今月もまた月末更新になってしまい、申し訳ありません。なおです。
昨年末亡くなられた中村勘三郎さんに続いて、市川團十郎さんまでもが、この世を去られたというニュースに、(歌舞伎ファンならずとも)ショックを受けた方が多いのではないかと思います。
かくいうなおは、「いつか、一度はナマで見てみたいな」という悠長な関心の持ち方だったので、勘三郎さんが亡くなられた時に続いて、改めて、「いつか」では、チャンスを逃す!と思い知らされたのでした。
(なんだか、近頃一部で流行しているらしいCMの「今でしょ!」みたいですね・汗)
その、市川團十郎さんの本葬が営まれたというニュースに接して、私が注意を引かれたのは、祭壇の遺影の近くに置かれた、「正五位」と書かれた証書の入った額縁でした。
この「位」(「位階」とも)は、現代人にはあまりなじみのないものなのではないでしょうか。團十郎さんに「位」が追贈されたことは、ニュースで取りあげられてはいましたが、さほど人々の注意をひくことはなく、それ以上に葬儀での海老蔵氏に報道の注目が集まっていたわけです(これほどの注目を集める海老蔵氏は、やはり希有な役者さんなのでしょうね)
團十郎さんの「位」は、日本政府が追贈することを決定したものですが、戦前まで「位」は、天皇によって臣下に授けられるものでした。
平安時代においては、「位」は、国家官僚の序列を定める極めて重要なものでした。古語辞典の巻末や、高校の国語便覧に、「官位相当表」と呼ばれる表が付いていたのを覚えていらっしゃる方もいらっしゃるかと思います。おおよそどの位の人がどの官に(実際の職制。「大臣」とか「○○国守」とか)につくべきかを示したものです。
実際には、「位」に相当する仕事がもらえないことも多かったため、どの仕事についているかが、その人の現実的な勢力(資金力や国政における発言力など)を決めるという面はもちろんありました。同じ位であっても、国政の中枢に近い職についている方が、勢力がある、ということになります。
それでも、「官」に比べて「位」がどうでもよかったのかというと、決して決してそんなことはなく、平安貴族たちの「位」への思いは並々ならぬものがあったようです。
この「位」は、「一位」が一番偉くて、「初位」まで三十段階あり、生まれた家柄によってどこからスタートするかが決まります。王朝文学を勉強していると注意されるのが、「六位」と「五位」の間と、「四位」と「三位」の間にある大きな差。
厳密な意味で「貴族」とされ、「公卿」として国政の中心で活躍するのは「三位」以上でしたし、天皇の側近くに侍る「殿上人」となる資格を得られるのは、五位以上です。(六位の蔵人は例外的に殿上出来ますが)。また、平安中期には、「三位」以上を目指せる人々と、「五位」を目指して頑張る人々とが、生まれた家柄や父親の経歴などによって、固定化してくることにも注意すべきでしょう。個人の能力で出世できるわけではないのです。
そして、この位階による区別は、人が亡くなる時にもその「死」を表す表現の差異として現れるのです。天皇・皇后が亡くなることを「崩御」(または「崩」)と言いますが、皇太子・親王・三位以上の臣下の場合は「薨去」(または「薨」)、皇太子・親王以外の天皇家の人々と四位・五位は「卒去」(または「卒」)、六位以下および位のない人は「死去」(または「死」)と表現しました。
研究者によっても異なりますが、私は、論文で史実上の人物や、『源氏物語』の作中人物などが亡くなることを表現する際に、「崩御」(または「崩」)「薨去」(または「薨」)「卒去」(または「卒」)「死去」(または「死」)を使い分けるように気をつけています。それは、人物たちの身分や「位」への敬意ということではなく、そう表現することがより平安時代の制度を踏まえた、正確な記述であろうと思っているからです。
余談ですが、平安文学作品の「死」に関連する論文を書いた時には、先にあげた「死」を表す表現を使い間違えていないか、胃がきりきり痛みました。(当時のノートを見ると、「藤壺 崩」みたいな殴り書きがたくさんあります)
「階級社会って、ほんと、しんどいんだな」というのが、平安時代文学を勉強してきた私が常々思うことなのですが、学部の一年生の時に、身分や位階によって「死」を表す語が違うことを学んだ時の驚きは、本当に強烈なものでした。
前近代の身分制社会に、法のもとの平等などあったものじゃなく、人の「死」でさえも身分や「位」によって厳密に区別されるということを、早い段階で意識できたのは、私の平安時代に対する理解を大いに助けてくれたように思います。
実は、「位」には、生前に授けられ功績によって昇進していくものと、死後に贈られるものとがあって、後者は「贈○○位」と言い区別されています。記録を見ていると、「薨」「卒」「死」の区別は、生前の位階によるようです。ですから、戦後、「位」が死後追贈のみになった以上、「死」を「位」によって区別することもなくなったと言えるのでしょう。
そんなわけで、市川團十郎さんが「卒去」した、とは平安時代でも現在でも言わないと考えられますが、現在、「位」というものが、人々の注目をさほど集めないものになって、「位」によって「死」ぬ人と「卒去」する人がいる、ということがないことに、なおは正直ほっとしています。
こんにちは。諒です。
2月も終わりと言うのに、寒い日が続いて悲しくなってきます。そんな毎日ですが、心魅かれるニュースがひとつ。
宮内庁が管轄している陵墓への立ち入り調査が近年、徐々に認められるようになってきています。2月20日には箸墓古墳に研究者が入って見分を行うと、大きく報道されました。箸墓古墳は、現在の奈良県桜井市にある全長280メートルの立派な前方後円墳で、3世紀中ごろに建造された、古墳時代前期を代表する古墳です。第七代孝徳天皇の皇女 倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)の陵墓と治定されています。
今回の調査、とってもロマンを掻き立てられる魅力的なニュースなのですが、私個人が残念に思うことは、この古墳を「倭迹迹日百襲姫の箸墓古墳」として正面から紹介する報道が全然無いことです。
