いろいろ紆余曲折がありつつも、借りることになりました。
以前ご紹介した、瓦屋根のアトリエです。
荷物置き場も兼ねて、「とりあえず」の作業場所として、お借りしました。
トイレがないのが難点で、隣りの友人宅のトイレをお借りしています。
でも実は、なかなか気にいっており、シアワセにお仕事しています。
今日は、宮古島のシンガー・ソングライター、下地勇さんの音を聞きながら。
ちょうど1週間前から入居し、
じぶんでコツコツと清掃して、荷物を自宅から運んで・・・。
電動ドライバー片手に作業してたら、大家さんが
「あんた女なのにそんなことするなんて。せつないなあ。」
と手伝ってくれたりしました。
私、べつに、そういう作業も好きでやってるんですけどね・・・
だから男にモテないのか〜(笑)
先週の金曜日午後。2014年9月5日。
準備ができたので、あるクライアントからの依頼で作る香水のための下作業を始めました。
アトリエの始動です。
ひと作業終えてから、夕方にひとりで乾杯。
おもえば、じぶんのアトリエを持つ事は、ずっとずっと夢でした。
それまで持ったことがなかったので。
多くの方は驚かれます(笑)
いままで「その時」がくるのをじっと待っていました。
幼い頃は、札幌の叔母が持っていたオートクチュール・アトリエ「PEPE & 洋子」に遊びに行くのが楽しみで仕方なかった。
そこは、布の香りと、シャネルの香りに満ちていました。
ほんもののビロードや、シルクシフォンなどの高級布を、リカちゃん人形に巻いて遊んだり・・・。
わざわざシャネルの石鹸で手を洗うために、何回もトイレに行ったりして・・・。
その手触りと香りは、幼少の記憶、いわばわたしの原風景です。
そのイメージがじぶんの中にあったからこそ、
「アトリエを持ちたい」と自分も思えたのだろうと思います。
叔母のことを思い出しながら、感謝しながら、
ビール片手にひとりで静かに、「40歳にしてようやくか」と祝いました。
その時間帯にちょうど彼女は、
くも膜下出血でひとり倒れていたそうです。
夜に発見され、4時間半に及ぶ手術の後、現在は集中治療室で昏睡状態だそうです。
70歳の彼女は、いまでも現役でクライアントの服を作っていました。
すすきのの歓楽街の女性たちが主なクライアントでしたので、
今ではその方達の引退もすすみ、
彼女もマイペースにオーダーをとりつつ、
洋裁教室を開いて、洋裁を教えていました。
彼女がふたたびアトリエに復帰できることを祈っています。
でも後遺症が残る可能性もある。
私がアトリエを持ったら、彼女が倒れた。何か意味があるのでしょうか・・・。
私は、彼女に感謝しつつ、
彼女の分もじぶんの仕事に励もうと思います。
石垣島に通うようになり、やがて住むようになり、アトリエ拠点を構えようとする段階になり・・・
私がここで展開していきたいことの敷石として、私が惹かれる石垣島の魅力をぞんぶんにお伝えすべく、ブログを始めました。
いくつかの記事をピックアップしましょう。
■島の薫り
サガリバナ
http://f-ishigaki.blogspot.jp/2014/08/blog-post.html
マーニー
http://f-ishigaki.blogspot.jp/2014/08/arenga-engleri.html
島にんじん
http://f-ishigaki.blogspot.jp/2014/08/local-carrot.html
パパイヤの花
http://f-ishigaki.blogspot.jp/2014/08/blog-post_59.html
■おすすめの宿、カフェ
パワスポ的な宿
http://f-ishigaki.blogspot.jp/2014/08/power-spot-accomodation.html
Lauraさんの台所
http://f-ishigaki.blogspot.jp/2014/08/cafe-laura.html
できるかぎりお洒落に、詩的に! をモットーにしています ^^
私の母は、介護も終えた3年ほど前、62歳で保育士として「再就職」しました。40年のブランクがありましたので、そのときはアシスタント的な保育士でしたが、ここ3年ほどの間にみるみるキャリアアップし、今ではなんと、グアムのとある保育園の園長・・・!
