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2016/01/01

LOVE…愛です。

2016年第一号のコラムは唐突にこんな単語から始まります。

2015年の年末に、酒井はふと気がつきました。

それは、全ての芸術作品における根本的な原動力は“愛”であると。

それが絵であろうと写真であろうと、映画であろうと舞台であろうと、歌であろうと朗読であろうと、そこに愛がないことはあり得ない。

それは、良いものを見せたい、良い時間を過ごしてもらいたいという、お客様への愛であったり、より素敵な姿を見せたいという被写体への愛、舞台上で魅力的に輝いて欲しいと願う俳優への愛、創作に対するインスピレーションを与えてくれた自然への愛…実に様々な形での愛が存在します。

昨年末に急にそんなことを考えるきっかけとなったのが、実は「忠臣蔵」という作品です。

一口に「忠臣蔵」と言っても、赤穂浪士の討ち入り事件をもとにした「忠臣蔵」と、別時代に置き換えて、登場人物の名前も実際の赤穂事件の人物とは変えられた「仮名手本忠臣蔵」とではだいぶストーリーが異なり、そもそもは「仮名手本忠臣蔵」のことを「忠臣蔵」と呼んでいたりすることもあり、ややこしいのですが、ここでは両方をひっくるめて話をします。

赤穂浪士の討ち入りが行われたのが12月であることにちなんでか、毎年12月になると、「忠臣蔵」であったり、「忠臣蔵」をモチーフにしたりオマージュ的に扱った作品を目にする機会が多くなります。

昨年も、そんな「忠臣蔵」関連の作品、元来の「忠臣蔵」とは異なるスタイルでの上演であるものの「忠臣蔵」を題材とした作品をいくつか目にしました。

元ネタがあって、それをパロディ化したりアレンジした様な作品が、その元となる作品の完成度を上回ることはそれほど多くないと思います。

やはり「忠臣蔵」を題材にした別作品が、本家の「忠臣蔵」に勝つのは難しいと思います。

だったら本物の「忠臣蔵」を観れば良いんじゃないの…?という考えもよぎるかもしれませんが、そういった「忠臣蔵」ものの作品を観ているときに、何に共感してその作品に心を引きつけられるのかと言えば、それはもしかしたら、作り手側の持つ「忠臣蔵」への“愛”なのではないかと思います。

酒井は、演劇の戯曲の中で最高だと思う作品を一つ挙げよと言われたら、迷わず「仮名手本忠臣蔵」と答えます。

今年も改めて思ったのですが、「仮名手本忠臣蔵」は戯曲として本当に良く出来ていて、お客の心をドキドキさせたり、ウワーッと盛り上げたりする要素がてんこ盛りで、耳に心地良い名台詞も山ほどあります。

「仮名手本忠臣蔵」をお芝居の王様の様に思い、この作品にどれだけ心動かされ、名台詞に酔いしれたか分かりません。

要は、「忠臣蔵」を愛しています。

作り手側に「忠臣蔵」を愛する気持ちがあるからこそ、「忠臣蔵」の中での、これは見せたい!聴かせたい!という要素が上手い具合に作品に盛り込まれ、それが絶妙である程に、観る側の愛とシンクロして、客席と舞台の心が一つになるのかもしれません。

逆に、「忠臣蔵」をネタにはしているけれど、あまり知識がない…というか作品に対する愛がないのかな…?というものが見えてしまうと、ちょっと幻滅してしまうことがあります。

「仮名手本忠臣蔵」にて、実際の赤穂事件での吉良上野介に相当する高師直という人物の名前の読み方は、文献資料的には“こうの もろなお”と表記されることもあるかもしれませんが、歌舞伎や文楽の中の台詞上では“こうの もろのお”と呼びます。

“もろのお”という言葉の響きであるからこそ伝わってくる、悪役としての粗野な雰囲気があり、もしも呼び方が“もろなお”で同じ台詞を言ったとしたら、だいぶニュアンスが変わってくると思います。

ですから、「忠臣蔵」を題材にした作品で、舞台上の役者が高師直のことを“こうの もろなお”と呼んでいるのを聴いてしまうと、演出が意図的にそう読ませているのかな…?それとも勉強不足なのかな…?と思う以上に、「仮名手本忠臣蔵」の台詞に酔いしれた経験がないのかな…?だとしたら、是非ともそれをお勧めしたいな…などと思ってしまいます。

そう思ってしまうのも、より素敵な作品を作って欲しいと願う愛ゆえなのかもしれません。

愛に溢れた沢山の作品が創られ、人々が愛で満たされることを祈りつつ、ジャンクステージももうちょっとは頻度を上げて更新していきたいと思う2016年です。

次回は、「無駄遣い!?」(古典芸能)をテーマにしたコラムをお届けします。

2016/01/01 02:09 | sakai | No Comments