まあ、いつものことと言えばそうなのですが、この古墳に対するメディアの注目は、専ら邪馬台国の女王 卑弥呼の墓かどうか、その証拠が出てくるか、ということに尽きます。
はっきり言いまして、そんなこたどーでもいい、と思うわけです。個人的には。もちろん、調査の結果として邪馬台国を証明するようなものが見つかれば(何がそれに当るのかは専門家ではないのでわかりませんが…)大層、面白かろうと思いますが、「箸墓」を調査すれば卑弥呼がわかる、みたいな先入観に満ち溢れた報道は、却って古墳の魅力を損ねているような気がします。それよりむしろ、「箸墓」の伝説を有する古墳であることの方が、よっぽど興味を魅かれるのです。個人的には。
倭迹迹日百襲姫は、『日本書紀』によれば、第十代崇神天皇の世に亡くなりました。その時の話が、以下のように伝わっています。
倭迹迹日百襲姫は大物主神(三輪山の神。箸墓はこの山の麓にあります)の妻となります。しかしこの夫、夜にしか通ってこないために、姫は未だ夫の姿をはっきりと見ていなかった。そこで、夫である神に「お姿を見たいので、明るくなるまで留まってくれないか」と頼みます。神は承諾し、「櫛笥」(櫛を入れる笥)に居よう、と言いました。また、同時に「願わくは吾が形にな驚きそ」(私の姿に驚かないでおくれ)と驚くことを禁じました。
さて、明るくなってから姫が櫛笥の中をのぞきますと、そこには「美麗(うるは)しき小蛇」がおりました。姫は驚きのあまり叫んでしまいます。すると神は、「お前は我慢せずに私に恥をかかせた、私もお前に恥をかかせよう」と言って空を踏みとどろかして山へ登って行ってしまいました。姫はそれを仰ぎ見て後悔し、尻餅をついたところに箸を突き刺してしまい、亡くなったのです。
そのため姫を葬った墓を、「箸墓」といいます。この墓は、日中は大坂山の石を人が手から手へと渡して運んで造り、夜は神が造り、そうして築造されたものなのです。 (『日本書紀』崇神天皇十年九月条)
『日本書紀』には、これ以降、「箸墓」の付近であった戦のことなどが書かれてあって、その記事から位置を察するに、現在の「箸墓」が、『日本書紀』編纂当時から既に「箸墓」と呼ばれていたと考えられています。また、周辺に残る古墳の石が、実際に大阪府柏原市から運ばれたものであることが材質の調査からわかっています。
古墳が、ほんとうに倭迹迹日百襲姫の墓かどうかはわかりませんが、伝説の背景には、三輪山や「箸墓」が信仰(祭祀)の対象であったり、築造の秘話が存したりして、それらは決していい加減なものではありませんでした。伝説は、「今」、目の前にあるものに対する理由づけであったのです。
現在、考古学の方法で、かつて伝説からは遺漏した、被葬者や築造の実態という、古墳に関する新たな説明づけが可能となりました。しかし物証をもとに考察される実態は、伝説に相反するものではなく、人の営みとして伝説と相互するものだと思います。思考と実態、といった関係でしょうか。なので、折角、話としても面白い伝説が残っているのですから、邪馬台国ばかりでなく、伝説と実態との関連性や齟齬が、どんな風に明らかになって行くのか、そうしたことに夢を見てもよいのではないかな、と報道を見ていて感じたのでした。
何やらまた感想文になってしまいましたが、感想ついでにもうひとつ、残念なこと。
某局のニュースでアナウンサーが、「ヤマトトトヒモモソヒメ」をお約束通りに噛んでいました。確かにこの名前、「ト」が三回、「モ」と「ヒ」が二回も出てきて、まるで暗号のよう。でも、こうした名前を覚え(別に覚えなくたっていいんですけど)、すらりと言うことのできる方法があります。
上代文学にあらわれる神名はほとんどすべて、意味があります。どういう神なのか、名前でわかるようになっているのです。全てではありませんが、同じことは人名についても言うことができます。名前が複雑且つ長いのはそのためです。まあ、現在では意味のよくわからない名前も沢山あるのですが。
倭迹迹日百襲姫の場合、一部わからない箇所はありますが、大体の構成は分析されます。ヤマトは「倭の」。トトがよくわかりませんが「ヒ」はおそらく「霊(ヒ)」で、トトヒ。モモは「百の」でソに冠されていると考えられるので、モモソ。ソも明確ではありません。全体としては、「ヤマト/トトヒ/モモソ/ヒメ」と区切ることができます。
この区切りさえ知っていれば、喋るのが苦手な私でも、あまり噛みません。リズムもなかなかよいですし。上代神名・人名の発声豆知識でした。
名前については、またこまごまと調べて書きたいと思っています。では、今回はこれまで。
こんにちは。タモンです。
新年始めのジャンクステージの記事ですが、タモンは去年の大河ドラマ「平清盛」についての感想を書こうと思います。タイトルにあるように、「大河ドラマ「平清盛」はなぜ視聴率が悪かったのか?ちょっとだけ真面目に考えてみ」たいのです。
だって納得できないんです。大河ドラマ○○や○○や○などよりも平清盛の視聴率が低い理由が。大河ドラマを見ていて、作り手側の熱意やチャレンジ精神を随所に感じましたし、俳優陣の演技にも引き込まれるものがありました。そりゃあ、内容を突っ込もうと思えば突っ込みどころは満載ですよ。でも、そんなこといったら↑の方がよっぽど……と訴えたい。
なので、だいたい不真面目に、ちょっとだけ真面目に、平清盛の視聴率が悪くなってしまった理由をつらつら挙げてみようと考えました。
◆ タブーに挑戦したから
まず思いつくのがこれ!作り手のチャレンジ精神が裏目にでて、視聴率が悪くなったとタモンは考えています。昨日テレビ番組で、コメンテーターが「制作が目指したクオリティが高すぎた」ことを指摘していました(正確な引用ではないけど、発言の主旨はあっていると思う)。「画面が汚い」発言が注目を集めましたけど…。『源氏物語』の映画を見過ぎなんじゃないの。制作者の目指した高みに視聴者がついていけなかった典型といえると思います。タモンは彼らにめげてほしくない!
