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2011/06/14


広告人・田中徹氏の場合

電通で20年、クリエイティブ一筋。

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田中さんの、広告の世界との切っても切れそうにない縁は、ほとんど業のようだ。

少年時代から今まで変わらずに興味を持っているものは、「車輪」。
「二輪でも、四輪でも。自動車も、自転車も。
 車が好きで、小学校の頃の卒業文集には将来の夢は車の整備士って書いていた。」
フォルクスワーゲンに興味を持った高校時代の田中さんが出会ったのは、西尾忠久氏の
『フォルクスワーゲンの広告キャンペーン』。当時は車がきっかけで触れた本だったが、
今となっては「あれは素晴らしい広告の教科書だった」と思い返す。

リベラルな家庭環境も手伝った。
父親世代は、高度成長期で日本人が海外に出て行き始めた初期の頃。
田中さんも、いわゆる帰国子女のはしりとして海外を転々とした後、慶應義塾大学へ進学。
在学中、はからずも知人の紹介で“素人モデル”としてメディア・デビューした。
アート・ディレクターは世界で活躍する石岡瑛子氏。
ポスターには、女性のプロのモデルと、本人いわく「添え物」としての田中さん、そして
石岡氏の義弟である杉本英介氏の「彼女はハイヒールを経験した」というコピーが並んだ。

これがきっかけで、杉本氏の制作事務所でアルバイトをすることになるが
まだコピーライターなどというものは職業として一般的に認知されていない時代であり
田中さんの手伝うべき仕事も多岐にわたった。
夜が近づくと事務所へ戻り、書きあがった杉本氏のコピーを朝までに清書する。
朝になったらコーヒーを淹れ、車を洗い、ときには犬の散歩まで。
「雑用です」とまとめるが、その経験がなければ広告業界のような世界があることも知らなかった。
「遠いきっかけって、積み重なっていくものだよなぁ…。」と振り返る。
その後、「…正直、体力が続かなくて。」と杉本氏の制作事務所を辞めたものの
広告の仕事への興味は薄れず、就職活動を経て電通にコピーライターとして入社した。

*     *     *

しかし、そこで、杉本氏に替わるアイドルは見つからなかった。
2年間のコピーライター生活を「修行」というが、
杉本氏のもとでの経験が強烈すぎたこともあり、なにか「会社組織のなか」の
一ポジションとしてのコピーライターの役割というものが腑に落ちていなかった。
その後、CMがもてはやされプランナーが足りなくなった社内事情もありCMプランナーへ転向。
当時は「CMプランナー」の役割が定着しておらず、企画よりも手配が主な仕事であったし、
コピーライターとしてはダメなのだろうかと、異動令にはショックも受けたという。

まだ入社3年目だったため「まずはラジオからやらせてみよう」― この上の判断が、好と出た。
プランナーの仕事に面白みを感じ、担当CMはコピーも自身で手がけ、すぐにTCC新人賞を獲得。
「でも、明確な理想や野望があったかといえば、そんなことじゃなくて。
 みんなでなにかをつくること、チームとしてのノリが凄く楽しかった」
在籍した第4クリエイティブ局はできたばかりで、白土謙二氏が、
そして第2クリエイティブ局には、杉山恒太郎氏がいた。
後に電通にデジタルの風を起こすことになる面々だ。

杉山氏は、直属ではなかったが案件ごとに声をかけてもらい、徐々に競合にも参加。
が、順調かといえば「初年度は13戦12敗」。
勝ち負け以上の気付きに、背筋が伸びる感覚を覚えたという。
「クライアントがメジャーだから、本当にちゃんとしたものを出さないと勝てない。
 ちょっとおもしろいアイディア、くらいでコンペが取れるほど甘い世界じゃなかった。」

*     *     *

それから20年間にわたり、電通でクリエイターとして働いた。
転機を引き起こしたのは、クリエイティブ・ディレクターに就任したとき。
いわゆる「CD」と呼ばれるそのポジションは、花形や権威を連想させるが
そのような表現に田中さんは首を傾げ「管理職です」と一言。
そんなCDの仕事の第一印象は「…まいったなぁ、、」だったという。
特に現場主義だったつもりはないものの、仕事と距離を保ち、“管理責任”を問われ
それまで意識していなかった「管理」が自分の役割になる。
チーム仕事は好きだったため、「それはまあ、まだいいとして…」
先週の出来事のようにうんざりした表情で振り返る。
「評価会議とかね…。」

その頃、岡康道氏(現:TUGBOAT)とともに「カンヌ広告祭」に派遣された。
当時、カンヌへの派遣はご褒美のような扱いで、前年に賞を取ったコンビとして乗り込んだ。
各国の広告と各国の広告人たちが集う、広告業界・世界最大のフェスティバル。
世界中のエグゼクティブが今の世の中のことを真剣に話し合い、夜の晩餐会ともなれば
スーパーモデルのような女性を連れスポーツカーで乗り付けたり、ジェットで現れる広告代理店もある、華やかなお祭りだ。

しかしその地で、田中さんは日本の惨敗を目にする。
賞だけの話ではない。日本のクリエイターになど、世界は興味を示さなかった。
「ああ電通ね、知ってるよ、世界一でしょ? 一応ね。
 でも媒体の売り上げカウントしてるんだもん、ズルイよね。」
カンヌはお祭りではなく、ビジネスの場であり、ヘッドハンティングの主戦場だったのだ。

その4年後の99年、今度は審査員としてカンヌ入りした田中さんは
日本と世界の差、そして日本が勝てない理由を肌で感じ、
同時に“デジタル”に心を動かされてゆくことになる。

このとき、審査会長であるDDB WorldWide会長、キース・ラインハルト氏と出会ったことが、
のちの田中さんの人生を大きく変える。
「いちど、NYのDDBへ来いよ」
との誘いを貰い、広告雑誌のライターと一緒に取材へ行くことになった。
広告に興味を持つきっかけとなったフォルクスワーゲンの広告を手がけていた会社であり
昔の資料を垂涎の思いで眺める田中さんに、ラインハルト氏は言った。
「これからは絶対に、デジタルになるよ」
DDBは、すでにデジタル関連企業に投資をはじめ、準備をしていた。

現在、田中さんはDDBの日本オフィスのチーフ・クリエイティブ・オフィサーも兼務している。
「これも何かの縁ですね。」

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次回予告/Scene3;
広告人・田中徹氏の場合
ワンスカイ、そしてGTへ。“クリエイティブ・ブティック”の内側。
(6月21日公開)

2011/06/14 08:00 | yuusudo | No Comments