こんばんは、酒井孝祥です。
前回が名取式だったので、今回はその後の名披露目(なびろめ)に関連する話題です。
でもその前に、勘違いしている人が意外に多いようなので、先に説明しておきたいのですが、“名取”と“襲名”は、同時になされるケースはあるにせよ、同じことではありません。
“襲名”とは、過去に先人が名乗った名前と全く同じ名前を意図的に引き継いで、その○代目となることです。
歌舞伎役者や落語家が○○の名前を襲名したなどと、ニュースで耳にするので、古典芸能の関係者が名前を得ることを“襲名”と言うのかと思ってしまうかもしれませんが、それは、過去に同じ名前を名乗った人がいた場合のみ適用されます。
踊りや唄で名前を取るときには、特別な理由がない限り、過去にいた人とかぶらないように名前をつけるのが一般的です。
さて、名前を取って最初に一般のお客様の前でパフォーマンスする機会を、名披露目や名取披露などと言いますが、その会の中で、パフォーマンスとは別個に、新名取が誕生したことに対する口上(こうじょう)が行われることがあります。
口上とは、広義では、口で申し述べることを表し、バナナの叩き売り等も該当するかと思いますが、この投稿内では、舞台上からお客様に対して挨拶をしたり報告をしたりすることを指して使うことにします。
新名取が誕生した後の大浚い会などのプログラムを見ると、演目の一つの様に「口上」と書かれています。
(口上をやらないところもあります)
会の中盤くらいで行われることが多いかと思います。
幕が開くと、舞台上には赤い毛氈(もうせん ※敷物)が敷かれていて、そこに家元と新名取がずらっと横に並んで座っています。
新名取だけではなく、名取全員が並ぶケースもあります。
そこで、家元が新名取一人一人の名前や経歴などを読み上げて紹介していくというのが、新名取の口上です。
大概の場合、「とざい とーざい」という掛け声から始まって、「隅から隅までずずずいーっとお願い申し上げまする。」などと言って締めます。
「とーざい」というのが、「東西」のことで、西から東まで、客席の端から端までの全てのお客様に申し上げるということで、意味合いとしては、「隅から隅まで…」に近いものがあります。
口上のやり方として、凝ったところでは、新名取一人一人の名前を呼んで、呼ばれた人が花道から登場して舞台まで歩いていくというものなどもあります。
こういった口上は、歌舞伎俳優が名跡を継ぐ襲名披露興業の中でも行われることがあります。
歌舞伎座の一幕見席だったりすれば、その口上の一幕のみを見るためのチケットが販売されることもあります。
幹部俳優が勢揃いして、その役者さんに纏わるエピソードを色々と話していくのですが、スキャンダルの多い役者さんが襲名するときには、皆それをネタに、言いたい放題のことを述べて、客席から笑いを取ることもあります。
そういうことをネタに出来るのも、俳優同士の信頼関係があってこそでしょう。
逆に、生真面目な性格の役者さんの襲名の口上のときには、そういう話題はほとんど出ないので、口上で客席からどのくらい笑いが起こるかで、その人のキャラクターが見えてきます。
歌舞伎の場合、ときには口上を演目の最中に行うこともあります。
普通に演目を上演していた状態で、それがピタリと中断され、突然その場で口上が行われるのです。
その演目に出演している俳優は、もちろんその衣装とメイクのままです。
さっきまで敵役だった俳優さんが、その格好のままで「○○さんおめでとう。」などと述べるのは、なかなか不思議な光景です。
そして、口上が終了すると、何事もなかったかのように作品本編の続きが始まるのです。
海外の舞台芸術でも、舞台挨拶の様なものが行われることはあるでしょう。
しかし、挨拶そのものが作品であるかの様に扱われるのは、日本だけかもしれませんね。
次回は、「ケーキで繋ぐ」(ブライダル)をテーマにしたコラムをお届けします。
こんばんは、酒井孝祥です。
先日、日本舞踊の名取式があり、名前を戴きました。