ここでいうタブーとは主に天皇家に関するもの。
前半のクライマックスは保元の乱・平治の乱でした。
前半の主な天皇家の人間模様として、
①白河上皇が孫・鳥羽天皇の妻と関係をもち、崇徳天皇が生まれる。
②息子・崇徳天皇(ホントは甥)と父・鳥羽上皇(ホントは叔父)が戦を起こす。
③後白河法皇はエキセントリックなアダルトチルドレン。明治時代風だと高等遊民、現代風だとニートなオタク。
などが描かれました。③は知らないけど、①と②はほぼ確実な事実と捉えられています。でも、中学高校の歴史・古典の授業で習っている人はあまり多くはないんじゃなかろうか。視聴者の基本的知識があまりない時代だったということもやはり大きかったと思うんだよなあ。
めちゃくちゃな家族関係に加えて、美福門院の野心や西行の恋心などが絡んでくるわけです。これら①~③の要素を今回のように描いたものって、これまであったでしょうか。少なくとも、ここ12、3年は院政期を扱ったことがないと思います。とくに①と②について、天皇家のこのような家族関係を描くこと自体に生理的嫌悪をおぼえた人がいたのではないか、と推測しています。生理的嫌悪って理屈じゃないから。天皇家の人間が少し踏みこんだ発言をしただけでマスコミが大騒動するのが現在の風潮ですよ。肉親同士が骨肉の争いをする展開に面食らった人も多かったのではないか、と。で、皇子を③の感じに描くのも新しかったのでは?と思います。タモンの師匠の話だと、後白河法皇の芸能好きを描いた大河ドラマは初めてだ、ということでしたが、ホントですか?(半信半疑)。ホントにそうだったら、この描き方が、戦後の歴史学・日本文学の研究の成果が反映された好例になると思います。
◆ 制作者側の視聴者層のターゲットと、実際の視聴者層が食い違っていたのでは……
タモンは大河ドラマの視聴者層は中高年だと思っています(去年、タモンは中年層に片足を入れました。両足入れたとは考えたくない。嗚呼)。そのなかでも中高年の保守層が視聴者として大河を支えていると勘ぐっています。そうすると作り手のチャレンジ精神があだとなってしまうわけですよ。大河のメインの視聴者層が10代~20代だったならば、もっと視聴率が高かったはずだと思えてなりません。とくに若年層の歴女ね。
放映前から特定の集団から抗議がきていたようですが、「王家」の表現がクローズアップされ多くの視聴者が知るところになったのは、イヤなことには関わりたくない(思考停止したい)空気が広まった結果だと思います。
若い視聴者に大河ドラマを見るための1つ提案をしたいです。それは、教科書みたいな大河ドラマを作ってみるということ。最近の大河ドラマは中高年層よりも若年層をターゲットにしているような感じがします。違うかなぁ。その狙いがはずれている感じがしちゃうんですよね。これは研究者Nがいっていたことの受け売りなのですが、若い俳優を主人公に登用したり、「親しみやすさ」や「面白い」ドラマ作りをしたりして若年層にアピールするよりも、受験に役立つをスローガンに作れば多くの中高生が見るようになると思うんだけどなあ。勉学においてもギブアンドテイクの理屈が浸透した世代には、「これは自分の役に立つ」と思わせることが大事だと思うのですが……。どうでしょうね。
タモンの周りも、様々なツッコミがなされました。あーじゃない、こーじゃない、という文句がいっぱい聞かれました。でもこれ、期待値の裏返しだったと思います。戦国時代のドラマでこんなに話題になることなんてないもんな。全部スルーです。一回、「平清盛」のクオリティで教科書みたいな大河ドラマ(=ドラマとしてはめちゃくちゃつまらないけど、受験生の役に立つドラマ)を作ったらどんなものができるか面白そう。NHKしかできないよ。
◆ つぶやいておきたいな、男色について
タブーといえないけど男色かなぁ…。大河ドラマを見る中高年層は藤原頼長の男色をどのように感じたか、だな。まあ、ちょっとしか描かれてなかったので、これを拡大解釈するわけにもいかないけど。ただ、頼長の人となりを表現するために男色を描くことが必要不可欠な要素と思うのですが、今までの大河ドラマで頼長の男色を描いたことってあるんですかね。一般視聴者にとって頼長の男色をどのように感じたのかは気になるところ。これも何となくイヤと感じる人は感じると思うんですよ。まあ、欧米に比べて少ないとは思いますが。中世を勉強していたら、あの時代に武士同士だけでなく、貴族同士の男色も当たり前だったって知っているけど、藤原頼長が平家盛を押し倒した場面を見て驚いた人も多かったのでは。放映前にもっと腐女子にアピールしていれば……!!(笑)あ、頼長は木曽義仲の父義賢と男色関係を結んでもいる(彼の日記『台記』に記述あり)。
◆ 平清盛について、視聴者が共有する「物語」がなかったから
『平家物語』以降、平清盛は悪役として文芸に描かれ続けました。中学・高校の古典か日本史の授業で『平家物語』「祇王・仏御前」のエピソード、「あっち死」の死に様など、を習った人が多いと思います。また、浄瑠璃・歌舞伎では清盛が悪役、重盛が善役と役割が一貫しています。なお、「判官びいき」の慣用句通りに源義経は時代を超えて人気を集めましたが、彼を殺した源頼朝も文芸の世界で人気がありません。
一般的に、平清盛のイメージは、武士ではじめて太政大臣になった人物、驕れる平家の象徴、といった知識でしょう。しかし、坂本龍馬や織田信長などがなした、いわゆる日本人が好きそうな「物語」が平清盛にはない。大河ドラマ以前、鎌倉時代以降、数百年にわたって定着し続けた平清盛=悪役というできあがった知識しか私たちは共有していなかったのでした。
そもそも平清盛に愛着を感じている人があまりいなかったということですね。愛着を感じる以前に悪役だったんですもんね。
平清盛を主人公にした小説がベストセラーになっていて、それをドラマ化という流れだったら、ちょっとは違っていたと思うんです。
あ。『平家物語』で平清盛が一番好きという友人R(アメリカ人)を知っています。この人の発言を一般化はできない(笑)
◆ 平清盛の出生の設定について
これも受け売り。ドラマのなかで清盛は忠盛の意志を継ぎ「武士の世をつくる」といっていますよね。
でも、清盛は白河上皇の息子という設定でした。天皇の血筋の人間が武士として貴族の世に立身出世していくことは、根本的な世の中の仕組みを変えることにはならないのではないか、とも考えられるわけです。清盛は、孫の妻と関係を持った白河上皇の息子というわけですから、大きな意味で天皇家のドロドロした人間模様のひとつにしかすぎない側面もある。それだと、庶民の共感が得にくいとも思うわけです。豊臣秀吉みたいに「わかりやすい立身出世譚」にしたほうがよかったんじゃないですかね。つまり、清盛を忠盛の実の息子にしたほうが、よっぽど清盛の出世譚に視聴者は素直な喝采をおくれたはず。
最終回間近で、清盛の出世・平家一門の栄華は白河上皇への「復讐」だったのだ、という台詞がありましたね。一年間のドラマの裏テーマが「復讐」。ねじれたルサンチマンがテーマにあったわけです。「ちりとてちん」でも思ったけど、この脚本家は自分で作った設定を自分で壊したくなる破壊衝動を持った人なんだろうか。主人公が最後の方で落語家やめて「みんなのお母ちゃんになりたい」っていう台詞は私をたまげさせた。母にいたっては「私の40年間はなんだったんだ」とつぶやいた。高齢者の元キャリアウーマンは、若い世代の脚本家(たぶん。藤本有紀の年齢がわからないが、60歳を過ぎていることはないだろう)がこの台詞をヒロインに言わせたことがだいぶショックだったようだ。タモンとしては、この脚本家は「人は時とともに変わる」ことを冷徹に見つめている人なんじゃないかと睨んでいる。もっとルサンチマンを前面に押し出したテーマのドラマを見てみたいなーー。
以上、思いつくままに挙げてみました。
2013年の大河ドラマは「八重の桜」。綾瀬はるかが好きなので、第一回目を見ようと思います。絶対、絶対、クオリティを下げてほしくない!したたかに丹念に作り続けてほしい!綾瀬はるかの可愛さと天然ボケをめくらましにして、明治政府に冷遇され続けた会津藩の絶望的な苦労とか、明治時代の黒歴史を(さりげなく)描いてほしい(笑)!!「両性の平等」が憲法に記されておらず、女性が差別されるのが当たり前だった時代背景のうえで、ハンサムウーマンと呼ばれるまでに闘う女となった八重の人柄とかさーー。まあ、もう脚本はできあがっちゃっているとは思うのですが、期待しています!!
