密林の中から発見された遺跡 インドネシア ジョグジャカルタのボロブドゥール遺跡。
シンガポールのラッフルズホテルで有名なラッフルズ氏が伝説を頼りに密林の中から発見した遺跡。
火山灰に埋もれていたこの遺跡を発見した時の興奮を考えると夢がある。
今回はクラスメートとの旅。
年齢層は幅広く、30代、40代、50代、60代、70代。
きっとマレーシアでの海外生活をしなかったら出会うことがなかったメンバー。
育ってきた環境も経験してきたことも、そしてマレーシアにいる理由も全然違う。
今も4年に一度噴火がおきて火山灰の被害にあうこの遺跡。
火山灰の被害にあう度に修復がされ、またこうして沢山の人の目の前に現れる。
はるか昔。
どんな想いで人々はこの巨大すぎる仏教寺院を作ったんだろう。
ここに立つと宗教の偉大さを感じずにはいられない。
もしかしたらこの遺跡は、今も火山灰に埋もれて眠っていたかったのかもしれない・・・。
観光客でごった返す遺跡に佇みながらそんなことを思った。
ジョグジャカルタの面白いところは、イスラム国家のインドネシアにあって、仏教やヒンドゥー教の色が濃く残っていること。
統治者が変わる度に宗教が変わったらしい。
ジョグジャカルタのもう一つの世界遺産 プランバナン。
こちらは仏教とヒンドゥー教がミックスされたヒンドゥー教の寺院。
マレーシアのヒンドゥー教の寺院はとにかく派手なので、茶色の石だけで作られた寺院はなんとも厳かで圧倒される。
この遺跡は地震の影響を受けていて、今も修復が続いているそうだ。
スコールの後の寺院は少し靄がかかっていて、神々しさが眩しかった。
人々は祈り、感謝し、笑い、嘆き、喜び、慄く。
噴火や地震などの自然の驚異にさらされながら、今もこの地に圧倒的な存在感を放ちながら鎮座する遺跡を前に「生かされる」ということを考えた。
今も変わらず信仰心が強いこの国の人々は小さい頃から祈りと共に生き、寺院も生活の一部となる。
遺跡のある広場の大きな木の下で、地元の人たちが親子遠足をしていた。
マレー語で話しかけたら(インドネシア語と似ているので通じる)、子供達がはにかみながら集まってきた。
一人また一人と・・・
恥ずかしがったり、ポーズ決めたり、大笑いしたり、旅で出会う子供達はいつだって純粋。
そのうち、おしくらまんじゅう状態で集まりだして。
最後はみんな自由気まま。
ポーズを決める子、恥ずかしがる子、お母さんが気になる子、カメラを凝視する子。
子供って素直でキラキラしてる。
最後は柵の外まで出てきて、笑顔でバイバイしてくれる。
子供達の笑顔は眩しすぎる。
夜は素敵なホテルで、30~70代の幅広いおじさん、おばさんで宴会。
言葉も文化もマレーシアに似ているインドネシア。
でもここには独特なおだやかな空気が流れている。
高層ビルだらけのマレーシアから素朴なジョグジャカルタにやってくると、こういうのんびりとした空気にたまらなくホッとする。
旅は心の栄養。
旅をすると沢山考え、たくさん想うことがある。
さて、次はどこに出かけよう。
海外に住んで思うことは、「日本製最高!!!」
この一言につきます。
マレーシアは、伊勢丹、ジャスコ、100円ショップ、ユニクロ、無印、紀ノ国屋・・・有名な日本食屋さんなどなど何でも日本の物は揃うけど、やっぱり値段は高いし、手に入らないものだってあります。
そんな時、日本からの出張者や旅行者が持ってきてくれるお土産に感動するわけです!
