咲いたね 紫蘇 赤紫蘇 バジル ハッカの北斗 彼岸花
それから もうじき 秋丁子 薔薇も色々 咲きそうです
実は 栗が落ち始め ナツメはどうも 今年は遅い出来です
不作かもねと このあいだ 義母と話しました
一方 ウチが大好きなお客さんがいます
イノシシです
毎日来て 家の周りを鼻で掘りまくっています
とうとう 植えてあるツツジの根っこを 丸出しにしたので
昨日は植え戻ししました
今日はどこの木や花が裸になっているか チェックする日々です
ところで はっきりした方向性というか
個性を出したいとか
そういう自分のやり方を全面に出す機会が
長い人生の間には 誰にでも訪れると思います
今年は 我が家にその機会が来た様子で
男女問わず 結婚している場合には 人生の伴侶が節目に差し掛かると
共にそういう体験をするわけです
いざ 自分の場合を考えても
明治の婆ちゃんから聞いていた心意気みたいなものを
今どう行動に表したら そうなるのか
判断できない事が増えてきました
日本の近代の家族の姿としては
もう平成の現代などは
夫婦共働き 少子高齢化が常識になり
過去の祖父母の こうあるべき と習っていた先人の知識で
対応できない現実も 大きいということですね
地方の山や畑仕事から離れて バラバラになってしまったら
たとえ血縁でも その温かさだけでは
カバーしきれないということが 実体験でよく理解できました
さてと…
しぶい現実って こういう日々なんですねぇ
昔の心の活かし方が
そういうきびしい現実を どういうふうに考えていたのか
それが知りたい時は
私はひたすらに稽古しています
先輩達は 芸だけを残してくれています
だから 私も そうするのであります
しかし 今 稽古中の 伊予の ちょんがけ独楽 これは むずかしいよ…
私にとって 息抜きは 庭です
いろいろ育ててますが
赤紫蘇の花が咲きました
ハーブも共通ですが 花時が一番香りも栄養的にも濃いそうで
赤紫蘇を洗って 煮出して 砂糖とレモン汁を入れて 赤紫蘇ジュース製作
それから 紫蘇の実も ドバッと なりましたから これから収穫して
(もしやる人がいたら 指が真っ黒になるので軍手してね)
紫蘇の実の佃煮をやりまする
いいよなあ こういうのっ
…ってことで 渋い曲独楽師 三増 巳也でした
じゃっ またね~\(^o^)/
何を書いたかというと
埋もれているモノ…についてです
前回から慌てて、東長崎駅、
または東京都豊島区南長崎周辺の
歴史を調べました!
私にとって20代では
絶対やらなかった事です。
行動派でしたからね
でも
考える事が、実体験から出る分、40代のやり方は
この私でさえも!説得力がある(-o-;)
私自身の 生い立ちの風景を単純にまとめてみたかったのですが
意外なことに いろんな方が歴史を調べてネット公開討論みたいになさっていて
見ていくうちに自然と
周辺地域 豊島一族や長崎一族の歴史など 勉強できて 有り難かったです
近年 明治末期から 経済を見通して土地を買い占めていった人がいたり
国の政策に合わせて作る作物が一気に変わってしまったりと
すごい変化の仕方でした
ここで ご当地ネタを一つ…
東京 練馬区の 大きな遊園地 豊島園は
昔は お城だった!!!(痕跡も残さない程 開発された一例ですね…(^o^;)コワイ…)
にゃー…子供の頃 豊島園のプールがめっちゃ冷たくて
誰も泳ぐ人がいなかったのを 見ているので
あそこが湧き水の優良水源と知っても 驚かないにゃ~
そういう風に 開発の邪魔になる川や 湧水は みんな動かしちゃったり
埋めちゃったりと 今は見ることもできない場所が記録にだけ残っていました
わずかに地名と 水神や弁天堂など水の痕跡を信仰の場所が守っていたようで
それも 鉄道開通と 町や区の合併やら 区画整理などで
跡形もなくなっちゃうという現在でありました
地元の有志の方が それを細々と保護運動していた記録も
今はもう 道路になっちゃてたり
たてもの園に移築されて 無くなってたりと…
東京は どこまで 変わっちゃうの?
