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2012/07/15

夏に 私が今住んでいる 愛媛県 内子町の内子座で

「父と暮せば」井上ひさし脚本作品の朗読上演があります

2012.8.3 夜19時開演

主催 森文醸造
 

私にとって

実際の父は ハーモニカ・ギター・皿回し芸の 漫談家 源氏太郎であるけれども

 

芸の上では 父的に お慕いしている方々が多くいらして

その中の ひとりが

同じ曲独楽を仕事にしている T師でありました 

7月に入ってすぐ

そのT師が亡くなってしまったのです

曲独楽に一生賭けて 私が東京を出たときに 別れたきりの

仲間

友達

お世話になっている皆さんの事を考えていると

ここ最近の豪雨を心配した父 源氏太郎から電話があり

T師との昔話をしました

うちの父ちゃんは

1929年 昭和ヒトケタ 4年生まれですから

83歳です

今も 浅草東洋館に 現役で出演中です 

2012.7.20スペシャル寄席では15時10分上がりです お近くの方はどうぞ

この日のトリは 林家ペー先生です

 

T師は享年71歳でした

若いなあ

 

異流派の交流が気軽にされていた事を前回お話させていただきましたが

私が太神楽曲芸協会に所属していた頃

T師は よく面倒を見てくださいました

 

父がちょっと真面目すぎるところがありましたので

それをからかって 曲芸の各師匠方は

遊びのネタにしていた事

そういう父の若い頃の 面白い話を

T師はしてくださいました

 

母と結婚する以前の話ですから

私に想像できるはずも無いわけです…

 

そんな お茶目なT師

亡くなるのが早いなあと思います

楽屋で ブスッとしていても

表に出ると

「ここに飲みに行くとこれが美味しい」なんて話を

楽しくすることがお好きでした

 

体調を崩された時

私が代わって 文化庁の曲独楽講師を拝命し

未熟ながらも 研修生が卒業する手伝いが出来ましたし

とかく

ご縁が深かったのだなと

思っています

 

つくづく こだわりを持たずに 前へ進むことが

後に後悔を残さず 反省のみで済むことも教えていただいた気がしています

 

一緒の舞台に立てて 本当に良かった

02:28 | miya | 曲独楽師 交流の華 T師の思い出 はコメントを受け付けていません
2012/07/08

 

曲独楽 kyoku-goma 三増巳也 うちこ 町並み保存地区 えひめ

職人さんとのお付き合いは結構長くなりました…

戦後日本のデパートで職人の実演販売を定着させた方は 誰あろう 江戸曲独楽の作者 広井政昭さんであるけども

 

なにしろ 最近は ごく当たり前になってしまって

テレビショッピングの会社が テレビの番組スポンサーになったりすると

もはや 日常に「物」が 食い込んでいて

日本は

外国に出るとよくわかる

飽和

買ってほしい

これが 一日の電波の大半を占めているみたいで

それだけで 私には重たい

 

ずっと昔

私が曲独楽を 紋也師に稽古をつけていただいていた時代

今 思い出してみると

いろいろな気配の変化を感じるのです

師匠のお宅がある地域は

飯田橋と神楽坂の中ほどです

 高い丘陵のような地形の上部に

東京大空襲で焼けてしまった建物が大半ですが

ほんの一角

木造町家がポツリと残っていたり

 

新宿区の中でも

緑を愛する大きな邸宅があるせいでしょうか

落ち着く町でした

 

稽古に通う 地下鉄のばっちい神楽坂駅を出て歩く道から

カラカラの新潮社本社ビルあたりを

いかに急いで通り過ぎるかで

身の入り方そのものも違ってきましたし

 

歩く道が逆に 今のように きれいに整備された駅から出て

おしゃれなカフェや

アンティーク店を横に見ながら歩く

 

そういう

必ず誰かの手が入った場所を望む道のりであったならきっと

 

曲独楽の職人さんの

製作の

現場の事を考える機会は もっと遅くなって

後輩の曲独楽の材料調達も

間に合わなかったかもしれない

 

絶対

師匠のおっしゃるとおりに

芸以外の余計なことはしない

そういう

古典の芸を一直線に

させていただいてたでしょう

 

でも 表通りを1本入った路地には

「利休」映画の勅使河原監督のお宅

裏千家の事務所

たまに 散歩中の古今亭志ん朝師や富士真奈美さんにも

お会いするような地域で 普段は静かな雰囲気

この物静かな上品さは

前へ押し出すような今どきのやり方とは

随分違っていた記憶があります

でも 私だけなのかもしれません

 

私にとって 特別な場所がもうひとつあったからです

ちょっと歩くと

三島由紀夫さんが自決した

自衛隊 市ヶ谷駐屯地に出るのです

ここは ほとんど 閉鎖状態でした

(でも近代能楽集 卒塔婆小町と綾の鼓のファンの私は毎回のように 見に来ました)

ここからの眺めは

市ヶ谷駅を 外堀をはさんで向かい合い

殺伐として

何ともいえない風景です

 

