ハンコック
【HANCOCK】2008年
ずっと“アメコミ”原作と思っていたら完全オリジナルと見終わってから気がつく。
だからなのか、割と好きなX-menやバッドマン(特にダークナイト)とはまた違う、
深みはあるけれど、意味深で哀愁を引きずりすぎない、スーパーヒーローのドラマがあるな、
と思う。
この映画、短絡的に言うと
アルコール好きでパワフルすぎな“クズ【asshole】”扱いのスーパーヒーローが、
皆に愛される真のスーパーヒーローになる為努力する、というハナシ。
もちろん、そこにいろんなドラマが絡むわけだけれど、本筋はそこ。
一見すると、『改心』して、と言いたくなるけれど、
実際はPRマンのレイ【Ray】に出会い、助けられ、
立ち居振る舞い【attitude 】に気を付けただけにすぎない。
つまり、ハンコックの本質は変わっていなくて、そこがこの映画の要と思う。
ストーリー前半、ハンコックがレイの家を訪ねる途中、
近所の悪がきミッシェル【Michel】に絡まれる。
+++
ハンコック: 名前は?
ミッシェル: ミッシェル
ハンコック: 俺は?
ミッシェル: パパは“クズ”だって
ハンコック: 人をそう呼ぶのは よくない
ミッシェル: “クズ”?
ハンコック: 言われて怒る奴もいるし- 気分を傷つける
Hancock: What’s your name, boy?
Michel: Michel.
Hancock: You know who I am?
Michel: My papa says you are an asshole.
Hancock: Well, that’s not really a nice word to call a person, is it?
Michel: Asshole?
Hancock: Yeah. Because that could make someone very angry…
…and, you know, maybe hurt their feelings..
+++
ハンコックは“心が痛むコト”をちゃんと知っている。
そんなハンコックをレイがPRマンとして分析する。
+++
話を掘り下げよう
君が問題を起こすのは 寂しいからなんだ
人々の理解を欲しがってる
人を助けても非難されるので背を向けてる
I think that deep down you behave badly because you’re lonely.
I think deep down you want people’s acceptance.
Come on, now. You save people’s lives…
…and they reject you, and so you reject them back.
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どうやら先にハンコックと溝を作ったのは人間で、
だから彼は人間と垣根を作ることにしたらしい。
そんなハンコックに、態度を改める、と大衆に向かって読ませた表明文の1節。
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地球上で僕のような人間は1人 とても生きにくい
Life here can be difficult for me. After all, I’m the only one of my kind.
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レイが作り、読まされている文面かもしれないけれど、これがハンコックの本音だろう。
『only one of my kind』
見かけは“人間”と同じ見えるかもしれないけれど、全く異なる人間ではない種であること。
態度が、どれだけ“大勢”で構成される社会に受け入れられるために大切か、なんてコトは
無難で優等生的な行動を推奨しているにすぎないと思うけれど
大勢に受け入れられる、ということは、
やっぱり本質的にそれなりの価値を持っているからと言っていい。
優等生という言葉に語弊があるだけで、事実優等生万歳!なのだ。
そしてハンコックが人間を理解できるのは、自分と同じように人間が“心が痛む”から。
その痛むことを包むために鎧として使っていた彼だけの特別な力を、レイが開放する。
そうなると後半の展開が面白くなる。
力が余裕を与え、余裕がハンコックを愛されるヒトに変える。
でも、ハンコックの本質は変わっていない。
“クズ【asshole】”扱いのスーパーヒーローは、元から優しいヒーローで、
ただ人々がそれに気がついたにずぎない、というワケだ。
電車に乗ったら座席が一列全部空いている。
あなたならどこに座りますか?
