夏に 私が今住んでいる 愛媛県 内子町の内子座で
「父と暮せば」井上ひさし脚本作品の朗読上演があります
2012.8.3 夜19時開演
主催 森文醸造
私にとって
実際の父は ハーモニカ・ギター・皿回し芸の 漫談家 源氏太郎であるけれども
芸の上では 父的に お慕いしている方々が多くいらして
その中の ひとりが
同じ曲独楽を仕事にしている T師でありました
7月に入ってすぐ
そのT師が亡くなってしまったのです
曲独楽に一生賭けて 私が東京を出たときに 別れたきりの
仲間
友達
お世話になっている皆さんの事を考えていると
ここ最近の豪雨を心配した父 源氏太郎から電話があり
T師との昔話をしました
うちの父ちゃんは
1929年 昭和ヒトケタ 4年生まれですから
83歳です
2012.7.20スペシャル寄席では15時10分上がりです お近くの方はどうぞ
この日のトリは 林家ペー先生です
T師は享年71歳でした
若いなあ
異流派の交流が気軽にされていた事を前回お話させていただきましたが
私が太神楽曲芸協会に所属していた頃
T師は よく面倒を見てくださいました
父がちょっと真面目すぎるところがありましたので
それをからかって 曲芸の各師匠方は
遊びのネタにしていた事
そういう父の若い頃の 面白い話を
T師はしてくださいました
母と結婚する以前の話ですから
私に想像できるはずも無いわけです…
そんな お茶目なT師
亡くなるのが早いなあと思います
楽屋で ブスッとしていても
表に出ると
「ここに飲みに行くとこれが美味しい」なんて話を
楽しくすることがお好きでした
体調を崩された時
私が代わって 文化庁の曲独楽講師を拝命し
未熟ながらも 研修生が卒業する手伝いが出来ましたし
とかく
ご縁が深かったのだなと
思っています
つくづく こだわりを持たずに 前へ進むことが
後に後悔を残さず 反省のみで済むことも教えていただいた気がしています
一緒の舞台に立てて 本当に良かった
職人さんとのお付き合いは結構長くなりました…
戦後日本のデパートで職人の実演販売を定着させた方は 誰あろう 江戸曲独楽の作者 広井政昭さんであるけども
なにしろ 最近は ごく当たり前になってしまって
テレビショッピングの会社が テレビの番組スポンサーになったりすると
もはや 日常に「物」が 食い込んでいて
日本は
外国に出るとよくわかる
飽和
買ってほしい
これが 一日の電波の大半を占めているみたいで
それだけで 私には重たい
ずっと昔
私が曲独楽を 紋也師に稽古をつけていただいていた時代
今 思い出してみると
いろいろな気配の変化を感じるのです
師匠のお宅がある地域は
飯田橋と神楽坂の中ほどです
高い丘陵のような地形の上部に
東京大空襲で焼けてしまった建物が大半ですが
ほんの一角
木造町家がポツリと残っていたり
新宿区の中でも
緑を愛する大きな邸宅があるせいでしょうか
落ち着く町でした
稽古に通う 地下鉄のばっちい神楽坂駅を出て歩く道から
カラカラの新潮社本社ビルあたりを
いかに急いで通り過ぎるかで
身の入り方そのものも違ってきましたし
歩く道が逆に 今のように きれいに整備された駅から出て
おしゃれなカフェや
アンティーク店を横に見ながら歩く
そういう
必ず誰かの手が入った場所を望む道のりであったならきっと
曲独楽の職人さんの
製作の
現場の事を考える機会は もっと遅くなって
後輩の曲独楽の材料調達も
間に合わなかったかもしれない
絶対
師匠のおっしゃるとおりに
芸以外の余計なことはしない
そういう
古典の芸を一直線に
させていただいてたでしょう
でも 表通りを1本入った路地には
「利休」映画の勅使河原監督のお宅
裏千家の事務所
たまに 散歩中の古今亭志ん朝師や富士真奈美さんにも
お会いするような地域で 普段は静かな雰囲気
この物静かな上品さは
前へ押し出すような今どきのやり方とは
随分違っていた記憶があります
でも 私だけなのかもしれません