 よく紋也師は この外堀にある 釣堀に来ていました

目の前に市ヶ谷駅があります

釣りが大好きだった師匠の 憩いの場所でした

 
紋也師が大きな病気 を克服して芸に復帰してすぐ
私は入門を許して頂きましたから
本当に 喜んでくださいました
 
当時 曲独楽を製作する方は 広井先生と お弟子さんのI先生くらいでしたので
その曲独楽の貴重な事たるや 今や想像が付きにくい程です
 
博多の曲独楽の方は ご自分で製作されて芸に臨まれますが
 
江戸の曲独楽師は 戦後自分で作る人といえば
 
やなぎ女楽師くらいではなかったでしょうか
 
女楽師は ご自分の曲独楽を工夫して 釘打ちしたり 楽しそうに使われていましたが
 
私が後見で舞台に立つ頃には I先生に曲独楽作りを依頼されるようになり
 
私と同じく I先生の曲独楽を 使う事になったのでした
 
よくI先生と一緒に出来たばかりの曲独楽を持って
 
浅草演芸ホールの楽屋に訪ねて行きました
 
そういうとき決まって女楽師が連れて行ってくれるのが
 
すぐ近くの蕎麦屋さんで
 
そこの看板娘が ものすごく美人で びっくりしましたが
 
女楽師はじめ芸人が多く通う理由が判明致しました
 
面白いものですが
 
紋也師も美人を発見するのが名人でしたので
 
曲独楽師というのは 目がいいもんだなと 感心しました
 
 
曲独楽師の 付き合い方というのも 実は そんなに「異流派だから」とか
 
肩肘張った様子は無く
 
 
私が 曲独楽で当時 寄席に空がなかったので
 
所属協会を 太神楽曲芸協会の やなぎ女楽会長にお願いしたい旨を
 
紋也師に聞いた時は
 
「僕が挨拶に行ってやるよ」
 
という感じで
 
東京の寄席の曲独楽師が
 
女楽師 小志ん師 とし松師 紋也師と
 
その太神楽曲芸協会の理事会に一同に集まったという
 
私にとって夢のような風景でした
 
 
ですから 特に 博多の曲独楽の方とも
 
友好的なお付き合いな訳で
 
今でもそれは 続いております
 
 
もし
 
曲独楽の 広範囲な調べものなど 発生した際には
 
その頃からの 芸つながりを活かして
 
私も あちこちの曲独楽の方と より強い友好関係を結びたいと考えています
 
何しろ
 
各派ケンカに似た険悪な雰囲気を持ってしまったら
 
曲独楽製作の先生に 大変な心配、ご不快、負担をかけてしまうので
 
ずっと この良好な関係は 続けて行きたいと バックアップを普段から重ねております
 
曲独楽の情報公開というか
 
芸をする側の考え方や
 
曲独楽を製作する先生方の苦労を代弁する場所
 
歴史の検証を通じて 文化的に どのような役割があるのか
 
真剣にとらえて置こうと
 
なんか やたら固いですが
 
そういう考えでもって 曲独楽製作の先生を 盛り立ててもいかなくちゃいけないと
 
…お役目が果たせれば良いのですが…(^w^;)思っているのです
 
03:56 | miya | 曲独楽 職人 応援隊 巳也 はコメントを受け付けていません
2012/07/03
曲独楽三増 巳也 レポート

曲独楽 江戸から明治 三増 巳也 レポート

いきなり 左朴全さんだ

そうです 曲独楽は

 
遊び 占い 宗教 見世物から
 
芸へと 進んできました
 
 
この 江戸から現代まで
 
日本の市民の
 
にぎわいの場所で
 
他の不特定多数の人と
 
一緒になって
 
楽しむという文化が
 
何よりも
 
海外へ自慢できる
 
平和であり
 
和む事を好む 人の多さの証明でもあるのではないでしょうか
 
 
ところで 歌舞伎も文楽も 曲独楽も 一般市民の娯楽で
 
 
今まで 残っておりますが
 
 
その 成立のことは 今まで 偉い方の説を拝読してまいりましたが
こと この曲独楽に至っては
 
江戸から明治大正昭和の
 
変化のありようの事が
 
今ひとつ
 
私には 納得がいかないということですが
 
 
ナゼ
 
曲独楽は
 
大人数の興行形式を 残せなかったのか
 
ここらで
巳也の勢いのいい加減で
 
説を 書きとめたいと考えました
 
が!!!
 
曲独楽師としては
 
とても つらい話も 含んでいます
 
 
 
見世物研究の先生方の 色んな意見から
 
西欧の サーカスと曲馬団 マジックなど 興行が盛んに行われた明治中期に
 
ほとんど 曲独楽の平均20人程度だと 思われる 出演者をかかえた
大規模な曲独楽興行形式は 衰退します
 
 
原因として
 
 
  • 曲独楽そのものに 新しさを入れられなかった事
 
西欧の技術や美の演出を 巧みに取り入れていく マジシャン達に比べ曲独楽は
渡欧米するが 帰ってきて 工夫をしても 興行的には 失敗してしまうのです…
衣裳を 着物から 洋服に変えたり
海外で評判が高かった 水芸だけを 強調したりしましたが 無理でした
 
悲しい~
 
(ここで 渡欧し 大成功をした日本の 芸人の一例として
女性マジシャンの 松旭斎天勝の話を ↓ ご参照いただければ 嬉しいです)
 
