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2012/07/03
曲独楽三増 巳也 レポート

曲独楽 江戸から明治 三増 巳也 レポート

いきなり 左朴全さんだ

そうです 曲独楽は

 
遊び 占い 宗教 見世物から
 
芸へと 進んできました
 
 
この 江戸から現代まで
 
日本の市民の
 
にぎわいの場所で
 
他の不特定多数の人と
 
一緒になって
 
楽しむという文化が
 
何よりも
 
海外へ自慢できる
 
平和であり
 
和む事を好む 人の多さの証明でもあるのではないでしょうか
 
 
ところで 歌舞伎も文楽も 曲独楽も 一般市民の娯楽で
 
 
今まで 残っておりますが
 
 
その 成立のことは 今まで 偉い方の説を拝読してまいりましたが
こと この曲独楽に至っては
 
江戸から明治大正昭和の
 
変化のありようの事が
 
今ひとつ
 
私には 納得がいかないということですが
 
 
ナゼ
 
曲独楽は
 
大人数の興行形式を 残せなかったのか
 
ここらで
巳也の勢いのいい加減で
 
説を 書きとめたいと考えました
 
が!!!
 
曲独楽師としては
 
とても つらい話も 含んでいます
 
 
 
見世物研究の先生方の 色んな意見から
 
西欧の サーカスと曲馬団 マジックなど 興行が盛んに行われた明治中期に
 
ほとんど 曲独楽の平均20人程度だと 思われる 出演者をかかえた
大規模な曲独楽興行形式は 衰退します
 
 
原因として
 
 
  • 曲独楽そのものに 新しさを入れられなかった事
 
西欧の技術や美の演出を 巧みに取り入れていく マジシャン達に比べ曲独楽は
渡欧米するが 帰ってきて 工夫をしても 興行的には 失敗してしまうのです…
衣裳を 着物から 洋服に変えたり
海外で評判が高かった 水芸だけを 強調したりしましたが 無理でした
 
悲しい~
 
(ここで 渡欧し 大成功をした日本の 芸人の一例として
女性マジシャンの 松旭斎天勝の話を ↓ ご参照いただければ 嬉しいです)
 
 
ええ?
話じゃ つまらないですか~?
それじゃあ 写真を↓
美人でありますので どうぞ↓ いっぺんご覧ください
 
 
どうです
 
美人には 勝てないのですね~
 
  • 資金不足 技術面の衰退
そして 人々の興味であった 最先端の たとえば電気を使った演出は
 
資金が保証されている 政府側の 勧業博覧会などに 技術が移っていき
芸人側が使えるものが 技術的に 低いものに限定化されます
 
誰だって 報酬の良いもの 話題になる事を優先するから
世の流れは 芸で 止めたり 変えたり 出来るはずも無く
結局 観客の 「新しいものが見たい」気持ちに 応えられなかったから
後継者が途絶える事につながったのではないでしょうか
 
 「何を一番の芸として見せるのか」が 完成する前に
各曲独楽師の生まれつつあった流派は 衰退して消滅
主に 今伝わる 形として 独楽つぶり として 平安期に 僧が布教のために
曲芸を披露して 人を集めていた記述があり それが最初の記録ですが
具体的には まったく描写されていませんので
前述の 博多の初太郎が登場する 元禄時代が 最も 一般市民が楽しんだ
曲独楽と言えると考えて そこを出発点にしますと
 
江戸時代の 曲独楽師は ほとんど 博多や松井(※で説明してます)流であることを
 宣伝文句として使っていて
江戸や名古屋 大阪 京都 山口 大分 などの興行記録からも
他の曲独楽師は 登場しません
 
曲独楽師ではなく 富山の薬の行商人が
幕府公認で全国を 歩いていますが
その時に 庄屋や大きな農家などに来て
必ず 曲独楽・長崎からの輪鼓(りゅうご~鼓の形をしたディアボロの原型で くびれ部分に紐を一回転させて投げた勢いで演じた)を 使っていたそうですので
これは 博多とは ちょっと違うみたいです
…富山の薬売りの歴史は 父 源氏太郎の出身地でもあるので
もう少し 調べたいのですが あまり詳しい資料が有りません…
しかし ※松井源水という人が 江戸 浅草田原町に居を構えていて
曲独楽の腕前の良さや 人望で 大岡越前に 大道芸と十三香具師を
取りまとめる役目を 与えられ それからは
松井流という 流派を こぞって曲独楽師が 名乗るようになります
(直系ではないけれど松井源水は十八代目まで昭和30年頃までかな…いました)
 
江戸中後期の 曲独楽の大きな興行形式には
必ず 添え書きとして
 
松井流
 
が 書き入れられていますので
正式な曲独楽師であることの 証として この名前を使ったということですね
 
さてさて
 
 
 