私にとって 特別な場所がもうひとつあったからです
ちょっと歩くと
三島由紀夫さんが自決した
自衛隊 市ヶ谷駐屯地に出るのです
ここは ほとんど 閉鎖状態でした
(でも近代能楽集 卒塔婆小町と綾の鼓のファンの私は毎回のように 見に来ました)
ここからの眺めは
市ヶ谷駅を 外堀をはさんで向かい合い
殺伐として
何ともいえない風景です
よく紋也師は この外堀にある 釣堀に来ていました
目の前に市ヶ谷駅があります
釣りが大好きだった師匠の 憩いの場所でした
いきなり 左朴全さんだ
そうです 曲独楽は
-
曲独楽そのものに 新しさを入れられなかった事
-
資金不足 技術面の衰退
女性の「見られ方」が 変わったことです
今回は 曲独楽を ご覧頂く時の
舞台での 構えというか
道具仕立てを
解説してみようという
またまた 生意気盛りで ございます
もうじき 人生五十年にさしかかろうという私ですから
まあ
20代ならいざ知らず
最近はもう
これでもかという状態で
書きなぐっているわけでありまして
「巳也が嫌いになっても 曲独楽は嫌いにならないでください!!!」
(以前AKB48総選挙でトップ当選した時に
あっちゃんが言ってたみたいに言ってみました)…わかるかっつ~の
ええ さて
今回は
曲独楽を演じるときの 道具との考え方について
錦絵を見た話と 自分の曲独楽のあり方を
★クルクル★からめて ご説明していきます★
絵でご紹介しているように
舞台上では 机を置き
その上に 曲独楽 コマを配置していますが
その昔は こんなわけにはいきませんでした
いちばん 古い種類の文献とか
一生懸命見てみると
曲芸と一緒に コマを演じていた(かもしれない)
説明は たくさん出てきます
でも
肝心の 情景描写が まったくありません
繰り返し書いておりますが またまた説明しますと
曲独楽というひとつの型として
観る側演じる側ともに 成り立った一番最初が
京都 四条河原での
博多の曲独楽師 初太郎(他にも異名がありますが ここでは統一)の
公演を 初演と考えるのが 研究者皆さんの意見です
当時の絵も ありませんので
これまた 現場がわからないのですが
一番年代が近そうな
市中屏風絵とか 襖絵に 描かれている芸人らしき
演技中の風景を見渡してみますが
どうやら
道具を描きこむ所まで 絵師の神経がいっていないという事で
もっぱら 地面に 箱が置いてある程度です
その大きさについても
当時 遠近法が確立していないので
今時の大きさ推測は 役に立ちません
でも 膝くらいの 箱が 置いてあることに 気がつきました
まあ この程度です
無理も有りません
当時はまだ 曲独楽師などには小屋を仕立てて公演をする事が許されておらず
この
博多の 曲独楽師の 大評判が
町の人の動員数数万人に及んだという状態を生んで初めて
町の取り締まり上
そして 興行したら儲かるなあという欲
それが両方整ったので
曲独楽も 歌舞伎と並んで 小屋での興行が叶ったわけです
※ ここまで 独断で言い切っていますが 合ってるかどうか 私と一緒に真剣に考えてくれる人は誰か居ませんか~?紋也師が亡くなってから、研究者の方と最近接点が無くて寂しいです…。
そして
江戸時代後半になり
文化文政に
曲独楽は小屋がけの興行を各地で行い
名人といわれる各芸人を生み
道具も増えて
楽しみ方も
曲独楽だけではなく
曲独楽という題名で興行をするのが
縁起をかつぐ関係もあると思うのですが
その大当たりをとった型を
明治時代まで 続けていく事になるのです
曲独楽 コマの曲芸として
興行されていたであろう演目といえば
手妻(マジック・和妻とも、手品とも言い、中でも水芸が有名)
(水芸については コマに火をつけて回転させる芸をするのが始まったと同じく
登場したと思われるのですが これは もう少し調べてみたい事です
研究論文で現在の「水芸」の第一人者である
藤山新太郎先生と一緒に書かれているものを
もう少し 勉強してから 私もしっかり把握しておきたい事です)