そんな話があっていいのでしょうか。そう私も思うのですが、実際にあったお話ですので、みなさんにご紹介します。
私の母は、昭和の典型的な女性ともいえ、ずっと主婦として、サラリーマンの父を支えつつ3児を育てました。長女である私が生まれる前までは、幼稚園の先生をやっていたそうです。やはり教育関係が好きなのでしょうか、私が小学生の頃には、家計を支えるために、進研ゼミの「赤ペン先生」を内職的にやっていました。
私の祖父母の介護を終え、見送った3年前、「ゴルフ代を稼ぐため」と、新聞広告に載っていた保育士職に応募。40年のブランクがあったにも関わらず、その人柄が認められたのか、ある大学病院専属の保育園に務め始めることになりました。
通勤1時間。朝早く起きて頑張っていました。これまで家族のためにのみ生き、家族にのみ頼ってきた人が、社会で仕事する、その変化に慣れるのは大変なものだったと思います。
その保育園に勤務して1年半経った頃でしょうか、私がたまたま友達のフェースブックで、「新しく近所にオープンする保育園が、保育士を探している」との情報を発見。軽い気持ちで母に教えました。
長い通勤時間に疲れていた母は、徒歩5分は魅力的と思ったようで、「きっともう64の私は採用はされないだろうけど・・・」と言いながら、いちおう面接に行きました。その面接者の方が私の人脈上の人物だったということもあるかもしれませんが、母をとても気にいったため、なんと母は創設メンバーのひとりになってしまいました。
その保育園は、日本人向けインターナショナル保育園。日本人の富裕層や、国際カップルが顧客です。たまたま私の旦那さんがオランダ人だったことや、息子がハーフであることから、先方の目には母がそうとう外国慣れしている人物に映ったのでしょう。
しかし実のところ、母は、英語をあまりしゃべれるわけではありませんでした。けれども、学生時代は英文科を目指したほど英語が好きだったとか。かくして実家では朝も夜も、英会話のCDがBGMとして流れるようになりました。
近所の保育園に務めて半年経った頃でしょうか、こんどは「グアムに同じようなインターナショナル保育園を創設したいが、園長になってくれないか」と頼まれたのです。
これには母も迷いました。英語に自信がないのと、園長としての責任を果たせるかといった問題。しかも、外国です。海外での生活経験もあり、じぶんひとりで仕事もして文字通り「戦っている」私は、大反対しました。その大変さ、辛さを、身をもって知っているからです。
しかし母は悩んだ末、「娘があれだけ海外で活躍してるんだから、私にだってできるはず」と考え、受けることにしたのです・・・なんというずうずうしさ(笑)
園長として開園準備のためにグアムに出張するキャリア・ウーマンとしての母を見るのは、家族にもちょっとした驚きでした。たったの3年で、こんなに変わってしまうとは・・・。今年の2月から赴任し、めでたく開園までこぎつけ、5月にちょうど契約が切れたので、現在は日本の保育園で待機しています。
母は私と違って英語も達者というわけではないし、職務経験も数年ほど。パソコンさえできません。それでも、海外赴任、しかも園長の話が来るというのは、やはり母の人柄からでしょうか。
母はとにかく周りを立てる人です。溌剌としていて、若く見えるのも手伝って、とにかく人に好かれます。健気なので、能力の足りない部分は努力して補おうとします。甘え方もずるいくらいカワイイです。そんな人には、いくらでもチャンスが向こうからやってくるんですね。信頼とチャンスを得るには、力ではないのです。人柄です。
しかしわたしたち家族から見た母は、また違う人間です。いつも、わけもなく八つ当たりされていたので、特に長女である私は母と戦いながら育ちました。外ではとても「いい人」を演じるあまり、そのひずみが家族に降り掛かってきます。理由はなんでもいいのです。イライラがバケツ一杯になったら、それが溢れ出し、父と私に流れ出すことの繰り返し・・・ ^^;
この問題は成人しても変わりませんでした。オランダから帰国し、実家に身を寄せている間にも、なんどバトルがあったか・・・
しかし。それが最近、変わったのです。考えてみれば、ここずっと、実家が平和なのです。疲れからイライラすることはあっても、それを周囲に振りかざす率が減ったのです。母もじぶんのことに忙しくなり、じぶんに自信を持ち始めたからかもしれません。私もアパートを借りる時の保証人を母に頼むことになり、「こんな日が来るとは思わなかったね」、と母を讃えました。