なんだか、飲み会でよくある心理テストのようだけれど、習慣のハナシ。
多くの人が、両隣りに他人が座ってきて密接するのが嫌だから、と端の席を選ぶのだと思う。
それに、広い空間にぽつんと座っているより、横になにかしらがある方が、
なんとなく落ち着く、っていうのもあるだろう。
まさにアメリカに行く前の私の回答も なんとなく 『端』 だった。
そしてアメリカに行ってからもしばらくそれは変わらずだった。
NYに引越ししてから1年目だったか2年目だったか、ある日地下鉄に乗った。
割と混んでいて、私はドア横の端の席に座っていた、か、もしくはドアを背にして立っていた。
そこからは向かいの席のドア際の端に座っている女性が見えた。
列車がホームに滑り込み、止まる。
ドアが開いて、降りる人、乗る人の流れ。満員ではなかったけれど、それなりに混んでいる。
出発の合図、ホームのベルではなくて、リンゴン、リンゴンという列車が鳴らす音。
なにげなく景色として見ていた人ごみと向かいの女性、その横に立っていた小柄な男性。
ドアが閉まる瞬間に、彼が彼女の首から金色のネックレスを剥ぎ取りホームへと飛び降りた。
一瞬のコトで、そしてドアは閉まり列車は走り出す。
その出来事に車内はざわざわしていたかもしれない。
女性の隣に座っていた誰かが、大丈夫かと言っていたかもしれない。
でも私の記憶にその音はなく、ただびっくりして唖然となり、とにかく首を押さえる女性の顔。
目は見開いていて、鯉のように口が開いてはしまり、開いてはしまる。
その時私の頭の中は、あのネックレスは金色だったけど、純金だったのだろうか、、
もしメッキだったら、あの青年はこんなリスクをしょってまで奪う価値があったのだろうか、、、
なんてどうでもいいことがぐるぐる回っていた。
そして、あんなことができるんだ、あんなことをやるんだ、という衝撃が襲う。
その事件から端に座るのをやめるようになった。しばらく電車に乗るのも怖かった。
そして意識して真ん中に座るようになる。習慣で踏み出した足を、真ん中に向ける。
純金のネックレスなんて持っていないのに。
日本に帰ってきて東京に住んでからは、そうそうがらがらの電車に乗ることなんてないけれど
それでもたまにがらんとした電車に乗ると、戸惑いはしないけれど、ぎこちなく真ん中に座る。
座ってから、ぼんやりあの時のコトを思い出し、
それから、寒くないし、うるさくないし、真ん中に座るのもいいもんだと、と勝手なコトを思う。
更に月日が経てば、何も考えずに真ん中に座るようになるのだろう。
『電車に乗ったら座席が一列全部空いている、あなたならどこに座りますか?』
と聞かれれば
『真ん中です、だって広々してるじゃない』 なんて言うようになって
私という人格は結果変貌を遂げているに違いない。
トロン
【TRON】1982年
最近公開された -と言ってもちょっと前だけれど- “トロン:レガシー【TRON: LEGACY】”の
つながっているような、つながっていないような、な第一章的映画。
この“TRON”もまた、VHS→アメリカ版DVD→日本版DVDと買い直しているぐらいの
MY BEST MOVIES 10に入る大好きな映画。
1982年公開ならば、まだ小学生の頃の映画なので、とても映画館で観たとは思えないが
何度も観ているのでだいぶ大画面で観た気になっている。
コンピュータ・グラフィック導入初期の映画なので
今のSF映画と比べれば画像も荒いし、合成も切り貼り感満載で、時にイラストも混じり
とてもディズニーの映画とは思えない大雑把さだけれど
当時 『世界で初めて全面的にコンピュータ・グラフィックを導入した映画』 として
割と画期的なこととして話題になった、らしい。
30年ほどたった今観ても良いな、と思うのが、
あの時代に 『デジタルの世界を擬人化した』 ってところ。
しかも、今ではいかにコンピュータが正確であるべきか、
その正確性が損なわれると、私達の生活にどれほどの支障が生じるか、
そして管理するモノが大きくなり、それが狂った時にどれほどの惨事となるか、
なんて世の中なのに
“トロン”の中の“プログラム”達はわりとゆるく、人間と同じくらいアクシデントが多い。
Mac(マッキントッシュ)に正確性がない、ということではないけれど、
“トロン”の世界はいわゆるMacっぽい。
ストーリー終盤ちょっと前、ユーザーフリン【Flynn】がプログラムのトロン【Tron】と共に
暴走した元チェスゲームシステムのMCPを倒しに行く船の上の会話。
+++
トロン 『逃がしてくれたフリンだ』
フリン 『ローラ?』
ヨーリ 『お礼を言わないとね』
フリン 『いや 自分が書き込んだゲームなのに迷ったりして』
トロン 『書き込んだ?』
フリン 『打ち明けると ユーザーなんだ』
ヨーリ 『あなたが?』
フリン 『誤ってこちらへ』
トロン 『ユーザーならすべて予定の行動だろ』
フリン 『だといいが』 『きづかないうちに計算違いをすることもある』
トロン 『それは僕達の場合だ』
フリン 『失望させるが ユーザーの場合も同じだ』
トロン 『妙なもんだね』
Tron 『This is Flynn, the one who busted me out.』
Flynn 『Lora?』
Yori 『Well, then, I owe him some thanks.』
Flynn 『No, it’s, uh, no big deal.
