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私にとって旅は心の栄養。
小さな街角にそれぞれの人生があって、何気ない日常の景色に人々の大切な生活があって・・・
それぞれが尊い命を全うしている。
旅に出ると世界は広いなって思うし、沢山の想いや喜びや悲しみがこの地球で生きてるんだって思うとたまらなくウキウキする。
ネパールという国を表わすなら、「カオス(混沌)」。
この国は、人・車・バイク・牛・犬・土ぼこり・祈り・仏教・ヒンドゥー教・・・全てがごちゃ混ぜで、それでいて調和がとれている不思議な国。
道路が舗装されていないから、とにかく土ぼこりがすごいし、車とバイクと人と牛で渋滞はすごいし・・・
一日を終えてホテルに帰ると洋服も髪の毛も顔も真っ黒だということに気がつく。
でも私はこういうカオスな国が大好きだし、人々のエネルギーはこういう国にこそ存在している。
ネパールは日本人が無くした何かがある国。
それは不自由なく育った私達世代には「何か」という言葉でしか表わせないけど、戦後の復興を経て経済成長を見てきた世代には「懐かしさ」という言葉で表わせる何かだと思う。
今回カトマンドゥに住む夫の友人にお陰で、とにかくカトマンドゥを満喫できた。
友人の顔なじみのお店に行けば店員さんが「チャイしてきなよっ」って言ってくれて、お茶を買ってきてくれるし、満面の笑みで色々な話を聞かせてくれる。
路地をどんどん抜けて、一人だったらちょっと怖いかなって思うローカルなエリアも歩けたし、こういう旅は楽しい。
とにかくどこに行っても人と車とバイクと牛と犬がいる。
そしてどこに行っても寺院がある。
そしてそこには必ず人々の祈りがある。
ネパール人が面白いことを言っていた。
「正直言って、僕達ネパール人も仏教なのかヒンドゥーなのか区別が付かない神様もある」
祈りに宗教は関係ないのかもしれない。
必要なことは何かを想って心を込めて祈ることなのかなって実感した。
実際に仏教でも、ネパール仏教・チベット仏教・中国仏教とそれぞれ寺院によって異なっていて、寺院の作りも違っていて興味深かった。
私が一番気に入ったパタンという街。
迷路みたいな路地を入って抜けると必ず仏塔があって、静寂と祈りが必ずそこにある。
この祈りと静寂さがネパールの魅力なんだって思う。
そして街の中心に行けば、混沌とした活気と人と車の騒がしさがあって、これが日本人が失った「何か」なんだって感じる。
観光客が集まる広場にもありふれた日常生活があって。
人々は水汲みに精を出している。
水汲みしていた女の子に「写真撮ってもいい?」って聞くと、とっても素敵な笑顔を向けてくれた。
こういう輝かしい子供達の笑顔を見ると、発展や成長と引き換えに失った「何か」を感じてしまう。
懐かしさと活気と静寂。
色々な顔を持つカトマンドゥが私はとても気に入った。
一つ一つが芸術品の寺院や建物の中で、人々は普通の日常を過ごしていて、その普通さが魅力的。
修行する人、祈る人、水汲みする人、物を売る人・・・そこには普通の日常があるんだけど、その日常こそが美しくてたまらない。
先進国で生まれた日本人のエゴだと思うけど、この国がどんどんと発展して、その素朴な魅力を失ってほしくないと思った。
あぁ、どうかネパールが懐かしさを感じる場所であり続けてほしい。
たぶんそれは間違いなく100%私達先進国のエゴだ。
だけど、心からそう思ってしまう懐かしさがあるのがネパールという国なんだと思う。
そして私達は、ヒマラヤに会いにポカラ・アスタム・ダンプスへと向かう・・・。