Home > 新着記事 > sakai

2013/04/10

こんばんは、酒井孝祥です。

このコラムで連載を開始して以来、本当は書きたくて仕方がないけれども、避けてきた内容があります。
それは、自分が携わっているものを除き、ある特定の公演や劇場の宣伝になる様な内容です。
関係者でもないのに、具体的な興行の営利に関わる内容を述べるのは立場違いと思うからです。

しかし、どうしても書きたいことがあり、今回はその禁を破ります。
もしかしたら一定期間経過後にこの記事を消去するかもしれません。

ニュースなどでご存知かと思いますが、今月、3年の時を経て、歌舞伎座が復活しました。
僕は、世界で一番素晴らしい場所を歌舞伎座の一幕見席だと思っていた程、旧歌舞伎座があった頃、時間があれば歌舞伎座に足を運んでいました。

ここで歌舞伎座の一幕見席についても説明しなければなりませんが、歌舞伎の上演形態の多くは、昼の部と夜の部(今月の興行もそうですが、ときには3部制)に分かれており、その1つの部が3作品前後で構成されています。
そのうちの1つの作品だけを見るための当日券オンリーの席で、歌舞伎座だけに存在します。
場所は4階にあり、舞台が見える範囲も限られてしまうのですが、ぶったまげるくらい格安な値段で歌舞伎を観ることの出来る席です。

新生歌舞伎座の杮落としの4月2日、僕はたまたま銀座の近辺で用事があり、それが19時30分頃に終わりました。
今月上演される演目の中でも、歌舞伎の代表的作品ともいうべき「勧進帳」だけは絶対に観劇したいと思っており、それが20時30分頃からの開演だということを記憶しておりました。

一幕見席は、予約なしに気軽に出向くことの出来る席ではありながらも、立見席を含めた座席数は限られるわけで、人気のある演目や襲名披露興行だったりすると、上演の開始の1時間前には大行列が出来ていて、結局満席で入れないことがあります。
まして、今日は新生歌舞伎座の記念すべき第一日目の公演です。
杮落とし初日を狙ったお客さんで溢れ返り、到底入場することは無理だろうと思っていました。

無理だろうと思いながらも、その日一番最後の演目で開演時間も遅いから、もしかしたら…と淡い期待を抱きつつ、入れなかったら入れなかったで、折角近くまで来たのだから、新しい歌舞伎座の外観を写真に撮って帰ろうくらいに思っていました。

ところが、そう思って歌舞伎座を訪れて、一幕見席の入り口に「勧進帳」の立見席が残っているという表示を見つけました。
新生歌舞伎座で一番最初に上演される「勧進帳」を見られることが分かった瞬間の感動と言ったら…

以前の歌舞伎座にはエレベーターもエスカレーターもなく、一幕見席と言えば、ご年輩の方には過酷とも言えるようなやたら急な階段で4階まで上るという試練を乗り越えて見に行くものだったのですが、新生歌舞伎座にはエレベーターがあり、一幕見席入り口から4階まで直通で上がることが出来ました。
4Fのロビーも以前とは見違えるほど立派になっていて、歌舞伎座ではない別の劇場に来ているような錯覚に陥りました。

通常だったらチケットは1Fで購入するのですが、僕が着いたときは開演時間が近かったので、4Fの受付で購入しました。
一幕見席のチケットと言えば、以前は、受付のお姉さんが鬼気迫る勢いで判子を押し、定規をつかって用紙を切断しながら発券されるものだったのですが、新しい歌舞伎座では、レシートの様に印字されたチケットに変わっていました。

場内に入ると、そこは以前とほとんど変わらない歌舞伎座でした。
ようやく、3年ぶりに歌舞伎座に来たという実感が沸きました。
ただ、以前よりも照明が明るく感じられました。
後で聞いた話ですが、一部の照明がLEDに交換されたようです。

そして、非常に衝撃的なことがありました。
以前の歌舞伎座一幕見席では、値段が安い分仕方のないことかもしれませんが、花道がほとんど見えない構造になっていました。
ところが、花道が以前とは比較にならないくらい見えるのです。

“七三”と呼ばれる、役者がポーズを決めたりすることが多い位置まではっきり見えました。
以前の様に、花道で芝居が繰り広げられているときに、全く何をやっているのか見えない状況がだいぶ軽減されるはずです。

「勧進帳」は以前の歌舞伎座の一幕見席で何度も見ている演目です。
ところが、同じ席で同じ演目を見ているにも関わらず、以前の歌舞伎座一幕見席とは見え方がだいぶ変わっていました。

以前は役者を頭の方から見下ろしているような印象だったのが、そのときに比べると、遥かに正面から見ている感が強くなり、舞台全体像が見やすくなりました。
チケット代金は以前に比べると割高になっていましたが、その分クオリティが上がったと思います。

その日は杮落とし初日ということもあってか、かなり沢山の歌舞伎通が集まったらしく、かつて聞いたことがないほどに客席から大向こうの掛け声がかかりました。
声を掛ける人が30人くらいはいたのではないでしょうか?

