「究極の幸せ」
今週で映画が完成する。先日は新宿のスタジオにて作曲家の江口貴勅さんとシューベルトのアヴェマリアを録音した。歌は渡辺逸雄さん。渡辺さんは何十年もピアノと歌で生きてきた方で中野ブロードウェイに小さなお店を構えている。渡辺さんの声は人の心に響く深く優しい声です。そんな方とも作品を通じて共演出来たことにうれしく思っています。
本日と明日で音声の編集が完成する。音は映像の世界をより立体にして観客をその物語の世界観に引き込む。また音とは単純に音を足せばいいという意味では決してない。音を引くことも重要なのだ。静寂さというものが人の心を繊細にもする。
これだけ大勢の人々に助けられ出来あがってきたんだと
今更ながら驚きと感謝の気持ちでいっぱいになる。
そして誰一人かけていても成立しなかったんだという現実を知り、
一つの作品が出来るということは多くのミラクルが
つながっているんだと実感。
震災から約一年が経とうとしている。仕事もプライベートも大きく変化があった。多くの人がそう感じた年だったのかもしれない。この映画も一つの時間の芸術としてその中に刻まれている。
映画「究極の幸せ」
長期不在で大変恐縮です。世界中を撮影ロケでまわっており、まったく自分の時間さえ持てず今日までやっておりました。
先日、映画のテーマ曲のサンプルが完成しました。作曲家に江口貴勅さん。OPから引き込まれた・・・ 弦楽器のレイヤーと厳粛さと恐怖とを感じるような、現実を突きつけられるような感じ。しかしどこかに救いがある。音を言葉で表現するのは難しい。
それぞれの小さな世界へとゆっくりと降りてゆく。
そこからさらにここのインナーな部分、エモーションの部分に
深くはいってゆく。
音楽は映画のBGMではない。音楽そのものが映画なんだと思う。
花屋で働く景子。彼女は自分らしさを貫いて生きようとする。一見その素直さが本来の人間のあるべき姿なのかと思うようなことが自分の普段の生活にもある。みんな一生懸命自分を殺して生きている。大なり小なりそうすることで調整している。たまにそういう風に見えない人に出会うと僕は羨ましくなったりする。しかしいざお付き合いしてみるとそういう人に限ってケアレスだったり自分主体でありすぎるため周囲への配慮が欠落したりもする。人ってどうあるべきなんだろうか?いつも考えている。
よく人としてどうなんだろうこの人は?という人と仕事をする。肩書や給料の差でえばっているような人や、部下を守れない人。不思議とそういう人のところに仕事は多い。人にやさしく配慮深い人と仕事をするとたいてい時間やお金にルーズだったり、バタバタすることが多い。任務遂行のためのハードシップも避けようとする場合も多い。どっちがいいか一概に言えないのと同じように、人間のありかた、幸せの形も考えさせられる。
しかしそれらがどうであれ、当初から行っているように今回の映画の軸になっている女性はみんな女神である、という意味。言い換えればヒーローである。それぞれの人生の主人公でなければならないと思うし。自分の意思で決断し、自分の意思で進むしかないと思う。景子はそれに気が付いていくのかな?景子の成長とはなんなのか?自分が幸せになろうとすればするほど幸せになれない。そんな景子を見守りたい。
「究極の幸せ」
4月18日はしがないモデル亜津子の唯一の心のよりどころであるエステのシーン。
帝国ホテル内にあるLUXEにお邪魔した。撮影二日目・・
LUXEは本来エステではなく、リラクゼーションサロンに整体を取り入れたユニークなアプローチのお店。
このお店には実はあまり知られていないが世界中を豪華客船で旅しながら
セレブや有名人達を施術してきた
アロマセラピー&整体の達人、松本先生がいる。
カタールの王子、ロクシタンの会長、セレブリティではレニークラビッツ、
アンジェラバセットなど。人の心を見透かすように体を見透かすというか・・・
そんな松本先生の監修のもと行われたロケ。
亜津子は自分の内面に自信がなく、それゆえに着飾ったりしている面がある。エステはその恐怖心の現れである。しかしこれは一面にすぎない。松本先生とリサーチ段階でお話をする中で見えてくるセラピーの奥深さ。亜津子は現実逃避のためにハマったエステによって実は救われ始めて行く・・・ そういう面も「究極の幸せ」では描いている。
人の心と体は一つだ。
今回勉強になったのは、体を治す、ではないということ。体の悪いとされる
部分を検証しどのような精神状態がそこに反映されているか、そこまで
見てくれる。自分自身、何度か松本先生の施術を受けてみたが、
体を整えるはずが、今後の生き方に参考になるさまざまなことを教わった
気がする。
しがないモデルの亜津子にもそんな救いがあればと思っている。
「究極の幸せ」
しがないモデル亜津子は自分がいったいなにものなのか、自分にいったい何ができるのか、そんな不安を抱えている。
20代半ば、いつまでもこんな仕事の仕方をしているわけにはいかない・・・
周囲には若いモデルやタレントの卵たちが増え、いつしか自分はお姉さん的存在に。
かといって自分からなにか具体的なアクションを起こしているのか?
