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こんにちは。タモンです。
今年も残りあと一ヶ月。大掃除、年賀状、忘年会と、「年末にやることリスト」をメモしはじめました。見たい映画と読みたい本もたくさんあります。なかでも映画「のぼうの城」・「エヴァンゲリオン」と宮部みゆき『ソロモンの偽証』が気になります。
今日は、「日の浦姫物語」@シアターコクーンの感想を書きます。(小町についてはまた改めて……)。
井上ひさしの描いた説経節が34年ぶりに上演されると知り、びっくり。さらに大竹しのぶと藤原竜也が出演して、蜷川幸雄演出と知ったら頑張っていくぞ!と思い、行くことにしました。ときには気合いと勢いって大事だよなぁって、しみじみ思います。
【あらすじ】(パンフレットより)
薄汚れた説経聖と赤子連れの三味線女が語るは、『日の浦姫物語』なる説経節。
平安時代、後一条帝の御代。奥州は米田庄を束ねる御館の主・藤原成親と園子夫妻が、待望の子を授かった。
母の命と引き替えに生まれたのは美しい双子の兄妹。
世にも仲睦まじく育った稲若と日の浦姫が、十五歳となった夏のこと。
父・成親が亡くなったその日、麝香の香に我を忘れ、二人はあえなく禁忌を犯す。それが不孝のはじまり。
たった一度の交わりで日の浦は稲若との子を身籠もった。恐ろしい事実を知った叔父の宗親は二人を引き離す。
それは恋する二人の今生の別れだった。
月満ちて珠のような男の子を産んだ日の浦に、さらなる試練が待ち受ける。
地上に居場所のない罪の子は小舟に乗せて海に流され、神と仏に運命を委ねることになった。
日の浦の手紙を入れた皮袋と鏡を添えて。
それから十八年。
米田庄の主としてひとり身を守る日の浦の前に、魚名と名乗る若武者が現れた。
傍若無人な金勢資永一党から米田庄の窮地を救った魚名を、人々は日の浦の夫にと切望する。
無垢なる魂をもつ日の浦は、宿命の濁流にのみこまれていく……。
【感想(ネタバレあり)】
タモンとしては、この舞台の圧巻だったのが説経聖役の木場勝己。木場の語りに絶妙な合いの手を入れる立石涼子もすごかった。
「語句」がひとつひとつ聞き取れる語りにうっとりした。なめらかで、抑揚があって、ニュアンスが伝わって……語りの醍醐味を楽しむ。そんな語りでありつつ、放浪の説経聖=物乞いをする者が持つ粗野な感じ、人にへりくだる感じ、下卑た笑い方。これから展開される舞台の雰囲気を見事に体現されていたと思う。
藤原竜也(30代)と大竹しのぶ(50代?)が双子という「物語」ゆえの大・大・大冒険!。舞台ならではの面白さだ。
稲若が日の浦姫の胸を思いっきりまさぐったり、ラブシーンを演じたりしていたが。
主人公の二人は15歳。若さゆえの過ちか。近親相姦。そのエロさ・卑猥さが確かにあった……というより、そういう猥雑な設定がカーニバルのように繰り広げられている感じ。狂騒と嬌態がミックスされた雰囲気。
物語の骨格としては、あらすじで記したとおり、ジェットコースターのように次々と波瀾万丈の展開がやってくる。
舞台はほぼ「笑い」に包まれて進む。
蜷川演出では本来ならシリアスな場面でもそこかしこに笑いが散りばめられていた。ここで笑っていいのか!?という場面でだ。
一番驚いたのは、(以下、ホントにネタバレ)
日の浦姫が夫・魚名がわが子であると気づいた場面だ。その時、日の浦姫のお腹には魚名との子を宿していた。日の浦姫は、ひとりで必死に考える。魚名はわが子ではないと思い込もうとする。
しかし……「虫が良すぎる!!」。
その言葉を日の浦姫が叫んだ瞬間、会場は大爆笑に包まれた。
……タモンも笑いました。コメディにしていいのか!?とタモンは心のなかでツッコむ。
わが罪におののき、おのれの目を潰した日の浦姫と魚名。
その後、魚名は十八年間もの間、岩の上で生活する。そのため、魚の名にひっかけた言葉しか話せなくなってしまった。っていうハチャメチャな展開は、説経節のごった煮感を表現したかったのだろうか……。笑ってリズムに乗って楽しんだけど、「この後一体どうなるんだ!?」と頭の中はクエスチョンマークだらけ。
でも、「日の浦姫物語」は大団円を迎える。仏のお告げによって魚名は寺の住職となり、さまざまな奇特を民衆に授けるようになる。日の浦姫とその娘とも再会し、めでたしめでたし。
……、と思いきや。
語り手の説経聖と三味線女は兄妹で契り、子までもうけたことが最後に語られる。その罪を償うために「日の浦姫物語」なる説経節を語っているのだと。
わが子に罪はない。どうか今夜一晩の飯が食べられる銭をくださいと物乞う説経聖に、
現代の服装をした人々が、銭の代わりに「人でなし!人非人!犬畜生!」(悪口の内容若干違うかも)などと罵り、石を投げつける。
それまでの笑いはここに繋げるためだったのか、と納得する。
「日の浦姫物語」は物語なら笑えるが、自分の身の回りでおきた出来事ならば嫌悪の眼差しを向ける。自分とは関係のない事件ならば嘆くことができるが、自分の身の回りでおきたことならば眉をひそめる。
蜷川幸雄っていい人なのかもって思った。
舞台でこんなに人間の悪意を剥き出しに演出できる人って、実際会ってお話したらいい人って感じるんじゃないのかなって。まぁ、そんな感想は些末ですね。
文学研究とは(原則として)書かれたものを対象にすること。そこに描かれた人間と向き合うこと。読むという行為を客観化すること。
井上ひさし作品は、人間探求と姿勢と人間という存在への慈しみの眼差しが一貫していると感じる。エンターテインメントでありながら、人間存在とどう向き合えばいいのか、井上ひさしの作品は考えるヒントを与えてくれる。
井上作品を見た後は、日常生活に戻っても、その人のなかの意識がどこかは変わる。そんな力を持っている。そんな力を含めて研究できれば、文学研究の面目躍如なんだろうけど……。
以前、森有正の著作で読んだ「経験」と「体験」の違いについての記述をおぼろげながら思い出すことが最近多い。「経験」を積んだ大人の女になりたいな(…ってすでに十分オバサンの年齢なんですけどね)。
井上ひさしの戯曲をもっともっと見たい。