「勧進帳」の様なスタンダードな演目になると、どのタイミングで声を掛けるかというのが決まりきっているようで、要所要所で、「〇〇屋!」「待ってました!」「たっぷり!」という掛け声の大合唱でした。
たまに見事なほどハモることもあって、本当に歌舞伎っていうのは客席も一緒に作っている作品だと実感します。
ラストの、弁慶の花道の飛び六方での引っ込みのとき、「男前!」と声を掛けた人がいて、その掛け声で客席に笑いが起こったりもしました。

「勧進帳」は今月28日まで、毎日20時30分頃から上演されます。
チケットが完売してしまえばそれまでですが、僕が初日の20時頃に行ってもまだチケットがあったくらいなので、意外といけるかもしれません。
「勧進帳」はもちろん、昼間上演される「白浪五人男」も初心が楽しむのにぴったりな演目です。

歌舞伎を見たことがないような人には、この機会に是非見ていただきたいです。
チケット代も、小劇場で観劇するより安いくらいですよ。

次回は、「忌み言葉って…?」(ブライダル)をテーマにしたコラムをお届けします。

01:38 | sakai | 新生歌舞伎座初日の衝撃 はコメントを受け付けていません
2013/04/09

こんばんは、酒井孝祥です。

舞台公演において、素晴らしい脚本と演出のもと、最高の役者が集まって、衣裳や舞台装置に莫大な費用がかけられ、稽古時間も十二分に取れたとします。

しかし、もしもその舞台に一人
もお客様が入らなかったら、全く何の意味もなしません。
舞台芸術は、その空間を共有するお客様が存在して、初めて成立します。

お客様には、わざわざ予定を空けていただいて、劇場まで足を運んでいただいて、お金まで払っていただかなければなりません。
そこまでのことをしてもらうのは、そう簡単なことではありません。

この日本で行われる様々な舞台公演の大部分は、その舞台の出演者が個人的な知人にチケットを手売りし、お客として招くことによって成立していると言っても過言ではないでしょう。

小劇場の演劇などでは、役者それぞれにチケットノルマが割り当てられ、ノルマ枚数売れなかった分の料金をその役者が金銭的に負担することによって、興行が極端な大赤字になることを防いでいます。

いわゆる商業演劇と呼ばれる、マスコミでも大々的に宣伝されるような大規模な興行ですら、出演者が手売りするチケットが頼りにされることがあるようで、主役級の役者は一人で何百枚も売りますし、出演者オーディションでは、まず最初にチケットを何枚売ることが出来るかを質問され、その枚数によって合否が分かれたり、出番の多さが変わったりすることもあるようです。

そんなわけで、役者には、素晴らしいパフォーマンスを提供するだけではなく、チケット販売の営業力をも求められるケースが多いかと思います。

劇団によっては、皆が集まっている中で、主催者が一人一人のチケット売上枚数を読み上げたり、あるいは役者の方で自ら売上枚数を申告し、枚数の少ない人に対しては、降板勧告がなされたり、チケットを販売するために、その日の稽古を早退させられたりすることもあります。

知人にチケットを販売するにあたって、まず大前提となるのは、その公演の情報を案内することです。
どんなに面白い内容の作品であったとしたも、それがいつどこで行われ、料金がいくらなのか等の情報伝達がなされなければ、買う方だって買いようがありません。

公演の案内チラシを手渡し出来ればそれにこしたことはありませんが、出来なければDMとして郵送する方法があります。

昨今では、わざわざ郵送しなくとも、そういった公演案内情報をEメールで多数の知人に送信することは容易であり、たとえEメールアドレスが分からなかったとしても、FacebookやmixiなどSNSを利用することも出来ます。

舞台活動に携わっている限り、公演の度に、そういった様々な方法を駆使して、知人に公演情報を伝達しなければなりません。
同時に、知人から公演案内のDMを受け取ることも多々あります。
郵送であれEメールであれ、普通に月に4~5通ほどは届くでしょうか。

沢山のDMを受けていると、その内容や送信方法によって、相手の公演に対する思い入れや、顧客の扱い方が見えてきて、自身が送るときの参照にもなります。

まず一番に思うのは、相手が自分の住所を知らない場合はともかくとして、郵送でDMが届くのと、Eメールで届くのとでは、郵送で届く方が、つまりは、一手間をかけて、郵送料をかけて送られてくる方が、その公演に対する思い入れを感じます。

もちろん、紙媒体のものを送ったら相手にとって邪魔になるかもしれないし、結果的にはゴミになって迷惑をかけてしまうから、敢えてEメールにするという考え方もあるかとは思います。

そして、EメールならEメールで、一斉送信で送られてくるものと、個別で一通一通送られてくるものとでは、やはり個別で送られてくる方が、丁寧さを感じます。
以前、僕が一斉送信で案内を送った際に、「一斉送信のご案内には欠礼させていただいております。」という返信が届いて、成程と思ったことがあります。

僕がDMを受け取って、最も酷いと感じる内容は、「返事を下さい」などと返信を強要するかの様な文面です。

僕自身、案内を送って、何らかの返事をいただけると凄く嬉しいですし、返事がないと不安になります。
だからといって、相手に返事を強要してしまったら、それはもはや、顧客に商品をお薦めするDMではなく、まるで販売する側が顧客よりも上位に立つような態度です。

そういうDMを送ってくる人に限って、こちらから送ったときには何の返信もないことが多く、不思議でたまりません。

なかには、返事をよこせというからわざわざ返信したのにも関わらず、その返信に対して何のリアクションもしない人もいて、そうなると、まるで侮辱されたかの様な気分です。

僕の場合は、相手が返事をよこせという態度でなかったにしても、基本的に案内をいただけば、行けないなら行けないで「ごめんなさい、今回都合がつかなくて見に行けません。」くらいのことは、必ず(たまに出しそびれてしまうこともありますが…)返信する様にしています。