ところで
どうして 突然こういう話になったのかといいますと
JunkStage 高倉さんコラムの 向かった先は、北緯1° に
フィールドワークのお話がありました
JunkStageさんに
コラムの掲載を始めて 10月で 1年になる事に気が付きました
夏は 私のような
曲独楽師など 江戸風に言うと
遊芸稼ぎ人にとっては
イベントや祭などに 呼んでいただく時期です
実際の 営業と重なるなどで
なかなか 原稿が 出せなくて 苦しい夏でした
とにかく 色々何とか乗り切った9月のさわやかな原稿です
今回は
つながリアルということで 書いています
以前 NHK総合テレビ 全国放送に生中継で曲独楽の出演があった時に
愛媛県の 内子町にある 八日市・護国町並み保存地区の風景を
こちらでご紹介しました
こんな風に 添え書きをいたしましたが
最近 現実に 体験している事を こちらにしっかりと 書かせていただき
自分でも 後で 再確認できる場所として 活用していきたいなと思っているので
この夏 本当に 頭がクラクラなる位 考えていた事などを
カテゴリー名
愛媛県 内子町 町並み保存地区と 東京都 豊島区 南長崎商店街生まれの 曲独楽師 三増巳也
こういう 長ぁあああああああい 名前で 書いておきます
サブカテゴリー
日々曲独楽
では はじまりはじまり
愛媛では 南の方に位置する
南予(なんよ と読みます)を 若い人と働く人にとって
活性化する目的でもって 始まった えひめいやし博 が 今年 最大のイベントです
私も 有難い事に 伊達家の宝物を収蔵する 伊達博物館のすぐ横の
特設会場で 曲独楽を させていただきました
伊達家の歴史を勉強するのでも
実際に その場所で ゆかりの物を見ると
本当に クラクラしました
だって 伊達のお殿様が 埋め立てた場所で
私は曲独楽を回させてもらっているわけです
歴史だ~
歴史の上に 生活したり 歴史の中で生きている事が実感できる
そういう地域は貴重です
地元 東京の 豊島区 南長崎の地域も 変化が激しいみたいです
もう 地面の黒々とした色さえ 見られないんだろうな…
母が亡くなったときに 自宅へ帰って ビックリしたのは
小鳥がまったくいなくなっていたことです
メジロ シジュウカラ 雀 ヒヨドリ … 見たのは カラスだけでした
私が今いる 南予は 林業 農業 漁業 畜産業 養鶏農家など
第一次産業と呼ばれる仕事が 大部分です
その中で 私が 憧れて住んでいる
内子町は 柿ブドウ栗 米麦 農業林業畜産養鶏など 皆さんが
一生懸命 作っていらっしゃいます
1万2千人の方が 中山間部と 小さな町や 集落に住んでいる所なのであります
初めて 来た頃は まだ高速道路がありませんでしたから
招待していただいた 伊予のちょんがけ独楽名人
今は 三増流の弟弟子の右紋さんの案内で
国道56号を ひたすら タクシーに乗って 松山空港から内子町に来たのでした
東京の生まれの私ですが 母が 鹿児島県の曽於市 山の中の生まれで
5年に一回くらい 鹿児島に行っていたから
黒和牛の 早朝のエサを 刈り取りに 軽トラで行き来したり
ものすごい真っ暗な夜に 外のトイレに泣きながら行ったり
あまりにもたくさんの星を見て目が回ったりと
たっぷりと 田舎の暮らしについては 知っていました
今の内子町の大瀬地区の
山の中に 住むことに決めた時も その体験があったからこそなので
実際に そういう幼児期の経験というか 身体で理解する事があったから
曲独楽の道具で 稲ワラや麻を 編むとかの 田舎の知恵活用の実行力にも
それを迷わずに 学んで使う事ができるということです
本当に そういうことは 役に立ちます
私は多分 肌で 匂いや 天気 そして 危険な人とかを 見分ける やり方も
役に立っているんじゃないかなと 思っているのです
東京に 昭和40年代の後半頃から小学校や中学校 アスファルト化工事が始まりました
私が小学生の頃の話です
それまでは 道路でもどこでも
空いた土地には 砂利も敷きつめてない場所が多かった