 
ええ?
話じゃ つまらないですか~?
それじゃあ 写真を↓
美人でありますので どうぞ↓ いっぺんご覧ください
 
 
どうです
 
美人には 勝てないのですね~
 
  • 資金不足 技術面の衰退
そして 人々の興味であった 最先端の たとえば電気を使った演出は
 
資金が保証されている 政府側の 勧業博覧会などに 技術が移っていき
芸人側が使えるものが 技術的に 低いものに限定化されます
 
誰だって 報酬の良いもの 話題になる事を優先するから
世の流れは 芸で 止めたり 変えたり 出来るはずも無く
結局 観客の 「新しいものが見たい」気持ちに 応えられなかったから
後継者が途絶える事につながったのではないでしょうか
 
 「何を一番の芸として見せるのか」が 完成する前に
各曲独楽師の生まれつつあった流派は 衰退して消滅
主に 今伝わる 形として 独楽つぶり として 平安期に 僧が布教のために
曲芸を披露して 人を集めていた記述があり それが最初の記録ですが
具体的には まったく描写されていませんので
前述の 博多の初太郎が登場する 元禄時代が 最も 一般市民が楽しんだ
曲独楽と言えると考えて そこを出発点にしますと
 
江戸時代の 曲独楽師は ほとんど 博多や松井(※で説明してます)流であることを
 宣伝文句として使っていて
江戸や名古屋 大阪 京都 山口 大分 などの興行記録からも
他の曲独楽師は 登場しません
 
曲独楽師ではなく 富山の薬の行商人が
幕府公認で全国を 歩いていますが
その時に 庄屋や大きな農家などに来て
必ず 曲独楽・長崎からの輪鼓(りゅうご~鼓の形をしたディアボロの原型で くびれ部分に紐を一回転させて投げた勢いで演じた)を 使っていたそうですので
これは 博多とは ちょっと違うみたいです
…富山の薬売りの歴史は 父 源氏太郎の出身地でもあるので
もう少し 調べたいのですが あまり詳しい資料が有りません…
しかし ※松井源水という人が 江戸 浅草田原町に居を構えていて
曲独楽の腕前の良さや 人望で 大岡越前に 大道芸と十三香具師を
取りまとめる役目を 与えられ それからは
松井流という 流派を こぞって曲独楽師が 名乗るようになります
(直系ではないけれど松井源水は十八代目まで昭和30年頃までかな…いました)
 
江戸中後期の 曲独楽の大きな興行形式には
必ず 添え書きとして
 
松井流
 
が 書き入れられていますので
正式な曲独楽師であることの 証として この名前を使ったということですね
 
さてさて
 
 
 
博多(筑紫・のちに筑前)の流派 や
越中富山の松井源水が
 
曲独楽師の名流として お墨付きだという事を
私なりに まとめて お伝えしました
 
それに加えて 江戸時代の曲独楽が衰退した もうひとつの理由があります
 

女性の「見られ方」が 変わったことです

 
 
女性の文化も 明治中頃に
大変化をした事が 化粧の文化史から わかります
西欧に行った 国産第一号の女優
 
貞奴が
 
欧州で出会ったレディに 白粉化粧を紹介されて
帰国した時には 今時にも通じる ドレスと化粧で
美しさと上品さから 男女とも 憧れたという女優姿
 
明治の近代化を 政府が慌てて宣伝し
お歯黒 眉剃りやめましょうとか
いくら 言っても
市民は日常の姿を変えなかったのに
 
貞奴や
鹿鳴館で踊る皇族華族婦人のドレスや化粧
 
そして
銀座松屋や三越の 化粧品ポスターが
西欧の美容クリームや白粉を売り始めて
 
普通のおばちゃんも
 
町のおねえさんも
 
島田や丸髷をほどいて
 
どんどん身軽な動きやすい姿へと 変わっていったのでした
 
日露戦争 日清戦争 これが実は相当 影響しています
活動的に 動ける事が 女性を 戦力として見る国からも 歓迎された様子です
 
こちら ↓ わかりやすいです
 
女性の見られ方については また 後日 生人形の話などしながらね…

 

てなことで
西欧から一気に芸人として活動的な女性たちが来たため
オニイサンの色気で押し通してきた曲独楽は大打撃
 
曲独楽師の男性中心の 興行には ほとんど 「女性美」が なかったのも悲しいなあ
言ってくれれば 出たのに…(^w^)/ヒュ~ヒュ~
 
唯一の女流曲独楽師として
江戸末期から明治に
博多 小蝶が登場しますが
これも ごくわずかな間でした
 
あっという間に 観客を奪われてしまい
興行主が 地方公演のみに 限定したことで
曲独楽の都市部での居場所が 寄席の他に
大道で 無許可のあやしい虫歯の治療薬を売ったりする 大道芸に身を落とし
(のちに保健衛生法 道路交通法などで100年間 取り締まられまくります)
芸として 曲独楽単独に公演する大規模な方式は無くなったのでした
 
 
このように
 
話題性とスピード感の無さが 祟って
 
曲独楽の大規模興行は
 
明治中頃に 無くなった といえると考えます
 
日本の大衆文化が ほとんど この時期に
 
西欧式に入れ替わっていくのを また違う機会にご紹介しますね
 
 
 