……… I oughta know my way around a Lightcycle routine.
……… I wrote the program for it.』
Tron 『You wrote the program?』
Flynn 『It’s time I level with you. I’m what you guys call a user』
Yori 『You’re a user?』
Flynn 『I took a wrong turn somewhere.』
Tron 『If you are a user, then everything you’ve done has been according to a plan, right?』
Flynn 『You wish.
……… Well, you guys know what it’s like.
……… You just keep doin’ what it looks like you’re supposed to be doin’
……… no matter how crazy it seems.
Tron 『Well, that’s the way it is for programs, yes.』
Flynn 『I hate to disappoint you, pal, but most of the time,
……… that’s the way it is for users too.
Tron 『Stranger and stranger.』
+++
“You just keep doin’ what it looks like you’re supposed to be doin’no matter how crazy it seems.”
どんなにクレイジーなことでもやるべきコトと思い込んだら突き進んじゃうだろ。
確かに。
ただ人間は熱意と思い込みが混ざり合うと、本当に気がつかず計算違いをすることがある、と
“プログラム”は人間からコマンドを受け、間違っていたとしてもそれに関係なく実行し続ける、
というのとは微妙な違いがあるんじゃないかと思うけれど、
人間が多くの場合あまりよく考えていないとこと、“プログラム”は考えない、
ということは類似しているし、結果がどうなるかなんて知って行動している人間なんて稀であろう。
“I hate to disappoint you, pal, but most of the time, that’s the way it is for users too.”
現代のヒトの多くがコンピュータ・プログラムは完璧、と信じてそれに従っているけれど
そのコンピュータ・プログラムを正しくも計算違いにもさせているのは、
ヒトだったりすることの根本理論に気がついていないんじゃないかと思うことも多々ある。
一般的な大衆的な利便性を考えると、プログラムの未来は正確性のみをつきつめるものになる。
そうなればパターンを制限せざるえなくなり、ある一定の事柄は確実に実施するが、
応用が難しい柔軟性のないプログラムとなり、場合によっては融通が効かないモノにもなる。
究極論コンピュータは、ユーザーの指導次第で良くも悪くもなる道具にすぎないモノ。
人間のいろんな可能性に対し対応するならば、
ある程度人間が補って完成するプログラムのままで良いものもたくさんあると思う。
TRONはコンピュータの発展の初期の頃の作品なのに
数十年後にいきつくことになった世界 -コンピュータが人格を持った世界- を描いた、
という意味でも、十分今でも画期的な映画と思う。
先日光栄にも『JunkStageアワード2010 スタッフ部門ベストコラム賞』をいただいた。
私のブログは、隔週更新が精一杯の趣味的ブログのひとつにすぎず
劇的な社会的テーマを持っているわけでもなく、
『世界一』や『日本一』、『初めての』や『唯一の』なんて肩書きがつく
特殊な技能を持っているわけでもない。
よって、驚くほどのアクセス数があるわけでもないし、
ファンがいて山のようなコメントをいただくというわけでもない。
そんな私のコラムにJunkStage創立メンバーのひとりである須藤優さんがくれた言葉。
- – –