廃屋も そのまま放置してあったり ぼろぼろのトタン屋根の小屋が
まだ数軒 あった
その中に 家族5人くらいで 住んでいる同級生もいた位だった
戦後の復興期の建物であったことは 今考えて やっとわかったこと…
私が見た 東京の 豊島区 南長崎の変化
これは 恥ずかしいけど 地元出身なのに ほとんど勉強していない
水田や練馬大根などの畑の持ち主が
地方から大量に移住してくる人を 受け入れる土地や建物の提供者として
ほとんど 同じ時期に モルタル造りの 5軒長屋のような
建物を 建てて 大家さんになった人がいたという地域です
という 乱暴な説明しかできない…
東京 こういうひとくくりには 全く見えない事も多い
実際に住んで その変化を見ている私も
こういう事を 話して説明する その力がない
幸い 私はこちら 愛媛県 内子町に移住してから
こういう話を聞いてくださる方が たまに かわせみ へ来店され
もっと話したいからと
自宅の 大瀬の築100年の農家に 泊まって 焼肉なんか一緒に食べちゃって
お帰りいただく機会が増えている…
私も 勉強しなくては いられなくなったわけです
近くに 手塚治虫さんや 赤塚不二夫さん 藤子不二夫さんの トキワ荘があり
野見山暁治先生など画家の先生方の溜まり場 池袋モンパルナスも あり
この辺の 稲荷神社も 正一位のお稲荷さんだったり
あと ちょっと歩くと
新宿区 中野区 練馬区 板橋区など 入り組んだ
住宅密集地だったり
目に見える紹介なんていうのは
実に つまらない
私も自分の幼児体験と 歴史の勉強と 今もまだ住んでいる同級生の事など
全部をつなげて 何かの動きを作ってみたくて仕方が有りません
これは 今の時代の 宝物かもしれないし
害にもなるかもしれない
しかし 歴史を知らずに 先人の知恵を 苦労を語らずに
ボケッと生活することの苦痛を 続けたくないので
私はまた 前へ出ます
暑さが落ち着いてきたので
みなさん 頭を働かせちゃいましょう
がんばろうね
JunkStageさんに
コラムの掲載を始めて 10月で 1年になる事に気が付きました
夏は 私のような
曲独楽師など 江戸風に言うと
遊芸稼ぎ人にとっては
イベントや祭などに 呼んでいただく時期です
実際の 営業と重なるなどで
なかなか 原稿が 出せなくて 苦しい夏でした
とにかく 色々何とか乗り切った9月のさわやかな原稿です
今回は
つながリアルということで 書いています
以前 NHK総合テレビ 全国放送に生中継で曲独楽の出演があった時に
愛媛県の 内子町にある 八日市・護国町並み保存地区の風景を
こちらでご紹介しました
こんな風に 添え書きをいたしましたが
最近 現実に 体験している事を こちらにしっかりと 書かせていただき
自分でも 後で 再確認できる場所として 活用していきたいなと思っているので
この夏 本当に 頭がクラクラなる位 考えていた事などを
カテゴリー名
愛媛県 内子町 町並み保存地区と 東京都 豊島区 南長崎商店街生まれの 曲独楽師 三増巳也
こういう 長ぁあああああああい 名前で 書いておきます
サブカテゴリー
日々曲独楽
では はじまりはじまり
愛媛では 南の方に位置する
南予(なんよ と読みます)を 若い人と働く人にとって
活性化する目的でもって 始まった えひめいやし博 が 今年 最大のイベントです
私も 有難い事に 伊達家の宝物を収蔵する 伊達博物館のすぐ横の
特設会場で 曲独楽を させていただきました
伊達家の歴史を勉強するのでも
実際に その場所で ゆかりの物を見ると
本当に クラクラしました
だって 伊達のお殿様が 埋め立てた場所で
私は曲独楽を回させてもらっているわけです
歴史だ~
歴史の上に 生活したり 歴史の中で生きている事が実感できる
そういう地域は貴重です
地元 東京の 豊島区 南長崎の地域も 変化が激しいみたいです
もう 地面の黒々とした色さえ 見られないんだろうな…
母が亡くなったときに 自宅へ帰って ビックリしたのは
