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2011/06/14


広告人・田中徹氏の場合

電通で20年、クリエイティブ一筋。

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田中さんの、広告の世界との切っても切れそうにない縁は、ほとんど業のようだ。

少年時代から今まで変わらずに興味を持っているものは、「車輪」。
「二輪でも、四輪でも。自動車も、自転車も。
 車が好きで、小学校の頃の卒業文集には将来の夢は車の整備士って書いていた。」
フォルクスワーゲンに興味を持った高校時代の田中さんが出会ったのは、西尾忠久氏の
『フォルクスワーゲンの広告キャンペーン』。当時は車がきっかけで触れた本だったが、
今となっては「あれは素晴らしい広告の教科書だった」と思い返す。

リベラルな家庭環境も手伝った。
父親世代は、高度成長期で日本人が海外に出て行き始めた初期の頃。
田中さんも、いわゆる帰国子女のはしりとして海外を転々とした後、慶應義塾大学へ進学。
在学中、はからずも知人の紹介で“素人モデル”としてメディア・デビューした。
アート・ディレクターは世界で活躍する石岡瑛子氏。
ポスターには、女性のプロのモデルと、本人いわく「添え物」としての田中さん、そして
石岡氏の義弟である杉本英介氏の「彼女はハイヒールを経験した」というコピーが並んだ。

これがきっかけで、杉本氏の制作事務所でアルバイトをすることになるが
まだコピーライターなどというものは職業として一般的に認知されていない時代であり
田中さんの手伝うべき仕事も多岐にわたった。
夜が近づくと事務所へ戻り、書きあがった杉本氏のコピーを朝までに清書する。
朝になったらコーヒーを淹れ、車を洗い、ときには犬の散歩まで。
「雑用です」とまとめるが、その経験がなければ広告業界のような世界があることも知らなかった。
「遠いきっかけって、積み重なっていくものだよなぁ…。」と振り返る。
その後、「…正直、体力が続かなくて。」と杉本氏の制作事務所を辞めたものの
広告の仕事への興味は薄れず、就職活動を経て電通にコピーライターとして入社した。

*     *     *

しかし、そこで、杉本氏に替わるアイドルは見つからなかった。
2年間のコピーライター生活を「修行」というが、
杉本氏のもとでの経験が強烈すぎたこともあり、なにか「会社組織のなか」の
一ポジションとしてのコピーライターの役割というものが腑に落ちていなかった。
その後、CMがもてはやされプランナーが足りなくなった社内事情もありCMプランナーへ転向。
当時は「CMプランナー」の役割が定着しておらず、企画よりも手配が主な仕事であったし、
コピーライターとしてはダメなのだろうかと、異動令にはショックも受けたという。

まだ入社3年目だったため「まずはラジオからやらせてみよう」― この上の判断が、好と出た。
プランナーの仕事に面白みを感じ、担当CMはコピーも自身で手がけ、すぐにTCC新人賞を獲得。
「でも、明確な理想や野望があったかといえば、そんなことじゃなくて。
 みんなでなにかをつくること、チームとしてのノリが凄く楽しかった」
在籍した第4クリエイティブ局はできたばかりで、白土謙二氏が、
そして第2クリエイティブ局には、杉山恒太郎氏がいた。
後に電通にデジタルの風を起こすことになる面々だ。

杉山氏は、直属ではなかったが案件ごとに声をかけてもらい、徐々に競合にも参加。
が、順調かといえば「初年度は13戦12敗」。
勝ち負け以上の気付きに、背筋が伸びる感覚を覚えたという。
「クライアントがメジャーだから、本当にちゃんとしたものを出さないと勝てない。
 ちょっとおもしろいアイディア、くらいでコンペが取れるほど甘い世界じゃなかった。」

*     *     *

それから20年間にわたり、電通でクリエイターとして働いた。
転機を引き起こしたのは、クリエイティブ・ディレクターに就任したとき。
いわゆる「CD」と呼ばれるそのポジションは、花形や権威を連想させるが
そのような表現に田中さんは首を傾げ「管理職です」と一言。
そんなCDの仕事の第一印象は「…まいったなぁ、、」だったという。
特に現場主義だったつもりはないものの、仕事と距離を保ち、“管理責任”を問われ
それまで意識していなかった「管理」が自分の役割になる。
チーム仕事は好きだったため、「それはまあ、まだいいとして…」
先週の出来事のようにうんざりした表情で振り返る。
「評価会議とかね…。」

その頃、岡康道氏(現:TUGBOAT)とともに「カンヌ広告祭」に派遣された。
当時、カンヌへの派遣はご褒美のような扱いで、前年に賞を取ったコンビとして乗り込んだ。
各国の広告と各国の広告人たちが集う、広告業界・世界最大のフェスティバル。
世界中のエグゼクティブが今の世の中のことを真剣に話し合い、夜の晩餐会ともなれば
スーパーモデルのような女性を連れスポーツカーで乗り付けたり、ジェットで現れる広告代理店もある、華やかなお祭りだ。

しかしその地で、田中さんは日本の惨敗を目にする。
賞だけの話ではない。日本のクリエイターになど、世界は興味を示さなかった。
「ああ電通ね、知ってるよ、世界一でしょ? 一応ね。
 でも媒体の売り上げカウントしてるんだもん、ズルイよね。」
カンヌはお祭りではなく、ビジネスの場であり、ヘッドハンティングの主戦場だったのだ。

その4年後の99年、今度は審査員としてカンヌ入りした田中さんは
日本と世界の差、そして日本が勝てない理由を肌で感じ、
同時に“デジタル”に心を動かされてゆくことになる。

このとき、審査会長であるDDB WorldWide会長、キース・ラインハルト氏と出会ったことが、
のちの田中さんの人生を大きく変える。
「いちど、NYのDDBへ来いよ」
との誘いを貰い、広告雑誌のライターと一緒に取材へ行くことになった。
広告に興味を持つきっかけとなったフォルクスワーゲンの広告を手がけていた会社であり
昔の資料を垂涎の思いで眺める田中さんに、ラインハルト氏は言った。
「これからは絶対に、デジタルになるよ」
DDBは、すでにデジタル関連企業に投資をはじめ、準備をしていた。