その返信に対して、「わざわざ連絡ありがとうございます。」くらいの反応が何もない人の舞台は、正直、今後見に行きたくありません。
顧客が来場可否の情報を提供したことに感謝の意を示さない人が、お客を楽しませる舞台を創れるとは思えないからです。

そして、DMを送るにあたって大きく神経を使うことの1つが、それを送付する時期です。

まず、送る相手が役者さんなどだった場合、送る時期に相手が本番直前や本番真っ最中ではないかを確認します。
自分の舞台でいっぱいいっぱいのタイミングで、人の舞台の案内をもらっても、困ってしまいます。

あまり早く送り過ぎても、本番までの間に忘れ去られるかもしれないし、直前過ぎても都合をつけるのが難しくなってしまう。
だとしたら、早めの段階と直前の段階で2回の案内を送りたいものですが、その間の時期が狭まってしまうと、しつこい印象を与えてしまいます。

DM1つ取っても、その人の舞台に対する思い入れと、顧客に対する気配りの姿勢が見えてきます。

次回は、「新生歌舞伎座初日の衝撃」(古典芸能)をテーマにしたコラムをお届けします。

01:21 | sakai | ★DMの嵐 はコメントを受け付けていません
2013/03/26

こんばんは、酒井孝祥です。

僕はここ2年以上、早替えが名物のような劇団にお世話になっております。
多いときには、休憩なし2時間弱の公演の中で、7種類の衣装を着たことがあります。
着物が5種類に袴が3種類、羽織が1枚に洋装が1着という衣装が用意され、本番中、自分の出番のないときは常に楽屋で着替えていました。

お陰様で、その劇団の公演終了後に、お客様から、同じ人が次から次へと違う衣装で違う役で出てくるのが面白かったと好評をいただくことがよくあります。

単純に、役数に対して出演者の人数が足りないから早替えを繰り返しているのが実情と言えば実情ですが、早替えを行なうことそのものも演出の一環として、お客を喜ばせる要素と言えるかと思います。

歌舞伎には、「義経千本桜」の“河連法眼館”の場の様に、イリュージュンのごとくに、次から次へと早替えを行なうことをウリにした演目も沢山あります。

「東海道四谷怪談」では、“戸板返し”と称して、役者が板に張り付いた状態で、その板が回転すると、役者が女⇒男に変わっているという瞬速での早替え演出(実際に着替えてはいませんが…)もあります。

上記の様な歌舞伎の仕掛け的な演出では、着替える技術というよりも、そもそもの衣装の構造などの工夫がそれを可能にしておりますが、舞台袖に引っ込んで、今着ている衣装を脱いで、新しい衣装を着るような早替えを行なうにあたっては、着替えを補佐する人がつくことと、あらかじめ段取りを決めておくことが必要不可欠となります。

まず最初に誰が帯を外して、次に誰が着物を脱がせて、着替える本人はどこまでを自力でやってどこからを人任せにするか…といった手順をしっかり決めて、焦らずに、その決めた通りの順番で着替えることが必要です。

そして、早替えと言えば、演者がお客の見えないところに一旦ハケて、着替えが完了した状態でまた出てくるものを指すと思われるかもしれませんが、歌舞伎や日本舞踊においては、それだけではありません。
舞台の上にいるままで、衣装だけがチェンジするという演出もあります。

いわゆる“引き抜き”と言われる演出で、日本舞踊の「鷺娘」などで多用されています。
踊り手が、着物の上に別の着物を重ねて着ており、後見さん(顔は出していますが黒子の様な存在)が上の着物を固定している糸を抜いて、すっぽりと着物を取り去り、違う色の着物が出てきたり、上半身の着物を固定している糸を抜いて、それが下に垂れ下がることで、上半身の着物の裏面の模様で前進を覆ったりします。

この様な仕掛けで、舞台上にいる演じ手の衣装が瞬時にして変化する演出は、日本以外の芸能では、ほとんど見られないのではないでしょうか?

また、いかにスピードを追求しようとも、大掛かりな衣装チェンジを行なう場合には、やはりどうしても時間がかかります。
演じ手が1回引っ込んで、着替え終わって次に出てくるまでの時間をいかにして繋ぐかということにおいても様々な工夫がなされています。

「連獅子」や「鏡獅子」などのように、獅子が長い髪の毛を振り回す毛振りが見処の演目では、最初、わりと普通の着物姿で出てきて踊った後で、引っ込んで獅子の姿になるまでの間、女の子二人による胡蝶の踊りが踊られたり、短めの狂言が一作品演じられたり、それが名取り披露の踊りなどであれば、踊り手のオリジナルデザインの手拭いを後見さんが客席にばら撒くようなことが行なわれたりします。

踊り手が引っ込んでいる間は、純粋に楽器の演奏を楽しんでいただくというものもあります。

もしも着替えが間に合わなかったらどうなってしまうのか…?
それは舞台裏にいる役者にとっても、客席にいるお客様にとっても相当にスリリングな問題です。
そのドキドキ感がいっそう作品を盛り上げているのかもしれませんね。

次回は、「DMの嵐」(俳優道)をテーマにしたコラムをお届けします。

12:05 | sakai | 早替えという演出 はコメントを受け付けていません
2013/03/25

こんばんは、酒井孝祥です。

昔、ある結婚式場のプランナーさんが、新郎新婦に対して「それでは新郎新婦、〇〇までご案内いたします。」と呼びかけたスタッフのことを指して、「あの人は言葉遣いが分かっていない。普通“新郎新婦”じゃなくて“ご新郎ご新婦様”でしょ。」と言っているのを耳にしたことがあります。