そうではない・・
そういう人は多いのではないだろうか。
僕は大学時代そんな感じだった。いつもキャンパスを徘徊し、何をしたいのか考えてばかりいた・・・
亜津子が唯一ぶつかれる男が彼女のマネージャー政文氏。彼は辛抱強く彼女をサポートしてきた。距離の近さが亜津子の「甘え」になってしまうのだが。亜津子のちょっとした一言に政文氏は遂に激怒。そこで二人の関係性について亜津子は真実を知るのだが・・・
政文氏を演じる小林元樹(こばやしもとき)さんは実はニューヨークで俳優として活躍してきた日本で知られざる大物である。
http://www.imdb.com/name/nm0462040/
ハリウッド大作「グレイト・レイド」(主演ベンジャミンブラット)で
演じたナガイ少佐。あの迫力は凄まじいものがあった。
政文氏もやはり「狂気」と「笑い」をもった人物なので亜津子とのギャップが
とても生々しい。目標があいまいなしがないモデル亜津子と目標にむかって
必死に貪欲に走り続ける政文の温度差は滑稽で不可思議にも映るかもしれない。
【エンジェルとの出会い】
どこにでもいそうなしょうもない亜津子。
にもかかわらず彼女は何回かエンジェルに出会う、という不思議な経験をする。きっと感性だけで生きてきた女に違いない。
亜津子はその出会いが何なのかもちろん理解できないし。そんなこと忘れてしまう。
でも人間体にガタが来たときにやっと気がつくことがある。僕は顔面神経痛になったことがあった。その時初めて自分がおかれた状態が危機的だと知った。
亜津子も自分の体の悲鳴に耳を傾けていなかった。
エンジェルを演じるのはまさにそれにふさわしい役者、三船力也さん。三船敏郎さんの孫にあたる。
僕のなかでフェリーニ、バーグマン、黒澤は絶対的な存在だった。
そこにかかわっていた人に近い存在として三船さんの
今回の出演に僕の血が騒いだ。
そんなエンジェルとしがないモデル亜津子の温度差もまたたまらない。
「究極の幸せ」 DAY1
台本も仕上がりオーディションもほぼ終わり、配役もだいぶ進んだ。
イカレテいる・・・3月11日から4月9日までに映画クランクインの準備をしているんだから。周囲は自粛ムードだったし、状況は深刻だった。
この約1カ月で一番大変だったこと・・ それは「はじめる」ことだった。
みんなが「何かをやめる」という流れにあった時期だと思う。
そのなかで何かを創めるのは相当エネルギーがいることだった。だからテレビでボランティアの人が 被災地にいったり、ミュージシャンが曲を書いたり、そういうことが本当にすごいこと なんだと感じることができた。
一番大変だった「はじめる」こととは具体的に言うと僕の場合、制作チームの再建、立て直しだ。震災、原発を背景に多くのスタッフがプロジェクトから離れて行った。その中で再び人を集める。
これも不思議なもので、今までお世話なった友人などはほとんど今回の映画に参加していない。ほぼ全員が初めて顔を合わせるメンツ。その中で一人一人の能力を判断することは難しい、でも与えられた環境でできる限りやるしかない。当時の僕はそんな心境だった。
当初クランクインは4月18日を予定していた。主人公3人のうちの一人、しがないモデルの亜津子。亜津子はエステと買い物で日々の不安やストレスを解消しているかわいそうなモデルだ。自分の求めるものすら見えていない。亜津子のエステシーンが当初のクランクインのシーンになるはずだった。
そのころ僕は心の中で色んな不安というか、本能的に「なにかがいけない・・」と感じてはいた。亜津子の本当の姿を誰も知らなかったし、僕もまだ見たことがなかった。亜津子は表面で飾った女かもしれない。薄っぺらい女かもしれない。しかし人間だ。
それを知りたかった。亜津子も自分の内面は何なのか本当は知りたがっていたはずだ。そんなもやもやを抱えたままでいた時に照明監督が「桜がそろそろだね」と。
助監督も「いいですね」と。
「じゃ撮ろうか?」
「でも誰のシーン?」
「いや、台本にないんだけど・・」
「でも亜津子だよね」
