地球の舳先から vol.329
東北(2014)編 vol.5
朝6時。フワーーン、という、屋外からのやたら優しい放送で起こされる。
魚市の朝を告げる場内放送だろうが、時間を考慮しての控えめさだろうか。
「今日は時化てて、カツオは明日だよ」魚屋さんの昨日の言葉を思い出す。
二度寝をするほど眠くもない。これは、わたしにも魚市に出勤しろということだろう。
宿泊した「ホテル一景閣」は、震災のなかいち早く営業を再開したホテルで
しかし再開当初は、被災中心部という立地からさすがに泊まるのに躊躇する周辺状況だったのと
復興関係者を優先して受け入れていたこともあり、今回ようやくの宿泊。
盛土をした広大な駐車場に自転車を停めていた。
途中に建物がないために遮るものがなく、市場がよく見える2階の食堂で
無料サービスの朝食をいただいて、いざ出発。徒歩で数分なので歩きにした。
魚市に着くと、カメラを背負いにして、物陰(自動販売機)から顔だけ出して中の様子をうかがう。
ここでまたわたしは、自分が激しい勘違いをしていたことを知る。
「魚市」といえば、唯一わたしが知っているのは築地市場で、よくわからない1人乗りトラック?を
猛スピードで走らせ、ギラギラと大声を張り上げる荒くれ的なところだと思っていたのだが、
よくよく考えればそれは「市」じゃなくて「競り」のほうである。
「怖いところ」「ガイジンが邪魔だ邪魔だと突き飛ばされる」を想像して
心して行ったが、勝手に肩透かしを食らった。
船に突っ込む巨大な網、すくわれる大量のカツオたち。
ベルトコンベヤーに乗せられたカツオを1匹1匹じっと観察する男たち。
なんの基準か(大きさ?)、ふりわける男たち。
氷を入れ、かごで運ばれ、どんどん積みあがっていく。
気仙沼の魚市の2階の廊下からは、そんな光景が見下ろせる通路がある。
ひとしきり缶コーヒー片手に見学した。
前の日の晩、カツオをどうやって釣るかやら、漁師の豪快な生活やらを
聞いたばかりなので、見る目もかわってくる。
漁っていうのは、狩りに近いのではなかろうか。
モノを食べるときに「命あるものをいただいている」という感覚は、
「メェェ」という鳴き声を聞きながらジンギスカンを食べたりとか
なぜか動いたまま串に刺されて盛りつけられるアジなどを見たりすると
それなりに、生まれるのだが
「捕ってくる方も命がけ」ということに心が及ぶことは少ない。
想像もつかないし考えもしない、という常態。
自分の肉体は自分が食べたものでできているのに、不思議な話である。
食べ物が口に入るまでの過程がきっと、長すぎるのだ。
気仙沼だけでなく、今回の旅はそんなことを見直す機会になる。
あのかつおが今夜飲食店ではテーブルに上がるのだ、と思うと
うしろ髪を引かれる思いで、わたしは朝の気仙沼をあとにした。
実は、今回の旅は、まだ半分しか終わっていない。
買い込みすぎた土産を宅急便で東京へ送り、再び身軽になって駅へ向かった。
地球の舳先から vol.328
東北(2014)編 vol.4
周到に予約を入れていたのは、「美味しんぼ」でも世界一と描写された
焼き魚が名物の「福よし」さん。
囲炉裏で焼く焼き魚は、魚の種類だけでなく、個体差を加味して
焼くときの串まで変えるらしい。
遠くからでもすぐわかるほどに港の近くに灯りを灯す名店。
ご主人の手作りという、ホヤのランプがオレンジ色に店内を照らす。
話には聞いていたがメニューには値段がなく、
予算を言ってコース(3000円から6000円)を組んでもらうのがいいらしい。
ちなみに品数は同じで内容が違うとのこと。
「はじめは、3000円くらいで、やってみますかね」とご主人に言われ
わくわくと待つカウンターの端っこ。
壁には、カツオ漁の写真が飾ってあり、そもそも「一本釣り」の意味すら
よく知らなかったわたしに、いろいろと教えてくれる。
漁の仕方から、漁師の生活、港の風習、etc..