ジャンクステージ代表の須藤氏より、名取式で何をやるのかが興味深く、それはテーマにコラムを書いて欲しいとリクエストがありましたので、今日は名取式のことを書きます。
名取式はおめでたい式であるため、結婚式と共通した要素が色々あるかと思います。
先日も、結婚式の待合所のごとく、式が始まる前には桜湯をいただいたりしました。
名取式って何をするの…と問われても、結論から言えば、流派によってやり方が違うので、一概には申し上げられるものではありません。
僕は、数年前に浄瑠璃で名取になって、名取式というものに出るのは今回が2回目なのですが、やることは多少異なっていました。
とは言うものの、名取式と呼ばれるものであれば、よほど特殊なケースでない限り、“かためのさかずき”という儀式が行なわれることはほぼ間違いないでしょう。
数年前に浄瑠璃の名取になるときに、式では何をするのか師に尋ねたところ、“かためのさかずき”を行なうと言われました。
僕はそのとき、片方の目を閉じて酒を飲む「片目の杯」という儀式なのかと思いました。
しかし、それは違いました。
では、儀式に用いる杯が丈夫に出来ているから「硬めの杯」なのかというと、それも違います。
そして、片方の目が不自由で酒が好きな人物「片目の酒好き」が登場するわけでもありません。
正解は、「固めの杯」です。
つまりは、もともと血縁の無い間柄の人達が、一門としての結びつきを固めるために、杯を取り交わすのです。
ヤクザ映画で、親分が上座に座って、両脇に子分達がずらりと並んでいて、杯を交わす映像などを見たことはないでしょうか?
イメージとしてはそれに近いと思います。
流派によってやり方は異なるかもしれませんので、以下に述べるやり方は、一例と考えていただければと思います。
まずその流派の家元が、杯に注がれた酒を飲みます。
飲み終わって、口をつけたところを懐紙で拭き取った後に、その杯が新名取に渡され、そこに酒が注がれて、今度は新名取が酒を飲みます。
新名取全員に杯が回ったら、最後に再び家元が、その杯で酒を飲んで「固めの杯」の儀式は終了です。
新名取以外の以前からのお名取さんが同席する場合には、その人達にも杯が回ることもあるようです。
以上が「固めの杯」と呼ばれる儀式ですが、名取式の中で他に行なわれることとしては、それぞれの名取名の紹介、名取試験と称した唄や踊りの披露(そういうことをやらないところもあります)、免状やら名前を書いたお札(表札みたいなもの)やらの授与等が挙げられます。
儀式が終了すれば、大概はお食事会となります。
結婚式の後に結婚披露宴で食事をするのと似ているかもしれませんね。
食事のメニューの中には、芸が長く伸びていくようにという意味合いを込めて、蕎麦や素麺のような長い麺の料理が含められ、縁起をかつぐこと等もあるようです。
流派の名前は、技芸の上達が認められた結果によって戴けるものです。
しかし僕は、今後の技芸の上達に責任を持つために戴くものと心得ることにしております。
名取式は到達の儀式ではなく、出発の儀式であるべきでしょう。
次回は、「口上」(古典芸能)をテーマにしたコラムをお届けします。
こんばんは、酒井孝祥です。
酒井が劇団の研究生だった頃、研究生の1年後輩の女の子が、様々なホテル、宴会場、レストランなどで飲食サービスを行なう配膳の仕事をしていました。
それなりに時給が高く、何よりも時間の融通がかなりきくと以前から耳にしていて、何となく興味を持っていたこともあり、彼女に紹介してもらって配膳会に登録し、配膳の仕事を始めました。
最初の頃は、仕事の要領が分からない状態である上に、あちこちの現場に行って、右も左も分からない環境での仕事にてんやわんやで、仕事をすること自体が辛くてたまりませんでした。
紹介してくれた後輩に、自分はこの仕事に向かないかも知れないと言ったところ、
「一番幸せな人の傍で仕事が出来ると思って頑張って下さい。」
と励まされました。