水芸については ここをご覧下さい 藤山新太郎先生のサイト↓
http://www.tokyoillusion.co.jp/index.html
身体能力の高さを見せる見世物的な芸(バランス芸・つまり玉乗り、綱渡り、竹乗りなど)
太神楽曲芸(ジャグリング・マス、桶、卵や道具を使って高く積んだり、投げる芸)
力自慢の芸(特に、足芸が派手だったようで、大きなコマや、人、襖を回したりした)
それと舞台小道具に関連する事として
特に書いておきたいのは
見世物小屋としての
作り物の話です
和紙という丈夫な素材
竹という強靭なもの
そして 鯨の髭など
知識の楽しい活用としては
現代でもお手本になる 物作りの大事典みたいなものですが
明治に近い頃には
平賀源内の技術とか もうすでに 電気仕掛けも登場してきますから
幻燈仕掛けも 結構やっていたのではないかと思います
(これも もう少ししっかり考えようと思います(^^;))
それから熊本に 生人形(いきにんぎょう)の職人さん松本喜三郎がいて
たぶん 当時はこういう表現も
曲独楽の中にあったのではないかと
私は考えます
松本喜三郎など生人形については
こちらの↓熊本市近代美術館の記載が詳しいです
http://www.camk.or.jp/event/exhibition/ikiningyou/index.html
西欧との交流の中で
彫刻とか 遠近法や 宗教モラル 医術の違いなど
そういうものがあって 西欧の人が表現できなかった世界を
庭師は庭に
生人形師は 人形に
芸人は 芸に
日本の職人・芸人の技術が やすやすと日常に発揮しているのを見た西欧の人は
どう思ったのでしょうか
アメリカの自称興行師は
そういう純粋な芸人の一行を騙して
先に手数料を半額もらい
アメリカ N.Yで数回興行し
その興行収入とともに
ドロン
今も昔も
ある程度は 知識を持っておかないと いけないという好例ですが
さて
その明治までの 曲独楽の公演では
道端で演技をする 大道芸人と一線を画し
様々な 道具を 曲独楽の友として 登場させていきます
今に続く 曲独楽の舞台で使う道具
これは
お客さんの数と
見ていただく状態に応じて 軽量化が進んでいきます
明治から大正になると
もう 日常に西欧の感覚が入り込んでいて
髪を結う人も珍しくなっていったくらいですから
寄席にも
その影響が出ていきます
興行形式が 曲独楽の江戸の興行で成り立っていたのは
明治の10数年頃までです
西欧のサーカス
そして
アメリカやドイツの金髪のダンサーや曲馬に乗る 大胆な衣裳の女性を見に
大勢の人が行くんですから
すっかり
曲独楽や日本の芸も
寄席に落ち着いて
芸も洒落の効いた舞踊の動きと
奇抜な電気仕掛けを利用したりして
工夫をしていく時代に突入したのでした
その小道具を 私たちも
受け継いでいる事になりますが…
さて 今回も この辺で
お後が よろしいようで…
暮らしが
なかったら
町並みは 中身が無いと思うのですが
皆さんは いかがですか
東京には たてもの園という施設があって
私も 出来た当初
イベントで 曲独楽をご覧に入れた 場所なのですが
普段は 誰も いなくて
中に 展示用として 農家や 大きな庄屋の 建物が立ち並んでいます
建設当時は 本当に その施設の必要性を疑われるほど
活用されていませんでしたし
建築物も 「いかにも飾り物」という 感じの
下手すると テーマパークや 撮影所でも ホコリっぽいイメージだけの家が
並んでいるだけの場所として あったなあと 思い出すのです
今はさすがに 年間集客目標とか 学習の目的で研修利用など
きちんと管理がされていると聞いています
家だけ保存するという事は
たずさわる人の心も関わりようが無い
ただのモノである
そういうことなのです
内子町の八日市・護国の指定地区には 重要文化財指定になった江戸から明治の
建物が3軒あります
今現在 住んでいらっしゃるので