- – – 理紀さんのコラムからはまさに、「人の体温」を感じます。
- – – それこそがまさにJunkStageのめざした『情熱メディア』でした。
- – –
この断言された言葉に、とても驚いた。
自分の中で何かがひとつ積み上げられた音がした。
開始するにあたって書いた初回コラム 『FIRST STEP』 を読み返す。
- – –
- – – そしてその内、字幕からこぼれたセリフがあることに気がつく
- – – 訳が間違っているワケでは決してなく、訳さなくてもどちらでも良いもの
- – –
- – – 少しつきつめたら、こぼれたセリフにちゃんと意味があり
- – – 新発見的で時に感動的なコトだったりすると、誰かに伝えたくなる
- – –
- – – 日本語にない表現だったり、文化的にない慣習だったり
- – – そんなセリフをちゃんと言葉にしていったら、
- – – これからの日本の新しい慣習や文化になったりするかもしれない
- – –
『人の体温』
私がコラムを開始する時には明確に書き記すことができず、
そして意識して区別をつけられなかった大事な要素に、名前が付けられ現れたよう。
全ての国が変わり続けているように、日本という国も例外なく変わり続けていく。
けれど、『ヒトの体温』にふれている限り、『ヒトの本質』はそうそう変わることはなく、
慣習や文化という表現方法が多様に変化しているにすぎない、のだと思う。
たまたま私は日本語と英語の言語の『違い』が分かることから、
英語圏と日本の慣習や文化の『違い』を語ることができる。
それを伝えた先に何があるのか、それはまた次の課題と思うけれど
このコラムを書き続けるという意味が一歩前進した思いだった。
須藤さんをはじめとする、JunkStageスタッフ皆様に
これまで執筆させていただいたことを改めて感謝したい。
アメリカの大学に留学することとなった最初の2年は大学の寮に住んでいた。
女子大だったので、女子寮である。
希望して余計にお金を払い空きがあればひとり部屋にもなれたが
各フロアのフロア長以外基本は2人部屋だった。
8畳弱と思われる長方形の部屋の両壁に、ベット、机、イス、そしてタンスが
それぞれ1セットずつある。クローゼットもあったのだと思うけれど覚えていない。
長方形の先には窓があって、割と日差しが入っていたと思う。
3年生になって、やっぱりプライベートなスペースが欲しくて
大学から徒歩1分のアパートに引越しをしたけれど、
思い返す度、アメリカでの最初の生活が寮生活で良かったと思う。
特に学校の先生志望のアイリーン【EILEEN】がルームメイトだったのはラッキーだった。
同級生の友達がぐっと増えたのも、彼女が様々なイベントに私を連れていってくれたから。
外国人の面倒を見るぐらいだから、友達の面倒見もよく
いつも誰かしらが部屋に訪ねてくるので、あまり努力せずとも更に知り合いが増えていく。
ルームメイトとうまくいかない留学生友達もいた中、この出会いには本当に感謝したい。
もうひとつ、アメリカでのスタートが寮生活で良かったなと思うのは、
図らずも、国は違えど同じ歳頃の子達と共に生活を送ることとなり、割と早い段階で
『ヒトって同じ。言語や見かけが違うからといってむやみやたらに怖がる必要もなく、
日本にいる時となんら変わらず友達づきあいすればいいんだ』 と気がついたこと。
1年生【FRESHMAN YEAR】が始まって少したつと、いわゆるホームシックがやってくる。
日本を旅立つ日、親や兄妹に見送られ、それまでは希望に満ちた未来のことしか
思い描いていなかったのに、突然現実に起こる別れの意味を知り号泣してしまったように、
次々に現れる異国文化のカルチャーショックな出来事が、楽しかった段階から、
吸収できない事柄が積もり積もってきて、突然全てが苦痛と感じるようになる。
そうなると思い起こすのは慣れ親しんだ日本の生活と、
特に大事にも思っていなかった家族のありがたみ。
できることならば、今すぐにでもここを離れて日本に帰りたい。
とは言え、自分で希望した留学だから、そう簡単に人前でわんわん泣くわけにも行かず
ぐっとこらえ、顔をあげる。
と
寮中と言うには大げさだが、まわり中のアメリカ人の同級生達がホームシックで泣いている。