そしてそんな母を私のできることで助けてあげると、とても喜びます。そもそもインターナショナル保育園の伝手も私の人脈なので、フェースブックもこまめにチェックしててほんとうに良かった〜と思いますね!(笑)
思うに、母は、自分のできないことを実現している娘に対してヤキモチを焼いていただけかもしれません。だから、母もそれができたときに、問題が無くなった。女性の人権など無いに等しい昭和に生きた人ですから、やり場のない気持ちがあったのかもしれません。
私は理不尽に個人的な感情をぶつけてくる人を、なるべく避けるタチです。なので、仕事上でも、極力理性的な人たちを選びますが、世の中そういう人たちばかりでもない。そういう相手と、どうつき合っていけばよいのか・・・
家族の関係性も、人の関係性も、変わる。必ず。そう信じたいですね。では、変わるには、何が必要か。どうしたらいいか。・・・それが私の次の課題です。
夏休みに入りましたね。みなさんいかがお過ごしでしょうか。
今日はみなさんに嬉しいご報告があります。
ずっとアトリエ物件を探していたのですが、ご縁がありまして、ある伝統的な瓦屋根の家を、とりあえず、お借りすることになりました。
現状は、とても人が入居できるような状態ではないのですが、掃除すれば、アトリエの荷物を置いたり広げたりスペースにはなるかしら・・・、と。5月末にオランダから届いて以来、自宅が荷物でごったがえしていたので。
使えるようになるまで手を入れるのはか〜な〜り〜大変! でも、コツコツと、お金をかけずに、じぶんで手を入れていくのも、またそれはそれで楽しみ。
そして、ここなら、お金はないけど、私から何か学びたいという志を持った人たちを泊めてあげることができるかもしれない。(興味ある方はご連絡ください ^^!)
そういうインターンの当てが今あるわけではないのですが、これまで世界中から問い合わせがあったのに、断らざるを得なかった悔しさ・・・それが原動力となっています。
とにかくそんな自分に忠実に生き、使命を全うしたい。
ここを、世界中から香りや匂い好きの人たちが集まる「場」にしたいですね! 香りのリトリート、そして嗅覚についての学びの場を作りたい。ゆくゆくは石垣島の「香りの島」としての魅力を引き出し、産業を作り、雇用を生み、この島の役に立てたらいいな、と。
そういう初心を、日常のコトに追われて忘れかけていたのですが、今回とりあえずのアトリエを借りたことで、よいリセットになりました。
じつは4月に、「あなたに投資してもいいわ」というシンガポールの投資家が現れたのですが、夢のような話であるため、期待はほどほどにしていました。穏やかにコンタクトを保ちつつ。
いったん腹をくくってみると、良い運というか、ツキは向こうからやってくるもので・・・いよいよ、8月に来島するとのこと。本格的に、土地探しの始まりです。
では「とりあえず」の瓦屋根の家をご案内しましょう。
入って左手には、いまとっても甘い香りを漂わせる白い木が生えており、右手には石垣島の香り高い香辛料、ピパーチが自生しています。まるで香りのアトリエのために前の人が植えていてくれたかのよう・・・
ここに昨年秋まで入っていた入居者は偶然にも、仲の良い友人です。
土間があります。冬なら囲炉裏として使えるらしいです。
裏の納屋には釜がありました。あれー、もしかしたら、これで、薪で蒸留とかできちゃうよね??? ガスでやる蒸留より、薪とか炭の方がずっと香りがいいのよね・・・。ひょっとして、私のために作ってくれていたとか・・・? 笑
去る6月8日、東京でステージの仕事をしました。私が所属するベリーダンス・スタジオ Ruhani Bellydance Arts のイベントでした。香りとベリーダンスという、もう想像しただけでムンムンな組み合わせ(笑)。でも、それをアートとして昇華させる試みに、スタジオリーダーのノーラさんと挑戦したのでした。
補足をすると、こういうふうに香りの視点から作り込んでいったシアターやダンスのステージって、世界的に見てもほとんど無いんです。できる人がいないから。それだけ香りをコントロールするのは難しいので、リスクが高い。なので、今回は私にとっても実は大きな挑戦でした。
ベリーダンスは、私にとっては趣味であり生き甲斐であり。嗅覚のアートは仕事。仕事が趣味に生かされるなんて、なんてラッキーなのでしょうか。
結果からいって、大成功でした。東京青山にある会場は、開場時から列ができるほどで、満席! そして、みなさん笑顔で大満足で帰っていかれました。