すごい事だなあと 私は思います
しかも
内子町という地域は とても広いのですが
その中心部であり
かつて 明治時代には ヨーロッパとアメリカへの
貿易で栄えたといいますから
こんなに静かで 小さな山並みが続く地域が
どのような華やかさを
当時持っていたのかは
この 建物と その持ち主の方と 地域の方のお話で
見 聞き する事ができるのです
ここに今住んでおられる人たちは
当時から住み続けている方も多いので
興味深い地元の話を知る事が出来るのも魅力です
最近の地域の活力としては
他の地域から
自分に合った仕事をしたくて
移住している人も居て
とてもきびしいけれど
力強い人が居ます
実を言うと
そういう体験こそ
もっと交流の中心にあってもらいたいと
私は思うのですが
観光の場面からは まったく知る事が出来ないのが
とても残念です
しかし
この町並み保存地区の ほぼ真ん中あたりにいる私は
希望も持っています
こういう観光の歩いて ただ流れていく人の姿も
ひとりひとりが持つ 心で
これからは意味のある 本来の町並みとして
その魅力を
知っていただければ こんなに面白い事はないと思うのです
今年も 半年が過ぎて行きましたが
これからの毎日
私たちの子供にも 自慢が出来る地域を
ぜひとも
盛り立てて頑張ってみたいと 思っています
300年とも 800年とも いろいろな考え方で 曲独楽 コマの曲芸の歴史は語れますが
盛んであった 18世紀から19世紀の
集客ツールといえば
この錦絵が 最も多く使われた手段だといいます
お客さんである 女性を多く集める事で
男性も 美しい女子目当てで大勢集まるわけですから
そりゃあ 気合でもって
チラシやポスターにあたる この錦絵を製作するという事で
絵師も 人気の 国芳が
曲独楽師を 一番たくさん描いている様子です
最近 また 資料が整理整頓されているので
日進月歩 調べ物も 要する時間が短くなって有り難い事です
梅雨時期の 泥落とし
洗濯物や息子らの 運動靴も
乾かすタイミングが計りやすくて感謝してます
さて 今回から その整理整頓の恩恵を 受けて
曲独楽の資料の解説なんぞ
生意気この上なく 開始しました
初回は この絵からです
モデルは 竹澤藤次 たけざわ とうじ
この人は ものすごく評判が高かった曲独楽師です
ここ ボヤキ
松井源水という 富山の薬売りから発生した系列の曲独楽師が
他の商品を 販売する本業の 客寄せとしての大道芸ではなく
舞台の芸人として 磨かれていく流れが おそらくは あるのですが
まだ あまり いつからそうなったのか 記録が何しろないもんですから
錦絵が多く出回ってくる
この頃の資料しか残っていないので
松井源水が 大岡越前とタッグを組む以前の活動を
知ってる方がいたら 教えてほしいです…
豆知識
さて この竹澤藤次の芸ですが
これは 長煙管を使っています
煙管といえば 現代での悪者に仲間入りしつつある
タバコの友達です
しかし ちょっと前には アヘンを吸引するのにも 使われていました
洒落人が 長い煙管を競って作った遊びも
江戸にはあったのですが
このアヘン煙管は 危ない方の遊びです
曲独楽には もちろん 安全な煙管を使っていますので
安心して下さい
アヘン、麻、これはモルヒネを含んだ毒にも薬にもなるものですけれど、
文化が違う国を 武力以外で制圧する時の方法として
子供の洗脳
宗教
嗜好品に常習性のあるものを ばらまく
のような事がありました
あと お金に当たる 価値を 粉々にして 社会を混乱させるのも よく使われる手です
アヘンも その手段に使われた 怖い 歴史があるので
それを思わせる 長煙管であります
ところで
諸外国が 他国の脅威に始終神経を働かせて行動しているのに
日本は 江戸時代も安定していた頃には
豊かになった町民が 旅をして回ったり
寺子屋で 読むことを覚えて
女性でも 小間物やが持ち込む黄表紙の色っぽい話や
連載マンガの原型本を 読めるようになり