しかし、式場の会場スタッフの間で、よくそういう言い方がされるものの、実は、“ご新郎様”とか“ご新婦様”という呼称は、三重敬語とも解釈出来ます。
“新郎”や“新婦”自体が既に敬称なので、それに“ご”をつけてさらに“様”をつけたら、“お先生様”“お先輩様”などと呼ぶのと同じようなもので、くどい印象があると僕は感じています。

そういうわけで、僕が司会をするときには、お2人のことを“ご新郎様”“ご新婦様”とは呼ばず、“新郎”“新婦”と呼びます。
でもそれよりも、“お2人”とか、“〇〇さんに〇〇さん”と個人名のファーストネームを使うことの方が多いかもしれませんね。

個人名で呼ぶ場合、非常に注意しなければいけないのは、1日に2件の披露宴の2件目のときに、誤って1件目の新郎新婦の名前を言わないようにすることです。
それを言ってしまったら、下手すれば会場出入り禁止ものです。

余談ですが、「本日は〇〇(会場名)へようこそお越しくださいました。」と言うときに、誤って似たような雰囲気の別の会場名を言ってしまった人などもいるそうです。
そういうミスは本当に洒落になりませんね。

しかし、いくら日本語的に考えて過剰な敬語であったとしても、他のスタッフが皆“ご新郎ご新婦様”と呼ぶのに、司会者だけが“新郎新婦”と言っていたら、当のお2人にしてみれば、呼び捨てにされている感が出てくるかもしれません。

ですから、その会場で“ご新郎様”“ご新婦様”という三重敬語がスタンダードになっているようであれば、“ご新郎”“ご新婦”もしくは“新郎様”“新婦様”という風に、二重敬語に留めて呼びかけるようにもしています。

とは言うものの、年輩のゲストなどで、日本語の言葉遣いに敏感な人がいるかもしれないことを考えれば、やはり過剰な敬語は使いたくないものです。
出来れば打ち合わせのときに雑談的にでも、“新郎新婦”というそれ自体が敬称なんですよと話をして、決して呼び捨てにしているわけでないことを事前にお2人に教えておきたいものです。

“ご新郎ご新婦様”に限らず、結婚式場内でおかしな日本語が飛び交っていることが時折あります。

サービススタッフがビールやコーヒーのことを“おビール”や“おコーヒー”という風に、本来“お”をつけるべきではない外来語に“お”をつけたりですとか、案内スタッフが「“右手側”にお進み下さい。」と、“右手”だけで右の方向を意味しているにも関わらず、さらに“側”をつけたりしているのを耳にします。

僕がゲストとして披露宴に列席するときなどは、日本語の使い方を理解しているかどうかで、その会場スタッフの教育レベルを密かにジャッジしております。
この手の話題として、結婚式場特有の“忌み言葉”もネタになるかと思いますが、それはまた別の機会にて…

そして皆様、もし皆様が参加する披露宴で司会者が「新郎新婦」とお2人を呼びかけても、決して呼び捨てにしているわけではないことをご理解下さい。

次回は、「早替えという演出」(古典芸能)をテーマにしたコラムをお届けします。

10:06 | sakai | ☆ご新郎ご新婦様? はコメントを受け付けていません
2013/03/16

こんばんは、酒井孝祥です。

既にこのコラムで何度も述べているかもしれませんが、習い事、お稽古事に通い、それを修得するにあたって何よりも必要なことは、とにもかくにも、通い続けることです。

どんなに才能があって器用な人で、ちょっと通ってそれなりにものになったとしても、そこで通うのをやめてしまったら、そこで終りです。
それより、救い様もない程に要領が悪くて、先生に苦労ばかりかけたとしても、ずっと通い続ける人の方が、得られるものは大きいことでしょう。

では、通い続けるためには、どうすればよいのでしょうか?
逆接的に考えれば、中途でやめてしまうことにはどんな要因があるのでしょうか?

もちろん、仕事や家庭の事情などで、転居をしたり、生活環境が大きく変わったりと、明白な理由があってやむを得ず続けられなくなるケースも多いかと思います。
それは、どうにもならないことです。

そういったどうにもならない事情を除くと、やめていく人の傾向として多く見受けられるのが、何かの理由で一定期間稽古を休んでしまい、そのままやめるつもりはなかったものの、結局は二度と来なくなるというパターンです。

ちょっと体調を崩して稽古を2~3回休んでしまうと、次に稽古場に行くのが億劫になってしまいます。
そのままずるずると休んでいるうちに、先生に顔を合わせるのも偲びなくなってしまい、ますます行きにくくなり、結局二度と稽古場に足を運ぶことがなくなってしまった…
そんな覚えがある人はいませんか?

先生に「今日が最後です。これまでお世話になりました。」と言ってやめていく人よりも、「最近あの人来ないね…」と言っているうちに忘れられていく人の方が多い気がします。

物事なんでもそうかもしれませんが、上手くいっているときは面白いものです。
お稽古事を続け、どんどん次のステップに進み、自分の成長を実感している間は楽しくて楽しくて仕方ないでしょう。
そして、なかなかうまくいかずに、自分の進歩が感じられないときは、辛くて辛くてたまらないでしょう。

何で時間を割いてお金をかけてまで、そんな辛い思いをする必要があるのか…そんな雑念が浮かんだときに限って、何かの理由で稽古を休まざるを得なかったとします。
休んで時間が開いてしまったことによって、前回教わったことの記憶が薄れていき、次の稽古のときにまた同じことを言われてしまうかもしれません。
以前出来ていたことも出来なくなっているかもしれません。

自分が進歩するどころか後退していることを感じてしまったら、稽古をすることは何とむなしいことでしょう。
今までやってきたことは何なのか…?
今やっていることはこれから意味をなすことになるのか…?