現在、田中さんはDDBの日本オフィスのチーフ・クリエイティブ・オフィサーも兼務している。
「これも何かの縁ですね。」

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次回予告/Scene3;
広告人・田中徹氏の場合
ワンスカイ、そしてGTへ。“クリエイティブ・ブティック”の内側。
(6月21日公開)

08:00 | yuusudo | □田中徹/Scene;2 はコメントを受け付けていません
2011/06/07


Prologue

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わたしが、銀座のちいさな代理店に、つとめていたときの話。
ちいさな会社のいいところで、若い行動力と、異端を推進する力があった。
もっとも甘やかされた環境で仕事をしていた頃でもある。

「これからの広告会社やデジタルビジネスは、どうなるんだろうね?」という問いに
久々に日本に居た年末年始、1万字の作文を書いたら、ときの上司はにっこり笑って
「もう二度ときみのパワポは読みたくない。」というお言葉と引き換えに、
もう数年前のことになるが、宣伝会議の講座に通わせてくれた。

半年間、毎週水曜日に表参道まで通ったその講座の講師は、GT Inc.の3人だった。
社長である田中徹氏、のちにW+KのCOOとなる伊藤直樹氏、そして内山光司氏。
伊藤氏は、自分の感覚を信じ、愛していた。(ように感じた。)
内山氏は、いつでも万人がわかる言葉で語ることに、気を配っていた。(ように感じた。)
田中氏は、GTの仲間を、理屈を超越したところで愛していた。(ように感じた。)

大手の代理店を飛び出してできたのがGTであるように、出自もばらばらなユニットは
いずれまた方々へ散っていくのだろうが、それも“らしい”姿。
ひとりでやっていくことだってできる人たちが集っていることは、一瞬の奇跡だった。

受講者の属性によって、「誰の話が一番わかるか」がきっぱり分かれたのも興味深かった。
制作系、クリエイターは伊藤さんの話がいちばん共感できるといった。
代理店営業、マーケターは内山さんの話がいちばんわかりやすいといった。
わたしがよく覚えているのは、田中さんの話だ。

田中さんはいつも、意図的なのか否か、結論を聞く側に任せる話しかたをした。
なかでも「会社のネーミング」の話をしていたときの田中さんを、よく覚えている。

「たとえば、TUGBOAT(タグボート)。
 タグボートっていうのは、大海に向かって最後の離岸を手伝うモノなんです。」

田中さんが言うのはそこまでだが、広告業界の人間なら、
TUGBOATの岡氏が電通から独立した身であることくらいは解っている。
明言はしなくとも、“離岸”という言葉は、強い意味を持って迫った。

「GTの前身は、ワンスカイという会社。
 カンヌ広告祭の帰国時に知った、ワンスカイ構想というのは、当時、
 ヨーロッパの空の国境をなくそうという運動だった。」

国境なき、ひとつの空。
縦割りでも横割りでもなく、メディアの枠を超えてコミュニケーションを構築していく。
横たわるひと続きの空を“ワンスカイ”と称したように
それは確かに、ボーダーが淡く消えていった先にある、新しい時代の始まりだったのだろう。

田中さんの“ワンスカイ”が社名を変えて再スタートを切った“GT”のオフィスは
空に溶けそうな、東京の高層階にあった。
窓際には色とりどりのブロンズ像が、たしかに整然とは並べられていたが
ガラス箱のなかで威光を放つこともなく、ソファの向こうの影に、ちんまりと鎮座していた。

このシリーズは、何かを「聞き出してやろう」などと意気込むことをほとんどしていない。
それでも、広告マニアのわたしが憧れの人に会いに行くのだから、それなりに緊張はする。
田中さんがわたしを招き入れた動作は、自宅に他人を入れるときのようなそれで
わたしは何か思い違いをしていたのかもしれない、と、ふと思った。

電通を飛び出し、現在の地位を築いた、野心あふれるCD?
少数精鋭でカンヌ常勝、気鋭の国産クリエイティブ・ブティック?
そのどれもが、正しくて違う。

独立とは、アップグレードでもダウンサイジングでもないのだと、わたしは思い知ることになる。

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Scene2;広告人・田中徹氏の場合
電通で20年、クリエイティブ一筋。(6月14日公開)

08:00 | yuusudo | □田中徹/Scene;1 はコメントを受け付けていません
2011/05/31


広告人・佐藤尚之氏の場合

Scene;4 ソーシャルメディアという希望。

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2010年は、ソーシャルメディア元年と言われた。
twitter、次いでFacebookも話題を呼んだ。
世界の距離は短くなり、皆が発信し、ポジティブに関わっているソーシャルメディアの世界。
会社、家族、組織、国といったヒエラルキーが崩壊し、ソーシャルグラフで再編成されてフラットに変わっていくという予感。それは、佐藤さんがWebに対して感じた可能性としてぼんやり見えていた“理想形”だったという。
「…もうさあ、待ち焦がれてたんだよ。」

「インターネットって、なんだかおかしな方向に行きかけていたじゃない。
 Googleが情報を全部フラットに扱っちゃって、冷たい世界になっちゃった。
 2ちゃんねるで犯罪がどうのこうのっていう話になって、企業も炎上が怖くて使えないとか。
 そんなはずはない、世界をもし我々が変えられるとしたらそのきっかけはインターネットしかない。
  ソーシャルメディアがやってきて、“これだ”と思った。理想の姿。感動したよ。」

ソーシャルメディアの普及はバブルとも言われ、
広告やマーケティングの業界では今なお今後が注視されているが
佐藤さんは、ソーシャルメディアを客観的に論じる人を見ると、腹が立つのだそうだ。
「おれたちの手でおもしろくして、この千載一遇 のチャンスをつかむんだ」
自ら動くべき時がきた、と感じていた。

同時に感じたのは、自らが長らく関わってきた「広告」というものに対する考えの変化だった。
「ネガティブなものをポジティブに変えて世の中を楽しくしちゃう、っていう
  昔の広告のアバウトな感じは、いい加減、許されない時代になってるのかも。」
トップダウンで一方的に語りかけていた「広告」は、かならず変わっていく。
これまで、どこにいるのか見えないことが前提だった生活者が、
ソーシャルメディアの登場により、勝手につながってくれた。
もう、“Attention”を取りに行く広告はコミュニケーションではないのだ。