すべてが上手くいった。できる限りの事をし、最高の効果があった・・・最近はそういう風に思える仕事ができるようになってきました。トラブルも不確定要素も、逆にそれを利用してしまう姿勢が確立したのか、それとも諦めが良くなったのか(笑)はたまた経験値や判断力がついてきたのか。
でもこれだけのステージを作る道のりはもちろん単純ではありません。
まずダンスと香りの接点を考え、それをインスピレーションとしてダンス作品に仕上げていったわけですが、制作時間は実質2ヶ月。ダンサーの練習時間や衣裳制作までを考えると、これは非常にタイトなスケジュールでした。
でも時間をかけたからいいものができるとは限らないのです。私が東京から遠い石垣に住んでいるのもひとつのネガティブ・ポイントでしたが、だからこそフェースブックなどでダンサーと綿密に連絡を取り合う努力も怠りませんでした。そして、あとはノーラさんのセンスとリーダーシップを信頼しきりました。
石垣は仕入れに東京の数倍の時間がかかるので、それも頭が痛い問題でしたが、すぐ近くの自然にもたくさんの香る素材があるのだから、それを積極的に利用して準備をしました。つまり、時間と距離の制約は、ほとんど無視 して突っ切った(笑)
今回の会場での薫香は、リハの時間が実質30分! ほとんど全てがぶっつけ本番。なのでまず事前に、空調の位置の確認と、通風口の位置、スモークの流れの目視から空間特性を把握しました。お客さんがフルに入った状態で、奥の方や上まで香りが届くだろうか・・・といった懸念はありましたので、サーキュレーターの強度は「最強」の設定にしました。
読めなかったのは換気のパワーです。足りなかったら、香りの微細な変化を描くことができません。そのため、上演直前の決断でしたが、ステージ上のエアコンもONのままにすることにし(それまではOFFにしてくれと頼んでたのです)、ライティングとスモークの組み合わせで生じる「質量のある空気に包まれている感」といった視覚的効果を利用するためにスモークもたいてもらうことにし(それまでは、スモークは香りを邪魔するから焚かないでくれと頼んでいたのです)、そのかわり香料もマックスに投入して焚くことにしました。
この最後の決断が功を奏しました。
会場側もヒヤヒヤするほどの、予想以上の客の入り。2階の後ろの方はおそらく、ほとんどステージが見えなかったかと思うのですが、それでも「香りは届いた」という声を聞きました。作家仲間からも、「香りの切り替えがハッキリとわかった。混ざってしまうかと思っていたら・・・」とのコメント。
「香りがあると、その世界に入って行きやすい」「異次元にトリップした」そんな声もたくさん聞きました。
薫香は私ふくめスタッフ3人でやりました。タイミングを合わせる事が重要なので、綿密な打ち合わせをした上で。彼女たち無しには成功しなかったこと。
ダンサー達も、リハの時よりずっとずっとスゴかった! ダンサー達には、事前に香りをしたためた「小道具」を渡してあり、それをどう使うかはダンサー任せでした。「香りをむさぼるように楽しんでくれるお客さんを見て、ノリノリにテンション上がった」とも聞きました(笑)
ふと客席を見渡すと、明るかったんです。光量の問題ではなくね。みんな、優しい顔をしていて、優しい光に包まれていたんです。会場側も「通常なら閉塞感や不快感が生まれるはずの人数が入ってたのに、それが全くなく、むしろ心地よかったのは、香りのおかげでしょう。」とおっしゃってくださった。
香りは、みんなを元気にするんです。やわらかい光で包むんです。幸せにするんです。私自身も、始まる前は疲労感で手足も冷たかったのに、ステージが終わるころにはポカポカ。元気をもらい、浄化されました。まあ、高価な香料を大量に焚いたので、ほんとに贅沢な空間だったんですよね。
常に火加減に集中しなければいけなかったので、ほとんど踊りを楽しむ間は無かったのですが、あっという間に7つのステージが終わってしまいました。最後のシーンになったとき、「あれ?! これが、もう最後???」みたいな感じで・・・
そんな中、香りつきの紙吹雪を撒いた瞬間に、会場の感動がクライマックスに達したのを感じました。みんな、泣いていた。私は火加減に集中していたのできわめて冷静でしたが、会場からその感動を受け取って、涙がツツーと流れてくる、そんな不思議な状態でした。
ダンスを見て涙するなんて、あまりないことです。やはりそれも、香りの悪戯でしょうか?