でも実は、本音を言えば「またこれ貰っちゃったよ」っていう頻繁に貰うお土産があります。
そして「おぉ~これは嬉しい!」という物もあります。
こういうことって多分双方にとって気まずいのでもちろん言わないと思います。
わざわざ荷物の中にお土産を入れてきてくれるだけでとっても嬉しいので、こちらもそんな失礼なことを言ったことはありません。
でも実は、日本からいらっしゃる方もお土産選びって困るんですよね。。
っということで、完全な個人的な好みで貰って嬉しかった日本のお土産とよく頂くお土産をまとめてみました。
■貰って嬉しかったお土産
①海苔
中国製の海苔は売ってますが、日本の海苔ってやっぱり味が違いますよね。
高級海苔頂いた時は感動しました。
②お米
もう1キロでも2キロでも、ビニールに2合分でも嬉しいです。やっぱり日本人たるもの日本のお米が一番です!!
③雑誌・本
読み終わった雑誌や本でもいいんです。日本の本は高いので紀ノ国屋があってもなかなか買えません。
飛行機の中で読んできたという最新の本を置いていってくれるといつも嬉しいです。
④お菓子
実はね、海外在住者って安いお菓子が嬉しいんです。
冬季限定のチョコとか新作のお菓子とか、コンビニの100円で売ってるお菓子が嬉しいんです。
柿の種とかおせんべいとか普通のお菓子の方が恋しくなります。
↑の写真は友人が持ってきてくれたお土産。私のリクエストは100円ショップで売ってるお菓子。私の好みのお菓子いっぱい持ってきてくれました!
⑤薬
私は欲しい物があるとアマゾンや楽天で注文して、友人宅に届くようにしてそれを友人に持ってきてもらったりしています。
ただ薬って中々そうはいかないんですよね。。だから友人にリクエストして目薬や虫除けなどを買ってきてもらいます。
これが意外にも海外在住者には嬉しいお土産。
⑥お出汁
お友達が高級お出汁セットをプレゼントしてくれたことがありました。
マレーシアでもお出汁って手に入るけど、普通の安いものでも高いので、普段買えない美味しいお出汁を頂いて感動しました。
⑦サランラップ
私は貰ったことないけど、お友達がコレは嬉しい!っと言ってました。
確かに、海外のサランラップって全然くっつかなくてイライラします。
⑧カルピス
これもこの前友達と「カルピス貰ったら嬉しいよねー」って盛り上がりました。
あぁ、カルピス飲みたいなっ笑
⑨ヨックモック
何故なんでしょう。日本のクッキーの味がして感動するんですよね。
今中東でも人気らしいのですが、海外に住んでいるとこの日本のクッキーの味が無性に食べたくなるんです。
私は家族にヨックモックをいつもリクエストします!
⑩錦松梅・ふりかけ
マレーシアにも売ってますが、値段は日本の1.5倍~2倍ほどなのでなかなか買えません。
ふりかけは軽いし、お値段も安いし喜ばれると思います。
以前、錦松梅を頂いた時はもうホントに感動しました!その晩は、ご飯と錦松梅だけで幸せな食卓でした。
■意外にも頻繁に頂くお土産
①虎屋の羊羹
はい。間違いなく贅沢ですよね。怒られますよね。
でも、空港で売っているからか、海外と言ったら羊羹!っと思うのか、高級品なのにビックリするほど頻繁に頂きます。
海外に住むようになってこんなにも虎屋の羊羹を食べる機会があるなんて驚きました。
我が家の冷蔵庫には常に虎屋の羊羹があります(汗)
②白い恋人
虎屋の羊羹に続いて頻繁に頂くのがコレ。
美味しいので嬉しいですが、たまにお家に何箱も積まれていることがあります。
美味しいからすぐ食べちゃいますが・・・笑
③どら焼き
これもよく頂きます。たぶん空港で売ってるからですよね!?
意外に日持ちがしないので、いつも失礼ながら冷凍庫に保存しちゃってます。ごめんなさい。。
④最中
やっぱり海外と言ったら和菓子!なんでしょうね。。
私の年齢のせいかもしれませんが、和菓子ってあまり食べなれてないので(兄が和菓子職人なのに失礼な私)、賞味期限が短いと困ることがあります。
っと色々と生意気に書きましたが・・・海外在住者の本音でした笑
きっと個人的な好みや年齢などによって変わると思いますが・・・。
今後、私が海外在住者にお土産をもって行く時は、たぶん「お米」「錦松梅」「コンビニお菓子」「海苔」を持っていくと思います。
きっと日本はもうお正月モードではなくて、バレンタインのディスプレイなのかしら??