「“広告”っていう概念が、もう古い。 
“人に伝わるテクノロジーを使ったコミュニケーション”を模索していきたい。」
「モダンコミュニケーション」を自らの残りの時間に課し、ひとつの大きな決断をした。

四半世紀―実に25年間勤めた、電通の退社。

理由をひとつに絞るのは難しい。
残された時間を、大きな組織のマネジメントで終えたくないとも思った。
偉くなることで、自分で動く事を忘れた人間もたくさん見てきた。
「もちろん、世代間のつなぎをきちんとやりたいとは思っている。
 今年、50歳でしょう。世代間がよく見えるんだよね。
 旧来文脈の人たちは戸惑っていて、もう逃げきろうとしている。
 新しい人たちはそれを追い払って新しいことをしようとしている。
 でも、世の中そんなに単純じゃないからね。両方の力を使って、世の中をよくしないと」
その言葉には、佐藤さんが社会人生活を通じて常に、何かを批判し駆逐するのではなく、
橋を架けることで建設的な方向を追求してきた生き方が現れている。

それでも、今までの居場所を捨てなければ成し得なかったこととは、何なのだろう。
ソーシャルメディアを「透明な世界」と表現する佐藤さんは、“一貫性”を例に挙げた。
「やりたいことができない不自由さ、というよりも、個に戻らないと無理だと思った。
 個を手に入れて自由にやらないと、信用されないし、共感もされない。
 たとえば、僕がどの会社の広告を手掛けたのか、ということがオープンになる時代でしょう。
 そして、たとえば僕はタバコを吸わないということも、オープンになっている。
 そんななかで、タバコを吸わない僕がタバコの広告をやるのって、
 なんだか、不誠実だし、信用もされない。たとえばそういうこと。」

人を集め、そしてつなぐ。
意志さえあれば、“ひとりの個人”でもそれが可能になる―
ソーシャルメディアが変えたインターネットの世界だった。
「何十年、何百年に1回のチャンスが、もうそこにあるんだ。
  つながりで再編成される世界を良くして、社会を生きやすくするのは、
  僕たちこの時代を生きている人たちの使命。」

貴重なたった1回の人生、「個」に戻ることを選んだ佐藤さんは
非常に晴れやかな表情で、最後にこう言ってくれた。

「それをやってから死にたいなあ。
 何もできないかもしれないけど、なにかしら、じたばたしてから。」

佐藤尚之(さとうなおゆき)
1961年東京生まれ。電通にて、CMプランナー、ウェブ・プランナーなどを経て、クリエイティブ・ディレクターを勤める。社内に「サトナオ・オープンラボ」として、コミュニケーション・デザインを追究するチームも結成。JIAAグランプリなど受賞多数。
広告人としての著書に『明日の広告』(アスキー新書)。
1995年より個人サイト「www・さとなお・COM」 を運営。「さとなお」名義で、『人生ピロピロ』(角川書店)、『沖縄上手な旅ごはん』(文藝春秋)、『うまひゃひゃさぬきうどん』(光文社)、『ジバラン』(日経BP社)など著書多数。

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Special Thanks to Naoyuki Sato

08:00 | yuusudo | □佐藤尚之/Scene;4 はコメントを受け付けていません
2011/05/24


広告人・佐藤尚之氏の場合

Webの可能性を確信した、阪神・淡路大震災。

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1995年、阪神・淡路大震災。

その日、佐藤さんは神戸に居た。
夜は停電し、ようやく電気が通った頃にも横に人が埋まっているような状況。
テレビをつけて、佐藤さんはその違和感にしばし現実感をもてなかったという。
東京でこの地震が起きたら…という、お決まりの検証番組。
東京偏重の報道を、被災地で見る違和感に、怒りすらこみ上げたという。

ときはパソコン通信の頃、ネット創成期。
個人サイトなど100くらいしかない時代だったが、電気が通ってから、試しに回線を繋げてみると
そこには、インターネットで避難所の状況を発信している人たちがいた。
二度目の衝撃だった。必要な人に必要な情報をデリバリーできる、その画期的なテクノロジー。
それが技術の問題で終わらずに、善意の個人が発信し、見知らぬ誰かの役に立つ。

インターネットに可能性を見出した佐藤さんは、その夏、「さとなお.com」を立ち上げた。
もう15年以上、続けている個人サイトだ。
「人生で唯一、続けていることかもしれない。実際、いいこともいっぱいあったしね。
 本も出したし、マスコミにも取り上げてもらったし、友達も増えたし。
 この媒体だけはちゃんとやっていこう、と今でも思っている。」

当時、やりたかったのは、好きな本の書評。
活字の虫の習慣は途絶えることなく、会社へ入ってからも月に10冊は本を読み、
週刊誌に書評を書いたり、文春文庫で斎藤美奈子さんの著書の巻末解説を書いたこともあった。
しかしそこはマスを相手にしてきた広告会社社員。
「個人の書いた書評なんて誰も読まないと思って、目玉になるコンテンツが要ると思った」
そこで、自腹でレストランに覆面調査をしてくるレストランガイドのコンテンツを立ち上げた。

*     *     *

その頃にはもう、生活者が変わっていた実感があったという。
CM作って、納品して、終わり。それのどこが、コミュニケーションなのか。
コミュニケーションがやりたくて会社へ入ったはずなのに、なぜみんなやらないのか。
オリエン聞いてすぐテレビCMを考えるのはやめよう、と。
「広告はテレビだろ!オリエンから帰ったら真っ先にコンテ書くだろ!」という相変わらずの風潮。
まずキャンペーンをどう構築するのか、コンタクトポイントをどこにもつのか。から入り、
「どのメディアを使うか」ではなく、「何を伝えるか」。繰り返し主張した。