スタンディング・オベーション。
ステージ開始前の挨拶。
詳細は、私のブログを参照して下さい。
http://witch-lab.blogspot.jp/search/label/%5BPerfumum%3A%20捧げる踊りと香り%5D
昨晩の、ワールドカップ・オランダースペイン戦。偶然にも、オランダで観ることになりました。オランダにとってスペインは、4年前の決勝の対戦相手で、延長戦の末、PKで屈辱的な負け方をした記憶が蘇ります。
そんな運命の悪戯かのような初戦の組み合わせ。そのためか、ワールドカップが始まるもうだいぶ前から、オランダは盛り上がっていました。オランダは、スペインにさえ勝てば、あとは負けてもいいんではないかと思われるほど・・・。街の至るところにオレンジの旗が渡されており、街はオレンジ、オレンジ、オレンジ。
とくにサッカーに興味ない私でも、昨晩はさすがに、テレビ観戦しました。ポップコーン作って、ビール、ワイン、チーズをテーブルに盛って(笑)試合中、道を見てみると、誰ひとりとして歩いていません・・・。
日本のメディアではあまり取り上げられてないかも知れませんが、オランダがスペインに追いついた1点目がすごかった! しかも前半終了直前の44分。これで完全にオランダの流れになりました。
https://www.youtube.com/watch?v=EHpOEIBgS44
↑こんなこと、人間ができるってすごいと思いません??? あんなに長いパスをですよ。走って追いかけてジャンプして頭でポーンとゴールへ・・・なんて。
オランダはその後も華麗に次々と得点を挙げていきました。これでもか、これでもか、というくらい。「これが、恨みというものか・・・」と恐ろしくなりましたね。6点目をあげようとがんばるオランダ、スペインのゴールキーパーに容赦なく打ち込むので、思わず私は「もういいよ〜!!! この人かわいそう!」と悲鳴を上げてしまったほど。。。
やはり華麗なドリブルとシュートで2得点をあげた天才ロッベンは、前大会の決勝でチャンスをものにすることができなかった悔しさをこう述べています。
「あと5cmシュートが高かったら・・・でも、サッカーの尊さは、時間を巻き戻せないことだ。夜、目覚めて叫んだとしても、消えることではない。」
そして昨晩の試合終了後のインタビューでは嬉しそうにこう語ってました。
「勝因は、後半、我々は機敏で体力が残っていたことだ。単にそれだけのことだよ。」
つまり技量は互角だとしても、努力が違ったということ・・・それだけオランダ勢は悔しさをバネにしたということ・・・4年前に世界一になっていたら、ロッベンも引退していたらしい。
時間は、巻き戻せない。一瞬で判断し、反応しなければいけない。
そして、失敗の悔しさは、ものすごいパワーを生む。ポジティブなパワーに変換することができれば。
だから、4年前の恨みがあってこその、今回のファインプレー。
生きる事に共通する哲学。それをサッカーという形でわかりやすく見せてくれました。とても感動した。ありがとう。
石垣島の畑にはヨモギが自生しており、取っても取っても生えて来る。このヨモギの良い利用法、何かないだろうか・・・と、遊びでよく蒸留実験をしています。
その香りでおぼろげに思い出すのは、祖母です。おそらく私は幼少の頃より、札幌の祖母の庭で、ミントなどのハーブに触れていたのだろうと思います。小学生のころには、ポプリの調合を趣味としていたくらいですから・・・。
祖母は北海道北見の出身です。いわゆるオホーツク海の沿岸。すぐそこが樺太や北方領土です。北見はむかし、ハッカ油の生産で栄えたエリアでした。祖母の家も農家だったと聞いているので、きっとハッカとは切っても切れない縁だったのではと想像されます。
ハッカとは、いわゆるミントのことです。ペパーミントのような香りの和種ハッカが、北見の一大産業でした。よくむかし、ハッカ飴など食べませんでした? 虫さされにハッカ油を塗ったり。
大人になってから何度かこの地域を車で廻って旅をし、よく祖母の妹さんを訪ねました。果てしなく続く大地。果てしなく続く畑。それ以外何もないところだけど、そこはにむかし、世界最大のハッカ油の蒸留所があった。大正から1960年くらいまでの話です。合成香料の出現によりやがて、北見のハッカ産業は衰退していきました。
いま思えば私の祖母は、農家の出とは思えないくらい、とてもハイカラで、発想が突飛な女性でした。
祖母の庭にはナスタチュームが植えてありました。ナスタチュームはハーブの一種で、オレンジ色の食べられる花を咲かせます。祖母はそれを華やかにサラダに添えていました。夏に遊びに行くと、大人にはメロンにウィスキーをかけて、子どもにはフルーツパンチを振る舞っていました。そして秋には葡萄の棚から、葡萄の取り放題・・・
大正の人なのに、農家の出身なのに、なんてハイカラなんだろうと思います。北見のハッカ全盛時代に、ミント畑であの香りを嗅いで育ったからではないかしら? なんてのは私の勝手な想像ですが。
北見とミントは、香りがその地域の産業を変えた一例ですが、なんと香りが日本の歴史を変えた例もあります。樟脳です。樟脳はクスノキから蒸留して採取したもので、むかしタンスの中に入れて虫除けとして使われていました。
薩摩藩は藩主導で樟脳を生産し、オランダVOC経由でヨーロッパに輸出し、莫大な富を得ました。そのお金で、軍艦や兵器を買ったのです。その武力により大政奉還が実現した流れは、みなさんよくご存知のことと思います。樟脳も同じく、合成香料の出現で衰退の途をたどってしまいましたが・・・。
香りがこのように、その地域の産業となる。象徴となる。そうあって欲しいと思うし、じぶんもなにか貢献できないだろうかとよく考えてます。
参考:北見ハッカ通商
蒸溜方法など、とてもマニアックな記述があります。その道の方、必見!