こんにちは。諒です。最近大忙しです。貧乏暇なしです。
というわけで、色々と手をつけられないので、今回の話は最近、調べ物をしていて気がついたことです。
剣の神話や伝説は、世界中に見られますが、わが上代文学も例外ではありません。有名なのは、ヤマタノヲロチの尾から出てきて、のちにヤマトタケルが佩した「草薙剣」ですが、他にも、アメワカヒコという神が建物を切り伏せた「オオハカリ・カムト」という剣の話や、無理やり朝廷に収められたことを嫌って、勝手に淡路へ移動した「出石の小刀」という剣の伝説などが見られます。また、タケミカヅチという神は、記紀神話に見られるところによれば、剣の神と理解されます。
タケミカヅチは、イザナキがカグツチという神を斬った時に、その剣から滴る血から生れた神とされます。武神であり、天孫降臨に先駆けて国土平定のために高天原から派遣されていますが、この時に使った剣はのちに、タケミカヅチの代わりとして神武天皇のもとに下されるのです。タケミカヅチの霊威は、剣に具現化されるものでした。
剣の威力は雷や蛇に対する脅威の表現と類似していて、そうした強大な威力を発揮したり、勝手に移動したり、不思議と刃こぼれしなかったり、神であったり、祀られたりする特別な剣に対する伝説の存在は、古くから剣に霊力が認められていたことを示し得ています。剣の神話や伝説を外国のものと比べた時、ある相違が見られることにふと気がつきました。たいへん大まかなことで、厳密に見るとそうではないのかもしれませんが、私の調査の範囲で気がついたことです。
それは、鍛冶師との関わりです。
表現上の関係性を考察するために、しばしば漢籍を参照しますが、中国にも古い霊剣の伝説が多く見られます。どのような由来の霊剣なのか語られる時、大抵示されるのが、当代に類をみない鍛冶師が制作し、霊力がこもった、ということです。その場合、剣の霊力は鍛冶師と不可分で、制作されたまさにその時、霊力が宿ったのです。
中国以外にも、例えば北欧神話のバトラズという神は、タケミカヅチと同様剣の神で、剣と命運を共にすることはヤマトタケルとも類似します。ところが彼は、身体に焼きを入れることで不死身の武神となった、まさしく剣そのものと性質を同じくする神でした。
もちろん、外国のものにも鍛冶師が話に登場しない伝説はあるのですが、日本の上代文学の場合は、剣の霊力が示される場合は専ら、如何に使われたか、ということが問題となっていて、鍛冶師が剣の性質に関わる話が見られません。剣の神であるタケミカヅチですら、剣は分身としての所有物なのです。これは、漢籍など盛んに受容された状況に鑑みても、上代に特徴的な在り方として見てよいのではないかと思われます。
霊剣と鍛冶師の関係は、別のことを考えていて気がついただけなので、今後、何かの考察に繫がるのかどうかは自分のことながら不明でありますが、覚書程度に記してみました。
2012年の衝撃は2012年中に書いてしまおうと、年の瀬更新をします。なおです。
「衝撃」とは、自分の話した(単純な)日本語が通じなかったことなのです。 ああついにこの時が来たか、という感じです。
一般に、私たち古典文学研究者(および見習い)の話す日本語は、保守的であり規範的であることが多いです。
理屈としては、文学研究者は、文学の研究さえまともにやっていればそれで良いので、高校までの学校の先生たちが求められるような、漢字を正しく書けるとか、規範的な日本語を話せる、ということは守備範囲ではないはずなのです。 高校までの教科である「国語」と、学問としての「日本文学」は別物であると考えるのが正しいと思います。
(ちなみに、私が習った日本語学(日本語を研究対象とする学問)の先生は、世の教育ママたちが熱心にこだわる「漢字の書き順」には学術的根拠がないと断言していました。日本語学と「国語」の間の断絶も深そうです・・・「漢検」には書き順が出るんですよね・・・)
とはいえ、多くの古典文学研究者の見習いが、修業時代のアルバイトとして中高で「国語」を教える仕事をしていることもまた事実で、そのような場合は、生徒との何気ないやりとりであっても、「ら抜きことば」などの、規範から外れることばは用いないよう、かなり注意して話すことになります。
また、大学にポストを得られたとしても、教員として教壇に立つことには変わりがないのですから、やはりある程度規範的な日本語を話す努力をするのが教育的に正しいのでしょう。
それから、古典文学が好きで勉強しているくらいですから、「日本の古いもの」を愛する傾向があって、新しいことばよりも、やや古めかしいことばや言い回しに愛着を感じがちであるという、好みの問題も指摘できるだろうとは思います。
しかしながら、一方で、わたしたち古典文学研究に携わる者たちは、「ことば」というのがいかに変化するものであるかを、日々実感させられてもいます。 私の場合は、『源氏物語』をはじめとする千年昔の日本語を読み解くのが研究課題ですから、現代語との距離の遠さに苦しんだり、でもそれがおもしろかったりしています。
よく、NHKなど「規範的な日本語の権威」と考えられている機関が、慣用句などのことばを「誤用」したとして、抗議や注意の電話が殺到するということがあるようですが・・・ことばの「正確さ」とは、何を根拠にしたらいいのでしょうか。実はこれは結構やっかいなのです。
特に、文化庁が毎年調査結果を公表している「国語に関する世論調査」で取り上げられるような、語義の移り変わりの過渡期にあることばの場合、本来正しいとされる語義と、新しく受け入れられつつある語義と、どちらが「正しい」のかは、かなり微妙な問題です。
たとえば、平成23年度の調査では
「煮え湯を飲まされる」 の語義として、本来の意味とされる(ア)「信頼されていた者から裏切られる」を選んだ人が64.3%いますが、(イ)「敵からひどい目に遭わされる」を選んだ人も23.9%います。
この場合、本来の意味がまだ優勢といえますが、2割強の人には異なるニュアンスで伝わる可能性があるということです。
一方、「うがった見方をする」の調査では、本来の意味とされる(ア)「物事の本質を捉えた見方をする」を選んだ人は26.4%、(イ)「疑って掛かるような見方をする」を選んだ人が半分近い48.2%。
白状すれば、私なおも、(イ)の意味で使っていました。
「にやける」に至っては、本来の意味とされる(ア)「なよなよとしている」を選んだ人はわずか14.7%、
(イ)「薄笑いを浮かべている」が76.5%と、(イ)の意味がかなり優勢になっています。
難しいのは、ことばは「本来の意味」であれば正しい訳ではない、ということだろうと思います。