いずれももちろん、はじめて聞く話ばかりで大変おもしろい。
最初に出てきたのが、上品に甲羅に盛られた蟹味噌にもろきゅう。
そしてイカとイカわたを合えて卓上で火を入れる名物「腑焼き」である。
これが主役級の美味さで、これだけで結構満足してしまう。
当然、ビールはお酒に持ち替えて。
ここから刺身が出てくる。
水揚げをようやく迎えたカツオに、珍しいところだとマンボウの胃を湯がいたもの。
どんな味がするかと思いきや、コリコリして、貝のよう。
3000円というのはコースだと底値のパターンなのだが、
そのなかでもここでしか食べられない珍しいものを出してくれようとする
ご主人の、言葉無き気遣いにぐっとくる。
続いて、ぶりとさんま。もう胃袋は十分目に近い…。
箸の原則を察してか、「あと、焼き魚が。そこまで、いきますから」
とあるお客さんを見送ったご主人が、「恰好いいなあ」とその背中に何度も呟いていた。
「あれ、去年、カツオ水揚げナンバーワンの船の漁師」という。
漁をして気仙沼に寄港する漁師と、その漁師が捕ってきた魚を使う料理人、
そして、その料理を食べに定期的に来訪する漁師。
なんていうか、ものすごい蜜月感。と、お互いの敬意をひしひしと感じた。
最後のお料理、焼き魚が出てくる。ホッケ。
いや、ホッケと侮るなかれ。
中の一番太い骨まで食べられるくらいカリカリなのに、中身はふっくら。
むしろ、焼きの技術を見せるために、あえてよく知られた魚を選んでるのではと
思ってしまう。
とにかく何かしらの皿をあけなければ、と刺身に集中力を注いだわたしにサービス。
「今日水揚げの、帆立のヒモね」なんて言われたら、これまた食べないわけにはいかない。
んー美味しかった。
味ももちろんだけど、ご主人の話もおもしろいし、人柄が店全体に流れているような。
みんなでワイワイ囲炉裏前も楽しそうだけど、カウンターでじっくりもおすすめです。
結局、食べきれずに、弁当箱を渡され、自分で好きに詰めて帰る。
ホテルで夜食、いや、晩酌にならざるを得ないコース…
またひとつ、寄りたい店が増えたのでした。
地球の舳先から vol.327
東北(2014)編 vol.3
さらに海側を目指すと、長いこと魚市周辺の震災の象徴として存在感を残し続けていた
「気仙沼リアスシャークミュージアム」が再建を進めていた。
新しい建物の匂い、まだ一部のオープンで工事も続けられている。
2階の観光協会とミュージアムはすでにオープンしていた。
真新しい券売機で切符を買い、ミュージアムへ入ると、まずあの日からのムービーが
大写しのスクリーンに残っていた。
「震災」をどうとらえ、どう記憶を遺していくか、というのは
自治体や地域にとって、価値観を反映したものであるように思う。
スクリーンには気仙沼へのメッセージがその場で入力でき即時反映されるようになっている。
電子の語り部として気仙沼であの震災を経験したいろいろな人のインタビュー映像やパネルも。
そのほかに、さかなクンがイラストを提供した気仙沼の魚解説コーナーや
サメの生態に関する展示もある。サメ漁に関する知識に乏しいLUSHの人たちは、妙なグッズを作っている金があるならここへ来るとよいだろう。
さて、続いての定点観測、気仙沼名物として外せないお魚屋さん
安藤社長の磯屋水産は…
…とんでもないことになっていた。
かつて、魚市の再生なくして気仙沼の再生なしときっぱりと言い切り、
「役人や政治家に頼ってばかりはいられない。
私は、自分のお金を使って、やれることからやります。
地元の人間が地元を愛せなくなったら、日本はおしまいです。」
と言っていた安藤さん。(2011年11月のインタビュー記事を参照)
去年来たとき、防潮堤なんて馬鹿らしい、自分は海と生きるんだと言って
海の真ん前に店を再建する、と言っていた安藤さん。
そんな安藤さんの自慢の店がようやくできたというのだから、
