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2013/03/18

地球の舳先から vol.269
イスラエル編 vol.4(全14回)

エルサレム旧市街。
ユダヤ教・イスラム教双方の聖地であるがゆえに血を見てきた「神殿の丘」、
黄金色に光るモスク「岩のドーム」、嘆きの壁、それを取り囲む8つの城壁。
ユダヤ教、イスラム教だけではない。
キリストが十字架を背負って歩いたという「ヴィア・ドロローサ」、イエスが十字架に磔にされたゴルゴダの丘があったといわれる「聖墳墓教会」など、キリスト教徒にとっても聖地。

「エルサレム」という言葉でまず想起する光景がここにはある。
ということで、旧市街の「中」にあるホテルに宿を取っていた。
旧市街の中は、アラブの国のスークそっくり。
同じような細い小路に店が立ち並び、迷うこと迷うこと。

驚いたのは観光客の少なさ。
旧市街なんざ歩くのはほとんどが外国人観光客だろうと思っていたが、
当時の情勢の不安定さも影響してだろうか、ほとんどがここで生活したり、
または買出しや働きに出ているイスラエル人。
たまに聖地巡礼の団体ツアーはいるが、個人観光客も思った以上に少ない。

まずは旧市街を概観するために、ここを取り囲んでいる城壁に上がり、
ぐるっと一周しながら主要な建物を見下ろして地理感覚を叩き込むことにした。
ガイドブックに載っているようなビューポイントはだいたい把握できる。
何より、城壁を歩いていると、2階だか3階だかに張り出したベランダのようなところでバーベキューをやっている家族だとか、屋上に無数に置かれた衛星放送のアンテナとか、ゴミ捨て場とか子供がサッカーしている公園とか、ここが普通に人が暮らしている町なのだ、ということを身をもって感じられる。ものすごい生活感。

特筆すべきはやはり「嘆きの壁」だろう。英語では単に「Western Wall」すなわち西の壁という。
敬虔な正統派ユダヤ教徒は、もみあげを長く伸ばし、タキシードのような黒服に帽子という完全装備に身を包み、この壁で祈っている。
旧市街からこの広場に入るには、またしてもガラスの壁に囲まれたX線検査を受ける。
イスラエルへ来て2日目、何度手荷物検査やX線検査を受けただろうか。しかしその「厳重な行程」がわたしを疲れさせると同時に、心配を取り除いてくれることをも感じ始めていた。
あんなに血走った目で検査をされなければ、わたしはもっとテロの不安と戦うことになるのだろう。
もっともそれがどこまでの効果が実際にあるのかなんて、わからないけれども。


(嘆きの壁。写真は夜のもの。)

夕方、メアシェアリーム地区という、ユダヤ教正統派が住む地区へ行った。
まさに別世界。宗教画やかつらを売る店などが立ち並び、タイムスリップしたよう。
何より例の「黒服、もみあげ、帽子」の人ばかりが歩いているのである。
観光客の少ない旧市街だったが、逆にここには「普通の」イスラエル人が見当たらない。
集合住宅のような古い建物に、ところせましと並ぶ洗濯物、ヘブライ語のポスター…

イスラエル人の中には、正統派の人を軽蔑したり、嫌っている人も少なくないと聞く。
「女子ですら課せられる兵役も免除され、国の手厚い保護を受けて働くこともしない」、
「“純ユダヤ人”の人口を増やすため、大家族繁栄に励むのが義務」と揶揄する人もいる。
(確かにイスラエルにおいて、もしも「人口の過半数がユダヤ教徒以外になった」なんて事態になればこの国は大きく揺らぐ以上のことになるだろうし、そういう意味でも必要な存在なのだろうとは思う。)
しかしメアシェアリームは、少なくとも私の目には「特権階級」などには見えなかった。
むしろ、押し込まれ、区画を区切られ、独自の生活を閉ざされた空間で過ごす、
外の人間の言うことは何も聞こえない、被差別区域にすら感じられた。

単一民族無宗教国家で生まれ育った日本人なんぞに、何かがわかるはずもなかろう。
しかし、正統派ユダヤ教徒に露骨に嫌そうな顔をするイスラエル人、彼らと会話もしなければ目も合わせようとしない正統派の人々、その光景はやはりどこかしら異様だ。
人種、宗教、そういうものの上に成り立つ区別や差別に、歪みが生まれないわけがないのかもしれない。

テルアビブと違い、街中の商店街のようなところにお酒がないのもエルサレム。
物価が多少安いのは助かった。
夜の早い旧市街で、夕食すら食べ逃しそうになりながら、ようやくとカバブにありついた。
城壁の外では、青空屋台がいい匂いで串焼きを焼いている。

夜更けまでオープンスペースで団体客が騒ぎ、フロントのお兄ちゃんはタクシーの予約もできず、シャワーは1滴の水も出ない隙間風のする1泊100ドルのホテルで、棒になった足をすこし高くして、眠った。
万歩計は3万歩超、20キロをさしていた。

つづく

08:00 | yuu | ■エルサレム旧市街にて はコメントを受け付けていません
2013/03/11

地球の舳先から vol.268
イスラエル編 vol.3(全14回)

タクシーを呼んでもらい、朝、また列車に乗ってエルサレムへ向かった。
イスラエルは列車が発達している国ではなく、上り下りの各1本だけ。
シンプルなので、主要な土地を観光する分には、迷わないし使い勝手もいい。
ヘブライ語の自動券売機もあるが、窓口で行き先を言ってチケットを貰う。
運航時刻は電光掲示板。やはりIT国家であることは間違いないようだ。
テルアビブ~エルサレムの鉄道は、「地球の歩き方」によれば下記のようにある。