小鳥がまったくいなくなっていたことです
メジロ シジュウカラ 雀 ヒヨドリ … 見たのは カラスだけでした
私が今いる 南予は 林業 農業 漁業 畜産業 養鶏農家など
第一次産業と呼ばれる仕事が 大部分です
その中で 私が 憧れて住んでいる
内子町は 柿ブドウ栗 米麦 農業林業畜産養鶏など 皆さんが
一生懸命 作っていらっしゃいます
1万2千人の方が 中山間部と 小さな町や 集落に住んでいる所なのであります
初めて 来た頃は まだ高速道路がありませんでしたから
招待していただいた 伊予のちょんがけ独楽名人
今は 三増流の弟弟子の右紋さんの案内で
国道56号を ひたすら タクシーに乗って 松山空港から内子町に来たのでした
東京の生まれの私ですが 母が 鹿児島県の曽於市 山の中の生まれで
5年に一回くらい 鹿児島に行っていたから
黒和牛の 早朝のエサを 刈り取りに 軽トラで行き来したり
ものすごい真っ暗な夜に 外のトイレに泣きながら行ったり
あまりにもたくさんの星を見て目が回ったりと
たっぷりと 田舎の暮らしについては 知っていました
今の内子町の大瀬地区の
山の中に 住むことに決めた時も その体験があったからこそなので
実際に そういう幼児期の経験というか 身体で理解する事があったから
曲独楽の道具で 稲ワラや麻を 編むとかの 田舎の知恵活用の実行力にも
それを迷わずに 学んで使う事ができるということです
本当に そういうことは 役に立ちます
私は多分 肌で 匂いや 天気 そして 危険な人とかを 見分ける やり方も
役に立っているんじゃないかなと 思っているのです
東京に 昭和40年代の後半頃から小学校や中学校 アスファルト化工事が始まりました
私が小学生の頃の話です
それまでは 道路でもどこでも
空いた土地には 砂利も敷きつめてない場所が多かった
廃屋も そのまま放置してあったり ぼろぼろのトタン屋根の小屋が
まだ数軒 あった
その中に 家族5人くらいで 住んでいる同級生もいた位だった
戦後の復興期の建物であったことは 今考えて やっとわかったこと…
私が見た 東京の 豊島区 南長崎の変化
これは 恥ずかしいけど 地元出身なのに ほとんど勉強していない
水田や練馬大根などの畑の持ち主が
地方から大量に移住してくる人を 受け入れる土地や建物の提供者として
ほとんど 同じ時期に モルタル造りの 5軒長屋のような
建物を 建てて 大家さんになった人がいたという地域です
という 乱暴な説明しかできない…
東京 こういうひとくくりには 全く見えない事も多い
実際に住んで その変化を見ている私も
こういう事を 話して説明する その力がない
幸い 私はこちら 愛媛県 内子町に移住してから
こういう話を聞いてくださる方が たまに かわせみ へ来店され
もっと話したいからと
自宅の 大瀬の築100年の農家に 泊まって 焼肉なんか一緒に食べちゃって
お帰りいただく機会が増えている…
私も 勉強しなくては いられなくなったわけです
近くに 手塚治虫さんや 赤塚不二夫さん 藤子不二夫さんの トキワ荘があり
野見山暁治先生など画家の先生方の溜まり場 池袋モンパルナスも あり
この辺の 稲荷神社も 正一位のお稲荷さんだったり
あと ちょっと歩くと
新宿区 中野区 練馬区 板橋区など 入り組んだ
住宅密集地だったり
目に見える紹介なんていうのは
実に つまらない
私も自分の幼児体験と 歴史の勉強と 今もまだ住んでいる同級生の事など
全部をつなげて 何かの動きを作ってみたくて仕方が有りません
これは 今の時代の 宝物かもしれないし
害にもなるかもしれない
しかし 歴史を知らずに 先人の知恵を 苦労を語らずに
ボケッと生活することの苦痛を 続けたくないので
私はまた 前へ出ます
暑さが落ち着いてきたので
みなさん 頭を働かせちゃいましょう
がんばろうね
過去 曲独楽の国際進出と交流は以下のようになっていました
最も早い曲独楽の海外公演は 松井源水系の各曲独楽師で