あああ…
 
 
書いていて
 
こんなに悲しくなる話は ありません
 ・・(-O-・)・・・シクシク
 
でもね
 
 
ココロの美を 失わなければ
 
人の心からは 無くならないのですね
 
 
寄席という場に
 
新しい 表現の場所を 結集すること
 
当時の曲独楽の 頑張った様子がうかがえます
初代の 三増流である(三升屋 紋弥)は 電気を身体に仕掛けて
踊りながら 曲独楽をご覧に入れていたと 聞いています
 
初代は 着物に 紋を入れるのを 仕事にしていた人で いわば セミプロから
専業曲独楽師になった人です
 
洒落に
 
紋 屋 だから
 
もんや と名乗ったようです
 
 
そんなこんなで 市民の娯楽は
 
 「自分で表現する」楽しみも 多かった…
 
 
三味線 躍り 謡など 武家の文化の一般化や 農村部の祭などからの
交流による 発達も 都市と 地方の 人の交流が盛んになるに連れて
変化が早くなったと 思われます 
 
専業の芸人はというと
 
寄席での 名人登場による
講談 落語 浪曲 の 大流行時代へと 進んでいきます
 
数寄者の文化も 三増流初代のように 寄席に 取り込まれたりして
 
大衆文化は
 
こうやって進んできたといえると
 
私は ざっくり 考えます
 
そして 後へ 残したり 伝えたり
江戸の曲独楽が衰退した現実と
今置かれている 曲独楽の製作者不足のこと
 
何の為に 曲独楽を残そうと考えるのか
私が 曲独楽に一生を賭ける想いとは どんなことなのか…
 
などなど
 
こうやって ありがたい事に
JunkStageのライターの皆さんと 同居 (@―@?)して 書いていくと
 
私自身 いまひとつ 腹の底から納得いかなかった 細かい事色々が
 
気持ちの中から あぶりだされて 言葉として残り
 
今後の活動に どのように 生かしていけるのかを
 
意識しながら 曲独楽と向かい合う事が出来るのです
 
読んでいただいて ありがとうございました
 
今関わっている事にも また 頑張れると思います
 
 
この辺で
おあとが よろしいようで… 
12:50 | miya | 曲独楽 おもしろ帖3 どうしてどうして ゲバゲバパパヤー はコメントを受け付けていません
2012/06/29

曲独楽 演技 弓張り 巳也トザイ トォオオザァアアイ

今回は 曲独楽を ご覧頂く時の

舞台での 構えというか

道具仕立てを

解説してみようという

 

またまた 生意気盛りで ございます

 

もうじき 人生五十年にさしかかろうという私ですから

まあ

20代ならいざ知らず

最近はもう

これでもかという状態で

書きなぐっているわけでありまして

 

「巳也が嫌いになっても 曲独楽は嫌いにならないでください!!!」

(以前AKB48総選挙でトップ当選した時に

あっちゃんが言ってたみたいに言ってみました)…わかるかっつ~の

 

ええ さて

今回は

曲独楽を演じるときの 道具との考え方について

錦絵を見た話と 自分の曲独楽のあり方を

★クルクル★からめて ご説明していきます★

 

絵でご紹介しているように

舞台上では 机を置き

その上に 曲独楽 コマを配置していますが

その昔は こんなわけにはいきませんでした

 

いちばん 古い種類の文献とか

一生懸命見てみると

曲芸と一緒に コマを演じていた(かもしれない)

説明は たくさん出てきます

でも

肝心の 情景描写が まったくありません

 

繰り返し書いておりますが またまた説明しますと

曲独楽というひとつの型として

観る側演じる側ともに 成り立った一番最初が

京都 四条河原での

博多の曲独楽師 初太郎(他にも異名がありますが ここでは統一)の

公演を 初演と考えるのが 研究者皆さんの意見です

 

当時の絵も ありませんので

これまた 現場がわからないのですが

 

一番年代が近そうな

市中屏風絵とか 襖絵に 描かれている芸人らしき

演技中の風景を見渡してみますが

どうやら

道具を描きこむ所まで 絵師の神経がいっていないという事で

もっぱら 地面に 箱が置いてある程度です

 

その大きさについても

 

当時 遠近法が確立していないので

今時の大きさ推測は 役に立ちません

 

でも 膝くらいの 箱が 置いてあることに 気がつきました

 

まあ この程度です

 

無理も有りません

当時はまだ 曲独楽師などには小屋を仕立てて公演をする事が許されておらず

この

博多の 曲独楽師の 大評判が

町の人の動員数数万人に及んだという状態を生んで初めて

町の取り締まり上

そして 興行したら儲かるなあという欲

それが両方整ったので

曲独楽も 歌舞伎と並んで 小屋での興行が叶ったわけです

 

※ ここまで 独断で言い切っていますが 合ってるかどうか 私と一緒に真剣に考えてくれる人は誰か居ませんか~?紋也師が亡くなってから、研究者の方と最近接点が無くて寂しいです…。

 

そして

江戸時代後半になり

文化文政に

曲独楽は小屋がけの興行を各地で行い

名人といわれる各芸人を生み

道具も増えて

楽しみ方も

曲独楽だけではなく

曲独楽という題名で興行をするのが

縁起をかつぐ関係もあると思うのですが

その大当たりをとった型を

明治時代まで 続けていく事になるのです

 

曲独楽 コマの曲芸として

興行されていたであろう演目といえば

手妻(マジック・和妻とも、手品とも言い、中でも水芸が有名)

 

(水芸については コマに火をつけて回転させる芸をするのが始まったと同じく

登場したと思われるのですが これは もう少し調べてみたい事です

研究論文で現在の「水芸」の第一人者である

藤山新太郎先生と一緒に書かれているものを

もう少し 勉強してから 私もしっかり把握しておきたい事です)