今みたいにインターネットやEメール、携帯なんて便利なものがなく
1年生はお金がないので部屋に電話を持っている子が少なかったから、
長い廊下の両端と真ん中と、とフロアに3つほどある公衆電話【PAYPHONE】で
パジャマのままぬいぐるみやら枕を抱え廊下に座り込み、皆、家に電話する。
それは大抵が夜中で、受話器を強く握り締め、あっちでもこっちでも泣いている。
そんな光景を見て、『あー、みんな初めて親元を離れて生活するって境遇は一緒なんだ』
『確かに自分は言語も異なる“異国”って意味で環境が違うことは明白だけど
皆にとっても新しい環境に移って来たという意味では同じなのね』 と。
問題は物理的な距離ではなく、カルチャーの距離であり
ホームシックやらカルチャーショックやらは大なり小なり、誰にでも起きうる現象なのである。
そう思ったら気も楽になり、皆に交じり、順番待ちをして公衆電話の受話器にたどりつき、
皆と同じように廊下に座り込み、泣きながら日本に長電話をしホームシックを乗り越えた。
今考えれば、アメリカはルーツが多民族で、家族単位で慣習も風習も異なることが多いから
極端な話、同じ町内でも家を一歩出れば異国と呼んでもおかしくはない。
そして、良くも悪くも個性を尊重する現在の日本でもそのカルチャーの距離は開きつつあり、
時に同じ日本人でも異国とも思えるヒト達に出会うコトになる。
しかし、違うことは恐れることではなく、手法や表現が違うという事実にすぎない。
そう思えればヒトはヒトを理解でき受け入れられるのだと思う。
サイダーハウス・ルール
【THE CIDER HOUSE RULES】1999年
“cider”とはいわゆる炭酸のサイダーのことではなく、“りんご”を砕いて潰したジュースのこと。
私が最初にこの飲み物と出会った時には、“apple cider”と呼ばれていたから、
果汁のことを“cider”というのだとずっと思っていた。
でも“cider”自体がすでにりんごの意味を持っていて、
そうなると“apple cider”は『りんごのりんごジュース』ということになってしまう。
更に調べてみると、どうやら温めてシナモンを入れた飲み物を“apple cider”と呼ぶらしい。
なるほど、確かに私は温かい“cider”しか知らないし、ホットで飲むもんだと思っていた。
まぁ、それでも『りんごのりんごジュース』という意味は変わらない。
そしてこの『サイダーハウス・ルール』は、文字通り“りんごジュース農園のルール”のハナシ。
医者が運営する田舎の孤児院。捨て子や親なし子が連れられてくるのではない。
希望しない妊娠をし訪れる女性達。時に中絶手術を行い、時に出産をしていく。
そして産んだとしても様々な理由で子供を育てられない母親たちが赤ん坊を置いていく。
そんな子供達、“abandoned child ”が集まる孤児院。
もちろん子供を求む夫婦がやってきては、養子養女として旅立っていく子もいる。
孤児院生まれの1人ホーマー【Homer】は、2度チャンスはあったものの引き取られることはなく、
年齢的に一番上ゆえ、ドクターラーチ【Dr. Larch】の助手として日々をすごし成長していく。
常日頃、ホーマーを医者にしたいと思っているドクターラーチ、
そして、自分は医者じゃないと反論し続けるホーマー。ある日そんな彼に転機がやってくる。
中絶手術を受けに来たやってきたキャンディ【Candy】とウォリー【Wally】のカップル。
孤児院しか知らないホーマーは、二人の語る外の世界に興味を持ち、一緒に旅立つことにする。
行く当てもなく、ただ飛び出したホーマーにウォーリーが実家のりんご農園の仕事を紹介する。
サイダーハウスの労働者達は黒人ばかり。一緒に宿舎に寝泊りすることになったホーリーに、
字が読めるなら壁に貼ってある紙を読んでくれと、冗談交じりに皆が尋ねる。
紙には『しちゃいけないこと』、つまりはこの農園でのルールが書かれている。
例えばベッドの上でタバコを吸ってはいけない、、とか。
白人のしかも字の読めるホーマーが何故こんな所にいるのかとといぶかるけれど、
不思議と誰ひとりとして彼の生い立ちを聞こうとしない。
このシーンではホーマーは書いてある全てのルールを読み上げない。
彼にとってはただの貼り紙で、普通に字が読める者としては、読める物のひとつにすぎない。