助監督があわてて亜津子に電話する。
「急きょだけどクランクインを早める。亜津子のシーン」
「え?」
衣装部もあわてる・
「亜津子の衣装準備しなきゃいけない」
「ですよね」
そして時間との戦いをあえてはじめた僕ら。
「桜が散る前に・・・!」
4月9日朝4時ごろ新宿のバーで日の出をまつ。
酒を飲む。
「撮影前にいいのかな?」
「クリストファードイルじゃないんだから」
※酒好きで有名なオーストラリア人カメラマン。ウォンカーワイ監督作品など手掛ける
「まぁまぁ」
亜津子が現れる。たしかマネージャーの車で急きょ新宿へ。
「おはようございます」
亜津子は疲れている。一晩中働いたまま現場に来た。無駄のない表情や身振り手振り。
「いける・・」
亜津子は疲れすぎていて表面を飾ることができないんだ、と僕は感じた。そしてみんながそれを待っていた。正直みんなそれが不安だった。亜津子がもってる内面ってなんなんだろうか?
時間は麻酔のようだとおもう。知らない間に立っている。計画をたててその通りに進まないといつか何もしなくなってしまう。桜というタイムリミットが僕らを後押ししてくれた。
創めることは難しい、乗っかればあとはスピードが加速するのに任せればいい。
なにをもって「はじめる」なのか?
こうして映画の物語はひとりでに動き始めた。
「撮影した素材を見て」
最終日の翌朝。そういえばもう6月だ・・とふと思い出す。撮影中はまったく時間の感覚を失っていた。僕が分かっているのは今日何をしなきゃいけないか・・それだけ。そんなライフスタイルが震災以降続いていた。翌日からひっきりなしに仕事のメールや電話。
3月以降、原発の取材依頼が世界中からはいってきた。飛行機もロケ車両もすべていっぱいで予約さえできない。そんな世界もある。
僕はそれから1カ月あまりほとんど映画の事を忘れて日銭を稼ぐためにあくせくしていた。
ようやく落ち着いたのが7月。そこで久しぶりに撮影のラッシュ(素材)を試写する。
撮影から編集までのブランクがあったことがよかったと今思う。
撮りたて素材というものは可愛いのだ。だからなかなか捨てられなかったり、映画全体のバランスを見失って一つの素材(シーンやセリフ)にこだわってしまう。それがなかった。
以前の日誌にも書いたが、映画はシナリオから準備、撮影ともともとあったものからマイナス要因が多く出る。シナリオがかりに自分にとって100点だとするとそこから出来ない事など現実的な要因がはいることでみるみる80点とか70点くらいになると思う。
そして役者や実際のロケ、カメラマン、照明、衣装それらの要因でマイナスになるリスクをたくさん潜り抜ける。
しかしこうして試写をし、いざ編集へ入ろうとする時のマインドは違う。素材のいい部分をどうやって最大限引き出すか。それだけに尽きる。
発見もおおい。ちょっとした目線の感じだったり、首を傾げた感じだったり、呼吸のリズムだったりで、スピード感も変わるし、役者が意識していなかったレベルのことまでいじることが出来る。極端に聞こえるけど、偶然かぜがそよいで女優の髪に触れただけですごく変わる。こういうのを見つけては「ああいいな~」って思う。
これからシーンを一つ一つつないでいく作業に入る。シーン数は全部で144シーン。
先は見えないがとにかくまずは一つのシーンなら一つのシーンに集中する。
自分で言うのもなんだが最近こういうロウ(生)な作品みていないなと思う。シーンに表現されている感情だったりスタイルだったりモラルだったりのバリエーションがすごい。あらためて自分が今おおきなチャレンジをしているんだと思い知る。台本を読めば普通のドラマにも見て取れる。でもちょっと違うんだ。楽しみだ!変に奇抜なアートハウス系の作品でもないし。コマーシャルを否定したひねくれた作りをしているわけでもない。あくまで自分。自分の視点。
音楽も考えなくてはいけない。それもまた「究極の幸せ」の世界観をより深く広くしてくれるに違いない。
「クランクアップ」