三味線や琴を習ったり
芝居に凝ったりして
それぞれが自分の好みで 身の回りを楽しむ世が完成していって
お金をだしてもいいから
珍しいもの 人と話す時の 楽しい話題を探して
いわば オタク文化の元の気風が 江戸市中には あふれていったのでした
江戸時代というのは 四方を海に囲まれた日本の
楽園の実体化
でもあったかなと ちょっと 考えました
そういう中での 曲独楽の舞台化でありますから
そりゃ もう いろんな要素を入れ込んで 芸を作っていきます
町の話題を芝居にしてみたり
作り物、という楽しみもその中に入ってきます
藤つるや 竹で編んで骨組みを 形にして
まわりに紙を貼っていき
大型の舞台効果も 製作していた様子です
もともと
提灯や傘を 竹と紙で作ってきたのですから
各村や町単位に 必ず居なくてはならない種類の手わざですので
腕のいい人が 専業化していったのは
容易に想像できます
竹 紙 木 着物 漆
こういう 素材が
全国から 集まってこそ
この曲独楽の公演も出来るのでありました
宅急便とか 航空便があるなら
遠い所の品が 目の前にあっても おや
ぐらいで済むでしょうが
どうにも すごい話です
日本の 技術のすさまじさを 今に残すって大事だぞと
本当に思います
ところで 曲独楽のこの絵の芸は
煙管の棒の部分で
回転する独楽を操作している芸です
いくつか 煙管の形状を利用して
バリエーションがあります
やっていても 動きがその度に 微妙に違うから
発見もあって本当に面白い芸です
私たち三増流の場合 投げてコマを回します
これは 集客数の増加により
曲独楽師も道具を替えて対応して
早い 上手い を実現してきた形のひとつですので
江戸のお座敷芸のような
お客さんが膝同士温めあう場面では この道具は使いません
ご要望により 特別にすることも可能だけれど
危険な芸をして物が壊れても
保険がおりませんので
やめてくださいね
この芸の準備として
3Mの麻縄を自分用に乾燥した麻のたばから曲独楽に合わせて作りますが
正月の神棚によくある 縄の飾りみたいに
よって作っていきます
自慢させて
これが 実に美しいので
紋也師匠に習ってからというもの
愛媛の伊予ちょんがけ名人の右紋さんにも
更に素早く出来る作り方を教えていただいたりして
DIYで手に入る種類のロープとは比べようがありません
てな具合に 投げ独楽を演じる時に
思い入れをつい 舞台上で つぶやいてしまう
このあいだは 気が付いたらこの話だけで
10分話してしまった…(^-^;)
自慢にならない…
ところで
最近は投げる曲独楽を 趣味で製作者さんから購入した方が
紐が無いと 嘆いているのを聞いた事があります
どんな紐でも 投げることは出来るんですが
曲独楽に 慣れているかどうかが問題なわけで
怖がって投げたら 練習になりませんし
とりあえず言える事は
貴重な曲独楽を 投げる前に
まず 他のものを投げて練習することを薦めます…
こういう風に
自分に合っているやり方という事が実は意外と気がつかない…
オカメハチモク
身近な人の 見たままの 一言を 参考にするのを また 薦めます
日本の趣味人というのは
本当に文化の高い素晴らしい事のあらわれなのだから
決して 恥ずかしがらずに 交流を 楽しみましょう
もし この芸を 投げる独楽で 楽しみたいのでしたら
得意な趣味とかスポーツで体得している動きを
一度取り入れてお試し下さい
今回は こんなところで
お後がよろしいようで
歌舞伎の市川団十郎人気にあやかって、家紋である三重の四角形、
三つのマスを重ねた紋ですが、これを名前にした「三枡・三増」、
それから洒落で名乗る名前、紋所を着物に刺繍したり、
染める仕事があった時代の「紋入れ」の家業からとって、「紋弥」など。
師匠の家に入門の挨拶に行った時に食べていたおかずから命名するとか、
容姿から名づけた「源氏」、なかには「擬音・擬態語」でついている人もいます。
さてこの秋に、曲独楽の世界でも、150年振りに名前が復活する事が、