博多(筑紫・のちに筑前)の流派 や
越中富山の松井源水が
 
曲独楽師の名流として お墨付きだという事を
私なりに まとめて お伝えしました
 
それに加えて 江戸時代の曲独楽が衰退した もうひとつの理由があります
 

女性の「見られ方」が 変わったことです

 
 
女性の文化も 明治中頃に
大変化をした事が 化粧の文化史から わかります
西欧に行った 国産第一号の女優
 
貞奴が
 
欧州で出会ったレディに 白粉化粧を紹介されて
帰国した時には 今時にも通じる ドレスと化粧で
美しさと上品さから 男女とも 憧れたという女優姿
 
明治の近代化を 政府が慌てて宣伝し
お歯黒 眉剃りやめましょうとか
いくら 言っても
市民は日常の姿を変えなかったのに
 
貞奴や
鹿鳴館で踊る皇族華族婦人のドレスや化粧
 
そして
銀座松屋や三越の 化粧品ポスターが
西欧の美容クリームや白粉を売り始めて
 
普通のおばちゃんも
 
町のおねえさんも
 
島田や丸髷をほどいて
 
どんどん身軽な動きやすい姿へと 変わっていったのでした
 
日露戦争 日清戦争 これが実は相当 影響しています
活動的に 動ける事が 女性を 戦力として見る国からも 歓迎された様子です
 
こちら ↓ わかりやすいです
 
女性の見られ方については また 後日 生人形の話などしながらね…

 

てなことで
西欧から一気に芸人として活動的な女性たちが来たため
オニイサンの色気で押し通してきた曲独楽は大打撃
 
曲独楽師の男性中心の 興行には ほとんど 「女性美」が なかったのも悲しいなあ
言ってくれれば 出たのに…(^w^)/ヒュ~ヒュ~
 
唯一の女流曲独楽師として
江戸末期から明治に
博多 小蝶が登場しますが
これも ごくわずかな間でした
 
あっという間に 観客を奪われてしまい
興行主が 地方公演のみに 限定したことで
曲独楽の都市部での居場所が 寄席の他に
大道で 無許可のあやしい虫歯の治療薬を売ったりする 大道芸に身を落とし
(のちに保健衛生法 道路交通法などで100年間 取り締まられまくります)
芸として 曲独楽単独に公演する大規模な方式は無くなったのでした
 
 
このように
 
話題性とスピード感の無さが 祟って
 
曲独楽の大規模興行は
 
明治中頃に 無くなった といえると考えます
 
日本の大衆文化が ほとんど この時期に
 
西欧式に入れ替わっていくのを また違う機会にご紹介しますね
 
 
 
あああ…
 
 
書いていて
 
こんなに悲しくなる話は ありません
 ・・(-O-・)・・・シクシク
 
でもね
 
 
ココロの美を 失わなければ
 
人の心からは 無くならないのですね
 
 
寄席という場に
 
新しい 表現の場所を 結集すること
 
当時の曲独楽の 頑張った様子がうかがえます
初代の 三増流である(三升屋 紋弥)は 電気を身体に仕掛けて
踊りながら 曲独楽をご覧に入れていたと 聞いています
 
初代は 着物に 紋を入れるのを 仕事にしていた人で いわば セミプロから
専業曲独楽師になった人です
 
洒落に
 
紋 屋 だから
 
もんや と名乗ったようです
 
 
そんなこんなで 市民の娯楽は
 
 「自分で表現する」楽しみも 多かった…
 
 
三味線 躍り 謡など 武家の文化の一般化や 農村部の祭などからの
交流による 発達も 都市と 地方の 人の交流が盛んになるに連れて
変化が早くなったと 思われます 
 
専業の芸人はというと
 
寄席での 名人登場による
講談 落語 浪曲 の 大流行時代へと 進んでいきます
 
数寄者の文化も 三増流初代のように 寄席に 取り込まれたりして
 
大衆文化は
 
こうやって進んできたといえると
 
私は ざっくり 考えます
 
そして 後へ 残したり 伝えたり
江戸の曲独楽が衰退した現実と
今置かれている 曲独楽の製作者不足のこと
 
何の為に 曲独楽を残そうと考えるのか
私が 曲独楽に一生を賭ける想いとは どんなことなのか…
 
などなど
 
こうやって ありがたい事に
JunkStageのライターの皆さんと 同居 (@―@?)して 書いていくと
 
私自身 いまひとつ 腹の底から納得いかなかった 細かい事色々が
 
気持ちの中から あぶりだされて 言葉として残り
 
今後の活動に どのように 生かしていけるのかを
 
意識しながら 曲独楽と向かい合う事が出来るのです
 
読んでいただいて ありがとうございました
 
今関わっている事にも また 頑張れると思います
 
 
この辺で
おあとが よろしいようで… 
2012/07/03 12:50 | miya | No Comments