この目で見たら感極まって泣くかもしれない、とかひそかに心配していたのに。
結果は…思わず、笑った。
…確かに言っていた、もっとデカくして海の前に店を建てる、と。
(( ;゚д゚))
…いや、社長……
デカすぎでしょ………
なにやってんの…………
いや、まあ、片鱗らしきものはあったのだ、去年来た時も。
↑こちらが去年秋の写真。
黒い三角の建物は、渡辺謙さんが建てたカフェK-portである。
しかし、まさか、これがあれ、とは…。海の男ってのはおそろしいもんである。
こちらのK-portもなんともおしゃれなジャズの流れるカフェ。
外のテラスでコーヒーでも飲みながら、暮れなずむ港を眺めるベストポジション。
幸いここには防潮堤も建たず、海を遮断した景観にもならないらしいし。
これは、お隣さんのよしみか、K-Portで数量限定で提供される「磯屋のまかない丼」。
だし汁がついてきて最後はお茶漬けにするのだそう。
K-portにはもうひとつ、三國清三シェフのカレーという名物もある。
1泊2日の旅の行程を激しく恨む。
まったく、気仙沼へ来たら、1日3食じゃ全然足りないんだから…。
地球の舳先から vol.326
東北(2014)編 vol.2
緑の中を走るJR大船渡線。1時間ちょっとで一ノ関から気仙沼へ着く。
首尾よく一ノ関駅でご当地ビールを買い、2両の列車に乗り込む。(まだ朝だけど)
美しい季節だった。
こりゃ、チャリの漕ぎ甲斐もあるというもの。
とかく東北では致命的な「クルマの運転ができない」という問題も
駅前の観光協会でレンタサイクルを発見してからは問題にならなくなった。
しかし、ホヤぼーやの主張が強すぎて、停車するたびに人に話しかけられる。
ママチャリ(とはいえ7段ギア付!)は1日500円。電動アシストは700円。
まずは坂を下って新城方面へ。茂木さんの味屋酒店も1年ぶりだった。
その間にこのあたりには、コンビニができ、ホテルができ、ユニクロが建った。
仮設のお店は5年契約、残りあと2年となったが、仮設店舗もタダではない。
「ここにいてもお金はかかるし、だったらどこへ行ってもいい。
かつての場所で、という人もいるけど、自分で決めて、自分を信じるしかない」
夏場限定だという「水鳥記」という日本酒を購入し、のっけから荷物重量が倍に。
そのままぐるりと大通りを回り込んで、田中・田谷地区へ。
田谷で再開した「ゆう寿司」で、夏限定の生うに丼を食べる。
のっている量だけでも凄いのに、ご飯の間にうにの層が挟まっていた。
すぐ近くのコヤマ菓子店へ向かい、「気仙沼気楽会」リーダーの小山さんのパティシエ姿を拝む。
普段、観光ツアーのアテンドをしている小山さんしか見たことがないので、新鮮。
以前来た時もお店はできていたのだが丁度定休日だったのだ。
手際よくお菓子を包装してくれる。オリジナルの包装紙も可愛い。
旧店のあたりはかさ上げが始まったということだが、盛土の完成が平成30年目途とのこと。
平成32年の東京オリンピックモードが湧き始めた首都を、いやでも思い起こす。
お次は、仮設店舗で元気に営業中のアンカーコーヒー。
ここへ着く頃には、わずか数時間でわたしの荷物は3倍ほどに膨れ上がっており
またアンカーコーヒーで大量にドリップコーヒーを買い出した。
フローズンマンゴーにも惹かれたけれども、暑かったのでアイスコーヒー L。
気仙沼は魚や酒だけじゃないのだ。
コーヒーも、クリームパンも美味い。
で、どんどん財布からお札が消えてゆく。おそろしいところである。
さて内陸をひととおり周り、海側へ出る。
津波と火災の被害が甚大だった鹿折も、
かさ上げ真っ最中の大規模工事が行われていた。
もう、あの大きな船がどこにあったのかも、距離感すらわからなくなる平地。
当然、建築制限がかかるのだろう。重機ばかりが目に入る「その後」は
まだ想像もつかなかった。
地球の舳先から vol.325
東北(2014)編 vol.1