http://www.hakka.be/
4月の遠征の旅から石垣島に戻り、ホッとしているところです。
石垣→ 東京 → デリー → カンナウジ → デリー → シンガポール → 東京 → 石垣
といった長旅。もちろんそれぞれの場所でストップして何件も仕事していたので時間がかかったわけですが、いちばんの目的地であるカンナウジから石垣の家まで4日の帰路でした。
(カンナウジに行った目的に関しては、前回の投稿をお読みください)
カンナウジじたいは香油の街ですが、インドでも最貧地域にあります。折しも選挙中。治安が非常に悪く、銃を携えた男たち(平民)がウロウロしているような状況でした。人種差別の激しいエリアで、ついこのあいだも8万人のムスリムが虐殺された地域。男尊女卑もひどく、レイプは犯罪ではなく、日常茶飯事。
いままで世界各地、ひとりで旅してきましたが、ここまで身の危険を冒す旅は初めてです。観光だったら絶対に避けるべきですが、仕事なので仕方がなく、死は多少覚悟しました。いやこれは本当に大げさではなく、まさにワイルド・ウエストの中をタクシーをハイヤーして移動するわけですが、ひとりだけ白人(日本人は東洋人とはいえ、肌が白いし金持ちなので、インドでは「白人」の中に入るようです)、しかも女、しかも現地語のできない外国からの旅行客、そんなオオカミの中の羊はあまりおりませぬ。選挙中のテンションが私に向けられたときにはもちろん何があってもおかしくはないわけです。もちろん観光客などひとりも来ない地域です ^^;
電車で移動しても、タクシーで移動しても、そこここで銃を携えた血気盛んな若い男どもの平民軍団に遭遇するわけです。それをなるべく避けるようにして移動しました。仕事先以外はホテルからもまったく外出できませんでした。
こんな危険な状況の中、同行してくれたパートナー達に、とにかく感謝しています。滞在は7日間の予定でしたが、そもそも女性が仕事なんてできるような土地ではなかったため(女性の社会進出はゼロなので、私が何か質問したり、交渉ごとをしたり、というのが許されない)、最低限の目的を達成したら、さっさとデリーに戻って来てしまいました。
もう銃は見たくありませんね。それに、もうしばらく旅行はしたくありません(笑)車に鍵もかけない石垣島の平和さをしみじみと味わっています・・・
それほど希少な体験をしながら訪れた香油工房。折しも薔薇のシーズンで、薔薇の香油を蒸留しているところでした。ここだけは別世界でしたね。同行者のおじいさんの伝手で、すべてのプロセスを写真に収めさせていただきましたが、これも長年厳しく守られている秘伝なので、貴重な記録です。
「土の香油」の作り方、学びました。あとは、実践するのみです。そのプロセスはまた別途ご報告しますね。
インドのニューデリーから電車で半日ほど行ったところに、カンナウジという村があります。インドの伝統的な香油づくりが行われているところです。
そこに来週行って来ます。
昨年の11月でしたか、インドのある女性からメールが来ました。
「私の祖父は、カンナウジの香油工房のパフューマーでした。昨今の近代化により、インドの伝統である香油づくりが消えつつあります。ぜひ一緒にプロジェクトをできないでしょうか?」
こんなふうに突然メールが舞い込む。世界のどこの誰ともわからない人から。そこから始まるプロジェクトが私の場合は大半を占めます。
私は興味を持ち、助成金を探しました。まずは訪れて、その香油作りを学び、私なりにそれを引き継ぐ形でなにか貢献的なプロジェクトができるかどうかの判断をしたいと思いました。
ヨーロッパの助成金文化も衰退し、果たしてこんな調査目的のプロジェクトにお金を取れるかどうか、確信はまったくありませんでした。でも、いつもながら運の良い私です。タイミング良く目的に適した助成金が見つかり、12月にはGOサインをもらうことになりました。