この後様々な出来事があり、再びこの貼紙をホーマーが読み上げることとなる。
この時ホーマーは、字が読めない労働者の宿舎にある貼紙の無意味さを知り、
それを説いていた宿舎の皆の気持ちに初めて自分の意見として同調したのだ、と思う。
正直なところ、私はこの映画の意味と、このタイトルの意味がよく分かりきっていない。
ホーマーの感情は決して激動のごとく溢れるものではなく
ただただ、滑らかに静かに、そして確実さを確認しながら進んでいくから、
慎重に読み取らなければならない。
そこにはひとつの個があり、“abandoned child ”となすがままに流されてきた生活から
自我が生まれる瞬間が、これまた静かに、そして淡々と、しかし確実に起こっている。
ストーリー前半、ホーマーが孤児院を出る決心をすることとなる、ウォーリーとの会話。
帰る車の準備をするウォーリーを2階から眺めるホーマー、階下に降りドアをそっと開け尋ねる。
+++
ホーマー 『よかったら僕も乗せていってくれないか』
ウォーリー 『いいとも 喜んで。 どこまで?』
ホーマー 『君は?』
ウォーリー 『ケニス岬だ』
ホーマー 『ケニス岬か。そこでいい』
ウォーリー 『よし』
Homer 『I was wondering if you could give me a ride.』
Wally 『Sure! Be glad to! Uh… a ride where?』
Homer 『Where are you going?』
Wally 『We’re heading back to Cape Kenneth.』
Homer 『Cape Kenneth…That sounds fine.』
Wally 『OK』
+++
そして階段を走って駆け上がる。
ホーマーには『ケニス岬』がどこなのかさっぱり分かっていないけれど、
乗せていってくれる、とこいうことが一番大事で、
そして出かけられるのならば、『good(良い)』でも『execellent(いいね)』でもなく
『fine(構わない)』であって。
原作を原本で読んだら、もう少しホーマーの気持ちが細やかに分かるのだろうか。
***
ちなみにですが、ホットアップルも美味しいけれど、ホットオレンジもなかなかです。
おいてきぼりにされた犬が、何マイルも何キロも離れた飼い主を探しに行くほど
好きな人が一緒にいることが大事なことを犬的と言って
飼い主に連れられ引っ越した猫が、住み慣れた元の住処に戻るように
環境が大切なことを猫的と言うのなら、私は犬的だと思う。
思えば高校まで暮らした故郷と呼べる土地を、別に嫌な思い出があるわけでもないのに
単にあまり懐かしいと思いおこしたこことがない。
仲良くしていた友人たちは今では皆その土地を離れ、違う土地で生活をしていて、
特にその土地について語ることも、また、行く理由もない、と
訪ねるヒトがいない土地には冷たいワケで。
11年住んだアメリカ、正確には7年暮らしたニューヨークを離れる時も
やっぱり大事と思う人がいなくなった街だったから、
それほどの未練もなく逆に日本に戻ってきて感じたのは、
それまで離れていた家族との交流や、電車に乗れば会えるその距離に、
今後何をわざわざ親しい人から離れる理由があるのだろうか、と思ったものだし、
今でもそう思っている。
なのに最近、すごくマンハッタンの街を思い出す。
最初に2年ほど住んだ123 LEINGTON AVEのアパートと、
その後に4年ほど住んだWEST 54th STのアパート。
どちらも共通点は歩いて職場まで通えて、そして本当に毎日歩いて通ったこと。
123 LEXの方は、エンパイヤステイトビルの脇を通り、
54thの方はタイムズスクエアを通り抜け、macy’sの向かい側にあるビルの職場に通う。
今更、あの土地を懐かしいと思いできれば戻りたいなんて、猫的になっちゃたのかしらと考える。
闊歩する私、すれ違うさまざまなヒトタチ。
歩いているからだろうけれど、今現在、地下鉄や電車で見るような、
そしてはっと気がつくと自分もなっている、“うつむいて”“とぼとぼ歩いている”ヒトがいない。
そうか、私が懐かしいと思うのは、あのエネルギーあふれるヒトの群れらしい。