「美しい日本語を子供に伝える!」というような議論も、まあ結構だとは思いますが、ひっきょう、「ことば」はなによりも第一に伝達の手段なのです。 伝えようとする内容が、たいていの人に伝わらなくなった時点で、そのことばの意味は変化した、もしくは「死語」になったと考えるべきでしょう。
乱暴な言い方ですが、ことばが「正しいか」「正しくないか」は、通じるか通じないかによって决定しているという面があります。言ってみれば、日本語話者たちの、多数決の世界です。日本語は長い間、そうやって変化してきたのです。
というわけで、なおは、研究者見習いの冷徹な目(?)で「ことばの本義」にこだわる批判を「だったら、古語で話せば!?」と、冷ややかに見ています。NHKなどのことばの「誤用」が取りざたされるのも、多くの場合、ことばの「本来の意味」にこだわりすぎているか、好みの問題の場合かが多く、「誤用」と言い切れない例が多いように思うのです。
(一方で、NHKアナウンサーが、クイズ番組かなにかで「「弱冠」ということばは、20歳の男子にしか使わないでください」と言っていたのを見て、唖然としたことがあります。これなどは、述べてきた「本来の意味」にこだわりすぎた、極めて偏った主張でしょう。かなり「規範的」な辞書である『日本国語大辞典』でも、(2)の意味として、「年齢の若いこと。若年。」を挙げています。)
とはいえ・・・自分のことばが通じない時にショックを受けてしまうというのもまた事実で・・・
先日ついに、「日本語が通じない」という経験をしてしまいました。
あるファストフード店でのこと。
アルバイトの若い男性が(多分マニュアル通りに) 「こちらで召上りますか?持ち帰りますか?」と聞いてくれたので、なおは、 「こちらでいただきます」と答えました。
ところが、どうも様子がおかしい。この人なに言ってるんだろう?という顔を男性はしています。
繰り返して「ここでいただきます」と言ったら、「テイクっすね?」と確認されました。
今度は、私が??です。「テイク」って何?という状態です。
結局、店内で食べようと思っていたハンバーガーその他が持ち帰れるように、包まれようとしているのを見て、自分のことばが意図したとおりに伝わらなかったことを理解したのでした。
なおが、「こちらでいただきます」と言ったのは、「こちらで(=店内で)いただきます(「食べます」の謙譲語)」というつもりでした。
一方、お店の男性は「こちらで(カウンターで)いただきます(受け取ります)」と理解したのだろうと、後になって分析してみました。(もちろん「テイク」は、「テイクアウト」の略語です。) 「食べる」の意味で、「いただく」を使わなくなってきたことが、コミュニケーションの失敗の原因だったのだろうと思います。
と、今では冷静に(?)分析していますが、自分のことばが通じなくなったというのは、実に苦い感慨を伴うものでした。ちょうど自分が中年と言われる年齢にさしかかりつつあるのと時を同じくして、若い人と会話が成立しなくなってしまったというのは、なんとも象徴的で、ショックを受けると同時に、もの悲しさを感じました。
ちなみに、「いただきます」事件(?)の翌日、タモンと会ったなおは、ことのあらましを訴えてみました。
タモンは、「「こちらでいただく」が通じないなんてはずはない」の一点張り。 なおの話をなかなか信じようとしてくれません(事実なのに!!)
ところが。そのタモンもまた、なおと会ったその日に某カフェで、「こちらでいただきます」を、テイクアウトの意味に取られる、という経験をしてしまったそうです。
私の使う日本語が正しいのだ!と胸をはって「こちらでいただきます」を使うか、伝わるように「店内で食べます」と言い換えることをするべきか、悩ましい年の瀬です。
今年も一年Junk Stageにコラムを連載させていただいたこと、らっこの会を代表して感謝申し上げます。
皆さまどうぞ良いお年をお迎えください。
こんにちは。タモンです。
今年も残りあと一ヶ月。大掃除、年賀状、忘年会と、「年末にやることリスト」をメモしはじめました。見たい映画と読みたい本もたくさんあります。なかでも映画「のぼうの城」・「エヴァンゲリオン」と宮部みゆき『ソロモンの偽証』が気になります。
今日は、「日の浦姫物語」@シアターコクーンの感想を書きます。(小町についてはまた改めて……)。
井上ひさしの描いた説経節が34年ぶりに上演されると知り、びっくり。さらに大竹しのぶと藤原竜也が出演して、蜷川幸雄演出と知ったら頑張っていくぞ!と思い、行くことにしました。ときには気合いと勢いって大事だよなぁって、しみじみ思います。
【あらすじ】(パンフレットより)
薄汚れた説経聖と赤子連れの三味線女が語るは、『日の浦姫物語』なる説経節。
平安時代、後一条帝の御代。奥州は米田庄を束ねる御館の主・藤原成親と園子夫妻が、待望の子を授かった。
母の命と引き替えに生まれたのは美しい双子の兄妹。
世にも仲睦まじく育った稲若と日の浦姫が、十五歳となった夏のこと。
父・成親が亡くなったその日、麝香の香に我を忘れ、二人はあえなく禁忌を犯す。それが不孝のはじまり。
たった一度の交わりで日の浦は稲若との子を身籠もった。恐ろしい事実を知った叔父の宗親は二人を引き離す。
それは恋する二人の今生の別れだった。
月満ちて珠のような男の子を産んだ日の浦に、さらなる試練が待ち受ける。
地上に居場所のない罪の子は小舟に乗せて海に流され、神と仏に運命を委ねることになった。
日の浦の手紙を入れた皮袋と鏡を添えて。
それから十八年。
米田庄の主としてひとり身を守る日の浦の前に、魚名と名乗る若武者が現れた。
傍若無人な金勢資永一党から米田庄の窮地を救った魚名を、人々は日の浦の夫にと切望する。
無垢なる魂をもつ日の浦は、宿命の濁流にのみこまれていく……。
【感想(ネタバレあり)】
タモンとしては、この舞台の圧巻だったのが説経聖役の木場勝己。木場の語りに絶妙な合いの手を入れる立石涼子もすごかった。
「語句」がひとつひとつ聞き取れる語りにうっとりした。なめらかで、抑揚があって、ニュアンスが伝わって……語りの醍醐味を楽しむ。そんな語りでありつつ、放浪の説経聖=物乞いをする者が持つ粗野な感じ、人にへりくだる感じ、下卑た笑い方。これから展開される舞台の雰囲気を見事に体現されていたと思う。
藤原竜也(30代)と大竹しのぶ(50代?)が双子という「物語」ゆえの大・大・大冒険!。舞台ならではの面白さだ。
稲若が日の浦姫の胸を思いっきりまさぐったり、ラブシーンを演じたりしていたが。
主人公の二人は15歳。若さゆえの過ちか。近親相姦。そのエロさ・卑猥さが確かにあった……というより、そういう猥雑な設定がカーニバルのように繰り広げられている感じ。狂騒と嬌態がミックスされた雰囲気。
物語の骨格としては、あらすじで記したとおり、ジェットコースターのように次々と波瀾万丈の展開がやってくる。