夜のオフィス。息をひそめる。足の裏はじんじんいっている。空調の音がやけに大きく唸っている。僕は苛立ちとあざけりを感じずにはいられない。妙に冷静で冷やかなまでに距離のある視点。
そういえば小学校時代もそうだった。ふっと・・・
学校中に人気者だった兄のこと。兄はなにもせずとも常に学年で人気だった。それは小学校をでて中学校に入ると一層際立って見えた。僕はいつもその「人気者の兄の弟」としてのポジションをキープしていた。それはまるであたえられた役割のようでいつもその義務感というか天命のような感じを抱いていた。そんな状況で弟がする事って何か?いっこしたの僕は僕なりに背伸びしてクラスの人気者の地位を維持していた。一番だったとは思わないが相当目立っていた。しかしそこには焦りや苛立ちが常に付きまとった。兄は自然体のままでも常に人の中心にいた。僕は努力なしでは人気者の座を維持することは困難だった。だから常に苛立ちと大衆にたいするあざけりと妙な冷静さがあった。その時々のクラスメイトの人間関係やはやり、すべてを冷静に見て判断することが要求された。人気者であることは楽じゃない。常にヒット曲を連発し続けなければ消えていってしまう。気のきいたギャグ、クラスに時々スパイスとして必要になる仲間やグループの派閥。それらをある程度コントロールするポジションにいる必要がある。犠牲にあって涙した少年や少女の顔がばーっとうかぶ。しかし不思議と勝者たちの顔はどこにも映らない。残っていない。
カット!
女優のかたががっくりおちる。みなのため息がきこえるようだ。
撮り直す理由はどこにも見つからない。であれば終わり。「クランクアップ!」
みんな一斉に拍手。何を喜んでいいのかがわかるだけの洞察力も何もない。それぐらい疲れ切った脳みそ。だがなにかがうれしさを求めている。そういう感じだ。
最後のカットは涼子の会社でのシーン。それが一番今までの涼子のシーンで美しく見えた。ほんとうに疲れやあきらめが映っていた。準備を含めば2カ月近くかかった現場がこの日終わった。これから6畳一間での編集作業がまっている。僕だけが冷静に冷やかにそのことをおもっていた。
「DO IT!!!」
人の感覚的なセンサーって本当に大事だと思う。ピンとくることがあったり、あれっと思うこと。これは瞬間的に感じてあとで、いやいやそんなことはない、と頭で整理し直す。だけれども結局後になって気がつけば「そんなことあった」の場合がほとんど。
直感とはまた違うものなのかもしれないけれど、違和感を感じたり、逆にぴたっと感を感じたり。そういう感覚的なセンサーって大事だと思うんです。なにせあたるので・・・そしてこのセンサーっていうのは常に研ぎ澄ませていないと鈍ってしまう。だから人間の都合のいいように必要な時だけつかって必要ない時には使わないってことがなかなかできません。使わなくなっただけでものすごく錆びてしまうから。そういう意味でアスリートみたいな感覚を一般の僕みたいな人間も持っていなきゃいけないって思う。
でもこのセンサーって非常に厄介なんです。たまにセンサーを研ぎ澄ませていると常識を超えた結論に達してしまったりする、そうすると周囲の理解を得られなかったりもする。バランスをだからとろうとするのだけれど、うまくいかない。人間って保障が好きじゃないですか。だからうまいことやろうとやるんだけどそれがうまくいかない。でも必要な時だけ使うわけにはいかないナマ物だからバランスもうまくとれない。
例えば僕の現場で言うと、よく監督さんで自分が撮りたいカット以外のカットをとろうとする人がいる。喫茶店の男女の会話のシーンだとして、本当は男の顔のアップと女の顔のアップだけでいいのに、2人込みのツーショットを一応撮っておこうとか。でも結局使わない。使う使わないの議論だけならいいのだけれど,たいていそういうカットを撮影するために自分が本当に必要なカットをとるための時間を犠牲にしたり、集中力が分散したり悪いおまけがいっぱいついてくる。で、結局本当に必要だった顔のアップの絵が本当にほしかったものになってない、とか。
