましょう。
今回は、前回の続きということでカメラのお話をまたさせていただきます。
そういうわけで、1990年代のchoreography撮影はコンパクトカメラ+高感度フィルムという組み合わせで、もっぱら行っておりました。
しかしご存知のとおり、カメラのフィルムは長くても36枚撮りまでで、フィルム交換の間にいいシーンを撮り逃すこともよくありました(苦笑)。
お金に余裕があれば、カメラを2台用意してかわりばんこに撮影すればよいのですが、あいにくそこまでの余裕はありませんでしたしね。
こうして、choreographyの撮影にいそしんできたわけですが、フィルムカメラというものは一瞬を切り取るものなので、動きのあるchoreographyの撮影では「ここぞ」という一瞬にタイミングを合わせてシャッターを切ることが、実に難しいものです。
これは数十年続けていても、自分でもまだまだだなあと感じております(苦笑)。
だいたい、ファインダーからのぞいて「あ、これだ!」という瞬間を見てからシャッターを切っても、もう遅いのです。
ですから、何十枚何百枚と写真を撮ってもそのうち観賞に値するショットは、せいぜい数枚程度といったところが実情でした。
そして私は、自分なりの格言らしきものを作って自戒するようになりました。
「シャッターチャンス!と思ったときには、もう遅い」
ではどうすればよいかというと、「正解」といえるものがまたないんですよね(苦笑)。
ある程度場数を踏めば、演技の流れから「ここらへんなら」という部分がなんとなくわかってはくるのですが、結局は「カン」が頼りということになりますか(爆)。
しかしまあ、「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」という言葉もあるように、何枚も撮っておけばいくつかは使えるショットも偶然撮れたりするもので、これを地道に積み重ねていくということではないでしょうか。
というわけで、1990年代後半の私の作品からもう少しご紹介してみましょう(笑)。
こちらは、1995年に今はなき横浜プリンスホテルで撮影した、新彊ウイグル自治区雑技団のコントーションのパフォーマンスです。
横浜プリンスホテル内の中国料理レストラン「李芳」で、当時は毎晩中国雑技の公演があり、料理を楽しみながらchoreographyを観賞できたのです。
このときは燭台のロウソクの光を際立たせるために場内を暗くした演出だったのですが、ここで高感度フィルムが活躍してこのような写真を撮ることができました。
中国雑技にしては、衣装がなかなかセクシーだったのも魅力的でした(笑)。
少数民族であるウイグル族によるパフォーマンスだったからこそ、でしょうか。
よし、これで今月のノルマはなんとか果たしたぞ(爆)。
3月はもう少し、間隔を整えましょう(苦笑)。
今月も下旬になって、まだコラムを書いていませんでした(苦笑)。
いや本当に最近は、choreographyを全然見ていないものですから・・・
で、苦し紛れに今回はこういうネタでやろうかと思います。
前に、昨年末中古のデジタル一眼レフカメラを買ったお話をしたかと思いますが、今回はchoreographyの撮影に欠かせないカメラのお話をさせていただきます。
演じられたその場限りのchoreographyを記録し、いつでもその魅力を見返すことができるようにしたいという気持ちは、常に私の中にありましたが、私がchoreographyの写真を本格的に撮影するようになったのは、1990年代に入ってからのことだったと思います。
といいますのは、それまで一般に体操・新体操やサーカス・ダンスなどのchoreographyは、カメラで撮影するには暗い場所で行われていて、当時一般大衆が写真を撮影することはたとえ禁止されていなくても、技術的にほぼ不可能なことだったからです。
せいぜい、屋外で行われた大道芸が撮影できるくらいだったでしょうか。
もっとも、当時の私は大道芸でchoreographyが見られることを、まだ知らず興味を持っていませんでしたが(苦笑)。
しかし1990年代に入ると、感度が普通のフィルム(ISO100)の16倍(ISO1600)という高感度フィルムが手軽に入手できるようになってきました。
また、コンパクトながらオートフォーカスでピント合わせの手間が省け、しかも3,4倍のズーム機能もついた便利なカメラが、手軽な価格で入手できるようにもなりました。
このフィルムとカメラの組み合わせにより、暗い屋内で行われていたサーカスでもなんとか撮影できるようになり、その魅力を残しておくことができるようになったのです。