「ボランティアか何かで?」
「いえ、観光で!」
慌しく仙台で駆け込んだ鮨屋で、もう何度目にもなるそんな会話をした。
「観光で来た」と、わたしはあえていつも言っている。
最初は、「被災地」という言葉の重みに勝手にやられて、東北へ行くこと自体が
不謹慎なことだと思っていたし、たぶんそれはそれで間違ってはいなかったと思う。
自分になにができるのか、あのころ多くの人がそうだったように、もちろん考えた。
しかし結局のところ、諦めた。
想像を絶する体験をした人に、わたしがしてあげられることなどなかった。
そんな特殊能力を、自分が持ち合わせていないことについて、くよくよしないことにした。
震災後に観光情報誌を見て「観光で」行った気仙沼で、わたしが出会ったのは、
山、海、美味しい料理とお酒に、温泉。そして何より、親切な人たち。
気取ったどこかの西の方の観光地より、そこにはよほど日本の美があった。
JAPANESE BEAUTY、トーホク。
復興支援なんて仰々しいことを考えなくても
行って楽しんで来れば、それでいい。
そして毎年、気仙沼に行こう。そういうことにした。
でも、今回で私の旅行人としての気仙沼訪問は最後になりそうだった。
飽きたわけではない。
そろそろ、「何かする」時期に、来たらしかった。
いいことを、思いついてしまったのだ。帰りの新幹線の中で。
普通に考えれば不可能そうだけど、そこはたぶん、やるかやらないかだけの話。
ひとつ、ステージが変わったのがわかった。
これもまた、運命。
旅のノートに、東京へ帰ったらやることのリストを綴った。
山形ワインを飲みながら。
4度目の東北。
気仙沼、南三陸、女川、雄勝を回って東京へ向かって仙台を出たその日、
6月22日は、あの日からちょうど1200日だった。
さて、そろそろ
いや、今度こそわたしも、前へ。
地球の舳先から vol.324
パリ2014編 vol.8
さて、ブルゴーニュ編の後編。(前編はこちら)
まずはジュヴレ・シャンベルタン村で畑と酒蔵を見学した。
植え付ける前の、赤い蝋で蓋をした小苗、まだほんの数十センチの苗木。
葡萄といえば背伸びをして収穫するものだと思っていたが、
収穫期にも腰の高さくらいまでしか大きくせず凝縮させるのだという。
盆栽のように1本1本の枝を大事に芸術品のように育てていた。
数日後に悪天候と病気の予報が出ている為、耕運機のようなもので薬を
撒いている畑が多いなか、案内してもらった畑では6代目が手で薬を捲いていた。
機械を使わないのか、と聞くと、「そうですね、彼は早死にしますね」といったコーディネーターと
6代目が話す何事かわからないフランス語の会話に「フクシマ」と唯一聞き取れる単語
が聞こえ、ああこんなところにまでジョークのネタとして浸透しているのか、と思う。
日本人的には、笑えない。無論、彼のフランス語が通訳されることはなかった。
じっくり試飲タイム。試飲というより、同じ葡萄でもこれだけ味が違う、
ということを見せるためのようで、いろいろな種類が1杯で酔っぱらうほどの量が出てくる。
熟成年が長ければそれだけでいいわけでは当然なく、
(そんなような発言をしたらまたもぐり扱いされるだろう。詳細は前編へ)
自分が一番好きなものが美味しいものなので、4種類ほど飲んで、1本買った。
残念なことに、それが一番高かった。いや、見る目があったというべきか…
お次はヴォーヌ・ロマネ村。かの最高峰「ロマネ・コンティ」が作られるところだ。
当主は畑へ出ているということで、娘のソフィーさんがひとりで切り盛りしていた。
といっても観光客が押し掛ける場所でないので、我々の一行をいれて10人程度。
ここでも、わたしでも知っている名前のものがどんどん飛び出してくるので
心臓に悪いのだが、あまりブランドに踊らされず飲むことである。
さすがにいいものは手が出る値段ではなく、セラーに置いておく用に安めのを買った。