水芸については ここをご覧下さい 藤山新太郎先生のサイト↓

http://www.tokyoillusion.co.jp/index.html

身体能力の高さを見せる見世物的な芸(バランス芸・つまり玉乗り、綱渡り、竹乗りなど)

 太神楽曲芸(ジャグリング・マス、桶、卵や道具を使って高く積んだり、投げる芸)

力自慢の芸(特に、足芸が派手だったようで、大きなコマや、人、襖を回したりした)

 

それと舞台小道具に関連する事として

特に書いておきたいのは

 

 

見世物小屋としての

作り物の話です

 

和紙という丈夫な素材

竹という強靭なもの

そして 鯨の髭など

知識の楽しい活用としては

現代でもお手本になる 物作りの大事典みたいなものですが

 

明治に近い頃には

平賀源内の技術とか もうすでに 電気仕掛けも登場してきますから

幻燈仕掛けも 結構やっていたのではないかと思います

(これも もう少ししっかり考えようと思います(^^;))

 

それから熊本に 生人形(いきにんぎょう)の職人さん松本喜三郎がいて

たぶん 当時はこういう表現も

曲独楽の中にあったのではないかと

私は考えます

松本喜三郎など生人形については

こちらの↓熊本市近代美術館の記載が詳しいです

http://www.camk.or.jp/event/exhibition/ikiningyou/index.html

 

 

西欧との交流の中で

彫刻とか 遠近法や 宗教モラル 医術の違いなど

そういうものがあって 西欧の人が表現できなかった世界を

庭師は庭に

生人形師は 人形に

芸人は 芸に

 

日本の職人・芸人の技術が やすやすと日常に発揮しているのを見た西欧の人は

どう思ったのでしょうか

 

アメリカの自称興行師は

そういう純粋な芸人の一行を騙して

先に手数料を半額もらい

アメリカ N.Yで数回興行し

その興行収入とともに

ドロン

 

今も昔も

ある程度は 知識を持っておかないと いけないという好例ですが

 

さて

その明治までの 曲独楽の公演では

道端で演技をする 大道芸人と一線を画し

 

様々な 道具を 曲独楽の友として 登場させていきます

 

今に続く 曲独楽の舞台で使う道具

これは

お客さんの数と

見ていただく状態に応じて 軽量化が進んでいきます

明治から大正になると

もう 日常に西欧の感覚が入り込んでいて

髪を結う人も珍しくなっていったくらいですから

寄席にも

その影響が出ていきます

 

興行形式が 曲独楽の江戸の興行で成り立っていたのは

明治の10数年頃までです

 

西欧のサーカス

そして

アメリカやドイツの金髪のダンサーや曲馬に乗る 大胆な衣裳の女性を見に

大勢の人が行くんですから

 

すっかり

曲独楽や日本の芸も

寄席に落ち着いて

芸も洒落の効いた舞踊の動きと

奇抜な電気仕掛けを利用したりして

工夫をしていく時代に突入したのでした

その小道具を 私たちも

受け継いでいる事になりますが…

 

さて 今回も この辺で

お後が よろしいようで…

巳也曲独楽

 

 

02:53 | miya | 曲独楽 コマの歴史 おもしろ帖 2 はコメントを受け付けていません
2012/06/28

内子町写真こま曲独楽巳也1

暮らしが

なかったら

町並みは 中身が無いと思うのですが

皆さんは いかがですか

 

東京には たてもの園という施設があって

私も 出来た当初

イベントで 曲独楽をご覧に入れた 場所なのですが

 

普段は 誰も いなくて

中に 展示用として 農家や 大きな庄屋の 建物が立ち並んでいます

 

建設当時は 本当に その施設の必要性を疑われるほど

活用されていませんでしたし

建築物も 「いかにも飾り物」という 感じの

下手すると テーマパークや 撮影所でも ホコリっぽいイメージだけの家が

並んでいるだけの場所として あったなあと 思い出すのです

 

今はさすがに 年間集客目標とか 学習の目的で研修利用など

きちんと管理がされていると聞いています

 

家だけ保存するという事は

たずさわる人の心も関わりようが無い

ただのモノである

 

そういうことなのです

 

内子町の八日市・護国の指定地区には 重要文化財指定になった江戸から明治の

建物が3軒あります

 

今現在 住んでいらっしゃるので

すごい事だなあと 私は思います

しかも  

内子町という地域は とても広いのですが

その中心部であり

 

かつて 明治時代には ヨーロッパとアメリカへの

貿易で栄えたといいますから

 

こんなに静かで 小さな山並みが続く地域が

どのような華やかさを

当時持っていたのかは

この 建物と その持ち主の方と 地域の方のお話で

見 聞き する事ができるのです

 

ここに今住んでおられる人たちは

当時から住み続けている方も多いので

興味深い地元の話を知る事が出来るのも魅力です

 

最近の地域の活力としては

 

他の地域から

自分に合った仕事をしたくて

移住している人も居て

とてもきびしいけれど

力強い人が居ます

 

実を言うと

 

そういう体験こそ

もっと交流の中心にあってもらいたいと

私は思うのですが

 

観光の場面からは まったく知る事が出来ないのが

とても残念です

 

 

 しかし

 

この町並み保存地区の ほぼ真ん中あたりにいる私は

希望も持っています

 