“イスラエル鉄道のなかでも昔の面影をよく残している路線がある。それがテルアビブ~エルサレム路線だ。この路線のもとになったのは、ヤッフォ・エルサレム鉄道だ。英語ではヤッフォもエルサレムも頭文字がJであることから、JJ鉄道と呼ばれ、この頃、ヤッフォはジャッファ・オレンジの輸出港として繁栄を謳歌していた。
テルアビブを出た列車はエルサレムへとひた走る。現在では蒸気機関車の代わりに、IC3という、デンマークのディーゼル気動車が使われている。
テルアビブ・ハガナー駅からロッドまでは約10分。ロッドの隣町、ラムラを過ぎると、いよいよ列車は農村地帯へと入っていく。次の駅ベト・シェメシュまでの30分ほどの間、ぶどうやオリーブやオレンジの畑が森や草原に挟まれるように続いている。ベト・シェメシュから50分でエルサレム・マルハ駅に到着。この両駅間が最もJJ鉄道の面影を残す区間だ。”

これは鉄道好きのわたしには見逃すことはできない。
空港からエルサレムと反対方向のテルアビブで1泊したのはこの鉄道に乗る目的もあった。
駅のホームの自動販売機でコーヒーを買い、乗車。
朝焼けが照らし出す、オリーブ畑やブドウ畑。緑が続いた後、
列車は高度を上げ始め、ごつごつした岩山と、砂漠地帯の様相を呈し始める。
たった1時間半の間に、くるくると景色の変わる、飽きない車窓。

 

ガラガラを引きながらエルサレムでタクシーに乗る。
そして、最初の目的地でタクシーを降りた瞬間、わたしは茫然とした。
タクシー代が高過ぎるのである。これでは午前中だけで破産する。
しかし今回はテロの可能性を考えて公共交通機関は断じて避けると決めていた。
すると、歩くしかないわけだが…ここはエルサレム南西郊外のエンカレム。
とりあえず、……お金を下ろしに行った。

渋滞の手前でタクシーを降りて、山沿いを歩こうと歩道に出たわたしはまた絶句した。
ただでさえ標高の高いエルサレムの、そのまた山奥にあるこの場所からは
エルサレムや郊外の街並みが一望できるのだが、下界が雲に覆われていた。
まるで天空にいるかのような、荘厳で神々しい光景。
そうそうよくあることでもないらしく、地元の人も車から降りて写真などを撮っている。

最初の目的地はその先の「ハダッサ病院」。
真っ先にそんなところへと思われるかもしれないが、わたしは海外へ行くと、学校や病院を見るのが好きなのだ。国のありようや何やらが、顕著にあらわれる気がして。
それに、誰でも入れる病院内のシナゴーグには、シャガールのステンドグラスがあるらしい。
戦争で破壊されたときも、シャガールは作り直してくれたのだという。
いまだ増築を続けている高層の病院は新築のように綺麗で、投資のほどがうかがえる。
イスラエルといえば、ITと医療。当たり前か。

 

病院には大型ショッピングセンターも隣接しており、フードコートで昼食を取りながらひとり作戦会議をすることにした。
頼んだのはイスラエル名物、肉の薄切り「シュワルマ」。よく渋谷あたりのキッチンカーで肉塊を削いでいるアレだ。トマトとキュウリのイスラエルサラダと、フライドポテト、ピタパン、ピクルスや玉ねぎなどの付け合わせがついてくる。美味。だが多い。そして高い。

ガラガラを引いたままわたしは結局、路線バスに乗った。
なんだか、どうも、危険の気配がしないのである。
いや、自分の第六感なんて、まるで信用はしていないけれども。
バスに乗る予定などしていなかったので、何番のバスがどこへ行くのかがまったくわからない。
バス停には、そのバス停に停まるバスの番号が書いてあるが路線図までは書いていないのだ。
GPSを起動してGoogleMapを開き、方向性が違ってきたらなるべくたくさん色々な番号が書いてあるバス停で降りて乗り換える、ということを繰り返した。
切符に書かれた時間以内なら、乗り換えをしても追加料金もかからないという。
本数も多く、バスを駆使することができれば、観光はかなり便利だろう。
ただし、重ねて言うがおすすめはしない。路線バスは自爆テロの標的の筆頭株なのだ。
そして自爆テロは必ずしも政治や治安の状態と比例して起こるものではない。
いつ、どこで犠牲になってもおかしくないということだけは、しつこく明記しておきたいと思う。

 

そんなこんなで第二の目的地、ヤドバシェム(ホロコースト記念館)へ到着することができた。
ユダヤ虐殺を記録した博物館。ここもやや郊外にあるのだが、素通りはできない場所。
ガラガラを引いたまま、坂を上がったり下ったり。
静かな森の中に、近代的な建物が見えてくる。
中はいくつものフロアに、写真をメインに展示品、映像などが続く。
ここの圧巻はやはり、最後の円形のホールに天井まで、犠牲者の写真が飾られたコーナー。
ビートたけしが東日本大震災の事を「1人が死んだ事件が2万件あったってこと」だと表現したが、確かにそういうことなのだろう。
ホロコーストに関しては実際に何人の人間が虐殺されたのかはブラックボックスだが…。

逆に思ったのは、イスラエルはこういう歴史を、本当にきちんと自国民に教えているのだろうか?という事。いや、当然、教えているだろう。比較論になってしまうが、この国がいかに民主国家かということは肌で感じていた。
でもそれなら、なぜ、パレスチナの人々に、あんなことができるのだろうか。
「ホロコースト」の被害者だった彼らは今、加害者となって、結局「ホロコースト国家」の筆頭格になっていはしないか。ユダヤ人は等しく卑しい、と考えたかつての人々と、パレスチナ人は等しくテロリストだ、と考える今の人々に、残念ながらわたしは共通点しか見出せなかったというのが、率直な感想だ。