江戸末期から明治にかけて アメリカ、ロシア、フランス、イギリスへ行ったのです
(何度かコラムに書かせていただきましたが
曲独楽師を団長として 綱渡りや しなる竹を渡るバランス芸
足でフスマや 大きな独楽を回す 足芸とか
力自慢の芸 玉乗りなど
演奏は 主に女性が三味線で担当し
締め太鼓や篠笛で構成されていました
また 義太夫で曲独楽が演じられていた記録もあります)
※以下は 国立歴史民俗博物館の曲独楽など
海外での興行資料の事が 図版入りでわかりやすいページです
http://www.rekihaku.ac.jp/publication/rekihaku/118witness.html
さて一度 欧州やアメリカの影響で
大衆の理解が得られず
曲独楽興行は ほとんどが
路上での群集を嫌う行政側の法律によって
ことごとく取締りの対象になり
免許許可制で
寄席の中だけに限られます
戦争を何度か経験するうちに
相当 曲独楽師も 製作できる人も数が減っていきました
第二次大戦後
鉄など物資不足で 木地師の技術が消滅していたのですが
(寄席芸人も出征していましたし
東京大空襲で相当被害があったこともあり
曲独楽が寄席に復活するのは 時間がかかりました)
紋也師の独楽は 戦火を逃れて
国立劇場 演芸資料館に寄贈することができています
(展示期間中ですから 国立演芸場の展示で今見ることができるはずですが…)
近代になって
我が紋也師の 三増流 江戸曲独楽は 1955年ソ連や中南米諸国へ
そして 1960頃はオーストラリアなどへも 船上などで 長期の興行をしています
(船では ダンサーさんたちの振り付けも担当していたと 聞いております)
寄席芸として 曲独楽が定着した功労者といえば
紋也師はもちろんですが
紋也師の 落語芸術協会からの脱会ののち
やなぎ女楽師が 独学で曲独楽を習得されて 寄席に入られました
曲独楽に太神楽を取り入れた 柳家小志ん・とし松両師の功績も輝かしいです
そして 曲独楽の流れは
様々に広がりを見せました
博多独楽の再興をされ功績が認められて
福岡県無形文化財となった筑紫珠楽さんの国際交流公演や
独自の工夫をされた 筑紫こま鶴さん(KOMA TURU)が
ラスベガスのショーに入られたりして拠点をアメリカL.Aにされていますし
にぎやかに 各曲独楽師が 活動してきました
我が一門 小紋 紋子こと松旭斎世津子ねえさん 紋之助 左紋 れ紋 紋右衛門
そして 伊予ちょんがけ独楽名人の セミプロ右紋
(あ、私 巳也は主に愛媛が活動場所ですが)と 揃っています…
大阪の曲独楽が 今は 米朝師の一門の米八さん、大道芸の池田たかしさん(伏見龍水)
とお2人が寄席に入られてます
で セミプロの方なのかな…名古屋の大須演芸場に 柳家三亀司さんという方
あと もしかしたら 博多独楽の筑紫珠楽さんが 今年11月の襲名をきっかけに
全国で活動をされるのかもしれません
最近までの曲独楽のお話でした…
コラムで前に 宣伝しましたが
ただいま 国立劇場の演芸資料展示が開催中です
「曲独楽の世界」展
こちらに合わせて
やなぎ 南玉お兄さんの
曲独楽の講演がありますので
また 宣伝しておきます
伝統芸能サロンとして
毎回色々な講師を招いて 無料で話が聞ける講座ですので
機会がありましたら お越しください
先着順 120名様 13時から
http://www.ntj.jac.go.jp/topics/tradition/24/3612.html
演芸資料のことで 質問などありましたら
資料館の担当の方が 答えてくれるはずですので
活用されてくださいね
このコラム記事は、
私、三増巳也が、
こまの曲芸の仕事に必ず必要な、
曲独楽の材料である木と、
小道具に加工する素材の
和紙、竹などの手工業の結晶である
和傘や煙管、竹竿、蒸籠などを探して歩いた、
東京の浅草、浅草橋、蔵前、
埼玉県の小鹿野町、
神奈川県の小田原市穴部、真鶴町、
そして愛媛県の内子町へ、
東京生まれの芸人の私が、
経験して考える事です!