…結局、買っている…。あと何軒まわるのだろうか…
昼食をはさんで、今度は白ワインの畑へ。
赤と比べて白の葡萄畑はコンパクトにまとまっており、ムルソー、サシャーニュ、ピルニュイ
といった村をまわって、試飲もいっぺんにできる場所に連れて行ってくれた。
畑によっては、いまだに馬に畑を耕させるところもあるということで、
ところどころに足の太い馬が突っ立っていた。
こうして1日が終わって雨が降り始める夕方には、
我々一行はすっかりほろ酔い(以上)のいい気分で車の中で爆睡。
帰りは、免税範囲よりも重さが敵だった…
とにもかくにも、「葡萄畑が見たい」という当初の目的は達成され、
意外と買える金額だったことも嬉しかったわけだが、なにより自然と歩む
ブルゴーニュという特殊さを知られたことが一番の収穫だったように思う。
「高ければいい」の時代も「美味しければいい」の時代も終わっていて、
何にお金を使うのかということとか、自分の食べたもので体はできているわけなので
何を口に入れるのかということについて、多分考え直す時期がきているのだろう。
こんなところで、今回のフランス弾丸旅行もおしまい。
多分、またすぐ行くけど。
地球の舳先から vol.323
パリ2014編 vol.7
ブルゴーニュに葡萄畑を見に行くことを、今回の旅の大きな目的にしていた。
広大な田舎町なので、車で移動せざるを得ずツアーを探していたが
大型バスはわたしの行きたい村にはほとんど乗り入れておらず、
個人でコーディネートをしてくれる人をネットで見つけていた。
ジュヴレ・シャンベルタン、ヴォーヌ・ロマネ、ムルソー、モンラッシェといった
主要な(というか、いわゆる、な)ワインの生産地を回ってくれることになっていた。
参加してわかったが、団体ツアーが乗り入れないわけである。
コーディネーターの日本人は現地の方から絶大な信頼を得ているのだろう、
案内してくれる畑は素晴らしく、小さな酒蔵も奥まで見せてくれ、
おまけに出してくるワインが質・量ともに「試飲ツアー」ではないレベル。
移動の車の中でブルゴーニュワインの手ほどきも受ける。
いわく、ボルドーワインなどはワインの「味を作る」プロというか職人のような「人」がいて、
その「人」のすごさがワインに反映されるのだが、ブルゴーニュはあくまで自然主体。
だから、ボルドーが「シャトー」といってワインをつくるワイナリーに対して格付けがなされるのと違い、ブルゴーニュは「土地」に名前がついていて土地に対して格付けがなされる。畑が命。
葡萄の味をいかに凝縮するかが大事なので、土地はやせているほうがいいし(意外な話)、
ボジョレー・ヌーヴォーなどはよく「当たり年」がどうこうと言ったりするが
天候の悪い年があったとしてもそれも含めて毎年同じものなんてひとつもできない、
オリジナルで唯一無二の自然がつくりだすのがブルゴーニュワインで、それがいいところなのだ、と。
なんとも素敵な話ではないだろうか。
余談だけど、だから、二言目には「作り手は?」なんてことを、ブルゴーニュものに対しても言ってしまう人は、適当にあしらっておきなさい、ということらしい。
そういえば無類のワイン好きの友人(しかしその人はナパ・バレー派)も
いつか「ボルドーワインは混ぜ物だら」といっていたことを思い出す。
なるほど。
しかし得てして、ワイン好きというのは面倒な人間が多いもんである。
そんな話をしきりに感心して聞きながら、車は南下を続けていく。
後編につづく
地球の舳先から vol.322
パリ2014編 vol.6
JunkStageライターとしてもご一緒している田淵寛子さん。
パリにお店を出すまでの紆余曲折については随時、コラムで拝見していたので
これは、パリに行って素通りはできない。
なぜパリでお好み焼き…と思いながら、バレエスタジオもあるマレ地区へ。
ビールもオタフクソースも日本製。コテにもオタフクのロゴが入っている。