そう、配膳の仕事は、土日祝日は婚礼がメインとなり、人生で一番幸せな時を迎えるであろう新郎新婦の傍で働くことになるのです。
色々な現場をあちこち回るのが配膳会の特徴ですが、そのうち、土日に働くときの現場は1箇所に固定されるようになりました。
そこは、平日の宴会等は入らない、婚礼を行なうことのみを目的に作られた結婚式場です。
最初は仕事が覚えられずに、怒鳴られたり、時には蹴られたりもしましたが、仕事に慣れてくるにつれて、だんだん結婚式場という仕事場が居心地の良い場所になってきました。
前述した様に、結婚式のその日というのは、挙式をされるお二人にとって、人生で一番幸せな時とも言えるでしょう。
その時を迎えるために、お二人は何度も結婚式場に足を運び、打ち合わせや諸準備を行なっていきます。
そこでお二人に接するスタッフが、もしも暗い顔をしていたら、お二人の幸せな気分に水をさしてしまいます。
ですから、結婚式場のスタッフは、お二人に接するときには、努めて笑顔をつくり、明るく振る舞います。
努めてそう振る舞うと言うよりも、お二人は幸せいっぱいな気持ちで会場に訪れるわけですから、その気持ちがスタッフにも伝染し、自然に明るい振舞いになると言えるかもしれません。
プランナー、調理、配膳、司会、音響、花屋、衣装、美容、特殊演出、カメラマン、清掃…
結婚式場の中では、実に様々なジャンルのプロフェッショナルが働いています。
プロとしてのそれぞれの能力の種類は異なれども、お二人にとっての人生最良の時間を創り上げるという共通した目的のもと、お互い連携を取りあって仕事をするのです。
そしてお二人の幸せを願う気持ちが動機となって、それぞれの仕事の効率化、高水準化を目指しているわけです。
新人を怒鳴り散らす様なスタッフもいますが、それだって、お二人に幸せになって欲しいという根底の気持ちがあってこそです。
そんなわけですから、結婚式場という職場で働く人は、基本的に明るい人が多く、表面上は明るく見えなくとも、実は良い人であったりすることが多く、現場にはプラスなエネルギーが満ち溢れています。
舞台に立つための資金を稼ぐためのアルバイトとして働いていながらも、だんだんそこにいることが気持ちよくなってきて、このままずっとここで働いていたいと思えるようになってきました。
しかし、役者としての活動のためのアルバイトの方が主目的になってしまったら、本末転倒でしかありません。
そのときに気が付いたのが、結婚式場の中でも司会の仕事は、役者としての能力を活かすことが出来、ブライダルの司会自体、俳優のパフォーマンスの一形態と考えられることです。
そう思っていた矢先に、その結婚式場全スタッフの新年会に出席する機会があり、そのときに酒井は、サービスのキャプテンから、その場で何か余興をやれと言われました。
そこで、自分で曲を唄いながら日本舞踊の一部を踊ったところ、その会場専属の大ベテランの司会者さんが、たまたま日本舞踊のお名取さんだったこともあってか、酒井にとても興味を持ったらしく、その方から、
「あなた司会やりませんか?」
と言われたのが、酒井がブライダルの司会をやるようになったきっかけです。
酒井は、舞台に立つときも幸せを感じますが、結婚式場で働くときにも同じくらいの幸せを感じます。
何しろ、こんなに幸せな場所はありませんから。
次回は、「かためのさかずき」(古典芸能)をテーマにしたコラムをお届けします。
こんばんは、酒井孝祥です。
役者をしていると人に話すと、
「それじゃあ、いずれはテレビに出て有名になることを目指しているんですね。」
などと言われることがよくあります。
もちろん、そうなったら嬉しいに決まっていますし、メジャーになって知名度が高くなれば、お金がもらえる仕事も増え、経済的にも裕福になるでしょう。
しかし、有名になること…即ち、己を評価されて、幅広い層に認知されることは、結果としてそうなるものであり、そうなること自体が夢や目的になってしまったら、その欲望に苦しめられることにはならないでしょうか?