先ごろ新聞発表になりました。
博多小蝶という名前です。
この名前は、途絶えていましたが、ゆかりの地である博多の曲独楽、
筑紫珠楽さんの家が、代々の名である珠楽を次代に襲名することに伴い、
当代珠楽さんが博多小蝶と、改名することが決まりました。
女性の芸人というのは、なかなか昔から評判になった人が少なくて、
第一、結婚してから継続して現役でいるという人が、あまりいないのも、
名前が記録に残りにくかった原因のようです。
平和な状態が続いてこそ、このように歴史がある名跡を
復活させる事も可能になるわけですから、
現在の曲独楽の状況も、長い目で見ていくと、今がもしかしたら一番、
恵まれているのかもしれません。
全国で公演する芸というのは、お呼びいただく地域の方の、
ご縁がその栄養源となっているのであり、
地域での祭りや、結い、無尽、講などが元々盛んな場所に伺うので、
訪れる場所ごとに、驚きの出会いや発見があるものです。
距離が離れているのに、同じ節回しの言葉を使っている、などは
毎回のように経験する楽しみですが、
港の漁業や山の木地師の文化、
遍路や戦国の世での人の移動の名残りだったりして、
生き抜くことに全力を尽くしてきた日本の人の情景が見えることがあります。
博多小蝶は、江戸末期から明治にかけて活躍し、
博多はもちろん全国規模での公演をし、
各公演の記録も多く残る、とても貴重な女性の曲独楽芸人です。
芸一途に、結婚する事も(多分)無かったので、
後継がいなかったのですが、
同じ博多の珠楽さんが、この名前を復活させるのが、
本当に私は嬉しくて仕方が有りません。
博多の曲独楽は、独楽の製作も独自に続けているので、
なかなか全国公演には、大変だと思いますが、
江戸由来の裃姿での曲独楽、
今年の11月に襲名披露があるようですので、
興味を持っていただけると嬉しい限りです。
すっかり ご無沙汰してしまいましたが
ホタルも まだなので まあ 季節的には 例年よりも
2週間程度 愛媛県のあたりは 遅れておりますから
原稿が多少 遅くなるって事も
あるんじゃないのかなと
…
…
ええと、
気になっていた事が
最近どうやら また
判明してきたようなのです
コマの発祥の地として
1候補のインドネシア地域のことを
様々調べて
裏づけになりそうな
インドネシア関連の情報も頂いて
直接各地の子供の遊びについて
絵を描かれて残そうと運動している作家さんの事も
知る事ができました
さあ
そこで
判明した事があるのです
その運動をされている作家さんは女性です
そう 女性にしかワカラナイ 感覚的な直感と申しますか
そういうものが 私にもあるとして ピピッとキタのであります
コマの遊び
ちょんがけという特殊なコマの遊び方が
インドネシアのある小さな島から
この日本の熊本・愛媛などに伝わった理由として
三増巳也的な勝手な結論ですけれども
最初の国交があった当時
じゃがたら 国として 豊臣秀吉が 色々な文物を持ち帰っているのですが
その頃に
女性か子供が もしかして インドネシアから 日本に 来ていたのではないか…
あらゆる事を 日常の自分の感覚から 一足飛びに想像するのですが
たとえ 国が負けて 戦争に勝った国の文化を受け入れる事になったとしても
文字を操る力がない人が そういう立場にあったとしても
母が赤ちゃんを寝かせる時に歌う 子守唄
子供同士が遊ぶ わらべ歌
そういう歌の詩や 囃しコトバ
方言のようなもの
こういうことだけは
統治者さえも
取り上げる事ができなかったのではないか
今思う事は
謎とされている 子供の遊び唄の語源や 遊び方
呪文のように 幼い頃から耳だけで覚える色々な
こどもぶんか
これこそ 実は 尊い 民衆の記憶ではないのかなと
気になる事が 前に進んだ気がしました
ケンケンパーで
石蹴りして 遊んだ 私
インドネシアに 同じ遊びがある事を知って 驚くこのごろです…
頑固な態度には 頭にくることも多い!!!
