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広告人・須田和博氏の場合
TV⇔Web。「画面1枚」の圧倒的な差。
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「紙の“デザイン”っていうのは、極めて具体的な作業で
自分で手を動かして、自分が納得するものを“つくる”仕事だった。
印刷物の色合いに至るまで、自分で決める仕事なんです。
でもCMプランナーは、“プランニング”こそが仕事。
最終的な映像は、必ずしも自分の納得がすべてではないんですよ。」
決して不満なのではない。プロのディレクターが作り上げる映像は、
未熟な自分の想像を超えて良いものであることも、当然多かった。
しかし、それが良いものであってもなお、
自分が何をする人間なのかが腑に落ちず、違和感が次第に沈澱していった。
そんな折の99年、転機が巡ってくる。
CMでありながら、企画から演出・撮影・編集までを、自主映画や紙の仕事のように自分で出来る機会に恵まれた。CFディレクターがいないので、フィニッシュまで自分にまかされたのだ。
皮肉にもその理由は、“予算が無いから”だった。
そして、その仕事で須田さんは、TCC新人賞とACC賞を受賞する。
——そうかCMでも、アートディレクションのやり方でやってもいいんだ。
そう思い、企画だけでなく、フィルム演出まで手掛けるようになっていった。
しかし、やがてその体験が須田さんを、本人いわく「まじめな気持ちに」させた。
2年ほどフィルム演出にトライした後、CMプランナーは本業である「企画」にこそ専念すべきなのだと反省し、自らにフィルム演出を禁じたのだという。
職転して5年。当初CFに感じた違和感はとうに薄れ、演出を手がけることで一時は醍醐味も得られたが、次第に行き詰まりを感じ始めていた。
行き詰まり感の中で、須田さんが掴んだ光は「デジタルテクノロジー」だった。
ときは、デジタルインディーズフィルムが流行り、モーショングラフィックという言葉がもてはやされていた時期。従来の映像制作よりも、小規模でフットワークよく動く新しいやり方が、Macの普及と共に注目を集めていた。デジタルで撮影し、現場ですぐにデスクトップで編集し、映像がつくれてしまうテクノロジーの発展に魅せられた。
「重たい制作プロセスから解放されることで、もっと企画の自由が得られるかもしれない。そこに希望を見いだそうとしたんです。」
デジタルの予感を決定づけたのは、縁あって上海でCMを制作することになった体験だった。
出張でCM企画の監修をする仕事だったはずが、トラブルの連続に見舞われ無事納品するまで帰国できなくなった。
当然中国語など話せないが、Macで上海のスタッフと直接データのやりとりをし、15秒CMの編集をi-movieで試してエディターに指示し、デリケートなCGを日本から電話回線で送ってもらうなどして、なんとかした。このサバイバルの中で、言葉がわからなくてもデジタルが助けてくれる、ということを身を持って知った。
「そうか、デジタルが使えて、絵が描ければ、世界中どこでも、なんとか仕事はできるんだなって、ピンチの連続の中で悟ったんです。」
この逆境を乗り切った体験が、のちにまったくの未経験者ながらWeb領域に移る時の、自信につながったという。
* * *
“インタラクティブ・クリエイティブ部 部員募集”
公募メールの一行に、目が止まった。2004年、暮れも押し迫った年末のことだった。
最初に相談したのは、福田敏也氏(現:トリプルセブン・インタラクティブ代表)。
もともと大貫氏と同じチームで、以前から知る先輩だった。
あたたかい助言に背中を押され、2005年1月1日付けで、“志願”異動。
当時は、今なお社内で伝説のように語られる「博報堂電脳体」が解散し、
先駆的パイオニア達が、ちりぢりバラバラになったしばらく後。
笠井修二氏(現:2nd design代表)を中心に、3人ほどの部員で、
デジタル領域のクリエィティブを模索し始めた頃の公募だった。
幸いにも隣の席に、Webの叩き上げという出自の螺澤裕次郎氏(現:電通CDC)が居た。
二人は毎晩徹夜する中で、お互いの領域のスキルを交換しあったという。