そういうマイナスな思考に打ち勝つ意志を持つことこそが、お稽古事を長く続ける秘訣なのではないでしょうか?
それには、自分の思い描く理想のイメージに近づきたいと願うプラスな思考が大きな助けになると思います。

僕は結構長いこと日本舞踊の稽古と浄瑠璃の稽古に通っていますが、長期に休む機会は少なくありませんでした。
立て続けに芝居の本番が入ったり、ブライダル司会の研修に集中したり、坐骨神経を痛めたり…
日本舞踊においては、一つの曲が仕上がるまでの間に何度も長期の休みが入って、結局一年以上も同じ曲の稽古をしたこともありました。

それでも、休んで復活してを繰り返して、思うように進歩出来ない歯痒さを噛み締めながらも、未だに双方を続けていられるのは、劇団をやめたときに描いた強いビジョンがあるからだと思います。

僕が研究生として属した劇団は、日本のことをきちんと学ぼうというポリシーを持った劇団でした。
その劇団に属さず、たとえ一人であったとしても、自分こそは日本のことを学ぶ俳優であると堂々と名乗ることの出来る証として思い描いたのは、日本舞踊と浄瑠璃で名取になるということでした。

名取というのは、簡単に説明すると、その芸能においての流派の名前を名乗ることを師匠に認められるようなことです。
双方で名取になることによって、身体表現を日本舞踊に学び、音声表現を浄瑠璃に学んだ俳優として、出演する舞台の内容によって名前を使い分けられるようになるというビジョンを描きました。

幸いなことに、その目標は今年の5月に実現することになりそうです。
そのときには、本当に続けてきて良かったと、心の底から喜ぶことになるでしょう。

次回は、「ご新郎ご新婦様?」(ブライダル)をテーマにしたコラムをお届けします。

01:11 | sakai | 習い事を続けるための心構え はコメントを受け付けていません
2013/03/15

一般予約受付開始は3月18日からですが、インフォメーションです。

おどりカタログ 21 vol.13
「 物売る人びと」

◆日時:2013年4月18日(木) 14時/19時
(開演15分前より受付開始)

◆会場:和のメソッド演房 (豊島区雑司ヶ谷1-2-1)

※有楽町駅「護国寺」駅もしくは副都心線「雑司ヶ谷」駅より徒歩10分前後

◆料金:一般2500円

※和のメソッド会員様は別額となります。

◆予約:wa_yoyaku★yahoo.co.jp (★を@に変えて下さい)

◆出演:

林千永

林千春
林千泉(青田いずみ)
林千凛(池田舞)
林千太郎(高野力哉)
林千弥鼓(松本好永)
林千“可”ら(相沢まどか)
※“可”は旧字体

酒井孝祥
杉村誠子

◆演目:
松魚売り
水売り
玉屋
女太夫
越後獅子
まかしょ
白酒売り
黒木売り
文売り

※複数の演目を組み合わせた構成作品のような形態で上演されます。

日本舞踊に馴染みがない人に、日本舞踊を身近に感じてもらうことを目的とした「おどりカタログ21」ですが、今回は初の試みとして、「何かを売る人、商売する人」という一つのテーマをもとにした踊りを集めて上演されます。

酒井は、大道芸を商売にした人の踊りとして「越後獅子」を踊ります。

出演者の大部分は役者で、児童向け劇団の劇団員からアングラ芝居を中心に活動する人まで、個性的なキャリアの持ち主達が集まっております。

そしてもちろん、林流千永派家元である林千永も踊ります。

平日1日だけの2回公演ですが、お時間ありましたら是非いらして下さい。
特に日本舞踊をほとんど見たことがないという人にお勧めの公演です。

会場はとても小さいので、ご来場希望の方は、必ず事前予約をお願いいたします。
酒井への直接連絡でも構いません。
mixi(ISEKOHで登録)やFacebook(本名で登録)からのメッセージでも結構です。

08:59 | sakai | ◆告知◆おどりカタログ 21 vol.13「物売る人びと」 はコメントを受け付けていません
2013/03/08

こんばんは、酒井孝祥です。

自慢ではありませんが、酒井はブライダル司会の研修を受けていた頃、講師から、うちの事務所で一番滑舌が良いと評されました。
しかし、滑舌がよければそれで万事OKというわけではありません。
特に芝居などでは、ただ滑舌が良くて聞き取りやすいというだけの台詞よりも、多少聞き取りにくくとも、気持ちが入った台詞の方がよほど心に響くでしょう。

けれども、何を言っているのか聞き取れないことが多くて、ストーリーの内容が理解出来ずに「???…」となってしまう芝居よりは、役者の喋っている言葉がはっきり聞き取れる芝居の方が安心して観劇出来ることは間違いありません。

では、滑舌を良くするにはどうしたらよいのか…?
滑舌を良くするという目的のみであれば、一番お勧めな方法は、母音で読んでみる訓練をすることだと思います。

母音で読むとはどういうことか…?
たとえば、

「私は“ジャンクステージ”の コラムライター の 酒井・孝祥 です。」

という文章だったら、

「ああいあ“あんううえーい”お おあうあいあー お ああい・ああおい えう。」

となります。

「あいうえお」の母音だけで読むには、口をしっかり動かさなければなりません。
全て母音で読むことで口を鳴らしてから、もとの言葉に戻して読むと、そうでなかったときに比べ、一文字一文字がはっきりと聞き取り易くなっていると思います。

