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今回は 曲独楽を ご覧頂く時の
舞台での 構えというか
道具仕立てを
解説してみようという
またまた 生意気盛りで ございます
もうじき 人生五十年にさしかかろうという私ですから
まあ
20代ならいざ知らず
最近はもう
これでもかという状態で
書きなぐっているわけでありまして
「巳也が嫌いになっても 曲独楽は嫌いにならないでください!!!」
(以前AKB48総選挙でトップ当選した時に
あっちゃんが言ってたみたいに言ってみました)…わかるかっつ~の
ええ さて
今回は
曲独楽を演じるときの 道具との考え方について
錦絵を見た話と 自分の曲独楽のあり方を
★クルクル★からめて ご説明していきます★
絵でご紹介しているように
舞台上では 机を置き
その上に 曲独楽 コマを配置していますが
その昔は こんなわけにはいきませんでした
いちばん 古い種類の文献とか
一生懸命見てみると
曲芸と一緒に コマを演じていた(かもしれない)
説明は たくさん出てきます
でも
肝心の 情景描写が まったくありません
繰り返し書いておりますが またまた説明しますと
曲独楽というひとつの型として
観る側演じる側ともに 成り立った一番最初が
京都 四条河原での
博多の曲独楽師 初太郎(他にも異名がありますが ここでは統一)の
公演を 初演と考えるのが 研究者皆さんの意見です
当時の絵も ありませんので
これまた 現場がわからないのですが
一番年代が近そうな
市中屏風絵とか 襖絵に 描かれている芸人らしき
演技中の風景を見渡してみますが
どうやら
道具を描きこむ所まで 絵師の神経がいっていないという事で
もっぱら 地面に 箱が置いてある程度です
その大きさについても
当時 遠近法が確立していないので
今時の大きさ推測は 役に立ちません
でも 膝くらいの 箱が 置いてあることに 気がつきました
まあ この程度です
無理も有りません
当時はまだ 曲独楽師などには小屋を仕立てて公演をする事が許されておらず
この
博多の 曲独楽師の 大評判が
町の人の動員数数万人に及んだという状態を生んで初めて
町の取り締まり上
そして 興行したら儲かるなあという欲
それが両方整ったので
曲独楽も 歌舞伎と並んで 小屋での興行が叶ったわけです
※ ここまで 独断で言い切っていますが 合ってるかどうか 私と一緒に真剣に考えてくれる人は誰か居ませんか~?紋也師が亡くなってから、研究者の方と最近接点が無くて寂しいです…。
そして
江戸時代後半になり
文化文政に
曲独楽は小屋がけの興行を各地で行い
名人といわれる各芸人を生み
道具も増えて
楽しみ方も
曲独楽だけではなく
曲独楽という題名で興行をするのが
縁起をかつぐ関係もあると思うのですが
その大当たりをとった型を
明治時代まで 続けていく事になるのです
曲独楽 コマの曲芸として
興行されていたであろう演目といえば
手妻(マジック・和妻とも、手品とも言い、中でも水芸が有名)
(水芸については コマに火をつけて回転させる芸をするのが始まったと同じく
登場したと思われるのですが これは もう少し調べてみたい事です
研究論文で現在の「水芸」の第一人者である
藤山新太郎先生と一緒に書かれているものを
もう少し 勉強してから 私もしっかり把握しておきたい事です)
水芸については ここをご覧下さい 藤山新太郎先生のサイト↓
http://www.tokyoillusion.co.jp/index.html
身体能力の高さを見せる見世物的な芸(バランス芸・つまり玉乗り、綱渡り、竹乗りなど)
太神楽曲芸(ジャグリング・マス、桶、卵や道具を使って高く積んだり、投げる芸)
力自慢の芸(特に、足芸が派手だったようで、大きなコマや、人、襖を回したりした)
それと舞台小道具に関連する事として
特に書いておきたいのは
見世物小屋としての
作り物の話です
和紙という丈夫な素材
竹という強靭なもの
そして 鯨の髭など
知識の楽しい活用としては
現代でもお手本になる 物作りの大事典みたいなものですが
明治に近い頃には
平賀源内の技術とか もうすでに 電気仕掛けも登場してきますから
幻燈仕掛けも 結構やっていたのではないかと思います
(これも もう少ししっかり考えようと思います(^^;))
それから熊本に 生人形(いきにんぎょう)の職人さん松本喜三郎がいて
たぶん 当時はこういう表現も
曲独楽の中にあったのではないかと
私は考えます
松本喜三郎など生人形については
こちらの↓熊本市近代美術館の記載が詳しいです
http://www.camk.or.jp/event/exhibition/ikiningyou/index.html
西欧との交流の中で
彫刻とか 遠近法や 宗教モラル 医術の違いなど
そういうものがあって 西欧の人が表現できなかった世界を
庭師は庭に
生人形師は 人形に
芸人は 芸に
日本の職人・芸人の技術が やすやすと日常に発揮しているのを見た西欧の人は
どう思ったのでしょうか
アメリカの自称興行師は
そういう純粋な芸人の一行を騙して
先に手数料を半額もらい
アメリカ N.Yで数回興行し
その興行収入とともに
ドロン
今も昔も
ある程度は 知識を持っておかないと いけないという好例ですが
さて
その明治までの 曲独楽の公演では
道端で演技をする 大道芸人と一線を画し
様々な 道具を 曲独楽の友として 登場させていきます
今に続く 曲独楽の舞台で使う道具
これは
お客さんの数と
見ていただく状態に応じて 軽量化が進んでいきます
明治から大正になると
もう 日常に西欧の感覚が入り込んでいて
髪を結う人も珍しくなっていったくらいですから
寄席にも
その影響が出ていきます
興行形式が 曲独楽の江戸の興行で成り立っていたのは
明治の10数年頃までです
西欧のサーカス
そして
アメリカやドイツの金髪のダンサーや曲馬に乗る 大胆な衣裳の女性を見に
大勢の人が行くんですから
すっかり
曲独楽や日本の芸も
寄席に落ち着いて
芸も洒落の効いた舞踊の動きと
奇抜な電気仕掛けを利用したりして
工夫をしていく時代に突入したのでした
その小道具を 私たちも
受け継いでいる事になりますが…
さて 今回も この辺で
お後が よろしいようで…