心理学の実験にこんなものがあります。
小さな子ども達をAとBの2グループに分けて、双方の子どもにお絵描きをさせます。
Aグループの子どもには、絵を上手に描けたら、ご褒美として、お菓子やらおもちゃやらを与えます。
Bグループの子どもが絵を描き上げたら、その絵の内容を具体的に評価し、誉めてあげます。
そして、AグループBグループともに、ご褒美を与えたり誉めたりすることをやめると、Aグループの子どもは、お絵描きに関心がなくなり、Bグループの子どもは、お絵描きを続ける傾向があります。
つまり、Aグループの子どもは、絵を描くことによって得られる報酬が目的となって、報酬が与えられ続けられる限り、絵を描き続けましたが、Bグループの子どもは、絵を描くことそのものにモチベーションがあったわけです。
報酬を得ることが目的となってしまったら、それを得られない以上、その目的のための過程はなんともむなしいものです。
転じて、有名になって人から注目を浴び、チヤホヤされたいと夢想することを拠り所に芝居をしていたら、そうならない限りは幸せになりません。
では、何を拠り所に芝居をするべきか、僕は以下の様に考えています。
・役に自分の身体を明け渡すことの幸福感。
・自分が携わった作品を鑑賞したお客様が、その時間を有意義に感じてくれたことによる達成感。
・経験を経て、自分のスキルが高まっていき、それまで出来なかったことが出来るようになり、己の可能性が広がっていく成長感。
もちろん、結果として得られる目標は高く持つべきと思います。
しかし、結果ばかりにとらわれること、人から評価されること、自分と他者と比較することばかりを求めてしまったら、惨めになってしまいます。
道に迷ったとき、満たされないときには、こんなことを考えるようにしています。
次回は、「結婚式場で働くということ」(ブライダル)をテーマにしたコラムをお届けします。
こんばんは、酒井孝祥です。
日本舞踊や邦楽演奏において、「お浚い会(おさらいかい)」と呼ばれる形式の公演が行われます。
それを新春に行う場合には、「踊り初め会」や「お弾き初め会」などと呼ばれたり、夏場に本衣装や着物を着ずに浴衣姿で行う場合には「浴衣浚い会(ゆかたざらいかい)」などと呼ばれたりもします。
これは何かと簡単に説明すれば、古典芸能を習っているお弟子さん達の発表会です。
お弟子さんだけでなく、先生自身もパフォーマンスを披露することがほとんどです。
全てが全てそうというわけではありませんが、この種の公演が、一般的に劇場で行われる公演と大きく違う特徴として、上演時間が極端に長いことが挙げられます。
お昼頃から始まって、終ったときには19時や20時を回っている様なことが珍しくありません。
劇場には開演時間よりも前に入って、最後まで鑑賞するものというのが世間の常識かもしれませんが、お浚い会でそれを実践すると、7時間も8時間も鑑賞し続けることになり得ます。
いくらなんでもそりゃ疲れます。
この手の会は、基本的に、自分の友人知人が出演する演目の上演予定時間を予め確認しておき、その前後の演目を鑑賞するのがよいでしょう。
もしも、お友達が出演する演目と離れた時間帯で、自分の興味深ある演目があるならば、大概は途中入退場が自由ですから、いったん劇場の外に出てお食事をしたりコーヒーを飲んだりして、一休みしてからまた鑑賞するという方法があります。
大きな劇場だったりすれば、劇場内にお食事処があったりもします。
プロの人の公演の1公演で上演される何倍もの数の作品を堪能出来る機会で、会によっては入場無料のケースもありますので、仮にお友達が出ない会であったとしても、機会があれば足を運んでみると楽しめるかもしれません。
個人的にお薦めなのは、アマチュアの人がプロの狂言師に狂言を習っているサークルのお浚い会です。
演じているのは決して上手い人ばかりではありませんが、何しろ狂言は話の筋立てがよく出来ていて分かりやすいので、何本見ていてもなかなか飽きないものです。