こういう観光の歩いて ただ流れていく人の姿も

 

ひとりひとりが持つ 心で

これからは意味のある 本来の町並みとして

その魅力を

知っていただければ こんなに面白い事はないと思うのです

 

今年も 半年が過ぎて行きましたが

これからの毎日

私たちの子供にも 自慢が出来る地域を

ぜひとも

盛り立てて頑張ってみたいと 思っています

05:17 | miya | 愛媛県の内子町 八日市・護国町並み保存地区 はコメントを受け付けていません
2012/06/20

おもしろ 曲独楽1

300年とも 800年とも いろいろな考え方で 曲独楽 コマの曲芸の歴史は語れますが

盛んであった 18世紀から19世紀の

集客ツールといえば

 

この錦絵が 最も多く使われた手段だといいます

 

お客さんである 女性を多く集める事で

男性も 美しい女子目当てで大勢集まるわけですから

そりゃあ 気合でもって

チラシやポスターにあたる この錦絵を製作するという事で

 

絵師も 人気の 国芳が

曲独楽師を 一番たくさん描いている様子です

 

最近 また 資料が整理整頓されているので

日進月歩 調べ物も 要する時間が短くなって有り難い事です

 

梅雨時期の 泥落とし

洗濯物や息子らの 運動靴も

乾かすタイミングが計りやすくて感謝してます

 

さて 今回から その整理整頓の恩恵を 受けて

曲独楽の資料の解説なんぞ

生意気この上なく 開始しました

 

初回は この絵からです

 

モデルは 竹澤藤次 たけざわ とうじ

この人は ものすごく評判が高かった曲独楽師です

 

ここ ボヤキ

松井源水という 富山の薬売りから発生した系列の曲独楽師が

他の商品を 販売する本業の 客寄せとしての大道芸ではなく

舞台の芸人として 磨かれていく流れが おそらくは あるのですが

まだ あまり いつからそうなったのか 記録が何しろないもんですから

錦絵が多く出回ってくる

この頃の資料しか残っていないので

 

松井源水が 大岡越前とタッグを組む以前の活動を

知ってる方がいたら 教えてほしいです

 

豆知識

さて この竹澤藤次の芸ですが

これは 長煙管を使っています

煙管といえば 現代での悪者に仲間入りしつつある

タバコの友達です

しかし ちょっと前には アヘンを吸引するのにも 使われていました

洒落人が 長い煙管を競って作った遊びも

江戸にはあったのですが

このアヘン煙管は 危ない方の遊びです

曲独楽には もちろん 安全な煙管を使っていますので

安心して下さい

 

アヘン、麻、これはモルヒネを含んだ毒にも薬にもなるものですけれど、

 

文化が違う国を 武力以外で制圧する時の方法として

 

子供の洗脳

宗教

嗜好品に常習性のあるものを ばらまく

 

のような事がありました

 

あと お金に当たる 価値を 粉々にして 社会を混乱させるのも よく使われる手です

アヘンも その手段に使われた 怖い 歴史があるので

それを思わせる 長煙管であります

 

ところで

 

諸外国が 他国の脅威に始終神経を働かせて行動しているのに

日本は 江戸時代も安定していた頃には

豊かになった町民が 旅をして回ったり

寺子屋で 読むことを覚えて

女性でも 小間物やが持ち込む黄表紙の色っぽい話や

連載マンガの原型本を 読めるようになり

 

三味線や琴を習ったり

芝居に凝ったりして

それぞれが自分の好みで 身の回りを楽しむ世が完成していって

お金をだしてもいいから

珍しいもの 人と話す時の 楽しい話題を探して

いわば オタク文化の元の気風が 江戸市中には あふれていったのでした

江戸時代というのは 四方を海に囲まれた日本の

楽園の実体化

でもあったかなと ちょっと 考えました

 

そういう中での 曲独楽の舞台化でありますから

そりゃ もう いろんな要素を入れ込んで 芸を作っていきます

 

町の話題を芝居にしてみたり

作り物、という楽しみもその中に入ってきます

藤つるや 竹で編んで骨組みを 形にして

まわりに紙を貼っていき

大型の舞台効果も 製作していた様子です

もともと

提灯や傘を 竹と紙で作ってきたのですから

各村や町単位に 必ず居なくてはならない種類の手わざですので

腕のいい人が 専業化していったのは

容易に想像できます

竹 紙 木 着物 漆

こういう 素材が

全国から 集まってこそ

この曲独楽の公演も出来るのでありました

 

宅急便とか 航空便があるなら

遠い所の品が 目の前にあっても おや

ぐらいで済むでしょうが

 

どうにも すごい話です

 

日本の 技術のすさまじさを 今に残すって大事だぞと

本当に思います

 

ところで 曲独楽のこの絵の芸は

煙管の棒の部分で

回転する独楽を操作している芸です

いくつか 煙管の形状を利用して

バリエーションがあります

やっていても 動きがその度に 微妙に違うから

発見もあって本当に面白い芸です

 

私たち三増流の場合 投げてコマを回します

これは 集客数の増加により

曲独楽師も道具を替えて対応して

早い 上手い を実現してきた形のひとつですので

 

江戸のお座敷芸のような

お客さんが膝同士温めあう場面では この道具は使いません

ご要望により 特別にすることも可能だけれど

危険な芸をして物が壊れても

保険がおりませんので

やめてくださいね

 