Webの実績はまったくなかったので、文字通りどんな仕事でも引き受けた。
勝っても100万円も予算がない競合案件を、昔なじみの営業が頼んでくれたところから、自分のWebでのキャリアを始めることが出来たという。
「仕事は誰かに頼んでもらわなければ、絶対に出来ない。だから、どんなご縁も粗末にしてはならない。自分はラッキーだった。」
今でもそう思う、という。
その1年後、須田さんは、自身の代表作とも言える大塚製薬ファイブミニのキャンペーンを手掛ける。
体内の毒素や不調を「体内怪人」としたキャラクターが話題になり、オーガニックにバズが発生。
第2弾としてmixiで「怪人が美人を襲う」という出没ウソ情報を、ウソ写真付きで、発信すると共に怪人の写真や音声をすべてフリー使用素材として提供し、ユーザからの投稿を促進。
交通広告と連動した携帯サイトでの占いコンテンツ、地域限定のバイラルCMはYoutubeを中心に広がりを見せ、デビューから6ヶ月でグーグルで22万件、ヤフーで1万7千件がヒットするほどの大人気を得る。
まさに、Webで化けたコンテンツだった。
そのとき「わかった」のだ、という。
——Webって、こういうことか。
様々な体験が、いちどにフラッシュバックされた。
ドラえもんに憧れノートにマンガを描き続けた少年時代。
8ミリ映画を文化祭で上映し「感動した」と言われた学生時代。
博報堂の面接官に笑ってもらうことに喜びをおぼえた就職活動。
そして、大貫さんに「くだらねー」と言われたくて、作品を見せに行った新人時代——
「目の前の人に、“ウケる”こと。それが広告の仕事の本質。」
「ウケる」。それが、Webによって直接の体験として自分に戻ってきた。
* * *
「自分の前に、モニターが1枚。読み手の前に、モニターが1枚。
その2枚のモニターを通じて、反応がじかに伝わってくるのがWeb。」
ファイブミニのmixiコミュニティを続ける中で、ウケる作法は毎晩蓄積されていき、須田さんの中で「Webとはこういうものだ」と明確な手応えを得たという。
どうしたら、お客さんが喜んでくれるのか。それを考えることこそが、広告の基本だと確信した。
「そのときようやく、わかったんですよ。なんで自分が、TVCFというものに絶望したか。
CFでは、ウケてるのか、ウケてないのか、わからなかった。」
じゃあ、CMで“ウケ”が毎回ビジブルだったら、Webに来なかったか?という問いに、頷く。
「表現じゃなくて、ウケなんですよね。そこに、気づいていなかった。
自分の、ほんとうの喜びが、仕事に直結していなかったんですよ。」
漫画家の山岸凉子氏は、クラシックバレエを題材とした自身の作品のなかで、こう書いている。
「踊りを選んだのなら、極めなさい。踊りに、選ばれるまで」
話を聞けば聞くほど、須田さんという人は、広告の仕事に“選ばれた”のではないかと思わざるを得ない。
紛れも無く、自身の才能と努力と好奇心がなければなし得ないことでありながら、
パズルのピースが埋まっていくような、須田さんと広告との、出会いと別れが生む、妙。
かれは今、赤坂の摩天楼で大手広告会社の部署長という役職を背負いながら
それでも身軽に、毎週メルマガの校正にいそしんでいるという。どの見出しが“ウケ”て、何クリックされるかを、楽しみにしながら・・・。
現場とか、管理職とか、そういう問題ではないのだ。
ひとりのクリエイターが見つけた“接点”が、
今日も、広告というプラットフォームを支えている。
了
須田和博
株式会社博報堂 クリエイティブ・ディレクター
90年、博報堂入社。アートディレクター、CMプランナーを経験後、
05年からインタラクティブ・クリエイティブの領域へ。
主な仕事に、ミクシィ年賀状、大塚製薬・ファイブミニ「体内怪人」、
ポカリスエット「ブカツの天使」、マイクロソフト「ニコニコメッセ」、
NTTレゾナント「goo脳内検索メーカー」など。
09年東京インタラクティブアドアワード グランプリ、
カンヌ国際広告祭メディアライオン ブロンズなど受賞歴多数。
著書に「使ってもらえる広告」(アスキー新書)。
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次回予告/Scene4;
広告人・須田和博氏の場合
After Talk – 一問一答
(4月26日公開)