ほどなくして、当然ながら社内で「デジタルが強い」との評判が立ったとき、
「CM、やめます!」と宣言し、
先輩と2人で「デジタルクリエイティブ部」を立ち上げた。
仕事でもデジタルに舵を切るほど、インターネットが再構築していく新しい世界の可能性を感じていた佐藤さんだが、「さとなお.com」を始めた当初は、同僚に馬鹿にされたという。
2000アクセス程度で喜んで、CMだったら何百万人の人が見てくれると思っているのか、と。
しかしそこには、伝わっているかわからないCMにはない、
「生活者がすぐ横にいて、反応がかえってくる」という大きな手ごたえがあったのだ。

そのうち、“旧来文脈”の人たちもインターネット領域へ入ってくるようになったが
彼らはネットを「動くポスター」くらいにしか考えていなかったため、自由だった。
予算も重要度も、大したことないから好きにやっていい、という空気があった。
同時期に、東京にもようやく、デジタル関連の部署ができ、お呼びがかかった。

関西生活14年が、幕を閉じようとしていた。

*     *     *

博報堂電脳隊と同じく、ここ電通でも“伝説”となるチームが生まれていた。
インタラクティブ・コミュニケーション局 —— 局長:白土謙二氏、次長:杉山恒太郎氏。
Webを「メディア」ではなく「クリエイティブ」の一環の「なにかあたらしいもの」と位置付けた。
「あれは、ほかの会社には無い、電通の素晴らしい所だったね。」

白土氏と杉山氏は、ネット専業会社などのいう「コンバージョン」や「クリックレート」に対して
「そんなものは広告じゃない。広告は人の心を動かすものだ」と大反発した。
「効果は見えないところにある−—そのことを僕ら、創成期の100人くらいは叩き込まれたよ。
 Google Adwordsも、広告じゃなくてInformation。元々興味関心のある人に向け情報を流す。
 広告は、ゼロベースで気持ちをうごかして、『これ、いいかも』って思わせるもの。
 そこを間違えると、広告はどんどんInformationでOK、っていう話になってくる。」

「効果が数字で見えること」が、それまでの広告にはない利点として注目されているのも事実だ。
それを否定すれば、「効果がないのがバレるのがイヤなんだ」と穿った見方をする人もいる。
しかし広告は「効いていないほうの半分」という言葉がよく持ち出されるように
数字では語れない情緒に語りかける部分が大いにある。
人間を相手にしているのだから、計算式でバチっと決まらないのはあたりまえのことだ。

「違うんだよなあ。…ぜんぜん、違うんだよ。」
佐藤さんも、噛みしめるように言う。

そして、“ソーシャルメディア”という革命がやってきた。

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次回予告/Scene3;
広告人・佐藤尚之氏の場合
ソーシャルメディアという希望。
(5月31日公開)

08:00 | yuusudo | □佐藤尚之/Scene;3 はコメントを受け付けていません
2011/05/17


広告人・佐藤尚之氏の場合

関西式コミュニケーションと、クリエイティブへの疑問

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「東京っ子なんです、僕」
「…見えないですね」
「…そうでしょう。」

「もともと、性格も生き方も“広く浅く”。人生の目標とか、なかったから。」
小学校時代から活字の虫だった佐藤さんは「フツーの」大学の経済学部へ入り、
雑誌・新聞・出版・メーカー・商社、すべてできる領域の大きさに惹かれ、広告会社を選ぶ。

85年、日航機事故の年に電通に入社した佐藤さんはそれから14年間を関西で過ごした。
希望したもののまさか行けると思っていなかったクリエイティブへの配属にも大いにびっくりしたし、
何の縁もゆかりもなかった大阪での生活で、相当人間が変わったのだという。
衝撃を受けたのは、まず、関西式のコミュニケーションに対してだった。

「東京の人って、見栄っ張りというか、カッコつけるでしょう。
  ズボン買いに行っても、おなか引っ込めて買う。
 関西人は、おなか出して買うから。その方が楽やん?って。
 関西人はまず“自分を笑う”。
 このコミュニケーションは、“カッコイイ”事をするのより余程オトナだと思ったよ。」

時代もよかった。電通のよいところでもあるメリハリ文化。
ワーっと仕事して、ワーっと遊ぶ。それはとにかく、振り切れていた。
「広告代理店っていったら、都会で、カッコよくて、ハワイでタレントがにっこり、みたいな。
 そんなイメージ、すぐに吹っ飛んじゃったよね。」

コピーライターとして、入社2〜3年目から錚々たる企業の仕事を、
俯瞰した立場で任される状況は、東京にいてはあり得なかったことだと振り返る。
それ以上に、縦割り横割りではないフラットな組織カラーにより、コピーだけではなく様々な仕事に触れることができたことが、後のキャンペーン志向を強めていくきっかけにもなったようだ。

*     *     *

3年目に、会社のローテーションシステムにより営業に転籍となったとき、
そのダイナミズムに、「広告会社にいるなら営業だな」と思い直したという。
クライアントが“何銭”の単位でモノをつくっていることを、頭ではわかっていたつもりだった。
しかし、みんなに恐れられていた某企業の名物宣伝部長が佐藤さんのことをなぜかとても可愛がってくれ、込み入った話もするうちに、事業主側の課題と現場を初めて肌で知るようになる。

それに対する、広告会社のクリエイティブの仕事の、なんと傲慢だったことか。
クリエイティブを作品と呼んではばからない人たちを佐藤さんは素直に「バカだと思った」という。
人のお金を使って、自分のやりたいことをやるとは何事か、と。
クライアントの課題解決が目的なのに、コピーの賞があることすら、おかしいと思うようになった。

営業はいつも「クリエイティブ様々」と立ててくれていた。しかしそれは尊敬によるものではない。
クリエイティブを諦めて甘やかし、つまりは馬鹿にしていたのだとわかってしまった。
「本当にモノがつくりたいのなら、プロダクションに行けばいいんだよ。
 本当にクリエイターになりたいのなら、個展でも開けばいい。」

その思いは、佐藤さんだけが感じたものではなかった。
営業へ行ったクリエイティブの人間は、みな
「クリエイティブに戻る? 営業に残る?」と何度も話をしたという。
結局、佐藤さんは、1年でまたクリエイティブに戻ることを選択した。
“見えた”うえで、営業感覚を持ったクリエイティブの人間でいることを望んだのだった。
その頃には自然と、「キャンペーン全体をどう構築するか」に興味が行くようになっていた。