お通し的に惣菜が出てきて、寛子さんが目の前で焼いてくれる。
お好み焼きはエビ入り、イカ入り、豚入りなど。山芋とキャベツでふわっふわ。
新しいこともあってかお店は開放的で、なんだか透明感すらある。
フランス人たちの間では、この店のトイレ(もちろん日本製)が話題だというが
日本人のワタシにはウォシュレットが特段珍しいわけもなく、行くのを忘れてしまった。
思えば寛子さんと出会ったのはもう10年近く前。
その頃、寛子さんは女性起業家としてバリバリやっていて、
「この人、ピンクのパソコン売ってる人」と紹介され、そのうえサンバダンサーだというので、
わたしは結局寛子さんのことがわからずじまいであった。
再会したときには、離婚して(これは余計か)お好み焼き屋を、しかもパリで店を出すという。
本当?と思っていたらあっという間に店がオープンしていた。
いや、前回パリに行ったときに一緒に飲んだので、それなりの準備期間はあったのだろうが
それにしても、一般人から見れば爆速なみのスピード感である。
「不安とかね、ないんでしょうね」と言うと、
「不安? ユウちゃん、何が不安なの?」と逆に聞き返される。
「いや、将来の不安とか」
「将来の何が不安なの?」
「…いやよくわかんないけどさ、野垂れ死なないかな、とかさ」
…これは冗談じゃなくいつもわたしにつきまとっている不安要素なのだ。
「アタシね、いまFacebookで友達が2000人くらいいて、そのうち家に泊めてくれそうな人が
何人くらいいるから、多分しばらくイケると思う」
………何がだwwwwwwwwwwwww
失礼、つい「w」などというネット専用語を使ってしまったが、ほかの表現が見当たらなかった。
相変わらず、パッキリ生きているなあ、と思う。
そしてやっぱり、正体のわからないものに妄想を膨らませて
不安や恐怖との無駄な戦いで消耗することは、当たり前だけど非常に損な生き方なのだ。
人生は、心ひとつの置きどころ。
テイクアウトもできるということだったので、おみやげにもうひとつ焼いてもらい
ケーキボックスに入ったそれを手に、最後の晩餐は終了。
すっきりした気分で、店を出た。
月並みな表現だが、明るくて前向きな人のところには、いい人が集う。
誰だって、あたたかい太陽のそばにいたいだろう。
ひと一倍の苦労も、ホントはしているのだろうからこそ、人間としての深みが出るのだろう。
やっぱいいなあ、寛子さん。
また行くね。
地球の舳先から vol.321
パリ2014編 vol.5
わたしは、パリの北のほうにあるモンマルトルの丘が好きで、ケーブルカーへ乗って
サクレ・クール寺院まで行くとパリが一望できるので、よくこの景色を見に行く。
もともとは独立したひとつのコミューンで、葡萄畑と風車、そして修道院があった
その地は皮肉にも、修道女たちがワインを作っていたことから
19世紀末から歓楽街となり、かの有名なムーラン・ルージュもできた。
アーティストの町でもあり、ピカソやモリディアーニらが住んでいた
洗濯船とよばれる安アパートは集合アトリエのようになっていたこともあり
今でも芸術家が集う場所ということになっているのだが、
いかんせん観光客相手の似顔絵描きが多いのが玉に瑕なところ。
ムーランルージュの真横の小路を上がっていくと
バレエスタジオもあり、日本人の先生も教えている。
この一風変わった場所にも一度滞在してみたくて、
今回は1泊だけ宿を取っていた。
夜になれば安っぽい赤いネオンサインが光り、
それなりな気品を保つムーランルージュの風車のわきは
パリとは思えないデザイン性の風俗店やサウナ(何の?)、
ビデオショップやアダルトショップが立ち並ぶ。
映画の『アメリ』で主人公が働いていたおしゃれなカフェもあるが
小洒落たビストロよりも、アメリカふうのビアホールが目立つ。
翌朝、SUBWAY(電車じゃなく、サンドイッチチェーンのほう)の