館を出て、バス停近くの大通りまで戻ると、非常に近代的なトラム(路面電車)が走っていた。
これでエルサレムの市街地までぴゅーっと行けるのだという。
相変わらず、アップデートの遅い地球の歩き方には「2011年開通予定」などと書いてあり、まったくやる気が感じられない(実際、現地入りはしていないのだろう)。
さすが観光地エルサレム、券売機も英語対応。
わたしはようやくガラガラから手を離して、席におさまった。
さて、これから、エルサレムの代名詞、旧市街へと向かう。

 

つづく

08:00 | yuu | ■エルサレム郊外をさまよう はコメントを受け付けていません
2013/03/04

地球の舳先から vol.267
イスラエル編 vol.2(全14回)

客引きに来たタクシーに、抵抗する気力も無く乗り込む。
一応料金の確認はしたが、まだ相場観も身についてはいない。
が、陽も傾き、よくわからない街で夜に一人さまよい歩くほどアホではない。

テルアビブの街はもっとギラギラギラギラしたところだと思っていたのだが
意外なまでに洗練されていない。
不自然に放置された区画、掘っ立て小屋のような建物、意外に多い有色人種…
貧しいという印象はさすがにないものの、あまり裕福でないアラブの国や
東南アジアを連想させる光景が窓の外に広がっている。

ただ、「人」はやはりかなり違っていた。
タクシーの運転手は完全に英語を話したし、オンライン予約サイトの住所が
間違っていてホテルの位置が不明になるとホテルに電話をかけてくれ、
まるでどこだかわからない住宅街の中でホテルのスタッフの迎えを待つ間も
「あとXXシェケルくれたら一緒に待っててやる」というので待ってもらった。

六芒星のステンドグラスがはまったホテルのオフィスにようやくたどりつくと
かわいらしいテーブルの上にコーヒーがサーブされた。
フロントのお姉さんは、サバサバした性格で頭の回転が速く、エリートの香りがぷんぷんする。
「入国スタンプが無いんだけど??」
「別紙に押されて、回収されました」
「何か他の紙とかなんか貰わなかった?」
「何も…」
「これじゃ入国の記録がないじゃない…あなた、スパイなの?」
「まさか(苦笑」
その口調がまるでわたしを責めるものではないので、こちらも緩む。

「ホントにスタンプ、搭乗券にも押されなかったの??入国審査のブースで」
「別室で、“インタビュー”受けてたから…」
「……ああ……。」
とたんに彼女の顔が曇り、同情顔になる。
「あの、そのスタンプがないと、わたしは今日ここに泊まれないんですか?」
「大丈夫よ。…本当に、嫌になるわね、セキュリティセキュリティって」
そう、彼女は、イスラエルという国に対して、腹を立てているのだ。
キューバや北朝鮮へ行ったことのあるわたしは、そんなに大声で国家に対して
不平不満を口にして公安警察的なものが飛んでこないだろうかと心配になってしまう。
「パラノイアックなのよ!この国は!」
…ヒィ。

しかしわたしはこれから先、たっぷりと思い知ることになる。
国家として恐怖政治を強いているわけではなく、「シオニズム」ひとつにとっても
イスラエル人で、この国に住む人の中にだって賛成の人もいれば当然反対の人もいる。
その両方が、思想や意見を発言することができ、活動することすら曲がりなりにも許され、
また違った意見であっても市民は一定の理解努力と、場合によっては敬意さえ受ける。
このあたりは、ひどく「アメリカ的」で、やはりとても凄いことだと思うのだ。

お姉さんは、年下の夫だか弟だかに顎で指示をしてわたしを部屋まで送らせた。
「コレ地図ね、右に曲がると、ビーチのほう。左に曲がるとレストランがいっぱいある。
 日本食のレストランがあってとても美味しいんだ、特に寿司とか!」
「やめてちょうだい、変なこと教えないで。彼、舌がおかしいのよ」
「あの、この時間、出歩いても安全?」
「まったく問題ないわ」

頼りないくらい大雑把な地図を手に、わたしは荷物を置いて外へ出た。
真っ暗だが、日本並みに外灯の明かりはある。
雨も降っていないのに配管の問題か浸水していたり、段ボールが積み上げてあったり。
標識はすべてヘブライ語でお手上げである。
帰り道を覚える自信はなかったので、曲がる回数を最小限にしてなんとか大通りに出た。
「ロスチャイルド通り」―ようやく英語併記の看板に出会う。幸運にも目抜き通りの一つだ。
瀟洒なお城のような建物と、夜でもかなりな量の人出。(冒頭の写真)
が、「地球の歩き方」に載っていたレストランはかなりな確率で閉店している…。

英語のメニューが外に出ている店を選んで入る。倍とはいわないが、物価も日本以上。
お酒でも飲んでリラックスしたかっただけで、そんなにお腹が空いてはいなかったので
シーザーサラダにワインを頼んだ。イスラエルのワインは質も良く最近注目されている。
入植、実効支配といったイスラエルの国策と、ワイン産業には切っても切れない
深い関係があるのだが、その話についてはまた今度。

ワインリストにも食べ物のリストにも、「コシェル」という表記が散見される。
コシェルとは、非常に厳格なユダヤ教徒の宗教上の食事ルール(カシュルート)に則った食事。
ヒレとうろこのない魚は食べるなとか(イカやエビ、貝もダメ)、「ヒヅメが分かれていて、反芻する」動物しか食べるなとか(牛、ヒツジ、鶏はOK、豚やウサギはダメ)、肉類の血抜きの方法にも決められた手順が存在する。
また肉料理と乳製品は一緒に食べないというルールもあり(つまりチーズバーガーも肉食後のカフェオレもアウト)、厳格には、同じテーブルに乗せるのもダメなら使った食器も一緒にしてはならないという事もあり、正統派ユダヤ教徒の家にはキッチンが2つあるのだという。
まったくイスラム教徒の「豚は食べません」がかわいいものに思えてくるではないか。


(あれ…このシーザーサラダ、思いっきり、ベーコンに、チーズかかってますけど…)