そんな私の初期の写真は、こういう感じでした。
これは1992年秋に神奈川県相模原市で行われていたイベントに来演していた、フランスのミニサーカスのパフォーマンスの模様です。
もっとも、演じていた彼女自身はは中国の出身で、主に中国雑技の皿回しなどやっていたわけですが(爆)。
もうひとつ、この時期のchoreographyをご覧いただきましょう。
あらゆるchoreographyの中でも私が最も好きなのが、体の柔らかさと美しさを「これでもか」というほど見せてくれる、「コントーション」というアクロバットです。
こちらは、1994年の秋に愛知県のリトルワールドで初めて見た、モンゴルサーカスのコントーションです。
屋外で行われたこともあって枚数もかなり撮りましたし、これを見るために横浜から何度も出向いたものです。
驚異的な体の柔らかさだけではなく、体の美しさも大きな魅力でしたが、これ以降見るモンゴルサーカスではその体全体を衣装で包んでしまい、魅力を半減させてしまっているのが残念です。
うん、苦し紛れに書き始めたネタでしたが、一旦書き出すとこれはなかなか行けそうな気がしてきました(笑)。
これも今後、シリーズ化してみようかな。
さしあたっては、今月中にもう1回コラムを書かなくちゃいけないし(爆)。
おまけ
24日にはJunkStage総会に出席してまいりました。
しかし、出席したメンバーで頭が白いのって私だけでした(苦笑)。
寄る年波には勝てず、懇親会も途中で失礼せざるを得ませんでした。
新しいライターの方も増えてきたし、やっぱり潮時かなあ(原爆)。
2013年は早くも1か月が過ぎようとしています。
考えてみれば、私は今年まだコラムを1回しか書いておりませんでした。
前回(1月13日)以降、choreographyをまったく観賞していなかったもので・・・(苦笑)
ネタに困ったところで、苦し紛れに久々にこの連載を復活させるわけです(爆)。
お話は、確か結婚したことまででしたが、それは1995(平成7)年のことでした。
当時は仕事で心身ともに疲弊した状態でして、ストリップを見に行くことは当時に私にとっては、もっとも有効なストレス解消手段でもあったのです。
しかし問題は、それが結婚後も続いたことでした(原爆)。
本当にカミさんには悪いことをしたなあと反省しておりますが、自由にさせてくれたことには感謝しています。
あ、もちろん休みのときにはよく夫婦で一緒に、いろんなところに出かけましたよ(笑)。
ストリップ劇場にも、2回ほど連れて行きましたが(水爆)。
さて、当時はいわゆる「アイドルストリッパー」の全盛期で、テレビ番組でもよく取り上げられていましたし、雑誌のグラビアを飾ったりもしていたものです。
そして彼女たちのステージはまさに「choreography」としても、かなりいい線いっていたのではないかと思います。
しかしその一方で、「風俗」としてのストリップも1990年代にはまだ健在でした。
これまではっきりとは書きませんでしたが、すでに今世紀には「過去の遺物」と化したので、書いてしまいましょう。
私がストリップを見始めた1980年代半ばの頃、ほとんどのストリップ劇場のメインの演目は「本番生板ショー」というものでした。
これは要するに、ステージの上でダンサーと観客代表がある「行為」を行うというものでした(中性子爆)。
そして、その代表になる権利を得るための「ジャンケン合戦」の熱気と殺気は、それはすさまじいものでした(苦笑)。
ですから、形は「ショー」でも中身は正直見られたものではなかったものが、正直大多数でしたね。
少数ながら、踊りもきっちりこなすダンサーもいましたが・・・
そんな中で、黎明期のアイドルストリッパーやアクロバットを見せるダンサーは、「見せる」だけで観客を満足あるいは納得させなければならなかったわけですから、当然質の高い「choreography」を見せなければならなかったのです。
逆に1990年代後半、「風俗」としてのストリップの影が薄くなっていく一方で、「choreography」としてのストリップの質が落ちてきたと感じられるようになりました。
「昔はよかった」という言葉は古い人間が言う言葉なのでしょうが、ことストリップに関して言わせてもらうなら、まさにこの一言に尽きると思います。
まあ、私ももう古い人間の1人なんでしょうけどね(苦笑)。
と、今回は横道にそれてしまいましたが、ここらへんでなんか書いておかないと、次いつ書くかまたわからなくなっちゃいますからね(爆)。
こんな感じで、しばらくゆっくりさせていただこうと思っております。