私が一番最近聞いて頂きたい事だから
何回か続けて書きたいと思います。
まず、その壱として、
ト ざぁい とぉざあ~い
さてさて、毎度の事ながら、
一番目立つ事柄に隠れた多くの大事な芯の部分というのは、
取り上げられる機会は
日常の普通の場面では
ほとんどありませんし
何か大問題が持ち上がった時に
あぶりだされて気が付くというものですね…
だから
わかってはいるのだけれど
そういう大切な芯にあたることが
大きな問題を解決することの陰に
また隠れてしまって
やがて
また見えなくなっちゃう…
もしかしたら
災害が結構多かった日本の歴史って
そのくりかえしだったのではないでしょうか…
今は 江戸以前から積み上げてきた風土を活かした技術や
手作業で繰り返し作られてきた生活の品が
本当に見られなくなってきました
どこの地方でも同じ問題を抱えている様子ですが
職業として成り立たなくなったそういう物事を
趣味の愛好家が支えているというのが
日本の姿になりつつあるんじゃないでしょうか
稲ワラとかイグサ、コウゾ、ミツマタ、麻、麦ワラなど
かつては循環が決まっていたのに
今ではその流れが完全に切れています
こういう農業や山林の土地利用の文化が無くなると
曲独楽のように
それを活かしてやってきた事が消滅していくのです
私が 結婚するので 東京から愛媛の内子大瀬に移住してから
曲独楽を 始められた
やなぎ南玉お兄さんが
そういう曲独楽の持つ問題点を一つ
あぶりだしてくれました
曲独楽の材料は木だけなのか…ということです
最近 アクリルなどの加工に高い技術を持つ会社の
木田工業さんに依頼して
透明な着色アクリルを使用した曲独楽を製作して
寄席で公開されました
さっそく木田工業さんの担当の方に
メールを送って
その挑戦に 感動したことをお伝えしましたら
お返事を頂きました
木材との素材の違いに ご苦労されて 完成していく様子が
ブログで公開されています
きっかけ
http://www.kida-k.com/topics/detail.php?aid=478&d=2011
製作
http://www.kida-k.com/topics/detail.php?aid=483&d=2011
完成
http://www.kida-k.com/topics/detail.php?aid=484&d=2012
これは 2011年から2012年の3月までの出来事でした
私がこのことを知ったのは
2011年の夏頃だったので
まだ こちらに来てから 南玉お兄さんと話もしていないのに
先にコラム記事で取り上げられなかったのですが
先日ようやく 国立演芸場の演芸資料展
「曲独楽の世界」展が始まったことで
国立の展示側のご担当の方と南玉お兄さんに連絡ができたので…
そうです
曲独楽の素材を変えちゃったら いいじゃないの
ってことなのですが
これがこの その壱の本題なのです
曲独楽を作る側の 原材料である 木の
調達が 1990年頃のバブル崩壊を境に
どんどん困難になっていた事は
ほとんど 一般の人からは 見ることのできない問題でした
曲独楽師だけが悩んでいたわけではないけれど
「目に一番付きやすい」存在である芸人の
大衆芸でさえも 「伝統芸」の仲間入りをしないと
維持ができなくなったこと
それをダイレクトに 感じたのは
まさにそのとき入門した
私が その流れの中にあったからなのでした
通常 曲独楽だけではなく 木を材料として物を作るとき
木工の経験のある方は 詳しいと思いますが
私の聞きかじりで御免なさいね
数年に渡って 乾燥管理をした木材を使用して 製作作業に入りますから
(最近は 機械乾燥で数ヶ月程度が普通かな)
東京の地価が高い地域で相応の倉庫を持っていて
しかも 製作作業には 大量の木屑とろくろの大音量が出ますので
その対策が出来ていなくては 木工は出来ないという事です
友人で キャリア30年 今も木工アトリエを 新宿に構えているOさんも
経済的負担の大きさが年々多くなる事
たまらずに後輩数人と共同のアトリエにし 頑張って踏みとどまっていますが
この状況は これからも 変わらないと 木工の方はみなさんおっしゃいます
木を使う場合でも その背景にまでは 普通は心が向かないものなのです