まあ、これをすべてのイスラエル人が実践しているかというと、そんな事は勿論ない。
そもそも、イスラエル人のすべてが「ユダヤ教徒」なわけではないし、ユダヤ教徒にも「超正統派」と呼ばれる人々を頂点に色々とレベルがあるのだ。
そして超正統派の人々は彼らのコミュニティの中やかなり限られた行動範囲で生活しているので、それでなくともあまり宗教の香りのしないテルアビブあたりでは、そうそう周りに過剰な気を使う必要もないようだった。

ただ、コシェルのワインなんぞを飲む機会などイスラエル以外ではほぼないだろう。
それまで散々チーズの乗ったサラダを食べたりとまるでユダヤ教徒ではなさそうなわたしが
何杯目かでコシェルのワインを頼んだので、ウェイターが怪訝な顔で聞き返してきた。
「…ホントに? 美味しくないよ?」
…ああ、そうですか…。で、確かに、乾いた味だった。
なんというか、液体に対して「乾いた」というのもおかしな表現なのだが
深みとか、まろやかさとか、香り高さとか、そういうものがまるでないようだった。
木の枝をかじっているみたい、というか…。

しかしほろ酔いのいい気分で、夜中近くなっても人出の絶えない街を歩き、宿へ戻った。
テルアビブはイスラエルの中でもかなり「自由」で特殊な地であると聞く。
滞在時間は非常に少なかったが、比較の意味でも立ち寄ってよかったと思った。

つづく

08:00 | yuu | ■テルアビブの自由な夜 はコメントを受け付けていません
2013/02/28

地球の舳先から vol.266
イスラエル編 vol.1(全14回)

イスラエルへ行って来た。
心配し過ぎだった、と、今となっては思う。
そしてほんとうに、良くしてもらった。
すごいものもいっぱい見た。
長くなりそうだがこれから、旅を振り返っていきたいと思う。

元旦。パリでの夢のような1泊の後、緊張を取り戻すのにさほど時間はかからなかった。
エールフランスのカウンターの手前では、テルアビブ行きだけ別の列が作られ、
チェックインさえする前からセキュリティチェックが行われている。
イスラエルへ便を飛ばす、ということは、フランスにとっても“リスク”なのだと実感する。
係官はCDGのスタッフではなく、イスラエルのセキュリティ会社。
どこへ行くのだ、ホテルの予約は、何をしに行くのだ、とお決まりの質問。
3人に1人程度の割合で止められ、どこかに電話で確認をしているスタッフ。
遅々として進まない列にイライラした人々は、解放された先の航空会社のカウンターで
やつあたりに近い怒りを爆発させ、そこかしこで紛争が勃発する。

ようやく搭乗券を手にしたのは1時間後。
それでも2時間半前からしか手続きを始めないのだから、たぶん運用にも落ち度がある。
どこにも引っかからなかったわたしでさえ、手荷物検査とパスポートコントロールを抜け、
シャトルに乗って搭乗口へ着いたのは搭乗時刻のわずか30分前。
当然、定時に離陸できるわけもなく、狭い機体の中で散々待たされる。
まだ序の口。こんなことで腹を立てていたら身が持たないだろう。

          *           *           *

ようやく飛行機から降りると、超絶美女がまっすぐわたしだけを見つめて近づいてきた。
パスポートを見られてからならいくらでも取り調べを受ける覚悟ではいたが、
まさか飛行機から降りて3秒後にロックオンされるとは思っていない。嗅覚か?
美女が、パスポートを1ページずつめくりながら執拗に質問を繰り返す。
「I can’t speak English」と言いたかったが、そんなことで面倒になって解放するような
国ではない。きっと、逆に無駄に時間を要するだけだろう…。

「なぜイエメンへ行ったの?」
「(やっぱり…。)観光で。っていうか全部観光です」
「何日間?」
「えっ。もう何年も前だから忘れました。1週間くらい」
「誰と?」
「(友達と…だけど質問を増やすだけと判断し)一人です」
「どこへ行ったの?」
「サナアと、あと、えーと、名前を忘れましたが世界遺産の砂漠」
「なぜ?」
「なぜ?世界遺産を見たかったからです」
「向こうに友達は?」
「(ええ、ユニセフに。彼いまアフガニスタンに居るけど)いいえ?」(←

「なぜイランへ行ったの?」
~(上記と同じ質問。以下略)~
「向こうに友達は?」
「(ええ、外交官。ヒズボッラーと友達かもね)いいえ?」(←

「なーぜー、インドネシアへ行ったの?」
~(上記と同じ質問。以下略)~
「なぜ3回も行ったの?」
「(全部トランジットだよ!東ティモールとか行ったんだよ!) インドネシアにはねー、
 バリ島って島があって日本の女子は全員そこへ行くんですーッ!!!!!!」(←

「なぜこのキューバのビザには写真が無いの?」
「知りません。いらないって言われたから」
「誰に??」
「機関の名前は知らないけど、出国許可を管理してるオフィス」
「日本領事館ではないの?」
「(なんて説明困難な質問を…)レジデンスの申請をしていたので、出国するためには
 キューバ政府の許可が必要だったのです」
「なぜ?」
「はぁ?! フィデル・カストロに聞いて下さい!!!!!!!」
…や、だから、怒るなと。

「なぜこのインドのビザは不使用なの?」
「(ああ、それ、チベット行く時に不測の事態の際に第三国に抜けられるように
 保険で取ったんだよね。でもチベットのスタンプ無いしな…)気が変わったのです」(←
「気が変わって、どこか他のところへ行ったの?」
「(ギョッ。やっぱ嘘言うとロクなことない。えーとえーとそのビザの日付とおんなじ時期で
 パスポートにスタンプが残っている国といえば…ハッ)ブータンです」
「…ああ、これね。OK!」