いくら理屈をこねてもいざ感じ取ってクリエーション「想像」のもつその中である程度やるってのりしろみたいなものがないといけないと思う。
台本上にテーブルの上にコーヒーカップ、と書いてあったらコーヒーカップだけ準備する、そういうことではいけない。大げさな例えだがそこを伝えるのが今回苦労した点。海外でやってきたからなおさら思うことなのだけれど、システム化して一覧表みたいのを作るのは日本人スタッフは得意。だけれどその表に書いてない物は一切準備しないんです。だから対応できない。そういえばザッケローニ監督率いる日本チームもそんなシステム議論があったようなきがします。これはいろんな場面で言えることだと思う。原発もそんなことで騒いでいて、システム外の対応が全然できない。批判しているわけではなく、僕なりに自分が今後どういうモノづくりをするべきかを考察しているのです。
結局は「自分が何をするか」が大事なわけですから。
役者も「このセリフはこれこれこういう理由でいうんですか?」とか聞いてくる。「相手にこういわれたからこう反応するんですよね?」とか。もちろん役者は監督の気持なんか分からなし、監督も役者上がりでなければ役者の気持なんか分からない。だからそんなナンセンスなことを聞いてしまうんだろうけれど。だけど結論から言うと、こういうこと聞かれると白ける。クリエーターとして。だって答えがあるものを作ってないんだから。「僕はこう感じたんでちょっとこうやってみます」って言われれば何が出てくるんだろう?ってなる。「どうなるか分からないけどやってみたい」ってそれがないと本当に裸にはなれない。それに結局はお客さんがみて感じる物にしなきゃいけないわけだから、
あなたが(役者)がどう思って、なにを背景に演技をしましたって言ったって見ているお客さんが感じないとだめ。お客さんが分かる、でもダメ。感じないとダメ。この違いは小さいようで実はすごく大きい。それも瞬時に理解しなきゃいけないよね、役者なら。
だからとにかく枠からはみ出しまくった物をいつか創りたい。そう思っています。
でもある意味では今回の作品も自分の予想を超えたものにはなっている、枠を超えようとしたがシステムにはまっている、あかぬけない感じ。これが今の社会性を表していることも事実だから、そういう意味では今を忠実に描けていると思う。
これから編集に入るのだけれど、主人公の涼子、景子、亜津子はどこまでいけたのかな?つないでいく中でより一層彼女たちの変化が見えてくるかもしれません。
タイトル通り「DO IT、JUST DO IT!」これを震災以降自分に言い聞かせ撮り続けた。カメラマンにも役者にも制作にも言い続けた。僕は無知で世の中のほとんどの事を知らない、だけで一つだけ分かっていることがある、それは自分がやりたいことがちっぽけで無意味、無価値なものであると思うことがあっても、やった後に絶対にわかる、それをやることには意味があったって。全力でやればいい。
そしてそれは自分が思っている以上に世界を変えているって。
「作品クオリティ・コントロール」
ようやく9割撮影を終えました。震災から精神的な負荷もあり遂に体重4キロも落ち、立っているのも大変なロケ現場も何度かありました。なんとかしかしここまでこれた。
以前どこかで聞いたことがいつも頭の片隅にある「映画作りってイメージした時が100点だとして、あとはどんどん創っていく工程で減点されていく、だから監督はその原点要素をなるべく排除する努力が必要」
今回の現場でもしみじみそれを感じる。イメージから脚本になる段階で僕の脚本能力だったりもあって100だったアイデアが90ぐらいになってしまう。イメージと書いたものにちょっとした温度差みたいなものが生じる。まぁ結論を先に行ってしまうと、その温度差や作品の本来あるべきクオリティからの劣化?を楽しまなければいけないのだけれど。僕はそういう意味でフランスの巨匠ゴダールが「イメージ通りのものを作るのはつまらない、あたまでイメージしたものはもう出来上がっているから」といったニュアンスのことを言った時、つくづく感心した。というか同感だった。