木の利用を 適切にすることで
里山の荒廃を防ぎ 現地の人の流出を抑え
国産材を辛抱強く支援してくれる 都市部の人を少しでも増やしていかないと
日本の地方の山間部の環境は 荒れていきます
私は 芸を持って
(東京では 寄席を中心に大変可愛がって頂いて 大感謝なのですが)
やはり そういう 地方の山林を支えている人の
黙して語らない 自分の山への愛情や
庭を愛するように 目の前の木や川などの 土地を
心地よく 自然体に管理し続けてきた 我慢強さに
本当の意味で 敬意を表したいと
曲独楽を精一杯 抱えて 東京から
この愛媛県 内子町の大瀬という山間部に移住しました
今まで
当事者の私でさえも何となくしか 感じられなかった 資源活用の 日本の里山の知恵
その恩恵に 日本の大衆芸も
例外なく あずかっているのだという
強い強い思想のようなものが これからは必要なのだという事
曲独楽の消滅の危機をひしひしと感じながら
それを言葉にして 訴えてきた三増 紋也師
私は その事を ここで活字にして みなさんに見ていただき
広く考えていただきたいのです
無くなっていいものもあるとは 思います
伝統に固執しすぎたら 大衆芸は つまらないとも考えます
しかしながら
曲独楽の木材利用の伝統は
日本の里山の資源活用の文化であり
地方の中山間部の 暮らしの風景の一つでもあり
山の人の心の投影であること
その点は 間違ってはいないのじゃないでしょうか
そして
曲独楽は コマの現象から考えると 地球の自転を投影した遊びであり
木材の堅牢さ 自由さ 軽さ その魅力の集大成でもあり
日本刀などを代表とした 鉄利用の日本文化の 小さな結晶でもあり
手工芸品の技術の博覧会のような存在の芸だと
私は考えます
南玉お兄さんが考えてくれた 曲独楽の素材をアクリルにしてみる
という冒険を元にしたコラムになりました
曲独楽の目線を変えて 曲独楽の魅力を高める活動も
こんな風にこれから まだまだ紹介していきます
では また (・o^)
「キツツキと雨」役所広司さん主演の映画を、元山師の亭主母と見ていると、こんな事を言われて感心しました。このチェーンソーは、手入れ不足で切れてない。地元の人ときちんと関係作りが出来ていないんじゃないの?
では、皆さんには、私たちが見ていた映画の場面の話をしますね。
とある田舎の山林に、若手監督が[ゾンビの映画]撮影に来るけど、撮影現場になる山林で、作業する地元の森林組合の人(役所広司さん)を始め、地域の人と話がさっぱり通じず、制作に四苦八苦する様子がお話の冒頭です。
私たちが見ていたのは、森林組合の人が、チェーンソーで伐採したヒノキを切るシーン。
確かに、内子町の里山に住んで10年目の私にも、亭主が切るチェーンソーの音とは違う事がわかりました!自慢自慢!
義母は、役所広司さんが山林を軽トラックで走る場面に、また言いました。
チェーンソーは仕事の道具だから、上下に揺れる荷台の最後部には、道具を乗せて走らない。
軽トラックも、急な坂をエンジン吹かして走り上がる事は、車を長く使う山の生活者なら、知恵として知っているはず。だから、撮影現場の人が、地元の人と話をあまり詳しくしていない事が判る。
深いね!暮らしの風景!
この写真で使っている曲独楽は
30数センチの直径で
風車という 三増流特有の演目で使います
この心棒は5ミリありますから
前述の 3.5ミリの心棒は
結構細いです
私が初めて 三増 紋也師にお会いた時に
曲独楽の回し方を 教えていただいていると 皆さんは思っていらっしゃるでしょうね~
ところが
曲独楽の回し方は 紋也師の回し方を見るだけで
初日は触るのみ
紋也師は 予備の曲独楽を 私に持ち帰って 回してみてねって
渡しただけだったのです~
見るだけですから さあ大変
どうしよう どうしよう
次回までに出来てなかったら きっと見込みが無いからって 破門だ~
とか
焦って回すけれど 全く手の中をつるりんとすべって 落下するだけです
そう 一番難しいといわれる 片手の中で回す 「ひねり回し」の習得の事です
綺麗に回しているんです
紋也師も小紋ねえさんも…
あ‘‘‘~
あなたなら こんな時 どうしますか~?