多民族国家マレーシアは沢山お祭りや記念日があって、いったいどれが季節感を表わしているのかよくわからない。
そんな中でも中国の旧正月だけは、日本人に馴染み深くて、この時期は日本人の私もお正月気分を味わえるから好き。
そんな今年の旧正月のお休みは1月31日~。
街中、赤と金で溢れていて目がチカチカします(笑)
ショッピングモールの開店時間と同時に入って写真を撮ったので空いてるけど、この時期は平日も休日も嫌になるほど人がいっぱい。
クリスマスもそうですが、ショッピングモールの中にメリーゴーランドや電車が用意されてみんな楽しそう。
残念ながら動いている獅子舞の写真はないけれど、どこのショッピングモールもこの時期は一日に何度も獅子舞が練り歩いています。
静かにカフェでお茶を飲んでいてもおかまいなし。
獅子舞は静かなカフェにも大音量の太鼓やシンバルと共にやってきて、読んでる本を取りあげる勢いで迫ってきます(笑)
マレーシアに来た当初は、このド派手なディスプレイにビックリしたけど、どの民族も原色が大好きなこの国は年中ド派手なディスプレイ。
日本にいたらなかなか見ることがない中国の旧正月の飾りも、見慣れると結構素敵だったりします。
マレー人もインド人もアラブ人も欧米人も・・・みんな楽しそうに写真撮っていて、違う民族のお祭りも全部楽しんでいる感じが多民族国家らしくてたまらなく大好き。
この時期は、新しい服を買う人、飾りを買う人、アンパオ(お年玉)を用意する人、お祝いの贈り物を買う人・・・とにかく中国人はお買い物に大忙し。
そして中国の旧正月は始まる日は、真夜中にも爆竹や花火がうるさいほどに鳴り出して、街中テンションが高い。
沢山の人種と宗教が入り混じっているマレーシアは、それぞれの宗教のお祭りに寛容なところが素敵。
今日もマレー人と話していたら、「中国の旧正月は、中国人が楽しそうでいいよね。 Saleもしてるし、私達も赤い服とか買わなきゃって思ったりするのよ。」って楽しそうに語っていた。
世界には宗教の違いや人種の違いで争っている国が沢山ある。
けれど、この国の人は違いを受け入れ、違いを楽しもうとする。
多民族国家って素敵だっ!
長いインド出張から帰ってきた夫。
ヨーロッパ旅行から帰ってきた私。
3,4週間ぶりに日本で落ち合った時、夫が「ネパール行こう!」と言い出した。
それから2週間後、ネパールに行った。
聖地ボダナートとヒマラヤを見たとき、「あぁーここのエネルギーに呼ばれたな」って思った。
ネパール行きの飛行機の中でふと思い出したことがあった。
小学生の頃、図書館で何度も借りた本があった。
「ネパールに流れた美しい水」という本で、ある写真家がネパールで井戸と小学校を作る話だった・・・と思う。
子供ながらに、ネパールの子供達の笑顔と私と違う国で大変な環境で過ごしている人がいるという衝撃を感じて、何度も同じ本を借りた。
カオス(混沌)なカトマンドゥからポカラへは、飛行機で30分、車で5時間。
ポカラはヒマラヤ登山の玄関口ということもあって、ポカラに泊まる軽装の人、私達のような軽いトレッキングをするバックパックの人、本格的な登山隊と様々な外国人がいる。
空気の悪いカトマンドゥとは違って気持ちのいいポカラ。
ポカラはいつもヒマラヤに守られている街。
この街からは、登山が禁止されている神の住む山・マチャプチャレが見える。
この辺りでは一番低い山だけど、圧倒的な存在感がある。
低いと言っても6,993 m。
7,900 m級のアンナプルナや8,100 m以上あるマナスルも見える。
ヒマラヤを見ると、3,776 mの富士山って小さいなって思ってしまう。
ポカラの街にはオシャレなホテルがいっぱいあって、意外にも快適なリゾートと言った感じ。
ヒマラヤに見守られながら、お庭でご飯食べるなんて夢みたいだった。