この芸の準備として

3Mの麻縄を自分用に乾燥した麻のたばから曲独楽に合わせて作りますが

 

正月の神棚によくある 縄の飾りみたいに

よって作っていきます

 

自慢させて

これが 実に美しいので

紋也師匠に習ってからというもの

愛媛の伊予ちょんがけ名人の右紋さんにも

更に素早く出来る作り方を教えていただいたりして

DIYで手に入る種類のロープとは比べようがありません

 

てな具合に 投げ独楽を演じる時に

思い入れをつい 舞台上で つぶやいてしまう

このあいだは 気が付いたらこの話だけで

10分話してしまった…(^-^;)

自慢にならない…

 

ところで

最近は投げる曲独楽を 趣味で製作者さんから購入した方が

紐が無いと 嘆いているのを聞いた事があります

 

どんな紐でも 投げることは出来るんですが

 

曲独楽に 慣れているかどうかが問題なわけで

 

怖がって投げたら 練習になりませんし

とりあえず言える事は

 

貴重な曲独楽を 投げる前に

 

まず 他のものを投げて練習することを薦めます…

 

こういう風に

自分に合っているやり方という事が実は意外と気がつかない…

 

オカメハチモク

 

身近な人の 見たままの 一言を 参考にするのを また 薦めます

 

日本の趣味人というのは

 

本当に文化の高い素晴らしい事のあらわれなのだから

 

決して 恥ずかしがらずに 交流を 楽しみましょう

 

もし この芸を 投げる独楽で 楽しみたいのでしたら

得意な趣味とかスポーツで体得している動きを

一度取り入れてお試し下さい

 

今回は こんなところで

お後がよろしいようで

曲独楽 要留め 巳也画

05:19 | miya | 曲独楽 コマの歴史 おもしろ帖1 はコメントを受け付けていません
2012/06/20

芸名というのは、由来もいろいろですが、

歌舞伎の市川団十郎人気にあやかって、家紋である三重の四角形、

三つのマスを重ねた紋ですが、これを名前にした「三枡・三増」、

それから洒落で名乗る名前、紋所を着物に刺繍したり、

染める仕事があった時代の「紋入れ」の家業からとって、「紋弥」など。

師匠の家に入門の挨拶に行った時に食べていたおかずから命名するとか、

容姿から名づけた「源氏」、なかには「擬音・擬態語」でついている人もいます。

 

さてこの秋に、曲独楽の世界でも、150年振りに名前が復活する事が、

先ごろ新聞発表になりました。

 

博多小蝶という名前です。

 

この名前は、途絶えていましたが、ゆかりの地である博多の曲独楽、

筑紫珠楽さんの家が、代々の名である珠楽を次代に襲名することに伴い、

当代珠楽さんが博多小蝶と、改名することが決まりました。

 

女性の芸人というのは、なかなか昔から評判になった人が少なくて、

第一、結婚してから継続して現役でいるという人が、あまりいないのも、

名前が記録に残りにくかった原因のようです。

 

平和な状態が続いてこそ、このように歴史がある名跡を

復活させる事も可能になるわけですから、

現在の曲独楽の状況も、長い目で見ていくと、今がもしかしたら一番、

恵まれているのかもしれません。

 

全国で公演する芸というのは、お呼びいただく地域の方の、

ご縁がその栄養源となっているのであり、

地域での祭りや、結い、無尽、講などが元々盛んな場所に伺うので、

訪れる場所ごとに、驚きの出会いや発見があるものです。

 

距離が離れているのに、同じ節回しの言葉を使っている、などは

毎回のように経験する楽しみですが、

港の漁業や山の木地師の文化、

遍路や戦国の世での人の移動の名残りだったりして、

生き抜くことに全力を尽くしてきた日本の人の情景が見えることがあります。

 

博多小蝶は、江戸末期から明治にかけて活躍し、

博多はもちろん全国規模での公演をし、

各公演の記録も多く残る、とても貴重な女性の曲独楽芸人です。

芸一途に、結婚する事も(多分)無かったので、

後継がいなかったのですが、

同じ博多の珠楽さんが、この名前を復活させるのが、

本当に私は嬉しくて仕方が有りません。

 

博多の曲独楽は、独楽の製作も独自に続けているので、

なかなか全国公演には、大変だと思いますが、

江戸由来の裃姿での曲独楽、

今年の11月に襲名披露があるようですので、

興味を持っていただけると嬉しい限りです。

三増巳也曲独楽布画1

 

08:28 | miya | 改名襲名 はコメントを受け付けていません
2012/06/09

すっかり ご無沙汰してしまいましたが

ホタルも まだなので まあ 季節的には 例年よりも

2週間程度 愛媛県のあたりは 遅れておりますから

原稿が多少 遅くなるって事も

あるんじゃないのかなと

 

 

ええと、

気になっていた事が

最近どうやら また

判明してきたようなのです

 

コマの発祥の地として

1候補のインドネシア地域のことを

様々調べて

裏づけになりそうな

インドネシア関連の情報も頂いて

直接各地の子供の遊びについて

絵を描かれて残そうと運動している作家さんの事も

知る事ができました

 

さあ

そこで

判明した事があるのです

 

その運動をされている作家さんは女性です

そう 女性にしかワカラナイ 感覚的な直感と申しますか

そういうものが 私にもあるとして ピピッとキタのであります

 