特に“ああい”の“ああ”の様に、母音の同じ音が続く連母音は読みにくいです。
決して“あーい”になってはいけません。
“あ・あ・い”と一文字ずつを正確に読まなければなりません。

“あー”ではなく“あ・あ”と読もうとすると、一つ目の“あ”と二つ目の“あ”を発するときとで、身体の筋肉の緊張状態を若干変える必要があることに気がつきます。
それをちゃんと発せられるまで繰り返し反復すれば、一文字一文字をはっきり読むための筋肉の使い方を身体が覚えていきます。

それから、滑舌をよくするためのキーポイントになることとして、無声化すべき音を無声化することが挙げられると思います。
先ほど挙げたように、一文字一文字の母音を立てるという方法を全てに対して用いると、返っておかしくなる部分もあります。
部分によって、あえて母音を出さずに無声化する必要が生じます。

では、無声化とは何か…?
はっきり言って、こうやって文章で説明するのは難しいのですが、標準語で自然に喋っていると、カ行やサ行などの音が、文章の一番頭に来るとき以外は、“あいうえお”の形がはっきりと主張されずに、息が漏れるように発音されていることがあるのにはお気づきでしょうか?
そうすることによって、喋る方も喋りやすく、聞く方も聞きやすくなります。

実は、関西圏の人は無声化することが苦手で、イントネーションが標準語に直っていても、無声化が出来ていないことによって、「この人は関西人だな…」と思わされることがあります。

母音を一文字一文字はっきりと発音出来るようになって、無声化すべきところを無声化出来るようになっても、やはり人それぞれ苦手な行というのはあると思います。
自分が何行が苦手なのかをよく認識して、その行を意識した早口言葉を何気のないときにでも口にする習慣を身につけるのもよいかと思います。

僕の場合は、ナ行が苦手で「あのアイヌの女の縫う布の名は何?あの布は名の無い布なの」という早口言葉を稽古や本番の前によく口ずさみます。

ところで、昔、とても驚いた出来事があります。
救いようがないくらいに滑舌が悪い男がいたのですが、彼が自分の不甲斐無さに感極まってしまい、泣いてしまったことがありました。
そのとき彼の口から、自らの不甲斐無さを恥じるような言葉が発せられたのですが、その言葉は、かつてその口から聞いたことがない程に流暢に流れ出たのです。

恐らく、そのときに出てきた言葉というのは、彼が心の底から、“他の人に伝えたい”という衝動をもって発せられた言葉なのだと思います。
伝えたいという目的が明確であるからこそ、発せられる言葉も生きた言葉になるのだと思います。

砂漠で喉がカラカラになって死にかけた人の目の前に、水を持っている人が現れたとします。
その人から水をもらわなければ死んでしまうかもしれないという状況になれば、「水を下さい」とはっきりと言葉が出てくるでしょう。
滑舌が悪くて「みず」を「みう」なんて言ってしまったら、相手に正確に意志が伝わらずにそのまま死んでしまうかもしれません。
生き残りたいという強い意志があれば、必ず「みず」とはっきりと言えるはずです。

結局のところ、喋ることに対する技術的な問題よりも、その言葉を伝えたいという明確な意思を持つことこそが、滑舌を良くするための一番の早道なのかもしれません。

次回は、「習い事を続けるための心構え」(古典芸能)をテーマにしたコラムをお届けします。

12:16 | sakai | ★滑舌を良くするには… はコメントを受け付けていません
2013/03/07

こんばんは、酒井孝祥です。

“日本舞踊”と聞くと、皆様はどんなビジョンを思い浮かべるでしょうか?
僕が全く日本舞踊に触れていなかった頃であれば、顔を白く塗って着物を着た女性が、扇子を持って滑らかに動く姿などを思い浮かべたと思います。
なんとなくではありますが、ゆったりとなまめかしく動く様なイメージを持っている人が多いのではないでしょうか?
もちろんそういう踊りもありますけれども、中には動きが早く、リズミカルに踊られるものもあります。

僕が研究生だった劇団では、レッスンのカリキュラムの中に日本舞踊が含まれていました。
そして、僕の同期には、ミュージカル学校の出身者も多く、日本舞踊は初めてでも、ジャズダンスやバレエはバリバリに踊れる人もいました。

そういう人達は、洋舞と日舞の身体の使い方の違いに最初は戸惑っていた様子でしたが、そういう人達ほど、ある踊りのレッスンが始まると、口を揃えて楽しいと言いました。
それは「越後獅子」という踊りです。
テンポの良いリズミカルな踊りで、パートによっては、ジャズダンスの振りを踊っているのにも近い感触があります。

「越後獅子」とは、越後(えちご)という名が表す通りに、新潟県発祥の郷土芸能です。
お正月の獅子舞で見られるような獅子頭を少し小さくしたものを頭に頂いていることから、獅子とつくのでしょう。
主に子どもが踊る大道芸で、独特の装束を身につけた子どもが、太鼓を叩いたり、とんぼ返りなどの軽業を行なったりして、江戸時代に広く流行しました。
角兵衛という親方がいたらしく、「角兵衛獅子」とも呼びます。

江戸時代に人気を博した大道芸でありながらも、身売りされてきた子どもに親方が鞭を打って芸を仕込んだりすることが、児童虐待の象徴の様になり、明治期には廃れてきました。
昭和に入ると、児童虐待防止法が出来、営利目的で子どもに大道芸をさせること自体が禁止されました。
しかし、この独特な芸が失われてしまうことが惜しまれ、その後、お座敷芸として復活したり、現在にいたっても新潟の地元の小中学生が、郷土芸能として踊ったりするようです。