人種のるつぼと呼ばれるニューヨークの街のヒトたちに会いに行きたいと思っているのならば
やっぱり私は犬的で、どうやら少しばかりヒトからの充電が必要ということらしい。
エリン・ブロコビッチ
【ERIN BROCKOVICH】2000年
アウトブレイクがダスティン・ホフマンの映画なら、トミリー・ジョーンズのはボルケーノと
時々、自分の中で勝手に役者と作品のマッチングができあがる時がある。
そしてこの“エリン・ブロコビッチ”はジュリア・ロバーツ【Julia Roberts】の映画。
それほど好きでも注目していた女優でもなく、
97年のベスト・フレンズ・ウェディング【My Best Friend’s Wedding】あたりで
90年のプリティ・ウーマン【Pretty Woman】のヒロイン役が実は彼女だったのを知ったぐらい。
実在の人物、エリン・ブロコビッチの活躍を描いたヒューマン・ドラマで、
企業を相手に、土地の汚染を証明し、集団訴訟に勝利する、というストーリー。
そしてジュリア・ロバーツがアカデミー主演女優賞を受賞したのも、映画自体の題材が
社会的に訴えるものがあったのだろうけれど、
この役がジュリア・ロバーツじゃなければこんなに注目されてはいなかった、とも思う。
自由奔放な性格で数字に強く地理が得意、更に粘り強い性格を持ち、そして何より明るい。
ジュリア・ロバーツ自体は決してこんなではないのだろうけれど、3人の子供を連れて
ちょっと傾きつつ突進するかのごとく闊歩する姿が自然で、すごくしっくりしてしまう。
ストーリー前半、そんなエリンが汚染に関する事実を発見し始めた矢先、
その熱心なリサーチ行動が“無断欠勤”と誤解され、弁護士事務所をクビになる。
自宅で次の仕事を探していると、元上司の弁護士が訪ねてくる。
+++
今日電話があったUCLAのフランクル博士からだ。
彼の話では6価クロムの許容限度は0.05ppmだそうだ。
君が指摘した0.58ppmは発ガンの可能性がある。 ジェンセン夫妻のケースだ。
I had an interesting call, this afternoon from Dr. Frankel from UCLA.
He wanted you to know that the legal limit for hexavalent Chromium is
.05 parts per million. And the rate you mentioned, .58 it could be
responsible for the cancers in that familiy you asked about the Jensens.
+++
ppmってparts per million、つまり100万分の1のことなんだと。
もし、文字だけでppmを見たら、勉強の知識として『知らない』ことになる。
でも100万分の1を1とした場合0.05、と言ってくれれば、
一体それがどんなに小さいか分からないけれど概念は理解できる。
大学の時の数学の授業を思い出した。
授業自体の内容は、日本の高校でやったレベルのことなのに
『公式』とか『単位の意味』とか、とにかくどうしてそんなアルファベットの文字が
羅列するようなことになったのかに気がつかせられ、根本的なコトが分かることが多かった。
日本で学ぶ多くのコトが国外で発見され基盤が築かれるが故、
略語と基本概念を一緒に知り、簡略されたものだけを覚えることに頼りがちと思う。
歴史のように、数学や物理の知識が培われた環境や言語から理解していけば
難しいと思えることも、もっと身近になるのではないだろうか、と。
*****
今度ジュリア・ロバーツくくりで彼女の出演作品をいくつか観るのもいいかもしれない。
特に原書が好きで観た91年の愛がこわれるとき【SLEEPING WITH THE ENEMY】が
実は私が初めて観た彼女の映画なんじゃないかと思うし、
かなりミーハー気分で見た01年のザ・メキシカン【The Mexican】あたりも楽しそう。
大女優と呼ばれ始めた頃にブラッド・ピットと共演した映画で、作品自体には前宣伝がありすぎて
あまり評価がなかったようだけれど、監督はパイレーツ・オブ・カリビアンシリーズの
ゴア・ヴァービンスキー【Gore Verbinski】だったりするので改めて見たら発見があるかもしれない。