この街の人たちは、朝も昼も夜もヒマラヤを眺めて生きているだって思うとワクワクした。
年末年始ということもありお祭りをしていていつも以上に人がいたポカラ。
ここには、チベットを追われた人たちが住むチベット人の村がある。
「日本に生まれて、日本のパスポート持っていてあなたはラッキーね。私は、パスポートもなければ、帰る土地すらない。」
チベット人に話しかけられた夫はこう言われたそうだ。
たまたま恵まれた国に生まれ、たまたま恵まれた世代に育ち、たまたま満たされた環境にいる。
人はそれぞれ学びを持って地球にやってくるから、この境遇が私が選んだ学びの場所だけど・・・ここに生かされている意味というものを考えた瞬間だった。
久しぶりのバックパックだけど・・・実はトレッキング中はポーターさんに荷物を持ってもらったダメな私。
真っ青な空、温かな太陽、神々しいヒマラヤ。
もうこれだけで体中の細胞がうずうずしちゃくらい幸せだった。
こんな道を歩いていくと、やっぱりそこにも日常がある。
薪を拾って運ぶ人がいたり。
ヒマラヤ見ながら青空教室でお勉強している子供達がいたり。
「普通の日常」って言葉がふと頭をよぎった。
私達がゆっくり歩くこの道も、ヒマラヤが綺麗で立ち止まる場所も・・・
ここに住む人たちにとっては、ありふれた普通の日常。
私達観光客にとっては非日常の感動的な光景。
山の村の子供達にとっては、私達外国人は興味の対象だし、甘いお菓子とお金を持ってる人たちなわけで・・・遠い国からやってきた人たち。
世界って広くて、私の知らない人生がいっぱいあるなって何度も思った。
砂利や岩ばかりの道も地元の人はサンダルでスタスタ歩いていくわけで。
私達はトレッキングって呼ぶけど、彼らからしたら普通の道。
彼らは神の住む山々を眺め、祈り。
電気が一日に3時間ほどしか点かなくても気にしてない。
牛を育て、野菜を育て、籠を編み、服を織り・・・
山を見て祈り・・・
こうして山に守られながら人生をまっとうしていく。
前回の記事でも書いたけど、やっぱりここにも私達が失った「何か」が間違いなくあった。
当たり前だけど、山の中では自然に生かされ、自然と共に寄り添って生きる。
電気もない、野菜も自給自足、ミルクも育てている牛から頂く、暖房だってない。
ここには人としての生活が間違いなく存在してる。
泊まったエコビレッジは日本人が経営しているため、驚くほど美味しい日本食が食べられて、地酒も飲めて。
ヒマラヤ見ながら五右衛門風呂にも入れた。
お風呂に浸かりながら、「あぁ~人間ってなんて小さいんだろう」って思った。
そして私が見ている世界って何て小さくて、独りよがりなんだろうって思った。
カトマンドゥもそうだけど、ネパールは慢性的な電力不足。
電気がついたのは一日で数時間。
だから日中は太陽に感謝したし、
夜の闇がこんなに暗いんだって久しぶりに感じたし、
星ってこんなに見えるだって実感したし、
月明かりって明るいんだなって思った。
ヒマラヤを眺めながらヨガしたり、瞑想したり、のんびりしたり。
圧倒されるヒマラヤ見ながら、生きるってたぶんこういうことなんだろうって思った。
ここでは太陽が昇ることにたまらなく感謝したくなる。
オマーンの砂漠でキャンプした時も、朝が来ることに感動したなっ。
闇が終わり、遠くで犬の泣き声がしだして、空は段々とオレンジになる。
霧に包まれた眼下の街の向こうから太陽が顔を出す。
霧の上に太陽が昇り始め、空がオレンジ色に変化していく。
そしてその太陽に照らされてヒマラヤがオレンジ色に染まっていく。
雪山に太陽の光が反射する様子は、それはそれは感動的。
山に生かされ、大地の恵みに育まれ、祈りと共に生きていく。
地球と共に生きているこの土地の人々。