この様なお浚い会に足を運ぶにあたって、いかに気軽に鑑賞出来るからといっても、マナーとして注意しなければならないこともあります。
アマチュアの会ですと、写真撮影がOKなことも多いですが、それでも演じ手や他のお客様は、シャッター音やフラッシュが気になってしまうことがあります。
節度を守る必要があります。
特にフラッシュ撮影であれば、その会を記録撮影している場合、記録映像にフラッシュの光が残ってしまいます。
それから、荷物を置いたりしての長時間の席取りは厳禁です。
ちょっとトイレに行く間などならともかく、自分が見たい演目がまだ先であるから一休みして戻ってくるものの、その演目を良い席で見たいからと、荷物を置いてキープする人がいます。
これは、他のお客様が座れないだけに限らず、出演する側からしても、本来なら人で埋まっているはずの見やすい席がガラガラなのはテンションが下がります。
それから、出演者に差し入れ等がある場合、受付の人に預けず、極力ご本人に渡しましょう。
もちらん、出演者が本人専用の受付を設けているなら話は別です。
特に同じ流派の会などであれば、名取名が同じ様な人が多く、本人の手に無事届くか怪しいものです。
習い事をしているお友達からお浚い会の案内を受け取ったら、もしも興味のないジャンルであったとしても、それに足を運ぶことで、新しい世界が開けるかもしれません。
次回は、「MAJORになること」(俳優道)をテーマにしたコラムをお届けします。
こんばんは、酒井孝祥です。
土日祝日ともなれば、ホテルや結婚式場内の同じ1つの会場において、1日に2件の披露宴が行われることは珍しくありません。
人気のある会場であれば、3回転することだってあります。
1つの宴席の進行が遅れたら、その次の披露宴にも影響してしまうわけですから、会場スタッフ側としては、どうにか予定通りに宴席を進めることに力を注ぎます。
酒井はサービススタッフで随分長いこと働いておりましたが、サービスの朝礼ミーティングでその日の宴席の内容を聞いていると、なんとなく
「今日の披露宴は時間通りにはいかず、進行がおすだろうな…」
と予想のつくことがあります。
それはどんな時かと言えば、ゲスト数が多くて会場内で動けるスペースが狭かったり、コース料理の品数がオプションで追加されていたり、ドレスチェンジが2回あったり、和装へのドレスチェンジがあったり、余興やスピーチが盛り沢山だったり等々、様々なケースがあります。
しかし、それらを上回って、かなりの確率で進行がおす要因となるのは、実は司会者が先方持ち込みの友人司会であるということです。
お二人との距離感の近さ、お二人に対する思い入れの強さにおいて、プロ司会は友人司会に敵うことはなく、酒井は、そういった点においては、友人司会に間違われるプロ司会を目指しています。
しかし、MCに関してはアマチュアである友人の司会者に、宴席を時間通りに進めることを要求するのは無茶な話です。
会場側にとって、その会場専属の司会者以外の持ち込み司会者はお客様なわけですから、時間通りに進めてもらえなかったとしても文句を言うことは出来ません。
時間がおしてしまったら、アマチュアの司会者がスムーズに進行出来るようにフォロー出来なかった会場側が悪いということになります。
以上述べたことは、その裏を返せば、プロの司会者は時間通りに宴席を進行することが求められていることに他なりません。
挙式自体がおしたりですとか、料理がスムーズにサービスされなかったり等、あからさまに他の要因がない限り、時間通りにいかなければ、それは会場側から司会者に対してのクレームとなります。
会場専属のプロ司会者には、2種類のお客がいます。
1つは、もちろん新郎新婦であり、新郎新婦が心の底から満足の出来る内容の披露宴になるよう、お手伝いいたします。