          *           *           *

ちなみにインドネシアに食いつくのは、かの国が世界一のムスリム大国だからであろう。
見事に欧州諸国はスルーし、判読不能なものも多いのにスタンプで国を正確に把握する技術は流石である。20分ほどで解放されるものの、その先でもう1回と出国審査、そして送られた別室で計4回、ほとんど同じ質問をされた。
意外なことに、「わかりません」「忘れました」「知りません」が思いのほか通用する。

行程中すべてのホテルの予約確認書と行程書(多少編集済みだが、うそは書いていない)を英語とヘブライ語で用意していたが、それでもパスポートコントロールでは散々質問をされた揚句、別室へ送られた。が、アメリカの空港で送られた「別室」のようにものものしい雰囲気は無く、同じフロアのオープンコーナーの一画で、閉ざされてもいない。そこで順番待ちをしているのも、アメリカのときのようにアルカイダのような外見の人々ではなく、見るからに若いバックパッカー達。
つまり、やっぱり「パスポートのスタンプ」が問題視されているだけなのだろう。

なんと、テレビまで設置されているという高待遇でもある。マンチェスターユナイテッドの試合が始まるところで、日の丸を掲げた日本人サポーターが映った。昨今のサッカー事情にはまるで疎いが、カガワだかナガトモだか、なにかしら天才的な選手が移籍でもしたのであろう。
懐っこい表情のバックパッカーたちは、TVとわたしのパスポートのJAPANの文字を認めると、スクリーン真ん前の席をあけてくれた。
…90分、待てって? 思わず、苦笑する。
しかし想定の範囲内だ。入国拒否なんてほぼ有り得ないし、
今晩の予定など勿論入れていない。待てばいいのだ。心穏やかに。

          *           *           *

意外なほど早く呼ばれた。賢そうな男性。大ボスか?頼む、ラスボスであってくれ。
審査官たちは皆大真面目で、冗談を言っても絶対に笑ってくれなさそうな険しい顔。
もっと、「プレイ」というか、いじわるなドSっぷりを予想していたのだが、
対応はいずれも誠実極まりないもので、相手に対する敬意すら存分に感じた。
お決まりの質問(4度目ともなると、英語もスラスラ出てくる)が終わると、意外なことを聞かれた。

「なぜそんなに旅ができるのですか?」(capability、という単語を使っていた)
「…質問の意味がわかりませんが。」
「失礼、時間の問題と、お金の問題です」
「時間の問題はまあ、日本にも休暇はあるから」
「日本人はそんなに休めないでしょう?」
「それはちょっと昔の話で、年に2回くらいの短いバケーションは取れます」
「職業は?」
「会社員です」
「稼いでるんですね?」
「…ハァ…」
「業務内容と、お勤め先の会社は何をしている会社?」
「広告代理店で、TVCMとか作ってます」(←若干違うが
「年収は?」
「…XXドルくらいですが…」
「このエアチケットはいくらで買ったのですか?」
「…XXドルくらいですが…?」
「この行程表にある、イスラエルの旅行代理店に払った金額は?」
「…XXドルくらいですが…??」
「そしたらもう今月お金ないじゃないですか」
「(よ・け・い・な・お・せ・わ!!!!!!)そーよ!働いて、旅して、エンプティーよ!
 なんか問題ある?!いや確かに問題だけど、少なくともそれは“ワタシの”問題だわッ!!!!!」
…だから、怒るなと。自分。

彼が何に納得し、何を判断したのかはわからない。
3分後、再び奥へ消えた彼は入国スタンプを押した別紙を挟んで、パスポートを返して寄越した。
今度は素通りしたパスポートコントロールの先で別紙は回収されて破られ、ようやく荷物カウンターへ。

「もしもし」
「(まだ何かッ?!)…はい、どおぞ」(思わず、条件反射的にパスポートを差し出す)
「武器を持っていますか」
「………。いえ?」
「そのスーツケースに、爆弾は入っていますか」
「いいえ……。(脱力)」
それでも、飛行機を降りて、約2時間ちょっと。上出来ではなかろうか。

          *           *           *

地下に降り、テルアビブ市街までの列車のチケットを買う。
ホームと時間まで教えてくれたお姉さんは親切で、駅のホームに沢山いる軍隊の制服は、
着ている中身が子どもすぎて高校の制服のようにさえ見える。
ようやくと空港をあとにし、やはり精神的にはそれでも若干疲弊して、電車に揺られた。
着いた駅は決して大きな駅ではなかったが、駅から出るのにはX線検査に持っている荷物を全部通して、鉄の棒が沢山はまった小さい回転ドアをくぐらねばならなかった。

とんでもない旅がはじまったと、このときのわたしは確かに思っていた。

つづく

 

08:00 | yuu | ■緊張の入国審査 はコメントを受け付けていません
2013/02/26

地球の舳先から vol.265
パリ編 vol.4(最終回)

フランスを毛嫌いしていたわたしにこのホテルを教えてくれた人がいた。
もう何年前かもわからないくらい昔、たぶんまだ大学生の頃。
5つ星だからと油断していたら地元の人に聞いても全然知らず、
239 Rue Saint-Honore というだけの頼りないくらい短い住所だけを手に
初めてのパリの道をさまよい歩いていた。

あれから何度パリに行ったかもよく覚えていないけれど、
いつも必ずこのホテルへ行ってはラウンジでお茶をし、いつか泊まりたいと夢見ていた。
Hotel Costes(ホテル・コスト)。
ルームチャージは1泊600ユーロ…

1泊ならよかろう、と大盤振る舞いをして予約をした当時、1ユーロは100円だったのだ。
そしてわたしは、この大晦日のカウントダウンを、夢のコストで迎えた。
エールフランスの深夜便がCDG空港に着いたのは早朝の3時過ぎ。
「危ないよ」と空港係官に何度も言われながら始発のRERを待ってレ・アール駅まで出て
久しぶりの、朝っぱらすぎて誰も歩いていないRivoli通りをゆく。