そこから彼女と一緒に旅の計画をして、いよいよ来週となってきたわけです。夢のような話です。
ずいぶん昔になりますが、2008年でしたか、ポーラ美術振興財団からありがたく助成をいただき、南フランスの香水の街・グラースの調香師養成コースに通ったことがあります。
グラースといえば、香水づくりの世界的なメッカともいえます。中世に鞣し(なめし)革産業が発達した街ですが、革の臭みを消すために、身近に生えていたローズやジャスミンなどから香りを抽出したのがその始まり。
グラースに発達した香水産業は、近代化とともに、労働力の安いエジプトに輸出されてしまいました。しかしグラースは「香水の街」というイメージで売り出し、現在は観光産業で街が成り立っています。
グラースのもたらした「香水」は、近代香水でした。空港の免税店などで見られる香水がこの範疇です。いわゆるアルコール・ベースであり、天然香料と合成香料がバランス良く使われています。
しかし近代香水は、ファッション産業に取り込まれてしまいました。いわゆるシャネルやジヴァンシーなどのブランドがそのイメージ作りの一環として、調香師や香水産業を囲い込んだのです。これも一種のパトロネージと見る事もできますが、香りがファッション・アイコンに乗っ取られてしまった。つまり「俺はやっぱりジヴァンシーの香水だぜ」みたいな、香りから選ぶのではなく、ブランド・イメージから選ぶ、といった現象が起きてしまったのです。
日本で「香水」といえば、この「ファッション香水」ですよね。フランスにルーツを持つ、アルコール・ベースの香水です。
しかしですね。フランスに行ってわかったことなのですが、そもそもシャネルの香水などは、あちらのカラッとした気候と空気感に合わせて作られているのです。日本でつけてるのと、あちらでつけてるのとでは、香りの立ち方がまったく違います。
そもそも高温多湿な日本には、アルコール・ベースの香水は合いません。つけてもすぐに消えてしまうからです。インドでは、アッターという、オイル・ベースのものが愛用されています。いわゆる「香油」。オイルの蒸発速度はアルコールより遅いので、日本にもこの方が合ってると思うのですがいかがでしょうか。
視野を広く持つと、世界各地の香りの嗜み方があります。それらは近代香水に侵略されつつありますが、その伝統がまだかろうじて生き残っているところもあります。日本のお香文化のように。
調べると、インドでは「土」を蒸留して香水を作っているとか・・・今回は特にその技法を学びたいと思ってます。土は、その土地その土地で違う香りがします。土を原材料にしてその土地の香油を作ったら、おもしろいんじゃないかなあ・・・と。
試しに先週、石垣島で土を蒸留してみました。まず、サザエみたいな潮の香り。そして黴臭い奥にはうま味というか、野菜の土臭さが見え隠れします。そう、ジャガイモみたいな香り! ちょっとクサすぎて、これのどこをどうしたら日常的に使える「香油」になるのでしょうか。そのマジックをインドから学んできます。
そんな今日この頃です。帰って来たらまたご報告しますね。
maki
前回のコラムにて、石垣島にアトリエを作りたいということを書いたら、かつてない数の「いいね!」をいただいて、興奮してるmakiです! (笑)
調子に乗っちゃいましょう〜。ここ石垣島で実現したいこと、イメージしてることをとりあえずざっくり、みなさんにもシェアします。もちろんまだ実現してませんし、現実的ではないところもあり、夢を語るのは恥ずかしいという感じもないではないです。でも夢って、いくら妄想しても、語ってもタダですしね(笑)
その名も「香りのアトリエ」構想です。
1: まず、作品制作のためのアトリエを作る。オランダから日本に戻って来て以来約3年、その間は自分の制作場所を持たず、できることをやってきました。ですが、そろそろ限界・・・! じぶんのアトリエを持ちたい!