となりのコーヒーショップで往来を見ながら朝食をとっていた。
すると、ごみ置き場の隣の可動式公衆トイレから、ドレッドヘアーで
胸元を大きく露出した、体の大きい女性が出てきた。
しかし着ているものがやたらと安っぽい。
その扉の向こうに動くものが見えた気がしたので、ん?と二度見すると
そのあと、しばらくして、おなじところから男性が出てきた。
…なるほど。
ふたりは話をするわけでもなく、男性はどこかへ消えていき、
裏で待っていた女性はふたたび公衆トイレの中へ。
しばらくするとまた別の男性がそこへ入っていく。
で、また、女性のほうが出てくる。ほんの5分、10分の話。
…儲かってんなあ。
その効率に驚く。それに、時は日曜日の、まだ朝もあけたばかりの8時前。
なんて働き者なのか、もしくはそこになにかの必然があるのか。
事情も、しくみがどうなっているのかもわからなかったが
モンマルトルのおひざ元で、そんな光景を見ながらサンドイッチを食べた。
わたしは、ひとより感受性がないのか、もしくは想像力がないのか、
血みどろの暴力映画とか、猥雑なもの(めったに見る機会はないのだけれども)
とかを見ながらでもまったく問題なく食事ができる。
サンドイッチは、チェーン店らしく安定の美味しさだった。
注文を間違えて食べ過ぎ気味の胃にさらにアップルパイを押し込み、
出かける。バレエスタジオに。
不思議なパリ。
「光と闇」なんて、くだらない表現はしたくない。
朝が来て、そのうち夜が来て、そこにいろんな人が生きていて
いろんな人が生きていける社会があるというだけなのだ。
地球の舳先から vol.320
パリ2014編 vol.4
カジュアルでオープンなマレのスタジオ。
ダンスはクラシックバレエからアフロキューバンまで無数のレッスンが
10以上のスタジオで毎日行われていて、歌や演劇のコースもある。
劇場も併設されていて、コの字型の建物の中庭はカフェ。
メインの大スタジオにはこちらでは当然のごとくピアノが設置され
レッスンの生ピアノの音が響く。
年季の入った木製のバーはぼろぼろでたまに棘がささるし、
床もリノリウムじゃないけど、わたしは朝の眩しい陽光がたっぷり入るここが好き。
スタジオにはリストとかヴェートーヴェンとか、作曲家の名前がついている。
かすかに弯曲した硬い階段をあがる。
ここには日本人だからと特異がられる空気もない。
年齢層はそれこそ、20代から60台まで。
「会ったことあるよね?」
ジェスチャー込みで、ぎりぎり、そう言われたことがわかった。
日本びいきで、ラテンアメリカ生活が長かったからなのか
ユーモアのセンスもまるでラテン人のフレデリック先生。
「マエー」とか「ハンタイー」とか、たまに日本語で指示を出す。
当然、ほかのフランス人の生徒さんはわからなくなるわけだが、
みんな迷惑がるでもなく、可笑しそうに微笑む。
先生は、ノッてくると、ピアノに合わせてオペラを本気で歌い始める。
国境だけじゃなく、バレエはいろんなものを越えていく。
体が軽くなって、よく動いた。
音楽が、素直に体に入ってくる。
おなじオープンスタジオで比較しても、
日本のバレエ社会は、やはりどこかしら封建的だと思ってしまう。
コワい先生、よくわからない派閥、自分より上か下かを格付ける周りの視線。
自然と、内に閉じこもり、自分だけを見つめるようにして、心身の安定をはかる。
踊る喜びよりも、終わりの無い鍛錬…
そういう部分が、少なからずやっぱりあるのだろう、と思わざるを得ないほどに
ここへ来ると、自然に還って「踊れる」のだった。
ちなみに、更衣室は男女一緒。
何を隠すわけでもなく、談笑しながら全裸着替えがあたりまえである。
(ちなみにスタジオのあるマレ地区は、同性愛の聖地でもあるらしい)
確かに踊る人間にとって、肉体は、性的なものはほとんど感じず
機能というか道具のようなものなのだが…
やっぱり、バレエはいろんなものを越えていく、…のだろう…。