« 遺伝子組み換え動物って・・・ | Home | 麻生 悌三のブラジル不思議発見 (14) ブラジル犬(別名ブラジルマスチーフ) »
アメリカの大学に留学することとなった最初の2年は大学の寮に住んでいた。
女子大だったので、女子寮である。
希望して余計にお金を払い空きがあればひとり部屋にもなれたが
各フロアのフロア長以外基本は2人部屋だった。
8畳弱と思われる長方形の部屋の両壁に、ベット、机、イス、そしてタンスが
それぞれ1セットずつある。クローゼットもあったのだと思うけれど覚えていない。
長方形の先には窓があって、割と日差しが入っていたと思う。
3年生になって、やっぱりプライベートなスペースが欲しくて
大学から徒歩1分のアパートに引越しをしたけれど、
思い返す度、アメリカでの最初の生活が寮生活で良かったと思う。
特に学校の先生志望のアイリーン【EILEEN】がルームメイトだったのはラッキーだった。
同級生の友達がぐっと増えたのも、彼女が様々なイベントに私を連れていってくれたから。
外国人の面倒を見るぐらいだから、友達の面倒見もよく
いつも誰かしらが部屋に訪ねてくるので、あまり努力せずとも更に知り合いが増えていく。
ルームメイトとうまくいかない留学生友達もいた中、この出会いには本当に感謝したい。
もうひとつ、アメリカでのスタートが寮生活で良かったなと思うのは、
図らずも、国は違えど同じ歳頃の子達と共に生活を送ることとなり、割と早い段階で
『ヒトって同じ。言語や見かけが違うからといってむやみやたらに怖がる必要もなく、
日本にいる時となんら変わらず友達づきあいすればいいんだ』 と気がついたこと。
1年生【FRESHMAN YEAR】が始まって少したつと、いわゆるホームシックがやってくる。
日本を旅立つ日、親や兄妹に見送られ、それまでは希望に満ちた未来のことしか
思い描いていなかったのに、突然現実に起こる別れの意味を知り号泣してしまったように、
次々に現れる異国文化のカルチャーショックな出来事が、楽しかった段階から、
吸収できない事柄が積もり積もってきて、突然全てが苦痛と感じるようになる。
そうなると思い起こすのは慣れ親しんだ日本の生活と、
特に大事にも思っていなかった家族のありがたみ。
できることならば、今すぐにでもここを離れて日本に帰りたい。
とは言え、自分で希望した留学だから、そう簡単に人前でわんわん泣くわけにも行かず
ぐっとこらえ、顔をあげる。
と
寮中と言うには大げさだが、まわり中のアメリカ人の同級生達がホームシックで泣いている。
今みたいにインターネットやEメール、携帯なんて便利なものがなく
1年生はお金がないので部屋に電話を持っている子が少なかったから、
長い廊下の両端と真ん中と、とフロアに3つほどある公衆電話【PAYPHONE】で
パジャマのままぬいぐるみやら枕を抱え廊下に座り込み、皆、家に電話する。
それは大抵が夜中で、受話器を強く握り締め、あっちでもこっちでも泣いている。
そんな光景を見て、『あー、みんな初めて親元を離れて生活するって境遇は一緒なんだ』
『確かに自分は言語も異なる“異国”って意味で環境が違うことは明白だけど
皆にとっても新しい環境に移って来たという意味では同じなのね』 と。
問題は物理的な距離ではなく、カルチャーの距離であり
ホームシックやらカルチャーショックやらは大なり小なり、誰にでも起きうる現象なのである。
そう思ったら気も楽になり、皆に交じり、順番待ちをして公衆電話の受話器にたどりつき、
皆と同じように廊下に座り込み、泣きながら日本に長電話をしホームシックを乗り越えた。
今考えれば、アメリカはルーツが多民族で、家族単位で慣習も風習も異なることが多いから
極端な話、同じ町内でも家を一歩出れば異国と呼んでもおかしくはない。
そして、良くも悪くも個性を尊重する現在の日本でもそのカルチャーの距離は開きつつあり、
時に同じ日本人でも異国とも思えるヒト達に出会うコトになる。
しかし、違うことは恐れることではなく、手法や表現が違うという事実にすぎない。
そう思えればヒトはヒトを理解でき受け入れられるのだと思う。