最近少しだけ英語で仕事をしている。
長くいたと断言できるほどアメリカにいたので、『英語で仕事したらいいのに』とよく言われる。
けれど、母国語じゃないというプレッシャーに
真っ向から立ち向かうほどの度胸も余裕も持ち合わせておらず、
あえて避けはしないけれど、積極的にもその方向へ行こうとしなかった。
その結果、当然ながら純日本語環境での仕事にどっぷりはまったこの数年。
英語圏の映画なら字幕と原文を両方見聞きできて理解ができると言えど、趣味にすぎず、
所詮は聞き取りだけの世界。言わば一方通行のコミュニケーション。
多少大丈夫かなと思って始めた淡い期待は見事に打ち砕かれて、
毎日毎日、辞書と翻訳ツールとにらめっこ。
会って話すのは割と楽なのだけど、メールが難しい。
たわいのない数ラインのメールを送るのに、数時間かけて文章を組み立てる。
で、送る。
するとあっと言う間に返事が来る。
あんなに苦労した私の文章、ちゃんと読んでるんかしら?って思うくらいのあっさりした回答。
しかも手短な文章なのに、新しい課題が詰まれていたりする。
そしてまた辞書と翻訳ツールとにらめっこ。
しかも、出てくる言葉は、使ったことがない不慣れな単語ばかり。
そんな意味も分からない英語タチをとりあえず織り交ぜ、質問されたらアウト、と思いつつ送る。
相手の言っていることが理解できることが唯一の救い、長年のアメリカ生活の賜物と感謝。
そんな日々が数日すぎると、なんとなく慣れてくる。
仕事は日常生活と違って目的も狭められているから、割と同じことの繰り返しだったりする。
ひととおり専門用語が出揃うと気分的にも楽になる。
無理に難しい言葉や知らない単語を使わず、自分が理解した言葉で送り始める。
そうすると、今まで、一通一通穴のあく程眺めてから送っていたメールも
ま、こんなもんだろ、っと送れるようになる。
それで意外にコミュニケーションが成り立つ。
言葉というのは手段にすぎず、自分が理解しているかしていないかで生きもし、死にもする。
母国語の日本語でだって、意味がよくわからない言葉を、あやふやには使わない。
わかる言葉を使えば、それでいい。
後はどれだけボキャブラリー=語彙を増やし、それを体得していけるかが
『仕事ができる』っていう能力的な次のステップにつながる。
四字熟語を覚えるのと、新しい英単語を覚えるのは、私には原理が一緒だったりする。
もたいまさこ&荻上直子ペアの『トイレット』を観て来た。
『めがね』 も 『かもめ食堂』 も観たけれど、流れに独特なテンポがあるものの
ふーん、、という感じでさらっと観てしまった。
けれど、その日常的な通りすぎ感も悪くなくて割と好きだったので、
『トイレット』 の前宣伝を見た時から気になっていた。
観てみたら、全て英語でびっくり、観終わってからカナダとの共同製作と知る。
英語でそのまま聴いたからかもしれないけれど、いつもの流れとは違う
小刻みのテンポを感じる。
その中でも印象的だったセリフ。
少しうろ覚えて、正しくないかもしれないけれど、なんとなく意味だけ心に残った。
主人公のレイが突然の生活の変化に流されてゆく前に職場の同僚につぶやく。
『Today is the same as yesterday, and tomorrow will be just another day.』
日々は変わらない、今日は昨日と同じだし、明日も同じ日々、
単なる似たような日にしかすぎない、と。
ふと思う。
今日は昨日と 『全く』 同じ 『Same day』 と言うけれど、
明日のことは 『another day』 =同じような日というように、すっかり同じ日とは断言しないのだなと。
つまりは、日々は同じ繰り返しにすぎないと言うけれど、
明日にはやっぱり数パーセントの希望が残されていて
『same day』 とは予想せず、『another day』 になるのかな、と思った。
けれど、明日が今日になれば、多くの今日は昨日と同じになるからこんなセリフが出てくるわけで。
もちろんレイの日々はこのセリフの後に、あっという間に同じ日々ではなくなり
少しばかり彼が持っていた希望が実現される、ということになる。
なんとなく自分の明日はどんなだろうかと考えてしまった。