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2011/05/29

「作品クオリティ・コントロール」
ようやく9割撮影を終えました。震災から精神的な負荷もあり遂に体重4キロも落ち、立っているのも大変なロケ現場も何度かありました。なんとかしかしここまでこれた。

以前どこかで聞いたことがいつも頭の片隅にある「映画作りってイメージした時が100点だとして、あとはどんどん創っていく工程で減点されていく、だから監督はその原点要素をなるべく排除する努力が必要」
今回の現場でもしみじみそれを感じる。イメージから脚本になる段階で僕の脚本能力だったりもあって100だったアイデアが90ぐらいになってしまう。イメージと書いたものにちょっとした温度差みたいなものが生じる。まぁ結論を先に行ってしまうと、その温度差や作品の本来あるべきクオリティからの劣化?を楽しまなければいけないのだけれど。僕はそういう意味でフランスの巨匠ゴダールが「イメージ通りのものを作るのはつまらない、あたまでイメージしたものはもう出来上がっているから」といったニュアンスのことを言った時、つくづく感心した。というか同感だった。
スタンリー・キューブリック監督が「Eyes Wide Shut」の現場でトムクルーズが何テイクも重ねて、一向にOKが出なかった時に「I wanna see magic!」といった話がある。
監督のイメージよりもさらに飛び出してほしい、飛躍して、監督さえも想像しなかった何かを役者のほうから出してほしい。これはすごく分かる。計算通りに作れないのが映画だし、監督はやっぱり映画製作を通じて自分も体験し、発見していくものだと思う。

創作って奥が深い。今回の「究極の幸せ」で、僕はちょっぴりかわった視点でドラマを描きたかった。奇抜な、ということではなく、ごく自然に描きたかった。最近ドラマをみてもどこか「フェイク」に思えてしまう。人の作品をとやかくはいいたくないのであまり触れないが、あと常に考えるのが「今」な映画。昔のシナリオ形式だったりのままだとキャラ重視かシチュエーション重視でたいていはある明確な何かがあってそれにくらいついていく主人公、というのが多かったと思う。でも現代の日本って本当にそうかと思うとそうでもない気がする。何でもそろっているのに幸せになれなかったり。モチベーションが明確でないことが多い。そういうものをどう描くか?ということが大事だった。
そういう意味で新しい作品であってほしいと思う。そして見る人が何かを本当に感じれる、うわべだけじゃないもの。

現場には撮影、制作、衣装、キャストと様々な要素がさらにからみあってそさらにオリジナルのイメージからの劣化要素が出やすくなる。それを何とか食い止めるのに必死だった。でももちろんその劣化がさっきも述べた通りいい方向に出る場合も多い。常に模索してる感じ。でも監督としてはかじ取りなわけで計画的にできないサプライズよりまず現状維持に徹してしまう部分がある。だから劣化要素が出た時にその見極めが難しかったり、その要素の重要度が分からないためどれだけのエネルギーをそれにさけばいいのか分からなくもなる。

今回監督の目線で率直にJUNKSTAGEさまのブログを書かせてもらうことにしているから綺麗事だけ書くことはしない。一つ分かっているのはこれだけ悩んで消耗しているのは「監督唯一一人だけである」という事実。だから想いは色々あってもどこまでスタッフやキャストに伝えるのが得策か判断が難しい。色んな意味で奥が深い。

2011/05/29 11:03 | hayamizu | No Comments