舞台はほぼ「笑い」に包まれて進む。
蜷川演出では本来ならシリアスな場面でもそこかしこに笑いが散りばめられていた。ここで笑っていいのか!?という場面でだ。
一番驚いたのは、(以下、ホントにネタバレ)
日の浦姫が夫・魚名がわが子であると気づいた場面だ。その時、日の浦姫のお腹には魚名との子を宿していた。日の浦姫は、ひとりで必死に考える。魚名はわが子ではないと思い込もうとする。
しかし……「虫が良すぎる!!」。
その言葉を日の浦姫が叫んだ瞬間、会場は大爆笑に包まれた。
……タモンも笑いました。コメディにしていいのか!?とタモンは心のなかでツッコむ。
わが罪におののき、おのれの目を潰した日の浦姫と魚名。
その後、魚名は十八年間もの間、岩の上で生活する。そのため、魚の名にひっかけた言葉しか話せなくなってしまった。っていうハチャメチャな展開は、説経節のごった煮感を表現したかったのだろうか……。笑ってリズムに乗って楽しんだけど、「この後一体どうなるんだ!?」と頭の中はクエスチョンマークだらけ。
でも、「日の浦姫物語」は大団円を迎える。仏のお告げによって魚名は寺の住職となり、さまざまな奇特を民衆に授けるようになる。日の浦姫とその娘とも再会し、めでたしめでたし。
……、と思いきや。
語り手の説経聖と三味線女は兄妹で契り、子までもうけたことが最後に語られる。その罪を償うために「日の浦姫物語」なる説経節を語っているのだと。
わが子に罪はない。どうか今夜一晩の飯が食べられる銭をくださいと物乞う説経聖に、
現代の服装をした人々が、銭の代わりに「人でなし!人非人!犬畜生!」(悪口の内容若干違うかも)などと罵り、石を投げつける。
それまでの笑いはここに繋げるためだったのか、と納得する。
「日の浦姫物語」は物語なら笑えるが、自分の身の回りでおきた出来事ならば嫌悪の眼差しを向ける。自分とは関係のない事件ならば嘆くことができるが、自分の身の回りでおきたことならば眉をひそめる。
蜷川幸雄っていい人なのかもって思った。
舞台でこんなに人間の悪意を剥き出しに演出できる人って、実際会ってお話したらいい人って感じるんじゃないのかなって。まぁ、そんな感想は些末ですね。
文学研究とは(原則として)書かれたものを対象にすること。そこに描かれた人間と向き合うこと。読むという行為を客観化すること。
井上ひさし作品は、人間探求と姿勢と人間という存在への慈しみの眼差しが一貫していると感じる。エンターテインメントでありながら、人間存在とどう向き合えばいいのか、井上ひさしの作品は考えるヒントを与えてくれる。
井上作品を見た後は、日常生活に戻っても、その人のなかの意識がどこかは変わる。そんな力を持っている。そんな力を含めて研究できれば、文学研究の面目躍如なんだろうけど……。
以前、森有正の著作で読んだ「経験」と「体験」の違いについての記述をおぼろげながら思い出すことが最近多い。「経験」を積んだ大人の女になりたいな(…ってすでに十分オバサンの年齢なんですけどね)。
井上ひさしの戯曲をもっともっと見たい。
すっかり寒くなってきました。冷え性のなおには辛い季節です。
先月の予告(?)どおり、和泉式部の「帥宮挽歌群」についてお付き合いください。
和泉式部の最初の結婚の相手は同じ受領階級の橘道貞です。この結婚で、和泉式部はやはり歌人として有名な娘小式部を設けますが、二人の仲が冷め、結婚生活が終わると(終わらないうちに、という説も)、次にお付き合いしたお相手は為尊親王でした。 しかし為尊親王は、わずか26歳の若さで亡くなってしまいます。和泉式部と為尊親王の関係がいつから始まったかは明確ではありませんが、二人の関係は長くても数年のことだったと思われます。為尊親王を失った喪失に沈む和泉式部の姿から、和泉式部の次の恋の顛末を描く『和泉式部日記』は始まっています。 その『和泉式部日記』冒頭で、和泉式部にアプローチしてきたのが、為尊親王の弟、敦道親王でした。敦道親王と和泉式部は急速に接近、和泉式部は敦道親王の寵愛を得るようになります。『和泉式部日記』は、和泉式部が敦道親王邸に迎え入れられるまでを描いています。敦道親王には、身分にふさわしい北の方がいたのですが、和泉式部の親王邸入りの後、北の方は実家に退居しています。結果として、和泉式部が北の方を追い出すような形となってしまったわけです。 和泉式部は、敦道親王に出会う頃には恋多き女として評判になっていたようで、敦道親王の乳母も、和泉式部に夢中になる親王にそのことで苦言を呈したりもしています。 また、このころの敦道親王は、もしかしたら次の東宮になるかもしれない・・・というポジションにいたと言われ、そのような立場の人が夢中になる相手として和泉式部はふさわしくありませんでした。ただでさえ親王と受領の娘では身分差がありすぎたのです。親王が、たまに気が向いたときに関係を持つ、一人前の恋人としては扱われない通い所の一つであればよかったのでしょうが、身分差にもかかわらず二人は強い共感で結ばれていました。ただ、身分差は厳然としてありますから、いくら親王に愛されていて、親王の妻のようであっても、和泉式部の立場はあくまで「お手つきの侍女」です。男主人の寵愛を受ける侍女のことを「召人(めしうど)」と呼んだりしています。
敦道親王邸で親王と生活を共にした和泉式部ですが、敦道親王もまた、わずか27歳で亡くなります。親王邸での生活は、4年ほどでした。 敦道親王を悼んで詠んだ和歌の連作が「帥宮挽歌群」です。(「帥宮」は敦道親王のこと)
後に、和泉式部が藤原道長の娘彰子のもとに出仕した際(和泉式部は、紫式部の同僚だったのです!)、道長に「うかれ女」と評されたというエピソードもある和泉式部、どうやら最初の夫、為尊・敦道兄弟、彰子のもとに出仕後再婚した夫・藤原保昌の他にも複数の男性との関係があったようで、超セレブ貴公子から、身近な男性まで次々とたぶらかす「魔性の女」、あるいは「愛欲にまみれた業の深い女」というようなイメージをもたれても、一面では仕方ないのかもしれません。
しかし、帥宮挽歌群を読んでいくと、和泉式部はむしろ女としての業の深さよりも、作家として業が深かったのではないか、という気がさせられます。 女として次々する恋愛の、喜びや悲しみを糧として「絶唱」といわれる数々の歌を詠んでいったのではないかと。
というのも、この「帥宮挽歌群」全部で120首ほどあるのですけれども、なんというか「やりすぎ」感が漂うのですよね・・・
敦道親王の四十九日を終えて歌を詠む、とか、新しい年を迎えて歌を詠む、とかは良いのです。当時よく哀傷歌が詠まれる機会ですから。ちなみに、大切な人が亡くなった後、新しい年を迎えて悲しみを新たにするのは、現在の「喪中のお正月」の感覚に近いでしょうか。