コマの遊び

ちょんがけという特殊なコマの遊び方が

インドネシアのある小さな島から

この日本の熊本・愛媛などに伝わった理由として

 

三増巳也的な勝手な結論ですけれども

最初の国交があった当時

じゃがたら 国として 豊臣秀吉が 色々な文物を持ち帰っているのですが

その頃に

女性か子供が もしかして インドネシアから 日本に 来ていたのではないか…

 

あらゆる事を 日常の自分の感覚から 一足飛びに想像するのですが

 

たとえ 国が負けて 戦争に勝った国の文化を受け入れる事になったとしても

文字を操る力がない人が そういう立場にあったとしても

 

母が赤ちゃんを寝かせる時に歌う 子守唄

 

子供同士が遊ぶ わらべ歌

 

そういう歌の詩や 囃しコトバ

方言のようなもの

 

こういうことだけは

統治者さえも

取り上げる事ができなかったのではないか

 

今思う事は

 

謎とされている 子供の遊び唄の語源や 遊び方

 

呪文のように 幼い頃から耳だけで覚える色々な

こどもぶんか

 

これこそ 実は 尊い 民衆の記憶ではないのかなと

 

気になる事が 前に進んだ気がしました

 

ケンケンパーで

石蹴りして 遊んだ 私

インドネシアに 同じ遊びがある事を知って 驚くこのごろです…

01:47 | miya | このぉき なんのき 気になる きぃ はコメントを受け付けていません
2012/05/18

頑固な態度には 頭にくることも多い!!!

独楽の麻着物

けれども

なかなか 責任を持って やりとげるという力強さが

最近欠けているような気がするので

 

自分の事も顧みて

同じだ と納得している

 

気に入っている着物のシミを

どうやらスチームアイロンで取り除く事に成功した

調子に乗っている時でないと なかなかできないが

先日紹介した コマの柄の麻着物…

 

このシミと 今日は格闘する予定でいる

 

ところで

各 社会活動の中で 時として

今まで通りという方を 優先する態度が

 

若い力を削いでしまう事がある

 

自分が10代後半から20代にかけて

歯噛みをしつつ

何とか 女性である事をタテに スルリと 入り込んだ

自分なりのやり方を やり遂げるという自己実現の世界観

 

繰り返すうち

支えてもらう事のありがたさを身にしみて感じる一瞬が訪れる

 

己の事を思い出しても

 

若いときは それでいいと思うから

 

そういう時間の作り方さえ許さないような

余裕のない社会を作りたくは無いと思う

 

着物のシミでさえ

多くの場面をくぐり抜けて今 持ち主の私の目に触れている

自分の誂えの着物のシミは

生まれも育ちも 私自身がよく知っている

 

スチームアイロンで取り去ったシミがついていた着物は

亡き母が 女流落語家の古今亭 菊千代師に

真打昇進祝いに 見立てた色違いの反物で作った

手縫いの着物で

 

私が 着物で出掛ける超初心者として闘った30代を

共に過ごした戦友的存在だ

 

裾のほうだけ 我が家の泥が跳ねてついた事がわかっている

思い切りよく 洗って スチームアイロンで 仕上げる事ができたのも

自分の扱い方を知っているからできる事だ

コマの心棒を 他の人が

私の 見ていないところで曲げてしまった時と同じような事が

この着物の扱いにも言えることで

 

頂き物の着物となると

その持ち主が 様々なキャラクターを持っていたわけで

 

多少知っている方から 頂戴したものならわかるけれど

 

このコマの着物の持ち主は

皆目わからないのだ

 

さて

私が今日出す 結論が

願わくば 最良の結果を招く事が出来るように

 

コマにお願いするのみ…

曲独楽アート

 

09:57 | miya | 私 迷ってます はコメントを受け付けていません
2012/05/17

 上記 インドネシア文化宮 記事から

gasing ガシン

インドネシアの言葉で コマ の事だ

 

昨日は 親戚の織物作家の叔母さん夫婦と

Mさんが 来てくれた

 

私の曲芸用のコマ

曲独楽も いろいろな 柄を 私はリクエストして 製作していただいたから

 

季節を紹介する 手段としても

言葉が通じにくい 異文化交流には 欠かせない

 

使ったのは 33cmほどの とんぼ柄の コマ

 

せっかくだから

 

愛媛に伝わる ちょんがけ コマの話を させていただいた

 

やはり インドネシアでも 事情は同じ

 

経済交流が 始まってからは

急速に 大衆文化は 無くなっていて

ガシン コマも 例外ではない

 

しかしながら

 

コマの道 TOP ROAD という 考え方を

WEB上で 発見して 喜んでいた私

 

きっと この愛媛の ちょんがけコマも

 

その道に乗って 1600年代からずっと 九州を南下 そして 武家やら 経済の移動と共に

 

愛媛に到達したに違いない 

 

歴史の記録を 読んで まだまだ 確認したい事は 山のようにあるけれど

思い切りよく

 

宣言してみたいと考えた

 

ちょんがけ タイプの コマの遊びは

インドネシアで生まれて

愛媛が その終点である

 

この説を 覆すようなクレームを

 

ぜひとも どしどし 私宛に送っていただきたい!!!

何かが 現れる事を

期待して待っています!!!!!

 

 

 

02:30 | miya | Gasing ガシン インドネシアの まわしもの はコメントを受け付けていません

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