通い詰めたダンススタジオに曲がる大きな通り、ポンピドゥーセンターへ曲がる道、
朝ご飯を調達した街角のパン屋、3週間暮らしたルーブル美術館の向かいのアパルトマン。
傘をさすほどでもない少しの雨が降るパリは、変わらないものが多すぎる。
ガラガラを押してこんな時間に歩くわたしに、無駄に4人もいるドアマンがドアを引いてくれ、
独特の香り(香水メーカーもやっているのである)と赤い照明の中にすとんと転がり込む。

 

アーリーチェックインは諦めていたのだがすぐに部屋を用意してくれた。
噂と違わない、仕事も読書も一切できそうにない、薄い赤い灯りだけの部屋。
バスルームのオイルヒーターで濡れた手袋をあたため、プールサイドへ向かった。
ウェットサウナでひととおり体を温めると、翌日からイスラエルへ飛ぶため
死海で泳ぐ用に持ってきていた水着でしばし泳ぎ、紅茶で喉を潤す。
プールサイドには天蓋付きのソファベッドもあるので、早朝到着便でもここで休める。

 

パリへ来たらあれをしたいこれをしたいと色々計画を練っていたにも関わらず
バレエスタジオへ踊りに行ったのと、オペラ座のバレエを観に行った以外はホテルで過ごした。
大晦日のカウントダウンもホテルの中から聞いた。
ラウンジには、芸能界に疎いわたしでも顔と名前の一致する女優や映画監督やらが沢山。
それでも無粋に声をかけたりする人がいないのが、ここのいいところなんだろうと思う。

ふかふかのベッドで眠りにつき、そして翌日…
イスラエルに行きたくなくなったのは、言うまでも無い…。
涙目になりながら「2泊以上できるお金なんてないでしょ」と自分に言い聞かせて
コストに別れを告げ、ホテルが用意してくれたタクシーで、元旦の静まり返った
パリの街をあとにする。

さて、これから、イスラエルの旅が始まる。全然気乗りがしない自分に焦る。
すっかり夢の中状態で、パリでトランジット泊をするなら
絶対にもう前泊はやめておこう、とぼんやりと思った。

旅というのはいつだって一期一会のようだけれども、
わたしは確かに昨日とは違う今日を生きていて、日々は蓄積されているのだ。

さて、気を取り直して、次回からイスラエル編をお届けします。

07:00 | yuu | ■夢を叶えるには、勢いも必要。 はコメントを受け付けていません
2013/02/21

地球の舳先から vol.264
パリ編 vol.3(全4回)

パリへ行くたびに、パトロールのように必ず行く劇場がある。
Théâtre Mogador。
主としてブロードウェイミュージカルのフランス版をやっている。

ちなみに、わたしのフランス語は
「おはようありがとうパン下さい」レベルである。
が、ミュージカルだと大抵ストーリーは同じだし、名場面などは
台詞などもおぼろげながらだいたい記憶していたりするので
言葉がわからなくても大丈夫だったりする
(ただし何度か見たことのある名作に限る)。

前回見たのは「ライオンキング」。
日本語でも何度も見ているお馴染のストーリーのはずなのに
なぜか死ぬほど笑った覚えがある。

このときは、どこかで流れていたライオンキングのテーマソングが
ノイローゼのごとく頭からまったく離れなくなり、劇場へ行った。
あとあと聞いたところによると、これはフランスの一般的な宣伝戦略で
ある1つの曲をしつこいくらい流し続けて洗脳するのだそうだ。
わたしは見事にそのワナに嵌ったというわけである。

今回行った時期やっていたのは「シスターアクト」。
英題に覚えはなかったけれど、「天使にラブソングを」のミュージカル版とのこと。
下から2番目の値段の席を押さえたら、最前列の一番端っこだった。
オーケストラピットの中の、指揮者もシンセサイザーもサキソフォンも見える!

そしてMOGADOR節が大炸裂。
なんというか、完全にコメディなのである。それも、涙流して笑うレベルの。
会話だけでなく、演出使って舞台全体でそれをやってくるから、圧巻。
指揮者が瞬間早着替えで(指揮したまま)舞台の一部となってしまったり。
どこからも目が離せないし、次は何をやってくるかとワクワクしてしまう。
みんな本当にリラックスして、大はしゃぎで楽しんでしまうこの感じを見ると
わたしはフレンチ・コメディの偉大さを実感する。
あの劇場に行くと、「フランス人って気難しい」は120%誤解だと思う。

一方で、「ブロードウェイの完全コピーなんてしてたまるか」という
フランスの矜持のようなものもまた、感じるのだった。
日本人のわたしなんかは、「ブロードウェイミュージカルをここまでぶっ壊して
ブロードウェイは怒らないのだろうか…」などと要らぬ心配をしたくなるほど。

休憩時間には、ローランペリエ(パリではこれが多い)のシャンパンを。
オペラ座と違ってみんな普段着だし、笑いすぎてなんか良くないものデトックスして
おなかいっぱいで劇場を出るのがいつものパターン。
ごちそう様でした。

(帰りは界隈をお散歩。)

Théâtre Mogador
http://www.stage-entertainment.fr/theatre-mogador

07:33 | yuu | ■ブロードウェイへの挑戦状? はコメントを受け付けていません
2013/02/12

地球の舳先から vol.263
パリ編 vol.2(全4回)

さて、パリのエンタメ紹介第2弾は「クレイジーホース」。
昨年、日本でもドキュメンタリー映画が公開されたので
ご存知の方も多いはずのヌード有りのキャバレー。

キャバレーといえば言わずと知れた「ムーランルージュ」と、
多少モダンでスケートまで見られる豪華絢爛な「リド」が
パリの2大キャバレーということになっておりますが。
クレイジーホースについては、ヌード要素がキモになっていて、
それゆえ、フランス的とは思えないくらいダンサーのプロポーションもバッチリ揃っていて、
とにかく美しく、女性にも支持が非常に高いのが特徴だとか。