日々便利で物質的に満たされている世界で生活していると、これが当たり前になるし、「生きる」ということをおろそかにしてしまう。
私達人間は、学びのために地球にやってきて、宇宙に生かされている。
地球の声を聞き、宇宙のエネルギーに感謝し、魂としての学びに謙虚になろう。
ヒマラヤを眺めながらそんなことを感じた。
長いインド出張から帰ってきた夫。
ヨーロッパ旅行から帰ってきた私。
3,4週間ぶりに日本で落ち合った時、夫が「ネパール行こう!」と言い出した。
それから2週間後、ネパールに行った。
聖地ボダナートとヒマラヤを見たとき、「あぁーここのエネルギーに呼ばれたな」って思った。
ネパール行きの飛行機の中でふと思い出したことがあった。
小学生の頃、図書館で何度も借りた本があった。
「ネパールに流れた美しい水」という本で、ある写真家がネパールで井戸と小学校を作る話だった・・・と思う。
子供ながらに、ネパールの子供達の笑顔と私と違う国で大変な環境で過ごしている人がいるという衝撃を感じて、何度も同じ本を借りた。
カオス(混沌)なカトマンドゥからポカラへは、飛行機で30分、車で5時間。
ポカラはヒマラヤ登山の玄関口ということもあって、ポカラに泊まる軽装の人、私達のような軽いトレッキングをするバックパックの人、本格的な登山隊と様々な外国人がいる。
空気の悪いカトマンドゥとは違って気持ちのいいポカラ。
ポカラはいつもヒマラヤに守られている街。
この街からは、登山が禁止されている神の住む山・マチャプチャレが見える。
この辺りでは一番低い山だけど、圧倒的な存在感がある。
低いと言っても6,993 m。
7,900 m級のアンナプルナや8,100 m以上あるマナスルも見える。
ヒマラヤを見ると、3,776 mの富士山って小さいなって思ってしまう。
ポカラの街にはオシャレなホテルがいっぱいあって、意外にも快適なリゾートと言った感じ。
ヒマラヤに見守られながら、お庭でご飯食べるなんて夢みたいだった。
この街の人たちは、朝も昼も夜もヒマラヤを眺めて生きているだって思うとワクワクした。
年末年始ということもありお祭りをしていていつも以上に人がいたポカラ。
ここには、チベットを追われた人たちが住むチベット人の村がある。
「日本に生まれて、日本のパスポート持っていてあなたはラッキーね。私は、パスポートもなければ、帰る土地すらない。」
チベット人に話しかけられた夫はこう言われたそうだ。
たまたま恵まれた国に生まれ、たまたま恵まれた世代に育ち、たまたま満たされた環境にいる。
人はそれぞれ学びを持って地球にやってくるから、この境遇が私が選んだ学びの場所だけど・・・ここに生かされている意味というものを考えた瞬間だった。
久しぶりのバックパックだけど・・・実はトレッキング中はポーターさんに荷物を持ってもらったダメな私。
真っ青な空、温かな太陽、神々しいヒマラヤ。
もうこれだけで体中の細胞がうずうずしちゃくらい幸せだった。
こんな道を歩いていくと、やっぱりそこにも日常がある。
薪を拾って運ぶ人がいたり。
ヒマラヤ見ながら青空教室でお勉強している子供達がいたり。
「普通の日常」って言葉がふと頭をよぎった。
私達がゆっくり歩くこの道も、ヒマラヤが綺麗で立ち止まる場所も・・・
ここに住む人たちにとっては、ありふれた普通の日常。
私達観光客にとっては非日常の感動的な光景。
山の村の子供達にとっては、私達外国人は興味の対象だし、甘いお菓子とお金を持ってる人たちなわけで・・・遠い国からやってきた人たち。
世界って広くて、私の知らない人生がいっぱいあるなって何度も思った。
砂利や岩ばかりの道も地元の人はサンダルでスタスタ歩いていくわけで。
私達はトレッキングって呼ぶけど、彼らからしたら普通の道。
彼らは神の住む山々を眺め、祈り。
電気が一日に3時間ほどしか点かなくても気にしてない。