端的なエピソードがある。
とある企業のコーポレート広告の仕事で、目的が「病人を励ましたい」というオリエンだった。
佐藤さんはコピーライターとしての責務も背負ってはいたが、“病気の人を励ますコピー”をのせた広告を出しても意味がない、と思ったという。
広告を「読んで」もらっても、仕方が無い。
だったら、励ますことにお金を使ったほうがどれだけいいか。
結果、アーティストに絵を描いてもらい病室の壁に貼るホスピタルアートプロジェクトへ昇華した。

*     *     *

コピーライターの傍ら、CMプランナーとしても多くの仕事を手掛けた。
1社のCMを10年の長きにわたり担当し続けたこともある。
「でもCMって、伝えるための部品でしかなくて。伝わってるかどうかわからない。
 そんなもの作ってどうするんだろう、と思うようになった」
自然な変化ではなく、自らの手で産み、肌で感じた「Web」との差だった。

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次回予告/Scene3;
広告人・佐藤尚之氏の場合
Webの可能性を確信した、阪神・淡路大震災。
(5月24日公開)

08:00 | yuusudo | □佐藤尚之/Scene;2 はコメントを受け付けていません
2011/05/10


Prologue

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「インターネットの可能性を確信したのは、やっぱり、阪神大震災。」

ようやく訪れる気配を見せ始めた春の光が射し込む電通ビルの高層階で、
わたしの問いかけに“さとなお”こと、佐藤尚之さんはそう答えた。
おそらく何度となく人に聞かれ、自分の中でも思い直してきたのであろうその言葉は
穏やかながら、凛とした断定だった。

奇しくもそれは、3月8日―あの東日本大震災の、3日前のことだった。

あの日のあとに、それまでの世界の事を語るのは、とても困難なことのように思う。
地震、津波、原発、帰宅困難、計画停電、買い占め…
そういった物理的な震災と二次災害のなかにあったのは、誤解を恐れずに言うならば
協力、団結、世界の賞賛、フラストレーション、言葉に塗られた集団躁鬱に近い状態だった。

約2か月が経ったいま、わたしたちはそこかしこで、何かが“壊れた”事を感じている。
それは、日本という国に対してであったり、資本主義や価値観に対するものであったりする。
今に始まった事ではない。しかし、意識の奥底で、本質的な変化があったように思えてならない。

「情報って、権力じゃない?
 そのピラミッドが、崩れてきている。」
そう言った佐藤さんの言葉も、あの日より後には、違った意味に響く。

月をまたぐ頃、電通は佐藤さんの退社を発表した。
電通で、コミュニケーションの片翼に“デジタル”をもったCDとしての
“佐藤尚之”は、地震に始まり、地震に終わったのかもしれない。
もちろん結果論であり因果関係などないが、偶然にも、時代の区切りは重なった。

「電通を辞める」と佐藤さんから聞いたとき、「やっぱり」と「なんでだ」が同時に浮かんだ。
後者の「なんでだ」は多分に、勝手ではあれど非難さえ含んでいた。
誰かが会社や業界を去って行くたび、業界ごと見捨てられた気分になるのはなぜだろう。
「やっぱり」と感じたほうのわたしが思い出したのは、佐藤さん著『明日の広告』の序文だった。

わたしはその本を、勝手に『恋する広告』とタイトルを変えて呼び、今も何度も繰り返し読む。
諳んじることさえできるようになってしまった序文のこの文章を紹介して、
この連載第2回目、佐藤尚之さんのインタビューをはじめたいと思う。

――消費者がどんどん変わっていっているのに、彼らと密にコミュニケーションを取って売って
  いかないといけない我々のやり方が十年一日の如く変わっていないのではヤバすぎる!
     ~
  でも、ちょっと煽りすぎている部分もあったと思う。ネットがテレビを凌駕するとか、
  テレビCMが崩壊するとか、新聞は生き残れるのかとか、マスメディアは死んだとか、
  グーグルが世界を制覇するとか。とかとか。
     ~
  そして表面的な手法やテクノロジーにとらわれて「コミュニケーションの本質」が
  軽視されている空気もちょっと感じるので、そこもなるべく意識して書いた。
  話の出発点は「消費者が根本的に変わった」という事実である。
  ゴールは「すごくエキサイティングで楽しいじだい」というボクの実感だ。

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Scene2;広告人・佐藤尚之氏の場合
関西式コミュニケーションと、クリエイティブへの疑問(5月17日公開)

08:00 | yuusudo | □佐藤尚之/Scene;1 はコメントを受け付けていません
2011/04/26


広告人・須田和博氏の場合

After Talk – 一問一答

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※この回は、インタビュイーの言葉をそのまま掲載します。
 解説はつけませんので、各々のうけとり方でお楽しみ頂ければ幸いです。

●現在過去問わず、衝撃だったメディアは?
ニコニコ動画。
映っている人が何をしていようとも野次られるあの感覚。
社長が収支決算を大真面目に話していても、コメントは「ハゲ、ハゲ」ですよ。
炎上が怖いとかじゃなくて、ああいうのにさらされるのが当たり前と思わないと、
今の時代、仕事やってられなくないですかね?