けれども
なかなか 責任を持って やりとげるという力強さが
最近欠けているような気がするので
自分の事も顧みて
同じだ と納得している
気に入っている着物のシミを
どうやらスチームアイロンで取り除く事に成功した
調子に乗っている時でないと なかなかできないが
先日紹介した コマの柄の麻着物…
このシミと 今日は格闘する予定でいる
ところで
各 社会活動の中で 時として
今まで通りという方を 優先する態度が
若い力を削いでしまう事がある
自分が10代後半から20代にかけて
歯噛みをしつつ
何とか 女性である事をタテに スルリと 入り込んだ
自分なりのやり方を やり遂げるという自己実現の世界観
繰り返すうち
支えてもらう事のありがたさを身にしみて感じる一瞬が訪れる
己の事を思い出しても
若いときは それでいいと思うから
そういう時間の作り方さえ許さないような
余裕のない社会を作りたくは無いと思う
着物のシミでさえ
多くの場面をくぐり抜けて今 持ち主の私の目に触れている
自分の誂えの着物のシミは
生まれも育ちも 私自身がよく知っている
スチームアイロンで取り去ったシミがついていた着物は
亡き母が 女流落語家の古今亭 菊千代師に
真打昇進祝いに 見立てた色違いの反物で作った
手縫いの着物で
私が 着物で出掛ける超初心者として闘った30代を
共に過ごした戦友的存在だ
裾のほうだけ 我が家の泥が跳ねてついた事がわかっている
思い切りよく 洗って スチームアイロンで 仕上げる事ができたのも
自分の扱い方を知っているからできる事だ
コマの心棒を 他の人が
私の 見ていないところで曲げてしまった時と同じような事が
この着物の扱いにも言えることで
頂き物の着物となると
その持ち主が 様々なキャラクターを持っていたわけで
多少知っている方から 頂戴したものならわかるけれど
このコマの着物の持ち主は
皆目わからないのだ
さて
私が今日出す 結論が
願わくば 最良の結果を招く事が出来るように
コマにお願いするのみ…
上記 インドネシア文化宮 記事から
gasing ガシン
インドネシアの言葉で コマ の事だ
昨日は 親戚の織物作家の叔母さん夫婦と
Mさんが 来てくれた
私の曲芸用のコマ
曲独楽も いろいろな 柄を 私はリクエストして 製作していただいたから
季節を紹介する 手段としても
言葉が通じにくい 異文化交流には 欠かせない
使ったのは 33cmほどの とんぼ柄の コマ
せっかくだから
愛媛に伝わる ちょんがけ コマの話を させていただいた
やはり インドネシアでも 事情は同じ
経済交流が 始まってからは
急速に 大衆文化は 無くなっていて
ガシン コマも 例外ではない
しかしながら
コマの道 TOP ROAD という 考え方を
WEB上で 発見して 喜んでいた私
きっと この愛媛の ちょんがけコマも
その道に乗って 1600年代からずっと 九州を南下 そして 武家やら 経済の移動と共に
愛媛に到達したに違いない
歴史の記録を 読んで まだまだ 確認したい事は 山のようにあるけれど
思い切りよく
宣言してみたいと考えた
ちょんがけ タイプの コマの遊びは
インドネシアで生まれて
愛媛が その終点である
この説を 覆すようなクレームを
ぜひとも どしどし 私宛に送っていただきたい!!!
何かが 現れる事を
期待して待っています!!!!!