牛を育て、野菜を育て、籠を編み、服を織り・・・
山を見て祈り・・・
こうして山に守られながら人生をまっとうしていく。
前回の記事でも書いたけど、やっぱりここにも私達が失った「何か」が間違いなくあった。
当たり前だけど、山の中では自然に生かされ、自然と共に寄り添って生きる。
電気もない、野菜も自給自足、ミルクも育てている牛から頂く、暖房だってない。
ここには人としての生活が間違いなく存在してる。
泊まったエコビレッジは日本人が経営しているため、驚くほど美味しい日本食が食べられて、地酒も飲めて。
ヒマラヤ見ながら五右衛門風呂にも入れた。
お風呂に浸かりながら、「あぁ~人間ってなんて小さいんだろう」って思った。
そして私が見ている世界って何て小さくて、独りよがりなんだろうって思った。
カトマンドゥもそうだけど、ネパールは慢性的な電力不足。
電気がついたのは一日で数時間。
だから日中は太陽に感謝したし、
夜の闇がこんなに暗いんだって久しぶりに感じたし、
星ってこんなに見えるだって実感したし、
月明かりって明るいんだなって思った。
ヒマラヤを眺めながらヨガしたり、瞑想したり、のんびりしたり。
圧倒されるヒマラヤ見ながら、生きるってたぶんこういうことなんだろうって思った。
ここでは太陽が昇ることにたまらなく感謝したくなる。
オマーンの砂漠でキャンプした時も、朝が来ることに感動したなっ。
闇が終わり、遠くで犬の泣き声がしだして、空は段々とオレンジになる。
霧に包まれた眼下の街の向こうから太陽が顔を出す。
霧の上に太陽が昇り始め、空がオレンジ色に変化していく。
そしてその太陽に照らされてヒマラヤがオレンジ色に染まっていく。
雪山に太陽の光が反射する様子は、それはそれは感動的。
山に生かされ、大地の恵みに育まれ、祈りと共に生きていく。
地球と共に生きているこの土地の人々。
日々便利で物質的に満たされている世界で生活していると、これが当たり前になるし、「生きる」ということをおろそかにしてしまう。
私達人間は、学びのために地球にやってきて、宇宙に生かされている。
地球の声を聞き、宇宙のエネルギーに感謝し、魂としての学びに謙虚になろう。
ヒマラヤを眺めながらそんなことを感じた。
私にとって旅は心の栄養。
小さな街角にそれぞれの人生があって、何気ない日常の景色に人々の大切な生活があって・・・
それぞれが尊い命を全うしている。
旅に出ると世界は広いなって思うし、沢山の想いや喜びや悲しみがこの地球で生きてるんだって思うとたまらなくウキウキする。
ネパールという国を表わすなら、「カオス(混沌)」。
この国は、人・車・バイク・牛・犬・土ぼこり・祈り・仏教・ヒンドゥー教・・・全てがごちゃ混ぜで、それでいて調和がとれている不思議な国。
道路が舗装されていないから、とにかく土ぼこりがすごいし、車とバイクと人と牛で渋滞はすごいし・・・
一日を終えてホテルに帰ると洋服も髪の毛も顔も真っ黒だということに気がつく。
でも私はこういうカオスな国が大好きだし、人々のエネルギーはこういう国にこそ存在している。
ネパールは日本人が無くした何かがある国。
それは不自由なく育った私達世代には「何か」という言葉でしか表わせないけど、戦後の復興を経て経済成長を見てきた世代には「懐かしさ」という言葉で表わせる何かだと思う。
今回カトマンドゥに住む夫の友人にお陰で、とにかくカトマンドゥを満喫できた。
友人の顔なじみのお店に行けば店員さんが「チャイしてきなよっ」って言ってくれて、お茶を買ってきてくれるし、満面の笑みで色々な話を聞かせてくれる。
路地をどんどん抜けて、一人だったらちょっと怖いかなって思うローカルなエリアも歩けたし、こういう旅は楽しい。
とにかくどこに行っても人と車とバイクと牛と犬がいる。