●マスvsデジタル について
分業しないと間に合わないという部分はあります、実際。
でもやっぱりTVは強力。CMだって、使い方ひとつ。というのが、Webをやっているから
こそわかる。
田舎に帰ったら、うちの父親なんてテレビしか見てないですから。
僕自身も、ネットニュースより新聞を読みます。知るつもりのない情報にも接することが
できるから。
今ちゃんとやるべきことは、各メディアのながれをどうつくるかでしょう。

●広告はどうなる?
広告は終わりません。
みんなが不可欠と思っているGoogleだって、広告で成り立っている。
人間の本質は変わらないし、広告も昔からやっている事は同じ。カタチが変わるだけ。
広告がなくなったら、みんながなくしてしまうものが、たくさんありすぎます。
ただ、“ウザい”と思われてる広告がいっぱいあるのは事実で、そういうものは淘汰されて
いくとは思います。

●今後、注目の分野は?
スマートフォン。
前問で「人間の本質は不変」と言いましたが、スマホが出現して、人間ちょっと変わるか
もと思った。
人間は進化しない。でも唯一、進化しているのは「面倒くさい」という感覚。
全自動洗濯機がある日突然壊れたら、マジ勘弁してくれと思いますよね。今の僕の家です
けど。
スマートフォンを持つと、「超能力」を手に入れたみたいに、できることが俄然増えた。
だから、逆に電源が落ちたり、圏外になったりすると、強烈な「無力感」に襲われます。
これが広告の新しいフィールドになるかもしれないと思っています。

●尊敬する人はいますか?
藤子・F・不二雄、ゴダール、大貫卓也。

●これからの広告のキーワードは。
「広告」から、「広場」へ。
いろんなところで言ってますけど。
一方的に告げるやり方から、ユーザが伝えあう場づくりへ。
そういうものになるぞ、というよりは、そういうものになったらいいなあ、と。

●総合広告会社のこれから
総合だからできることはある。たとえばメディアやクライアントを組み合わせること。
仕掛けを作るというのは、クリエイティブを極めるブティック系ADが持たない発想。
デジタルじゃ儲からない、たしかにそう。だけど、これは必須の武器。
組み合わせ価値の提供こそが、要は「総合」の仕事。だからこそデジタルが出来なきゃ、
もう無理っていうシンプルな話なんです。
もうひとつの、その先の仕事は、企業の中に入り込んで、そこでマーケティングを変えて
いく仕事です。
この2つが総合広告会社の未来の仕事になるはずです。

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Special Thanks to K.SUDA & C.NISHIO / Hakuhodo Inc.

10:00 | yuusudo | □須田和博/Scene;4 はコメントを受け付けていません
2011/04/19


広告人・須田和博氏の場合

TV⇔Web。「画面1枚」の圧倒的な差。

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「紙の“デザイン”っていうのは、極めて具体的な作業で
 自分で手を動かして、自分が納得するものを“つくる”仕事だった。
 印刷物の色合いに至るまで、自分で決める仕事なんです。
 でもCMプランナーは、“プランニング”こそが仕事。
 最終的な映像は、必ずしも自分の納得がすべてではないんですよ。」
決して不満なのではない。プロのディレクターが作り上げる映像は、
未熟な自分の想像を超えて良いものであることも、当然多かった。
しかし、それが良いものであってもなお、
自分が何をする人間なのかが腑に落ちず、違和感が次第に沈澱していった。

そんな折の99年、転機が巡ってくる。
CMでありながら、企画から演出・撮影・編集までを、自主映画や紙の仕事のように自分で出来る機会に恵まれた。CFディレクターがいないので、フィニッシュまで自分にまかされたのだ。
皮肉にもその理由は、“予算が無いから”だった。

そして、その仕事で須田さんは、TCC新人賞とACC賞を受賞する。
——そうかCMでも、アートディレクションのやり方でやってもいいんだ。
そう思い、企画だけでなく、フィルム演出まで手掛けるようになっていった。

しかし、やがてその体験が須田さんを、本人いわく「まじめな気持ちに」させた。
2年ほどフィルム演出にトライした後、CMプランナーは本業である「企画」にこそ専念すべきなのだと反省し、自らにフィルム演出を禁じたのだという。
職転して5年。当初CFに感じた違和感はとうに薄れ、演出を手がけることで一時は醍醐味も得られたが、次第に行き詰まりを感じ始めていた。

行き詰まり感の中で、須田さんが掴んだ光は「デジタルテクノロジー」だった。
ときは、デジタルインディーズフィルムが流行り、モーショングラフィックという言葉がもてはやされていた時期。従来の映像制作よりも、小規模でフットワークよく動く新しいやり方が、Macの普及と共に注目を集めていた。デジタルで撮影し、現場ですぐにデスクトップで編集し、映像がつくれてしまうテクノロジーの発展に魅せられた。
「重たい制作プロセスから解放されることで、もっと企画の自由が得られるかもしれない。そこに希望を見いだそうとしたんです。」

デジタルの予感を決定づけたのは、縁あって上海でCMを制作することになった体験だった。
出張でCM企画の監修をする仕事だったはずが、トラブルの連続に見舞われ無事納品するまで帰国できなくなった。
当然中国語など話せないが、Macで上海のスタッフと直接データのやりとりをし、15秒CMの編集をi-movieで試してエディターに指示し、デリケートなCGを日本から電話回線で送ってもらうなどして、なんとかした。このサバイバルの中で、言葉がわからなくてもデジタルが助けてくれる、ということを身を持って知った。
「そうか、デジタルが使えて、絵が描ければ、世界中どこでも、なんとか仕事はできるんだなって、ピンチの連続の中で悟ったんです。」
この逆境を乗り切った体験が、のちにまったくの未経験者ながらWeb領域に移る時の、自信につながったという。

*     *     *

“インタラクティブ・クリエイティブ部 部員募集”
公募メールの一行に、目が止まった。2004年、暮れも押し迫った年末のことだった。

最初に相談したのは、福田敏也氏(現:トリプルセブン・インタラクティブ代表)。
もともと大貫氏と同じチームで、以前から知る先輩だった。
あたたかい助言に背中を押され、2005年1月1日付けで、“志願”異動。
当時は、今なお社内で伝説のように語られる「博報堂電脳体」が解散し、
先駆的パイオニア達が、ちりぢりバラバラになったしばらく後。
笠井修二氏(現:2nd design代表)を中心に、3人ほどの部員で、
デジタル領域のクリエィティブを模索し始めた頃の公募だった。
幸いにも隣の席に、Webの叩き上げという出自の螺澤裕次郎氏(現:電通CDC)が居た。
二人は毎晩徹夜する中で、お互いの領域のスキルを交換しあったという。

Webの実績はまったくなかったので、文字通りどんな仕事でも引き受けた。
勝っても100万円も予算がない競合案件を、昔なじみの営業が頼んでくれたところから、自分のWebでのキャリアを始めることが出来たという。
「仕事は誰かに頼んでもらわなければ、絶対に出来ない。だから、どんなご縁も粗末にしてはならない。自分はラッキーだった。」
今でもそう思う、という。