映画「クレイジーホース」を見逃し、追加上映も見逃したワタシとしては
ええい、これはもうホンマモンを見るしかなかろう、ということで
マイナス10度超のパリの街を歩いて、シャンゼリゼ通りからほど近いその場所へ。
ちなみに今回の旅は、テロが不安でメトロに乗らない旅だったので
歩きまくるのは本当に寒かった。あまりに寒くて途中で猛ダッシュなどを
して体を温めることを試みたが、疲れただけで無駄な努力であった…
(ちなみに、そこまで寒かったのは初日だけ)

こちらがクレイジーホースの外観。
赤いマントを羽織ったおじさんが、「ようこそ!」といってドアを開けてくれる。
えっ…もうちょっとオトナ風味の場所だと思ってたんだけど…とびっくりしたのだが、
彼は「お客」で日々ここへ通っている名物ファンであることをあとから知ることになる。

中は、照明も床も真っ赤。始まるまでに投影される映像も
洒落がきいていて、演出が大変に洒脱。
内容は、だいたい数分~5、6分程度の小作品が続く。
トゥシューズで踊るものあり、演劇風味のものあり、
ひとつひとつにコンセプトとストーリーがきちんとあって、また照明の技術が半端ない。
そこに美しいダンサーの体が、時に「踊り手」として、
時に舞台上の「装置」や「キャンバス」として作用し、まさに「作品」。

日本人はどうも「キャバレー」というと、「ストリップ」的な何かを
想像してしまうものだけれども、コンテンポラリーダンスに近い印象。
コンテンポラリーも、自らの(時にほとんど何も身につけない)肉体ひとつで
表現を作っていくわけで、たまに難解すぎるその世界観も
このクレイジーホースに通ずるものがあった。

ダンサーの踊り・動きを見ていても、彼女たちは全員オペラ座バレエ学校の
出身なのではなかろうか、というクラシックバレエベースが窺えた。

結果、「やはりあの映画をきちんと見ないと…」と思うという結論に立ち返った…。

何度か休憩時間もあったのに、お酒を飲んでるヒマもなかった。
ちなみにパリのエンターテイメントではよくあることなのかもしれないが
(次回にご紹介するミュージカル劇場もしかり)、
安い席を取るとはからずも最前列の席などをあてがわれることが多く
首は疲れたがやたらとド迫力でもあったが、ある意味で機械のように完璧な
ダンサーたちは表情ひとつ変えず、呼吸さえ見えないくらいであった。

一度行くと、びっくりするかもしれない、やっぱり。
なんというか、孤高の芸術。という感じでした。

06:00 | yuu | ■「パリの宝石」クレイジーホースへ はコメントを受け付けていません
2013/01/31

地球の舳先から vol.262
パリ編 vol.1(全4回)

久々のパリで、随分遊んだ。
いつも、割と長い日数で行く唯一の国なので、
静かなアパルトマンを借りて、朝はスタジオへ踊りに行き
自炊をして街並みを眺めて過ごすのだが、
やれ「数日しかない」ということになると急にバタバタと
観光をし始めるから不思議なもの。

今回は、バスティーユ劇場でのパリ・オペラ座バレエ団の公演、
去年映画でも話題になったキャバレーのクレイジーホース、
そしてMOGADOR劇場で観たミュージカル公演について簡単にご紹介しようと思う。

以前オペラ座へ行った時は、メールで問い合わせをし、
なにかあやしげな書類に心配になりながらクレジットカードの番号を
書いて添付ファイルで送り(セキュリティも何もない)、
冷や冷やしながら滞在したホテルにチケットが届いていて安心したものだが
世の中はもはや当然のようにeチケット。
家庭のプリンターで印刷までして、バーコード付きのチケットを持って行けばよい。
予約が解禁になる日には、専用ページでカウントダウンまで行われ、
当然安い席から真っ先になくなった。

演目は、大晦日の「ドン・キホーテ」。
やたら明るいスペインバレエで、ここのところ難解なコンテンポラリーを
お家芸にしつつあるパリオペでは珍しい。
逆に古典作品が好きなわたしは当然飛びついたのだが
この日のパリオペの本命はギラギラのホームグラウンド、オペラ・ガルニエで行われていた
「フォーサイス/ブラウン」とかいう作品のほうで、ダンサーも多くがそちらに流れたそう。

ギラギラの宮殿シャンデリアや天井画が拝めないのは残念だが、
モダンなデザインのバスティーユの方が、すべての席から舞台の視認性を確保している印象がある。
なんてったって、ガルニエ宮の最底辺の席といえば可動式の丸椅子なのだから…。

ロングブーツを、このためだけに持参したヒールのパンプスに履き替え、
ワンピースに着替える。それでも観客の中ではカジュアルな方だった。
入場を断られたりはしないが、それなり以上のTPOで向かいたいもの。
日本だと、セレブなおばちゃんがコアターゲットだが、夫婦で来ている人が多く
大晦日に夫婦でバレエを鑑賞に来るなんて、なんて優雅なのだと溜息。

バーカウンターでシャンパンを頼むと、「お金はいらないよ」と言われた。
大晦日のガラコンサートということで、フリードリンク・フリーフードだったのである。
値段が通常よりも高い設定になっているのは、この理由もあったのだろう。
全3幕の公演には、ダンサーの体を休める目的もあり長めの休憩が2回。
1回目の休憩ではおかず系のフィンガーフード、2回目の休憩ではデザートが
次から次へと気前よく大皿で何種類もサーブされてくる。

終演後に立ち寄るブラッスリーまで調べておいたのだが行く事も無く
すっかり満腹状態。
大晦日のレストランは、特別メニューで価格も非常に高いことも多いので
こうして過ごすのはひとつ手かもしれない、と思った。