もう1つは、披露宴の場を提供する会場であり、会場の営業に不利益をもたらすことがないよう、時間通りに宴席を進めなければなりません。
その2種類のお客様のご要望には、時として相反する場合があり、その両者のバランスを保つことも、プロ司会者に求められる能力です。
実は、それをクリアするのに重要なのは、本番当日よりも、むしろ事前の打ち合わせだったりします。
それはまた別の機会で…
次回は、「お浚い会の鑑賞方法」(古典芸能)をテーマにしたコラムをお届けします。
こんばんは、酒井孝祥です。
先日の稽古場公演の終った、その次の日舞のお稽古日に、愕然とすることがありました。
来月、とある場で少しだけ踊ることになりました。
そして、どの演目のどの箇所を踊るかは自分で選んで構わないとのことだったので、「雨の五郎」という曲の一部分を踊ることに決め、今日はそのお稽古をつけていただきました。
この「雨の五郎」という踊りは、いわゆる荒事の踊りで、ポーズの一つ一つが力強く、役の強さをダイナミックに表しています。
劇団の研究所のレッスンで一番最初に習った踊りで、2年間の研究所時代を通してみっちり稽古しました。
今の15分程度のマンツーマン稽古と違い、劇団のレッスンは1回につき1時間以上あったわけですから、単純に考えれば、これまでで一番長く時間をかけて稽古した踊りです。
酒井はオーディションやら何やらで、人から日本舞踊を見せて欲しいと言われると、とりあえず「雨の五郎」の一部分を、自分で曲を歌いながら踊ります。
そうすると、大概の人からは「無茶苦茶格好良いね!」と評されます。
極めつけは、配膳の仕事で働いていた結婚式場の新年会で踊ったら、司会事務所の会長から「あなた、司会やりませんか?」とスカウトされました。
そんなわけで、ことある度に踊っていた踊りなので、何回か繰り返して感覚を思い出せば、すぐに本番で立てる状態になるだろうと思っていました。
ところがどっこい…
曲に合わせて踊ろうとしたところ、全く動きが合いませんでした。
それどころか、完全に振りをとばして覚えていた箇所が2箇所くらいあり、動き自体が間違っているところもありました。
そして、細かいことに関しては、2分くらいの短いパートながらも、一挙一動を全て修正しなければならないほど、形になっていませんでした。
これは一体どういうことか…?
要は、師から稽古をつけてもらってから数年経つ間で、何度か自分で踊っているうちに、当時に教わった通りの動き、形が、自分がやりやすい方向にすりかわっていったのです。
自分が気持ちよく踊れる動き、形が身体にしみついてしまって、きちんと踊ろうとすると、師から教わったもの、求められているものと違う踊りになってしまうのです。
確かに、自分の気持ち良い踊り方でも、日本舞踊を何も知らない素人めから見れば、それなりに格好良く見えるかとは思います。
しかし、今日の稽古でその状態が誤りだったことを気付かされました。
むしろ、この曲を選んで再度稽古をし、そのことに気がつけただけでも収穫です。
ゼロの状態から踊りを覚えるよりも、間違って覚えてしまった踊りを事細かに修正するというのは、身体的に気持ちの悪い作業であり、精神的にも辛いものです。
しかし、良い機会です。
本番までに何度か稽古はあるので、この僅かな部分を、これでもかと思うほどに細かく細かく稽古します。
次回は、「時は金なり」(ブライダル)をテーマにしたコラムをお届けします。
こんばんは、酒井孝祥です。
先日、日舞の稽古場公演が終了しました。
日本舞踊は、大きな劇場まで足を運ばなければ観ることが出来ないという世間の印象が強い中、普通の一軒屋の玄関扉を開けて入った先に会場があるという、まさにアットホームな公演でした。
物を売る人、商売をする人をテーマにした踊りばかりを集めた公演で、前半は江戸の町を歩き回って商売した人達(松魚売り、女太夫、玉屋、越後獅子、まかしょ、水売り)が入れ替わり立ち替わり現れて踊るという構成、後半は単独の踊り3作品(黒木売り、白酒売り、文売り)の上演で、酒井は越後獅子で参加しました。