その1年後、須田さんは、自身の代表作とも言える大塚製薬ファイブミニのキャンペーンを手掛ける。
体内の毒素や不調を「体内怪人」としたキャラクターが話題になり、オーガニックにバズが発生。
第2弾としてmixiで「怪人が美人を襲う」という出没ウソ情報を、ウソ写真付きで、発信すると共に怪人の写真や音声をすべてフリー使用素材として提供し、ユーザからの投稿を促進。
交通広告と連動した携帯サイトでの占いコンテンツ、地域限定のバイラルCMはYoutubeを中心に広がりを見せ、デビューから6ヶ月でグーグルで22万件、ヤフーで1万7千件がヒットするほどの大人気を得る。
まさに、Webで化けたコンテンツだった。
そのとき「わかった」のだ、という。

——Webって、こういうことか。

様々な体験が、いちどにフラッシュバックされた。
ドラえもんに憧れノートにマンガを描き続けた少年時代。
8ミリ映画を文化祭で上映し「感動した」と言われた学生時代。
博報堂の面接官に笑ってもらうことに喜びをおぼえた就職活動。
そして、大貫さんに「くだらねー」と言われたくて、作品を見せに行った新人時代——

「目の前の人に、“ウケる”こと。それが広告の仕事の本質。」
「ウケる」。それが、Webによって直接の体験として自分に戻ってきた。

*     *     *

「自分の前に、モニターが1枚。読み手の前に、モニターが1枚。
 その2枚のモニターを通じて、反応がじかに伝わってくるのがWeb。」
ファイブミニのmixiコミュニティを続ける中で、ウケる作法は毎晩蓄積されていき、須田さんの中で「Webとはこういうものだ」と明確な手応えを得たという。
どうしたら、お客さんが喜んでくれるのか。それを考えることこそが、広告の基本だと確信した。

「そのときようやく、わかったんですよ。なんで自分が、TVCFというものに絶望したか。
 CFでは、ウケてるのか、ウケてないのか、わからなかった。」
じゃあ、CMで“ウケ”が毎回ビジブルだったら、Webに来なかったか?という問いに、頷く。
「表現じゃなくて、ウケなんですよね。そこに、気づいていなかった。
 自分の、ほんとうの喜びが、仕事に直結していなかったんですよ。」

漫画家の山岸凉子氏は、クラシックバレエを題材とした自身の作品のなかで、こう書いている。
「踊りを選んだのなら、極めなさい。踊りに、選ばれるまで」
話を聞けば聞くほど、須田さんという人は、広告の仕事に“選ばれた”のではないかと思わざるを得ない。

紛れも無く、自身の才能と努力と好奇心がなければなし得ないことでありながら、
パズルのピースが埋まっていくような、須田さんと広告との、出会いと別れが生む、妙。
かれは今、赤坂の摩天楼で大手広告会社の部署長という役職を背負いながら
それでも身軽に、毎週メルマガの校正にいそしんでいるという。どの見出しが“ウケ”て、何クリックされるかを、楽しみにしながら・・・。

現場とか、管理職とか、そういう問題ではないのだ。
ひとりのクリエイターが見つけた“接点”が、
今日も、広告というプラットフォームを支えている。

須田和博
株式会社博報堂 クリエイティブ・ディレクター
90年、博報堂入社。アートディレクター、CMプランナーを経験後、
05年からインタラクティブ・クリエイティブの領域へ。
主な仕事に、ミクシィ年賀状、大塚製薬・ファイブミニ「体内怪人」、
ポカリスエット「ブカツの天使」、マイクロソフト「ニコニコメッセ」、
NTTレゾナント「goo脳内検索メーカー」など。
09年東京インタラクティブアドアワード グランプリ、
カンヌ国際広告祭メディアライオン ブロンズなど受賞歴多数。
著書に「使ってもらえる広告」(アスキー新書)。

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次回予告/Scene4;
広告人・須田和博氏の場合
After Talk – 一問一答
(4月26日公開)

08:00 | yuusudo | □須田和博/Scene;3 はコメントを受け付けていません
2011/04/12


広告人・須田和博氏の場合

「アート・ディレクション」という職業。

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「『ドラえもん』みたいなものが、描きたかったんですよ。」
クリエイティブに根っこをもつ須田さんに、幼少からアート志向があったのか、と尋ねると
自らの小中学生時期がいかに日本アニメ全盛期であったかを熱く語り始めた。
「初めて買った本は『ドラえもん 1巻』。小学校でヤマト、中学校でガンダム。」
藤子・F・不二雄に憧れたマンガ少年は自然と、「絵描き」への志向を強めていく。
高校で在籍した美術部は、村上隆氏とともに「新ジャポニズム」の代表選手として海外からも高い評価を得る美術家、会田誠氏が一学年上の先輩という環境だった。
その頃に“前衛”と出会い、8ミリ映画を撮り始めたという。
新潟大学の美術教師コースにでも進むのかな、と漠然と考えていた須田さんは、
“会田先輩”が目指している「美大」なるものの存在をはじめて知る。
とはいえ地元には美大の予備校のようなものはない。
絵画教室のアトリエで石膏デッサンや平面構成などの勉強をしながらも、不合格。
翌年には、東京の予備校へ身を移すことになった。

そんな折に手にした、一枚の通知。
自主映画ブームのなか、若手の登竜門としての権威であった映画祭
「ぴあフィルムフェスティバル 1985」の入選の通知だった。思いがけない朗報。
「あれがあったから、腐らずに1年間やれたのかな…」
と振り返る東京での一年間の浪人生活ののち、多摩美術大学へ。
グラフィックデザイン科ではあったが、心は映画制作にあったという。
「短いコマ切れの、ちょっとしたアイディアの断片を、
 いくらでも入れていけるのが映画だと思った。」
バラバラなものがつながって意味を成していく面白さに、
“平面の一枚絵”を超える魅力を感じていた。