当時私は20代でしたが
今と変わらず 不器用ですので
手が痛くなるほど
回すのですが
この回転法を身につけるまで約1年かかってしまいました
回す事は 単純に見えますが 極めて難易度が高い…
ひたすら くるくる
朝起きてくるり
夜中にそーっと回し
早朝3時にいきなり起きてぐるん
こんな風に あらゆる時間帯で いろんな体調の時に回して
体得するしかありません
はっと気が付くと
私より はるかに機用な ジャグラーのマサヒロ水野さんが入門してきて
ますます置いていかれる感に焦りまくり
手に水たまりができて 魚が泳げるくらいになるまで くるくるしてました
で 父 源氏太郎の同期や先輩の 水戸大神楽の寿翁先生や、江戸太神楽の小次郎師、利二郎師、楽屋でお会いすると
若い頃の修業の苦い話を結構してくださって
本当にいい教科書でした
食事してから どれくらいの時間まで 集中の落ち方 上げ方の調整が可能かとか
じっとしていて眠くならない方法に
某歌手 冬美さんの小ネタ アメちゃん方式と同じく
ほっぺか舌の下 あるいは上唇内に
ミンティアなどのメントール系タブレットを挟んでおくので
覚醒すること請け合いです
いつでも 声枯れ一つせずに 舞台での口上が可能になりまする~
そう その心棒3.5ミリという感じは
手の中で どのように 密着しながら曲独楽の回転を邪魔しないかが鍵であって
回そうとして 回転をかける感覚とはまったく違うものです
これは 5ミリの心棒の扱い方とは 違う世界です
私は 紋也師の3.5ミリや、女楽師の3.5ミリを幸いにして手にとっているので、
この違いがものすごく実感できるのですが
今寄席で扱われている曲独楽は
ほとんど5ミリ以上の心棒なので
あいにく この回転方法を 見られない様子です
曲独楽の製作者の先生が みんな男性だから
曲がりやすい3.5ミリの恩恵を実感することなく
多分一度も作った事がない方もいらっしゃると思います
紋也師は 花柳の舞踊家でもありましたので
踊る為の所作として欠かせない表現を
このひねり回しで 私に教えてくださいました
三増流の凄い所は
さりげない最先端の工夫を散りばめて
古典のゆかしさと 面白みを一緒にご覧いただける点ですので
私も この3.5ミリ曲独楽を
慌て者の20代曲独楽師でない今から
大いに使っていきます
突然ですが 曲独楽ニュースです
http://www.ntj.jac.go.jp/engei/event/1651.html
国立の お笑い というものを ご存知でしょうか
そう 「こくりつ」です
「くにたち」では ありませぬ
2012.8.1から11.25まで
東京の 皇居の目の前
歌舞伎の国立劇場と 同じ場所にある
国立の寄席
国立演芸場の資料室で
曲独楽の展示が あるのです
どうぞ 私のコラムで 興味を持っていただいたお客様へ
お近くの方は ぜひ
実際の曲独楽の 錦絵 を ご覧になってくださいませ
入場無料です
曲独楽の展示 舞台小道具は 歴代の曲独楽師が寄贈しているので
どれも 演芸史上 貴重な資料ですし
寄席の舞台では あまり近くで見られませんから
じっくり ご覧いただけます
美術的にも 非常に興味深い 日本の誇る 文化だと
私は考えています
先日
T師の思い出として 寄稿させていただきましたが
T師の曲独楽も こういう場で 再会できるので
私には 懐かしく嬉しい機会でもあります
前回の曲独楽展示の時はロビーにて
国立大衆芸の養成課研修卒業生と共演した私ですが
あらためて
曲独楽の魅力の 普遍性を 思うこのごろでもあり
私自身には 人生半ばを差し掛かっている今からは
曲独楽の魅力を 違う視点からも ご紹介していきたいと考えています
ぜひ このコラムと合わせて 曲独楽に親しんでいただければ 嬉しいです