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地球の舳先から vol.260
岡山・山里 編 vol.3(全4回)
翌朝、コケコッコーというよりはパッパラパーとしか聞こえない
鶏の朝鳴きに叩き起こされ、近くの山に登った。
小高い山には人が踏みしめただけの道しかなく、
しかし山頂にはきれいに耕されていたらしい畑の跡地があった。
家々から白い煙がたなびくのが、火を使い始めた1日のはじまりの合図だという。
朝が来る。あたりまえのことなのに、集落の村が「起きた」と感じた。
朝の太陽のまだ黄金色に近い光が、田畑を照らす。
…どうにも浪漫のないわたしにそのとき浮かんだ単語は「食物連鎖!」だったが…。
川口家へ帰ると、昨日、死ぬ気で摺った米で、玄米がゆが用意されていた。
大きなかまどが、見た目的にも食欲をそそる。
名前もわからない青菜はそれだけで味が強く、自家製のエゴマ油を和えると絶品。
とれたての豆は、まったくパサパサせず、わたしが知っている豆ではない。
キューバで1日3食、豆で生き延びて以降トラウマだった好き嫌いが解消された。
その簡素な朝食の美味しかったことといったらなかった。
お茶をすすりながら、家主のふたりは、「大きい買い物をした」という川口さんの
独白にはじまり、「臼(うす)」を買った買わないで、
どこに置くのだ、毎日曳かされるのかなど、笑いを堪えるのに
こちらが必死になるような痴話喧嘩(失礼)をおっ始めた(笑)。
これがまたなんとも楽しそうなことこの上ない。
だって、臼を買った、買わない、である。この現代で。
結婚願望というものがゼロを通り越してマイナスなわたしが、
夫婦を見て「羨ましい」と思ったのは、正直な話これが初めてである。
この、川口さん夫妻の姿というのが、わたしがこの山間で経験させて
もらった、もうひとつの宝物だったりする。
おそらく、こんな自給自足的生活を、ひとりで黙々とやるのはほぼ無理だろう
(川口さんはしばらくはこの生活を一人でしていたわけだけど…)。
心も折れそうだし、生活的にもこんな身一つの生活はものすごく大変だと思う。
しかし、ふたりの価値観が合わなければ逆に、現代の東京から翻って
こんな生活に飛び込むのは、それこそもっと不可能だろう。
この地はもともと、奥さまの方の親類筋のあった場所だというが、
ふたりは、スーパーマンのような類稀な生活力で完璧な自給自足をしているわけではない。
東京から移住して、自然を相手にして、当然、今もトライアンドエラーを続けている。
生きることって、本来、そういうことなのかもしれない。
人は本来、きっと(感傷的ではなく物理的な意味でも)ひとりで生きていく事なんて出来なくて、
だから誰かと暮らしを共にするものなのかもしれない。
ふとそう思ったのだった。