そしてどこに行っても寺院がある。
そしてそこには必ず人々の祈りがある。
ネパール人が面白いことを言っていた。
「正直言って、僕達ネパール人も仏教なのかヒンドゥーなのか区別が付かない神様もある」
祈りに宗教は関係ないのかもしれない。
必要なことは何かを想って心を込めて祈ることなのかなって実感した。
実際に仏教でも、ネパール仏教・チベット仏教・中国仏教とそれぞれ寺院によって異なっていて、寺院の作りも違っていて興味深かった。
私が一番気に入ったパタンという街。
迷路みたいな路地を入って抜けると必ず仏塔があって、静寂と祈りが必ずそこにある。
この祈りと静寂さがネパールの魅力なんだって思う。
そして街の中心に行けば、混沌とした活気と人と車の騒がしさがあって、これが日本人が失った「何か」なんだって感じる。
観光客が集まる広場にもありふれた日常生活があって。
人々は水汲みに精を出している。
水汲みしていた女の子に「写真撮ってもいい?」って聞くと、とっても素敵な笑顔を向けてくれた。
こういう輝かしい子供達の笑顔を見ると、発展や成長と引き換えに失った「何か」を感じてしまう。
懐かしさと活気と静寂。
色々な顔を持つカトマンドゥが私はとても気に入った。
一つ一つが芸術品の寺院や建物の中で、人々は普通の日常を過ごしていて、その普通さが魅力的。
修行する人、祈る人、水汲みする人、物を売る人・・・そこには普通の日常があるんだけど、その日常こそが美しくてたまらない。
先進国で生まれた日本人のエゴだと思うけど、この国がどんどんと発展して、その素朴な魅力を失ってほしくないと思った。
あぁ、どうかネパールが懐かしさを感じる場所であり続けてほしい。
たぶんそれは間違いなく100%私達先進国のエゴだ。
だけど、心からそう思ってしまう懐かしさがあるのがネパールという国なんだと思う。
そして私達は、ヒマラヤに会いにポカラ・アスタム・ダンプスへと向かう・・・。
ネパールには生き神クマリがいる。
たまたまクマリが顔を出す時で、クマリに会った。
あどけない普通の少女だったけど、日々国のため、人のために祈っているのだとか。
マレーシアもそうだけど、宗教色の強い国には「祈り」は日常の日課として根付いている。
それはまるでご飯を食べるように、それはまるで顔を洗うように、人々は日々の生活の中で祈りの時間を持つ。
人は何を期待し、人は何を想って祈るんだろう。
聖地ボダナートで一心不乱に時計回りに回りながら祈る人々。
そして全身を地に投げ出して祈る五体投地をし続ける人々。
カメラに収めるのも躊躇するほど真剣な彼らの眼差しを見ながら、「祈り」について考えた。
どこに行ってもあるマニ車。
ここには真言が書かれていて、小さい子供も大人もみんな祈りながらこれを回して歩く。
こうして幼い頃から、生活の中に祈りが浸透していくんだと思う。
「祈り」の場は、人々の想いのエネルギーが集まっている。
人々は毎日何度も祈り、感謝する。
世界の平和を。
国の繁栄を。
家族の健康を。
自分の幸せを。
祈りは色々あるだろうけど、祈ることで日々感謝をし、祈ることで日々生かされていることを確認するような気がする。
マレーシアも祈りのある国。
イスラム教徒はモスクに行って一日5回祈り。
ヒンドゥー教徒はヒンドゥー寺院に行って毎日祈り。
仏教徒は仏教寺院に行って祈り。
宗教を持たず祈りと共に過ごす習慣がない日本人だからこそ、「祈り」の姿に感動を覚え、そしてどこか懐かしさを感じるのかもしれない。
偶然にも平和で安全な日本に生まれ、電気も水も不自由なく揃う世代に生まれた私達。
当たり前のこの生活に感謝の祈りを捧げたいと思った。
明けましておめでとうございます。
今年もここに生かされていることに感謝して、地球で楽しくここに在りたいと思います。
初日の出。
ヒマラヤが太陽で赤く染まりだす。