本公演の主旨は、日頃日本舞踊に馴染みのない人に、“難しい”“堅苦しい”といった印象を取り払ってもらい、お気軽に楽しんでもらうというものです。
そして、この公演企画の度に、師は毎回お客様にこんなことを言います。
落語家には、寄席という場所があり、そこで上演される落語は、まだ芸の磨かれていない新人の前座から始まって、二つ目、真打と続くうちに、段々にレベルが上がっていきます。
最初の前座の落語なんて、そんなに面白くありません。
でも、実際にお客様を前に落語を上演する経験を重ねていくことで、その噺家の芸は磨かれていきます。
言わば、お客様の目によって芸が育てられるわけです。
寄席に通い続けるお客様の側でも、あのときは前座でろくなことが出来なかった○○も、今は昇進して、ここまで面白くなった…
という風に、噺家の成長過程を楽しむことが出来るのです。
今日の公演は、いわば落語の前座のようなもので、見苦しい点も多々あるけれども、どうか暖かい目で門下の成長を見守って欲しい…
そんな師の挨拶から公演は始まります。
師の挨拶に続き、今回初の試みとして、前半部で踊る江戸の商人達に、インタビュアーが「あなたは何の商売をしている人ですか?」と一人づつ尋ねていきました。
最初は一番分かり易い「松魚(かつお)売り」から始まり、何の玉を売るのかと思いきや、シャボン玉を売るという「玉屋」、自動販売機のない時代に冷たい氷水を売り歩く「水売り」、越後からやってきた大道芸人「越後獅子」、門付け芸人、つまりは人の家の前で音曲を披露する「女太夫」、しまいには「まかしょ」と呼ばれる、“お金をくれたら、あなたの代わりにお参りに行ってきますよ。”という、なんともいかがわしい商売人(?)までもが紹介されていきます。
紹介が終わりいったん全員が引っ込んだ後に、「かつおー!かつおー!」という威勢のいい掛け声から作品は始まり、様々な商人達が次々に入れ替わり登場し、「氷水屋!ひゃーっこい!」というまた威勢のいい掛け声で締められると、全員が舞台上に登場し、揃ってポーズを決める。
そこには江戸の町が出来上がっていました。
当日は非常に暑い日で、空調も効かない状態であり、特に昼の部においてはかなり汗だくになり、汗で身体が着物にはりついてひっかかって、思ったよりも足が高く上がらなかったりするようなこともありましたが、間近にいるお客様を前にして、まさに江戸の町で見物客を前に芸を披露している越後獅子のごとき気分です。
どうせ自分は踊りの腕はたいしたことないのだからと開き直り、技術的に魅せるのが無理であれば、役の気持ちになって楽しく踊ることに努めようと本番前から思っていたのが功を奏したのか、見て下さったお客様にも好評でした。
今回は全員普通の着物で踊りましたが、もしもこれを踊りの本衣装で踊ったら、どんなにか面白いものだろう…
むしろ僕が見てみたいくらいです。
着物で踊っても十分に雰囲気が出たくらいですから。
日本舞踊の公演のほとんどが、1曲1曲づつ踊られていくものかと思いますが、今回の我々の公演のように、古典の踊りを踊るにしても、構成に趣向を凝らした上演形態がもっと増えても面白いかと思います。
次回は、「まさかここまで出来ないとは…」(古典芸能)をテーマにしたコラムをお届けします。
こんにちは、酒井孝祥です。
結婚披露宴の演出の1つに、バルーンスパークというものがあります。
各テーブルの中心に大きな風船が浮かんでいて、キャンドルサービスなどと同じ要領で新郎新婦二人か順番に割っていくというもので、その風船の中から小さな風船などが飛び散る様な演出です。
このとき司会者が、
「これよりお二人には、バルーンをスパークしていただきます。」
という、ちょっと不可解な言葉を使うことがあります。