そして、大道芸として人気があった江戸期には、「越後獅子」をもとにした日本舞踊も創られており、今では「越後獅子」と言えば、日本舞踊の演目の一つとしての印象が一番強いかもしれません。

流派によって構成は変わりますが、僕が属する流派の場合、まず“前太鼓(まえだいこ)”と呼ばれる、お腹の前に固定させて叩く太鼓を2本のバチで叩きながらの踊りに始まり、太鼓を外しての道具を持たない踊りに続き、“綾竹(あやたけ)”と呼ばれる小道具を用いてバトンダンスかの様な踊りとなり、一本歯の下駄でタップダンスのような踊りの後、ラストは“晒し布(さらしぬの)”を両手にもって、まるで新体操のリボンを相当に太くしたかのようにひらめかせます。

「越後獅子」は、言わば大道芸を商売にした人を表現した踊りです。
日本舞踊では、他にも、「団子売り」や「松魚(かつお)売り」などの商人から、大名の奥方に仕える女性である「屋敷娘」など、特定の職業の風俗を作品化したものが多く存在します。

今度、酒井の通うお稽古場で、そういった、物を売る人々をテーマにした踊りばかりを集めた企画公演が行なわれ、そこで酒井が踊るのは、今回紹介した「越後獅子」です。
また改めて詳細をお知らせします。

次回は、「滑舌を良くするには…」(俳優道)をテーマにしたコラムをお届けします。

10:58 | sakai | えちごの獅子 はコメントを受け付けていません
2013/03/06

こんばんは、酒井孝祥です。

この度は、JunkStageアワード副賞を賜りまして、誠にありがとうございました。
これからも、皆様に少しでも古典芸能の魅力に興味を持っていただけるようなコラムを掲載していければと思います。
ちなみに、僕の下の名前の読み方は“たかよし”です。

昨年11月よりコラムの連載を開始させていただき、今回賞までいただくことになりましたが、連載開始に至るまで、ちょっとした悶着(?)がありました。
それは、JunkStage側から提案していただいた“古典芸能俳優”という肩書きが、酒井は嫌で嫌でたまらなかったことです。
その肩書きからは、古典芸能の技術をマスターした俳優であったり、古典芸能を専門的に行なっている俳優、言ってみれば本職の歌舞伎俳優さんや能楽師さんである様なイメージが感じられ、そういった方々に対して失礼にあたると思い、自分がそれを名乗ることに極めて抵抗がありました。

結局、自分の紹介欄に、“古典芸能に学ぶ俳優”という説明を入れることでOKを出すに至りましたが、この肩書きのことだけで須藤さんと何度メールのやりとりをしたことでしょうか…
結果的には、印象に残りやすいネーミングになったことかと思います。

さて、今回の受賞者に対するStaffさん側からのコメントに、

“歌舞伎、狂言、能、仕舞など日本の古典芸能についての高い専門性・濃い情報量を保ちつつ…”

とありますが、酒井は、“能”と“仕舞”に関しては、ほぼ知識がありません。
“高い専門性”とありますが、もし古典芸能の専門家の方がこのコラムを読めば、個人の主観が強いばかりで、知識的には非常に未熟であると評されることと思います。

僕が目指しているのは、専門的な内容ではなく、それまで古典芸能に興味を持っていなかったような人が、なんか面白そうだな、凄そうだな…と喰いついてくるような内容です。
それには、僕自身が、面白いな!凄いな!と感じた主観をふんだんにミックスしていきますので、“濃い情報量”であることは、確かに的を得ているかもしれませんね。

しかし、さすがに、自分の記憶の中にある知識ばかりを頼りに連載していくと、どんな誤情報を公開してしまうか恐くなってきましたので、今後はもうちょっと調べ物をした上でのコラム連載も心がけていきたいとも思います。

先日、日舞の稽古場で先生とお話をしていたときに、このコラムで伝えたいと思っていることを集約したような話題になりましたので、ここで述べさせていただきます。

日舞の動きの中に、幼い子どもの動きを表現したような振りがあります。
パチパチと無邪気に手を叩いたり、鞠をついたりするものなどがありますが、リアルな子どもは、実際にはその振りの通りそのままの動きはしません。
しかし、そういう風に動くと、たとえ大人が踊っていても、それが幼い子どもの動きに見えるのです。

どういう風に動けば幼い子どもに見えるのか…?
それを考えた昔のパフォーマーは、色々と思考錯誤したことでしょう。
そして、こうすれば子どもに見えるという型を作り上げました。
そして、その型が子どもに見える型として間違いないものであるということが、何百年もかけて検証されてきて、それが証明されて、今に残っているのです。

それは、なにも子どもに限ったことではありません。
男が女を演じるにあたって、いかに色っぽい女の様に見せるか…
怪力男を演じるにあたって、どうすれば細い身体であったとしても力強く見えるのか…
長い年月をかけて、そういったことに対する回答が得られた結果として、時代が変わろうとも廃れずに残っているものが古典芸能です。

古典の表現方法をそっくりそのまま使えば、もちろんそれは古典芸能にしかなりません。
しかし、その古典の技法の原型を知った上で、そこをベースにして、古典作品以外でも通用するような型にしたものと、全く古典の手法を知らない人が、自分の想像力だけをもとに作った型とでは、どれだけ説得力が違うことでしょうか。