1日のほとんどが停電のネパールで見る太陽は、この地球が太陽によって生かされているんだということを感じました。
朝が来て一日が始まり、夜が来て一日が終わる。
空は青く、ヒマラヤはずっと変わらずそこにそびえ立つ。
人々は毎日祈り。
太陽を見て感謝し、空を見て嘆き、祈りを唱えながら日々を過ごす。
2013年の終わりにネパールに呼ばれて、2014年の始まりはヒマラヤを見て過ごす。
ここのエネルギーに呼ばれたなって感じた年末年始。
新しい1年の始まり。
偶然にも平和な国に生まれ、不自由のない暮らしをし、大切な人々が周りにいる。
2014年もこの地球で感謝と共に日々を大切に過ごしたいと思います。
今年も沢山の優しさがこの地球に降り注ぎますように。
毎年クリスマスのヨーロッパを旅するのが私と母の楽しみ。
そんなわけで、南国から寒いヨーロッパ&日本へと旅行に行っていました。
私にとって旅は心の栄養。
旅に出ると、その土地の匂いやそこに住む人々の服装や表情を感じて、「あぁーここにも人の人生があるんだな」って思います。
同じ空の下、この地球上には沢山の人生が存在しています。
みんなこの場所で、泣いたり笑ったり、悩んだり喜んだりして大切な人生を送っています。
そんなことを思いながら、オーストリア・チェコ・スロバキア・ハンガリーの街を母と歩きました。
中欧ヨーロッパを旅すると、キレイなものに沢山出会います。
ハプスブルグ家の繁栄を感じる建物は何度訪れても目を奪われます。
そしてそこに息づく文化や芸術にただただ感動します。
そしてもう一つ、中欧ヨーロッパを旅すると感じるものはユダヤ人迫害。
この何てことない路地の先にも昔のシナゴーグが残っています。
豪華な建物、優雅な芸術、苦しかった人々の生活、戦い・・・。
ヨーロッパの街にも沢山の歴史とそこに生きた人々の思いがあります。
同じように、私が住んでいるアジアにも豪華な建物と芸術、苦しい人々の生活、戦い、発展があります。
そして、その街に沢山の歴史とそこに生きた人々の思いがあります。
同じように、日本の街にも沢山の歴史とそこに生きた人々の思いがあります。
地球上、人が住んでいる全ての場所に、そうした人々の人生が存在します。
同じ空の下、泣いたり笑ったり、悩んだり喜んだり。
人はその生きている場所で精一杯の人生を生きています。
同じ空の下に生きている人間同士、互いの尊い人生を尊重して、お互い精一杯生きたいものです。
南国マレーシアの真っ青な空を見上げながらそんなことを思った穏やかな休日。
旅から帰ってきたばかりだけど、私の心の栄養摂取はまだまだ終わらず・・・次はネパールへ。
いつも利用するタクシーの運転手さんから面白い話を聞いた。
「日本人は幽霊って信じる?」
って言われたので、「うん。信じるよ。私は代代シックスセンスがあるから、見ることも出来るよ」って言うと運転手さんは大盛り上がり。
どうやらいつもよく通る道で、真夜中に女性を見るんだそう。
運転手さんはマレー人でイスラム教徒。
宗教によって死後の捉え方なども変わるので、イスラム教徒から幽霊の話を聞くなんてビックリ!
Second jobでセラピストをしていたり、代代霊感のある家系に生まれたこともあり、この手の話題はお手の物な私(笑)
日本人は年配の方なんかは幽霊見ると南無阿弥陀仏を唱えるという方もいる。
キリスト教徒は主の祈りをするというのを聞いたこともある。
イスラム教徒は幽霊に出会ったら何するんだろう??
気になってタクシーの運転手さんに聞いたら・・・
「コーランを唱える」という返答。
やっぱり日々唱えるものを口に出すんですね~。
今の若い日本人は無宗教。そう思うと、幽霊にあったらただビックリするだけなのかしら・・・。
っとどうでもよいことを考えてしまったタクシーの中。