ストレートに言えば、
「これよりお二人には、風船を割っていただきます。」
となります。
そもそもSparkとは、本来であれば、閃光とか火花が飛び散る様な意味合いです。
風船が破裂することを表すなら、むしろBurstの方が正しいはずです。
では、パッと耳で聞いておかしな印象すらある言葉をどうして使うのかと言えば、結婚式場での忌み言葉「割る」の使用を避けて、肯定的なニュアンスの言葉を選んだ結果と思います。
割れることや壊れること、破滅的な意味合いを避けて、風船が破裂する様を、閃光や火花になぞらえてスパークと表現するに至ったのではないかと思います。
「割る」の他にも、「戻る」「終わる」「去る」「別れる」など、結婚式場において、離婚や不幸を連想させる言葉は、忌み言葉としてNGワードとされます。
受験生の前で「落ちる」という単語を使わないのと同じ様なものです。
結婚披露宴の終結を「結び」と言ったり、終了することを「お開き」と言ったりするのも、幸せな生活がエンドになるニュアンスを避けてのことです。
僕がサービススタッフで結婚式場で働いていたとき、お客様に、
「お二人からのメッセージカードを読まれましたら、お引き出物袋の中に“おしまい”下さい。」
と言ったところ、他のスタッフから、“おしまい”はだめでしょと指摘され、以後は「お入れ下さい」か「お納め下さい」と言っています。
今どきの若い人は、忌み言葉なんて気にしないという考え方もあるかと思いますが、老若男女の出席する結婚披露宴においては、ご年配のゲストが気にされるかもしれません。
忌み言葉を避けて肯定的な言葉を使うことには、自己啓発的な本などで、「自分は出来る!」などと肯定的な言葉を何度も口にして自己暗示することが書かれているのに似た様なものがあるとも思います。
本来なら「戻る」と表現するところで敢えて「進む」という言葉を選んだりと、ポジティブな言葉ばかり耳に入ってくることには、幸せのサブリミナル効果があることでしょう。
次回は、「稽古場公演を終えて」(古典芸能)をテーマにしたコラムをお届けします。
こんばんは、酒井孝祥です。
さて、突然ですが、プロフィールの肩書きを「古典芸能俳優」から「古典芸能修行中」に変更させていただきました。
古典芸能の世界におけるパフォーマーの呼称ですが、能をする人は能楽師、狂言をする人は狂言師、落語をする人は落語家や咄家などと呼ばれます。
そして、歌舞伎をする人は、歌舞伎俳優や歌舞伎役者などと呼ばれます。
舞台の上で役を演じるという点では、能、狂言、落語、歌舞伎において共通ですが、その演じ手のことを「俳優」と呼ぶのは、歌舞伎だけです。
酒井は、当然のごとく歌舞伎俳優などではなく、小劇場などで活動する俳優ですが、アイデンティティーとして、日本の古典芸能を学ぶ俳優であろうとしています。
そのことを分かりやすく表現する肩書きとして、「古典芸能俳優」という名称をジャンクステージのスタッフさんにつけていただきました。
ですが、前述した理由より、「古典芸能」という言葉と「俳優」という言葉が出てくると、イコール「歌舞伎俳優」と解釈されてしまう恐れがあります。
もちろんコラムの文章をちゃんと読めば、酒井が歌舞伎俳優でないことは分かりますが、パッと見ただけだと、この人は歌舞伎俳優なんだと誤解されてしまうことがあり得ます。
自分でも、なんとなくそうは思いながらも、折角スタッフさんにつけていただいた名称なので使ってきましたが、やはりというべきか、上述した様に誤解を招いてしまうことをさる人から指摘されました。
そのため、スタッフさんに無理を言って肩書きを変えてもらうお願いをし、「古典芸能修行中」という新しい名称を考えていただきました。
この名称こそが、僕が掲載しているコラムの内容に一番相応しいものと思います。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。