*     *     *

ギリギリの時期まで就職というものにリアリティを感じていなかった、という須田さんだ
が、それでも、多摩美大に入学してすぐに、広告研究会に入ったという。
思わず、なぜ、と問うと、ご本人も、にこりと笑って答える。
「8ミリ映写機があったから。」

多摩美のグラフィック科といえば、指定校推薦のように
毎年、ある程度の人数が大手広告会社に入社するのが恒例だ。
先人たちの実績は、暗黙の学内選考―“電通・博報堂どちらかしか受けられない”
というようなルールも生み出していたという。
須田さんは、どちらの広告会社の面接を受けるのかという選択を迫られて、はじめて「ど
う違うのか」を調べ始めたという。
そして、図書館で広告年鑑をめくり、
好きだった「としまえん」の広告を、博報堂が手掛けていたことを知る。
アートディレクターのクレジットには、後の師匠となる“大貫卓也”の名前があった。
それじゃあ、自分は博報堂を受けよう——至極、単純明快だった。

博報堂は入社試験も面白かったという。
1つの「お題」でアイディアラフを100枚書いて来い、という課題もあったが苦にはならず、
試験官にウケるのが楽しくて、どんどん書いては見せにいった。
その他の一般メーカーなどの企業も受けてはいたが、
広告会社の内定が出たとたん、すべての就職活動を打ち切った。
「面倒くさかったんです」と、本人ははぐらかすが、広告こそが自分にとって一番面白い
と予感していたのだろう。

こうして入社が決まった、博報堂の入社式、1990年4月1日。
見慣れない新聞広告に目を奪われた。
「史上最低の遊園地」

広告史上有名すぎるキャンペーンは
大貫卓也氏による、「としまえん」の広告だった。

*     *     *

入社後、クリエイティブ局に配属された須田さん。
おそるおそる大貫さんに学生時代の作品を見せに行っては
「くだらないねぇ」「デザインヘタだねぇ」といわれながらも、
1年後にはアシスタントとして引っ張ってもらうことになる。
そこで参加したのが大手食品メーカーの某製品の競合プレゼン。
大貫さんを筆頭に若いスタッフが担当し、のちに世界的に大きな賞を得るプロジェクトだ
った。

そうして環境にも仕事にも恵まれながら紙媒体のクリエイティブに携わって7年。
90年代も末を迎えた頃、社内や業界に、妙な風潮が漂いはじめた。
——これからは、CMだ。紙の仕事は無くなる。ADをやっていても、未来は無い。
いつの時代も、この手の「ナントカ崩壊論」は尽きないものらしい。
危機感と変革を常に内包する体質、という見方も出来なくはない、ともいえる。

実際、現場では、CMの仕事は増えつづけ、CMプランナーは不足しつづけた。
「CM、興味あるか?」上司と廊下で交わした短い立ち話に、
「まあ、自主映画とかやってたんで」と軽く答えた翌週、辞令が出た。

…仕事とはかくも簡単に、変わってしまうものなのか。
CMプランナーに転職を命じる内容の通達を聞きながら
沸いてきたのは、必要とされ期待されるという高揚感よりも、むしろ失望だったという。
「デザインを精一杯がんばってやってきたつもりだったのに、
 俺にデザインをやめろというのか・・・と、その時は思いましたね」
珍しく仕事仲間と酒を飲んで荒れたりしたと、振り返る須田さん。
しかしこの異動が、のちに須田さんの進む方向を
決定付ける大きなターニングポイントとなったことだけは事実だったようだ。

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次回予告/Scene3;
広告人・須田和博氏の場合
TV⇔Web。「画面1枚」の圧倒的な差。
(4月19日公開)

11:42 | yuusudo | □須田和博/Scene;2 はコメントを受け付けていません
2011/04/05

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——「書き手」と「受け手」のあいだには
  たったディスプレイ2枚だけど
  「受け手」は「書き手」の「人間」に敏感で
  「やらせ」「つまらん」「なんかいや」は、すぐばれる——

セミナー会場というには、あまりに無機質な会議室。

100枚近くあったのではないだろうか、
スピーディーに展開されるスライド。
文字ばかりの一語一語が、重なり合ってたたみかけてくる。

ヒヨっ子のわたしが広告の仕事をなんとなく始めて
はじめて受けたセミナーと呼べるような勉強会だった。
勝手がわからず持ち込んだパソコンは、気付けば床までおろして、
必死で手書きでメモを取っていた。

2006年初頭。「CGM」なんてコトバが、広告業界を全速力で走っていた頃。
わたしはブログメディアを使ったプロモーションのアシスタント、
というよりは使い走り及び暴走特急的雑用をしていて
そんなわけでその場に「勉強してこい」と遣わされていたのだった。
来場者用の最前列には、mixiの笠原社長が座っていた。

スライドがほぼおなじスピードで繰られていくたびに、
体の血が逆流してくるかのような、動悸・息切れで、くらくらし始めた。
もしあと30歳ほど年を取っていたら、心停止したかもしれない。

…なんておもしろいんだろう、ソーシャルメディアって。
…なんておもしろいんだろう、広告って!

登壇者は、須田和博さんだった。

その後の輝かしいご活躍——TIAAグランプリ、カンヌ国際広告祭メディアライオン・ブロンズ、
——などはあえてわたしがここで語る必要もあるまい。
須田さんの仕事にはいつも、須田さんらしい色があった、ということだけだ。
大塚製薬「ファイブミニ」の「体内怪人キャンペーン」でユーザと心通わせ、
ミクシィ年賀状で本人どうしさえ見えない糸でリアルとネットをつなぎ、
マイクロソフトの仕事でニコニコ動画という怪物に慄然と立ち向かう。

「ソーシャルメディア」と騒ぐ世論など どこ吹く風、
須田さんのスタンスはなにひとつ変わっていないように、傍からは見える。
その陶然たる余裕はどこから来るのか。
ソーシャルメディア元年と言われた2010年が終わってすぐ、
わたしは赤坂の博報堂本社を訪れた。

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Scene2;広告人・須田和博氏の場合
「アート・ディレクション」という職業。(4月12日公開)

08:00 | yuusudo | □須田和博/Scene;1 はコメントを受け付けていません

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