2: そこには嗅覚アートを本格的に学びたいという(国内外からの)美大学生やインターンが気軽にやってきます。そんな要望は以前から世界各地から来ており、いままで応えられないのを残念に思ってました。インターンの子達が、私の作品制作やワークショップなんかを手伝いつつ、育ってくれたら嬉しいな!
3: そしてそこにはガーデンがあります。素材レベルで匂い香りについて興味を持ってもらえるように、香る植物がたくさんあります。ちょっとした観光農園みたいな感じかな? ミント、ヨモギなどから、ジャスミン、ゲットウまで。石垣島にはそれこそ香る植物がたくさんその辺に自生してますしね。
4: そしてアトリエでは、ときどきワークショップが開催されます。畑から実際にミントを摘んで、蒸留して、精油を抽出することができます。アロマテラピーによく使われる精油が、いったいどういうふうにしてできるのか、その過程を体験することができるのです。
5: そして、やることのない雨の日などには(石垣島の問題)、手軽に香水作り体験などができます。本格的なオー・デ・コロンから、石垣島系のフレグランスまで。そんなことを通して香りや嗅覚の再発見ができます。
6: そして、そこにはミニ・ギャラリーがあって、「石垣島の香り」シリーズなど、様々な香りが嗅げます。もちろんこれは私の手で素材から抽出したもの。ゲットウ、さんぴん(ジャスミン)、ユリ、サガリバナなどの植物の香りから、スーパーのとうふの香りなど、生活に根ざした匂いまで。雨の日でも楽しめる場所です。
7: ティータイムには畑のハーブで作ったハーブティーがいただけて、ランチでは畑の野菜と、香り豊かなパスタがいただけて・・・。暇な時間には「香りのマップ」を手に近所を散歩できて・・・。そんなふうに1日ゆっくりできる「香りのリトリート」。単なる癒しではなく、発見と学びによる歓びをともなう癒しです。
8: アトリエのオリジナルなコスメティックスやフレグランス・シリーズも作りたいです。ロクシタンの石垣バージョンです。観光客の人たちが、それを買って帰って、香りを嗅ぐ度にいつでも石垣島を思い出せるような・・・。
このように、夢は「アーティストのアトリエ」の範疇を超えています。まさに街全体が香りのテーマパークである、南フランスの香水の街・グラースを縮小したようなものが、イメージにあります。嗅覚教育と癒しを提供する、香りのテーマパークであり、博物館であり。
自分だけのアトリエを持つのであれば、小さなスペースがあればよい話ですし、極端にいえば実家のある千葉でもよかったんです。でも、こんな構想(いや、妄想)をしているうちに、石垣島以外にポテンシャルのある場所はない・・・という考えに行き着きました。
もしかしたらきちんとしたビジネス構想を描いて融資を集めることも必要かもしれませんが、僅かな自前資金でも実現可能なものはあります。実際、断片断片が実現しています。私の大家さんが、畑を自由に使っていいよと言ってくださいました。
運良く、畑の上手な友人がきちんと耕してくれ、愛情こめて作物を育ててくれています。(私はほとんど何もやってません。。。笑)またおもしろいことに、ちょうどタイミング良く、テレビの取材が私のマンションに来て、この畑が全国放映されたんです(笑)こんなふうに展開していくひとつひとつがおもしろいですね。
(番組はこちら「幸せ!ボンビーガール」。私も幸せなボンビーガールですよ 笑)
この畑には、にんじん・大根などの野菜の他、香る植物もたくさんあります。ハーブからトマト、セロリまで。ヨモギやニラは雑草として自生しており、取っても取っても出て来ます(笑)この前、山に登ったときにはジャスミン(さんぴん)を見つけたので、挿木中です。
そしてまた運の良いことに、大家さんがアトリエの土地を提供しようかと言ってくれています。マンションの裏の森の中です。ヤシが野性的に生えている場所。土地を切り開き、プレハブを建てて・・・と、ちょっと大変ではありますが、ゆっくりゆっくり目標に向かって進んでいる、そのことがとても楽しいです。
いわゆる島の外からきた移住者(ないちゃー)は、島の住人(うちなー)に受け容れてもらうには時間がかかるとよく聞きます。私はその点、人に恵まれました。周りの人にはほんとうに感謝の気持ちでいっぱいです。