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広告人・須田和博氏の場合
「アート・ディレクション」という職業。
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「『ドラえもん』みたいなものが、描きたかったんですよ。」
クリエイティブに根っこをもつ須田さんに、幼少からアート志向があったのか、と尋ねると
自らの小中学生時期がいかに日本アニメ全盛期であったかを熱く語り始めた。
「初めて買った本は『ドラえもん 1巻』。小学校でヤマト、中学校でガンダム。」
藤子・F・不二雄に憧れたマンガ少年は自然と、「絵描き」への志向を強めていく。
高校で在籍した美術部は、村上隆氏とともに「新ジャポニズム」の代表選手として海外からも高い評価を得る美術家、会田誠氏が一学年上の先輩という環境だった。
その頃に“前衛”と出会い、8ミリ映画を撮り始めたという。
新潟大学の美術教師コースにでも進むのかな、と漠然と考えていた須田さんは、
“会田先輩”が目指している「美大」なるものの存在をはじめて知る。
とはいえ地元には美大の予備校のようなものはない。
絵画教室のアトリエで石膏デッサンや平面構成などの勉強をしながらも、不合格。
翌年には、東京の予備校へ身を移すことになった。
そんな折に手にした、一枚の通知。
自主映画ブームのなか、若手の登竜門としての権威であった映画祭
「ぴあフィルムフェスティバル 1985」の入選の通知だった。思いがけない朗報。
「あれがあったから、腐らずに1年間やれたのかな…」
と振り返る東京での一年間の浪人生活ののち、多摩美術大学へ。
グラフィックデザイン科ではあったが、心は映画制作にあったという。
「短いコマ切れの、ちょっとしたアイディアの断片を、
いくらでも入れていけるのが映画だと思った。」
バラバラなものがつながって意味を成していく面白さに、
“平面の一枚絵”を超える魅力を感じていた。
* * *
ギリギリの時期まで就職というものにリアリティを感じていなかった、という須田さんだ
が、それでも、多摩美大に入学してすぐに、広告研究会に入ったという。
思わず、なぜ、と問うと、ご本人も、にこりと笑って答える。
「8ミリ映写機があったから。」
多摩美のグラフィック科といえば、指定校推薦のように
毎年、ある程度の人数が大手広告会社に入社するのが恒例だ。
先人たちの実績は、暗黙の学内選考―“電通・博報堂どちらかしか受けられない”
というようなルールも生み出していたという。
須田さんは、どちらの広告会社の面接を受けるのかという選択を迫られて、はじめて「ど
う違うのか」を調べ始めたという。
そして、図書館で広告年鑑をめくり、
好きだった「としまえん」の広告を、博報堂が手掛けていたことを知る。
アートディレクターのクレジットには、後の師匠となる“大貫卓也”の名前があった。
それじゃあ、自分は博報堂を受けよう——至極、単純明快だった。
博報堂は入社試験も面白かったという。
1つの「お題」でアイディアラフを100枚書いて来い、という課題もあったが苦にはならず、
試験官にウケるのが楽しくて、どんどん書いては見せにいった。
その他の一般メーカーなどの企業も受けてはいたが、
広告会社の内定が出たとたん、すべての就職活動を打ち切った。
「面倒くさかったんです」と、本人ははぐらかすが、広告こそが自分にとって一番面白い
と予感していたのだろう。
こうして入社が決まった、博報堂の入社式、1990年4月1日。
見慣れない新聞広告に目を奪われた。
「史上最低の遊園地」
広告史上有名すぎるキャンペーンは
大貫卓也氏による、「としまえん」の広告だった。
* * *
入社後、クリエイティブ局に配属された須田さん。
おそるおそる大貫さんに学生時代の作品を見せに行っては
「くだらないねぇ」「デザインヘタだねぇ」といわれながらも、
1年後にはアシスタントとして引っ張ってもらうことになる。
そこで参加したのが大手食品メーカーの某製品の競合プレゼン。
大貫さんを筆頭に若いスタッフが担当し、のちに世界的に大きな賞を得るプロジェクトだ
った。
そうして環境にも仕事にも恵まれながら紙媒体のクリエイティブに携わって7年。
90年代も末を迎えた頃、社内や業界に、妙な風潮が漂いはじめた。
——これからは、CMだ。紙の仕事は無くなる。ADをやっていても、未来は無い。
いつの時代も、この手の「ナントカ崩壊論」は尽きないものらしい。
危機感と変革を常に内包する体質、という見方も出来なくはない、ともいえる。
実際、現場では、CMの仕事は増えつづけ、CMプランナーは不足しつづけた。
「CM、興味あるか?」上司と廊下で交わした短い立ち話に、
「まあ、自主映画とかやってたんで」と軽く答えた翌週、辞令が出た。
…仕事とはかくも簡単に、変わってしまうものなのか。
CMプランナーに転職を命じる内容の通達を聞きながら
沸いてきたのは、必要とされ期待されるという高揚感よりも、むしろ失望だったという。
「デザインを精一杯がんばってやってきたつもりだったのに、
俺にデザインをやめろというのか・・・と、その時は思いましたね」
珍しく仕事仲間と酒を飲んで荒れたりしたと、振り返る須田さん。
しかしこの異動が、のちに須田さんの進む方向を
決定付ける大きなターニングポイントとなったことだけは事実だったようだ。
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次回予告/Scene3;
広告人・須田和博氏の場合
TV⇔Web。「画面1枚」の圧倒的な差。
(4月19日公開)