全くのゼロの状態から新しいものを創り出すことはどんなに無謀なことでしょう。
先人が創り上げてきたものを学ぶことなしに、後々の時代にまで通用するような新しいものを創り上げることは無理でしょう。

だから、現代劇を演じる俳優も、前衛的な作品に出演するパフォーマーも、古典作品を知る必要があると思います。
そして、ここは日本です。
外国の芸術家がお金を出してわざわざ日本まで来ることを思えば、ずっと気楽に、日本の古典芸能に触れることが出来ます。

だから僕は、特に日本人の俳優に対して、「和に学ぼう!」と呼びかけたいのです。

次回は、「えちごの獅子」(古典芸能)をテーマにしたコラムをお届けします。

12:01 | sakai | JunkStageアワード副賞受賞によせて はコメントを受け付けていません
2013/03/06

こんばんは、酒井孝祥です。

この度は、JunkStageアワード副賞を賜りまして、誠にありがとうございました。
これからも、皆様に少しでも古典芸能の魅力に興味を持っていただけるようなコラムを掲載していければと思います。
ちなみに、僕の下の名前の読み方は“たかよし”です。

昨年11月よりコラムの連載を開始させていただき、今回賞までいただくことになりましたが、連載開始に至るまで、ちょっとした悶着(?)がありました。
それは、JunkStage側から提案していただいた“古典芸能俳優”という肩書きが、酒井は嫌で嫌でたまらなかったことです。
その肩書きからは、古典芸能の技術をマスターした俳優であったり、古典芸能を専門的に行なっている俳優、言ってみれば本職の歌舞伎俳優さんや能楽師さんである様なイメージが感じられ、そういった方々に対して失礼にあたると思い、自分がそれを名乗ることに極めて抵抗がありました。

結局、自分の紹介欄に、“古典芸能に学ぶ俳優”という説明を入れることでOKを出すに至りましたが、この肩書きのことだけで須藤さんと何度メールのやりとりをしたことでしょうか…
結果的には、印象に残りやすいネーミングになったことかと思います。

さて、今回の受賞者に対するStaffさん側からのコメントに、

“歌舞伎、狂言、能、仕舞など日本の古典芸能についての高い専門性・濃い情報量を保ちつつ…”

とありますが、酒井は、“能”と“仕舞”に関しては、ほぼ知識がありません。
“高い専門性”とありますが、もし古典芸能の専門家の方がこのコラムを読めば、個人の主観が強いばかりで、知識的には非常に未熟であると評されることと思います。

僕が目指しているのは、専門的な内容ではなく、それまで古典芸能に興味を持っていなかったような人が、なんか面白そうだな、凄そうだな…と喰いついてくるような内容です。
それには、僕自身が、面白いな!凄いな!と感じた主観をふんだんにミックスしていきますので、“濃い情報量”であることは、確かに的を得ているかもしれませんね。

しかし、さすがに、自分の記憶の中にある知識ばかりを頼りに連載していくと、どんな誤情報を公開してしまうか恐くなってきましたので、今後はもうちょっと調べ物をした上でのコラム連載も心がけていきたいとも思います。

先日、日舞の稽古場で先生とお話をしていたときに、このコラムで伝えたいと思っていることを集約したような話題になりましたので、ここで述べさせていただきます。

日舞の動きの中に、幼い子どもの動きを表現したような振りがあります。
パチパチと無邪気に手を叩いたり、鞠をついたりするものなどがありますが、リアルな子どもは、実際にはその振りの通りそのままの動きはしません。
しかし、そういう風に動くと、たとえ大人が踊っていても、それが幼い子どもの動きに見えるのです。

どういう風に動けば幼い子どもに見えるのか…?
それを考えた昔のパフォーマーは、色々と思考錯誤したことでしょう。
そして、こうすれば子どもに見えるという型を作り上げました。
そして、その型が子どもに見える型として間違いないものであるということが、何百年もかけて検証されてきて、それが証明されて、今に残っているのです。

それは、なにも子どもに限ったことではありません。
男が女を演じるにあたって、いかに色っぽい女の様に見せるか…
怪力男を演じるにあたって、どうすれば細い身体であったとしても力強く見えるのか…
長い年月をかけて、そういったことに対する回答が得られた結果として、時代が変わろうとも廃れずに残っているものが古典芸能です。

古典の表現方法をそっくりそのまま使えば、もちろんそれは古典芸能にしかなりません。
しかし、その古典の技法の原型を知った上で、そこをベースにして、古典作品以外でも通用するような型にしたものと、全く古典の手法を知らない人が、自分の想像力だけをもとに作った型とでは、どれだけ説得力が違うことでしょうか。

全くのゼロの状態から新しいものを創り出すことはどんなに無謀なことでしょう。
先人が創り上げてきたものを学ぶことなしに、後々の時代にまで通用するような新しいものを創り上げることは無理でしょう。

だから、現代劇を演じる俳優も、前衛的な作品に出演するパフォーマーも、古典作品を知る必要があると思います。
そして、ここは日本です。
外国の芸術家がお金を出してわざわざ日本まで来ることを思えば、ずっと気楽に、日本の古典芸能に触れることが出来ます。

だから僕は、特に日本人の俳優に対して、「和に学ぼう!」と呼びかけたいのです。

次回は、「えちごの獅子」(古典芸能)をテーマにしたコラムをお届けします。

12:01 | sakai | JunkStageアワード副賞受賞によせて はコメントを受け付けていません

« Previous | Next »