公演の内容については、音楽も踊りももちろん文句なし。
ヌレエフ版の振付はオリジナルよりド派手で、衣装も舞台セットも豪華絢爛。
あとで聞いたところによれば怪我人が続出で大問題になっていたらしいが
(王子マチュー・ガニオ(様)も怪我を押して出ていて痛々しかったらしい。
 わたしが見た日のカール・パケットはぴょんぴょんと元気でしたよ。
 ヌレエフ版は飛びまくるから、怪我人にはきつかったろう…)。

夜は更け、カウントダウンの喧騒をホテルの中から聞いた。

11:59 | yuu | ■オペラ座・大晦日公演 はコメントを受け付けていません
2013/01/07

 

地球の舳先から vol.261
岡山・山里 編 vol.4(最終回)

帰京の日。

ひとつの部屋に布団を敷いて雑魚寝なんて、多分修学旅行以来。
その前の晩は夜行列車にやや興奮気味だったので、
飛行機が羽田に着く頃には、少しの疲労と睡眠不足のなかに
でも、なにかほぐれたリラックス感があったように思う。

モノレールに乗り換えて東京湾横断を始めると、
広い窓から全面に、東京の光景がわたしを迎えていた。
高層ビルに、埋立地。曇り空に煙る、銀色の世界。
「おかしい」。心の引っかかりに気付いたのはそのときだった。
目の前の光景が、なにかひどく違和感のあるものに見えた。

そんな体験は初めてで、わたしは自分で自分に驚いた。
いや、自分の知らない自分を突然発見して、ぎょっとした、というほうが近い。
いつでも、どこに飛んでも、自分の暮らす東京に帰ってくるときには
煌めく東京の美しさに「帰って来たなあ」とほっと息をつき、
好きな仕事、大切な人、どこよりも快適な家―そんなものが全部あるトーキョー、
を再認識しては、足元をたしかめるのが常だった。

自分の身の丈に合った生活って、なんなんだろう。
少なくとも、こんな毎日ではない気がした。
「これでいいのか」というような、強い気持ちではない。
「こんな生活、いったいいつまで続けるつもりなんだろ…」
という、単純な、ある意味冷めた疑問として、思った。

自分の歩いてきた、いや、走ることがあたりまえだった時期が、
すこしだけターニングポイントを迎えているのかもしれない。
しかし、いちど歩みを止めたらもうその先に行けないような、
そんな根拠の無い強迫観念で、車輪を回していたりもするのだろう。

―それは、ひどく根本的な問題で、
たぶん、考えすぎない方がいいことのように思って
とりあえず、仕舞った。心の奥に。

あの短い旅から帰って2か月が経った今でも、
わたしの何かしらの違和感はまだ抜けていない。
おそらくこれがいわゆる「カルチャーショック」というやつなのだろう。
ガンジス川でも平壌でも、人生なんて変わらなかったのに。

すこしの敗北感を覚えながら、わたしはまた飛ぶ。
ここではないどこかへ。

おしまい。

12:00 | yuu | ■翻って、今。 はコメントを受け付けていません
2012/12/26

地球の舳先から vol.260
岡山・山里 編 vol.3(全4回)

翌朝、コケコッコーというよりはパッパラパーとしか聞こえない
鶏の朝鳴きに叩き起こされ、近くの山に登った。
小高い山には人が踏みしめただけの道しかなく、
しかし山頂にはきれいに耕されていたらしい畑の跡地があった。
家々から白い煙がたなびくのが、火を使い始めた1日のはじまりの合図だという。

朝が来る。あたりまえのことなのに、集落の村が「起きた」と感じた。
朝の太陽のまだ黄金色に近い光が、田畑を照らす。
…どうにも浪漫のないわたしにそのとき浮かんだ単語は「食物連鎖!」だったが…。

川口家へ帰ると、昨日、死ぬ気で摺った米で、玄米がゆが用意されていた。
大きなかまどが、見た目的にも食欲をそそる。
名前もわからない青菜はそれだけで味が強く、自家製のエゴマ油を和えると絶品。
とれたての豆は、まったくパサパサせず、わたしが知っている豆ではない。
キューバで1日3食、豆で生き延びて以降トラウマだった好き嫌いが解消された。
その簡素な朝食の美味しかったことといったらなかった。

 

お茶をすすりながら、家主のふたりは、「大きい買い物をした」という川口さんの
独白にはじまり、「臼(うす)」を買った買わないで、
どこに置くのだ、毎日曳かされるのかなど、笑いを堪えるのに
こちらが必死になるような痴話喧嘩(失礼)をおっ始めた(笑)。

これがまたなんとも楽しそうなことこの上ない。
だって、臼を買った、買わない、である。この現代で。
結婚願望というものがゼロを通り越してマイナスなわたしが、
夫婦を見て「羨ましい」と思ったのは、正直な話これが初めてである。
この、川口さん夫妻の姿というのが、わたしがこの山間で経験させて
もらった、もうひとつの宝物だったりする。

おそらく、こんな自給自足的生活を、ひとりで黙々とやるのはほぼ無理だろう
(川口さんはしばらくはこの生活を一人でしていたわけだけど…)。
心も折れそうだし、生活的にもこんな身一つの生活はものすごく大変だと思う。
しかし、ふたりの価値観が合わなければ逆に、現代の東京から翻って
こんな生活に飛び込むのは、それこそもっと不可能だろう。
この地はもともと、奥さまの方の親類筋のあった場所だというが、
ふたりは、スーパーマンのような類稀な生活力で完璧な自給自足をしているわけではない。
東京から移住して、自然を相手にして、当然、今もトライアンドエラーを続けている。

生きることって、本来、そういうことなのかもしれない。
人は本来、きっと(感傷的ではなく物理的な意味でも)ひとりで生きていく事なんて出来なくて、
だから誰かと暮らしを共にするものなのかもしれない。
ふとそう思ったのだった。

12:00 | yuu | ■わたしが触れた、もうひとつの大切なこと。 はコメントを受け付けていません

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