だけれども、雨が降っても夜にふと目覚めても、梅の花を見ても悲しいと思い、思うのは当然でしょうけれども、その悲しい思いをいちいち歌にして書き記していく。そのような営為の中に、いくばくかの演技性が含まれていないとは言い切れないように感じてしまいます。
たとえば、「頭をいと久しう梳らで、髪の乱れたるにも」(髪の毛をとても長い間梳らないで、髪が乱れているのにつけても)という詞書をもつ次の歌。
ものをのみ乱れてぞ思ふたれにかは今はなげかんむばたまの筋(72番)
(ただひたすら物思いに心が乱れているので、梳ることも忘れた髪もまた乱れたままになっている。今はいったいだれに嘆くことができようか)
・・・。物語の一つの情景としてはまことに美しいのです。最愛の恋人を失って、物思いにふけるあまりに、髪をとかすことも忘れ、乱れ髪のまま、行き場のない嘆きを嘆く女の姿。 凄絶で、妖艶な美しさを感じます。
でもねえ。和泉式部さん。物思いにふけっていてとかすことを忘れたって言っているけど、あなた絶対気付いていたでしょう、髪が乱れているの。もしそうじゃなくても、歌詠む前にまずは髪をとかそうよ・・・
というような、突っ込みを入れたくなってしまう、ちょっと行き過ぎた悲しみの表明がなされている歌が、「帥宮挽歌群」には結構見受けられます。(悲しみを表現する様々な状況を「ネタ」にして歌を詠んでいくというような・・・だいたい、和泉式部が「黒髪の乱れ」の美しさを詠む歌人であることは、有名な訳で・・・)そしてこの歌のような、うつくしい歌が多いです。
和泉式部がどうしてこのようなうつくしい哀傷歌の連作を詠み得たか、理由は単純ではないのでしょうけれども、悲しみをただ率直に吐露しても決して今の我々の胸をうつ歌にはならなかったでしょう。かといって、和泉式部が敦道親王の死を悲しんでいないわけではもちろんありません。ただ、悲しみを昇華して、よりよい和歌を詠もうという心意気のようなものが(演技性とか、少々の嘘っぽさとかが)、透けて見えてしまうこともまた、指摘できるだろうと思います。
圧巻は、挽歌群の終わり近くに配される46首の連作。悲しみが尽きないので、思ったことをそのまま書き集めたものが、歌のかたちであった、という説明の後「昼しのぶ」「夕べのながめ」「宵の思ひ」「夜中の寝覚」「暁の恋」と題を分けて、(つまり一日中かなしんでいたということ!!)十首前後の歌を配列しているのですが・・・背景に見える作為性に、とても「自然に心に浮かんだことば」をそのまま書き留めたとは思えません。 あなた、絶対に一日のそれぞれの時間ごとの歌を考えて詠んだでしょう!!と言いたくなってしまいます。
「帥宮挽歌群」についてと言いながら、1首しか歌の紹介が出来なかった・・・ 機会があれば、今度はもっと具体的な歌をご紹介したいです。 ちなみに、「帥宮挽歌群」、一番手近に見られるのは、岩波文庫の『和泉式部集・和泉式部続集』なのですが、今は古本でしか手に入らないようです。角川ソフィア文庫『和泉式部日記』には、付録として「帥宮挽歌群」が載せられていますので、興味のある方はそちらもおすすめです。
こんにちは。諒です。
寒いです。もう冬です。冬眠です。さようなら。
…と言いたいところなのですが、年末が近づくにつれて焦りだすのはいつものこと。今年もまだ何もやっていないと気がついて、論文を書かねばと思いながらも、その前に文章の書き方を練習しよう、とか別の方向に逃げだすのもいつものことです。でも、言いわけでも、思い立ってしまったのだから、その手の本の一冊ぐらい読んでもよいはず。
さて、知り合いにマニュアル人間というのが居りますが、私はまったく逆なタイプです。なぜマニュアル的なものをあまり好まないのかというと、型というのは、いろんな事象から見出されるものであって、始めにあるものではなく、それを人が見出したからと言って受け入れ難いヨ、という理屈を持っているため。と信じています。決して面倒だからではないはず。素直に捻くれているだけのはず。
しかし、何か上達しようと思ったら、やはり先達に倣うことも大事で、今さらながら、文章の書き方の本などを手にとってみたわけです。読んでみたのは、
板坂元氏の『考える技術・書く技術』
という本です。はじめの「考える技術」では、カードの取り方やその整理法を紹介するのはもちろん、著者が実践している、文房具の集め方だとか日常さまざまなものへの視点の向け方だとか、まあ、それは個性の範疇では…と思われるようなものの紹介までされているのです。内容がこれだけであれば、若干がっかりするところですが、「書く技術」の方はさすがに読み応えがあったように思います。著者がアメリカ在住のせいなのか、近世文学の専門だからなのか、非常に合理的で、文章の全体の構成の取り方から、強弱のつけ方まで、構造的に分析し、明解に示されています。
その中で、例文の豊富さ、多様さとその利用の仕方が、何というか、とても自然であること驚きました。普段、論文を書くときに、資料ばかり出して文脈がなかなか整わない自分は、本文の書き方にむしろ興味を覚えたのでした。多少品の無い事象例が見られるものの、内容が損なわれるほどではありません。バリエーションのひとつと捉えれば、まあ…。
しかし、この本によく引用されている、思考整理法のひとつ、「KJ法」の名称の由来が、発案者川喜多二郎氏のイニシャルであることを知った時が一番盛り上がりましたかね。
普通に勉強されている人々にとっては、読んでいて(知っていて)当たり前の本なのかも知れませんが、教養の乏しい自分にはなかなかおもしろかったです。
あ、役に立ったか(読者にとってよい文章が書けるようになったか)は、あくまで別の話です。
読んだ本のことはあまり書かないと言いながら、またやってしまいました。しかも漠然とした感想を…。そして上代と関係ないや。次回は専門の方で。
寒くなってきましたね。朝起きるのが辛くなってきたなおです。
タモンが、中世における小野小町伝承について書いているので、便乗?して、小町と並び立つ女流歌人である和泉式部について書こうと思っていたのですが・・・
私事がばたばたしており、コラムとしてまとまりのある文章が書けませんでした。
更新が滞って申し訳ありません。
和泉式部は、中世ではタモンが書いているように、説話的な人物で、能の題材になったりもしているのですが(「東北」「誓願寺」など)、中古を勉強する人間にとっては、歌人として、ものすごく重要な人物なのです。(もちろん、そのはなやかな男性遍歴や、敦道親王との恋を書いた『和泉式部日記』も関心を集めていますが・・・)
特に、彼女が敦道親王を亡くした後に詠んだ一連の和歌群、「帥宮挽歌群」と呼ばれている和歌(全122首)は注目に値します。