スタンリー・キューブリック監督が「Eyes Wide Shut」の現場でトムクルーズが何テイクも重ねて、一向にOKが出なかった時に「I wanna see magic!」といった話がある。
監督のイメージよりもさらに飛び出してほしい、飛躍して、監督さえも想像しなかった何かを役者のほうから出してほしい。これはすごく分かる。計算通りに作れないのが映画だし、監督はやっぱり映画製作を通じて自分も体験し、発見していくものだと思う。
創作って奥が深い。今回の「究極の幸せ」で、僕はちょっぴりかわった視点でドラマを描きたかった。奇抜な、ということではなく、ごく自然に描きたかった。最近ドラマをみてもどこか「フェイク」に思えてしまう。人の作品をとやかくはいいたくないのであまり触れないが、あと常に考えるのが「今」な映画。昔のシナリオ形式だったりのままだとキャラ重視かシチュエーション重視でたいていはある明確な何かがあってそれにくらいついていく主人公、というのが多かったと思う。でも現代の日本って本当にそうかと思うとそうでもない気がする。何でもそろっているのに幸せになれなかったり。モチベーションが明確でないことが多い。そういうものをどう描くか?ということが大事だった。
そういう意味で新しい作品であってほしいと思う。そして見る人が何かを本当に感じれる、うわべだけじゃないもの。
現場には撮影、制作、衣装、キャストと様々な要素がさらにからみあってそさらにオリジナルのイメージからの劣化要素が出やすくなる。それを何とか食い止めるのに必死だった。でももちろんその劣化がさっきも述べた通りいい方向に出る場合も多い。常に模索してる感じ。でも監督としてはかじ取りなわけで計画的にできないサプライズよりまず現状維持に徹してしまう部分がある。だから劣化要素が出た時にその見極めが難しかったり、その要素の重要度が分からないためどれだけのエネルギーをそれにさけばいいのか分からなくもなる。
今回監督の目線で率直にJUNKSTAGEさまのブログを書かせてもらうことにしているから綺麗事だけ書くことはしない。一つ分かっているのはこれだけ悩んで消耗しているのは「監督唯一一人だけである」という事実。だから想いは色々あってもどこまでスタッフやキャストに伝えるのが得策か判断が難しい。色んな意味で奥が深い。
「エンジェル」
僕は思うんですが、誰しもが人生の中に一人エンジェルがいるのではないかと・・・
エンジェルはその人を導くヒントをいたるところに落としていってくれる。
映画の中でそのエンジェルという不思議な存在が主人公の女性達をさりげなく導いていく。でも決して手助けをするわけでも助言するわけでもない。あくまでも主人公の女性達が単なる女性からヒロイン(自分で選択し進んで生きていく人間)になるためのプロセス、チャンスを与えてくれる。
エンジェル役には三船力也さん。初めて紹介をうけお会いした時の眼力がすごかった。まるで三船敏郎さんに会ったような錯覚を起こした。エンジェルだ!僕は思った。
不思議なもので世の中には「あっ」と思うほど何かとなにかがシンクロしているか類似しているかすることがあって、例えばサッカーの中田さんは僕は昔からマイクタイソンさんにそっくりだと思っていた。顔が似ているというよりもその雰囲気が。何か孤独と決意を感じさせるたたずまい。そして三船さんのオフィスにいった時にマルチェロマストロヤンニに白黒のポスターが立てかけてあり僕がついつい、マルチェロお好きなんですか?と聞いて、そのあとすぐにそれが三船敏郎さんだと気がついた。
とにかくそういったマジカルなことがよく起こるのが撮影現場だと思う。スタイリストも相当エンジェルの衣装や髪型を悩んで何度もその話になった。そして最終的には意外な展開に・・・ またエンジェルに遭遇する主人公のしがないモデル亜津子。彼女のその、エンジェルにすべて見透かされている時に表情もまた何とも言えない。
まさかここまでの表情がでるものかと、驚いたが、共演者やロケの雰囲気、衣装、全てが合わさってマジックが起こるんだろう。