この「帥宮挽歌群」、もちろん最愛の親王を亡くした悲嘆を歌っていくものなのですが、その悲しみの隙間から、「この悲しみをネタによりすぐれた和歌を詠んでやる」といった?(下品ですみません)、作家だましいというか、創作する者の業の深さというかが、かいま見えて、とても興味深いのです。
くわしくは、来月また。(すみません・・・)
こんにちは、タモンです。
雨が降ってきました。風も吹いているようです。
台風は今夜がピークですね。
前回、小野小町の歌を三首取り上げました。
今回は、小野小町の伝説をめぐって書こうと思います。
小町の墓は、全国に何カ所もあります。
晩年の小町は、浮き草のように放浪したという伝説からでしょう。
全国各地の小町伝説を調べた本があるのですが、とても分厚いです。それくらい、小町の伝説はたくさんあります。
本当の小町がどんな人だったのか、ということよりも、
なぜ小町はこれほどまでに人々の興味を惹きつけたのか、について焦点を当てたいと思います。
小町って、「女」なんです。
小町について、
①「結婚」をしなかった、
②「家」をもたなかった、
③「子ども」をもたなかった、
という当時の女としてどれか一つは持たないとマズいものを何も持たなかった人物として認識されていたと捉えるといいのではないか、と思います。
情熱的な恋歌を詠んだことから、男たちを弄んだ恋多き「女」としてもイメージが生まれたのかもしれません。
小町よりも少し後の時代の歌人・和泉式部も恋多き女性として知られています。
和泉式部は、兄・為尊親王と恋愛し、兄の死後、弟・敦道親王と愛しあうようになったことがスキャンダラスな恋愛として語られている人物です。
小町のよりも、式部の方が、知られている恋愛の華やかさは上だと思います。
しかし!!、男たちを弄んだために、小町の晩年は無惨なものだったという伝説は、和泉式部よりも多く作られていると思います。
(……っていっても、和泉式部も、御伽草子に、そうとは知らずわが子と契りを結んでしまう式部の物語が作られているわけですが。)
二人の違いといったら、小町は子どもを持たず、式部は子どもを産んでいるんですね。
これが大きかったんじゃないか、と私は想像しています。
ではまず、小町が無惨な晩年をおくったという説話を見ようとおもいます。
『十訓抄』(鎌倉時代の説話集)で、小町は宮中で華やかで浪費した生活をした報いなのか、家族を次々と失い、晩年は貧しい生活を強いられたことが書かれています。
『十訓抄』二ノ四
小野小町が少(わか)くて色を好みし時、もてなされしありさま、ならびなかりけり。『壮衰記』(『玉造小町子壮衰書』)といふものには、
三皇五帝の妃も、漢王周公の妻(め)も、いまだこのおごりをなさず
と書きためり。
かかりければ、衣には錦繍のたぐひを重ね、食には海陸の珍を調(ととの)へ、身には蘭麝(らんじゃ)を薫じ、口には和歌を詠(なが)め、万(よろず)の男を賎しくのみ思ひ下し、女御、后に心をかけたりしほどに、十七にて母を失ひ、十九にて父におくれ、二十一にて兄にわかれ、二十三にて弟を先立てしかば、単孤無頼のひとり人(うど)になりて、頼むかたなかりき。いみじき栄え、日々に衰へ、はなやかなる形、年々にすたれつつ、心かけたるたぐひも、うとくのみありしかば、家は壊(やぶ)れて、月の光むなしくすみ、庭は荒れて、蓬のみいたづらに茂し。
(中略)懐旧の心のうちには、悔しきこと多かりけむかし。
これ、すごいですね~~。
鎌倉時代には、このような説話がたくさん書かれます。
マリーアントワネットのような生活を送ったため、家族を失い、貧しく無惨な晩年をおくったというタイプの説話です。(最近の研究では、マリーの放蕩ぶりも「伝説化」されたものだったとされているみたいですが)
きわめつけは、『玉造小町子壮衰書』(『玉造小町壮衰書』とも)です。
もともとは漢文体小説で、作者はわかっていません。この漢文小説は、小野小町に関する晩年の没落を語る説話をふまえた創作とみられています。
冒頭の文と、要約文挙げます。
予(われ)
行路の次(ついで)
歩道の間
径の辺、途の傍に、
一の女人有り。
容貌の顦顇(しょうすい)と、
身躰の疲痩(ひそう)たり。
頭は霜(そう)蓬(ほう)の如く、
膚は凍(とう)梨(り)に似たり。
骨は竦(そばだ)ち筋抗(あが)りて、
面は黒く歯黄ばめり。
裸形と衣無く、
徒(と)跣(せん)にして履(はきもの)無し。
声振ひて言ふこと能はず、
足蹇(な)へて歩むこと能はず、
糇(こう)糧(りょう)已(すで)に尽きて、
朝夕(ちょうせき)の飡(さん)も支へ難し
糠粃(こうひ)の悉く畢(お)へて、
旦暮の命も知らず。
左の臂には破れたる筺(あじか)を懸け、
右の手には壊(やぶ)れたる笠を提げたり。
頸には一つの裹(つつみ)を係け、
背には一つの袋を負へり。
袋には何物をか容れたる、
垢膩(くに)の衣。
裹には何物をか容れたる、
粟豆の餉(かれいい)。
笠には何物をか入れたる、
田の黒き蔦芘(なまぐわい)。
筺には何物をか入れたる、
野の青き蕨(わらび)薇。
肩破れたる衣は胸に懸かり、
頸壊れたる蓑は腰に纏(まとわ)れり。
衢(く)眼(かん)に匍匐(ほふく)し、
路頭に徘徊(はいかい)す。
(要約)
私が道を歩いていた時、女が一人がいた。
女の姿は痩せ衰え、身は疲れ果てていた。
頭は霜枯れの蓬のように白くまばらで、肌は凍った梨の実のようにかさかさだった。
骨はとがり、筋も浮き上がって、
顔は黒ずみ、歯は黄ばんでいた。
身につけている衣はなく、素足で履物もない。
声は震えて言葉にならず、足はなえて歩みもおぼつかない。
糧尽きて朝夕の食事もままならない。糠やくず米も食い尽くし、今日命が尽きるかもしれない。
左の臂には破れた竹かご(筺)を懸け、右の手には壊れた笠を提げていた。
首には包みを懸け、背には袋を負っていた。
「袋には何を容れているのかね」と聞くと、
「垢じみた衣さ」と答える。
「包みには何を容れているのかね」と聞くと、
「粟と豆の乾飯さ」と答える。
「笠には何を容れているのかね」と聞くと、
「田んぼの黒くわいさ」と答える。
「竹かごには何を容れているのかね」と聞くと、
「野摘みの青くさい蕨とゼンマイさ」と答える。
肩の破れた衣は胸に垂れさがり、首の破れた蓑は腰にまとわりついている。
女は街かどをはいずりまわり、路ばたをうろつきまわっている。
こんな風に、
ヨボヨボでしわくちゃで不潔な老女の小町像が、定着するわけです。
若い頃の影など全くありません。
本文読むとわかるのですが、
「小町」と名乗っているわけではないのです。
この漢文小説の内容と、小町伝説が結びついたため、書名が後に付けられたとも考えられています。
人々の興味は小町の晩年だけではなく、
小町の死後にもそそがれます。
次回は、髑髏になった小町を見ていこうと思います!