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2012年の衝撃は2012年中に書いてしまおうと、年の瀬更新をします。なおです。
「衝撃」とは、自分の話した(単純な)日本語が通じなかったことなのです。 ああついにこの時が来たか、という感じです。
一般に、私たち古典文学研究者(および見習い)の話す日本語は、保守的であり規範的であることが多いです。
理屈としては、文学研究者は、文学の研究さえまともにやっていればそれで良いので、高校までの学校の先生たちが求められるような、漢字を正しく書けるとか、規範的な日本語を話せる、ということは守備範囲ではないはずなのです。 高校までの教科である「国語」と、学問としての「日本文学」は別物であると考えるのが正しいと思います。
(ちなみに、私が習った日本語学(日本語を研究対象とする学問)の先生は、世の教育ママたちが熱心にこだわる「漢字の書き順」には学術的根拠がないと断言していました。日本語学と「国語」の間の断絶も深そうです・・・「漢検」には書き順が出るんですよね・・・)
とはいえ、多くの古典文学研究者の見習いが、修業時代のアルバイトとして中高で「国語」を教える仕事をしていることもまた事実で、そのような場合は、生徒との何気ないやりとりであっても、「ら抜きことば」などの、規範から外れることばは用いないよう、かなり注意して話すことになります。
また、大学にポストを得られたとしても、教員として教壇に立つことには変わりがないのですから、やはりある程度規範的な日本語を話す努力をするのが教育的に正しいのでしょう。
それから、古典文学が好きで勉強しているくらいですから、「日本の古いもの」を愛する傾向があって、新しいことばよりも、やや古めかしいことばや言い回しに愛着を感じがちであるという、好みの問題も指摘できるだろうとは思います。
しかしながら、一方で、わたしたち古典文学研究に携わる者たちは、「ことば」というのがいかに変化するものであるかを、日々実感させられてもいます。 私の場合は、『源氏物語』をはじめとする千年昔の日本語を読み解くのが研究課題ですから、現代語との距離の遠さに苦しんだり、でもそれがおもしろかったりしています。
よく、NHKなど「規範的な日本語の権威」と考えられている機関が、慣用句などのことばを「誤用」したとして、抗議や注意の電話が殺到するということがあるようですが・・・ことばの「正確さ」とは、何を根拠にしたらいいのでしょうか。実はこれは結構やっかいなのです。
特に、文化庁が毎年調査結果を公表している「国語に関する世論調査」で取り上げられるような、語義の移り変わりの過渡期にあることばの場合、本来正しいとされる語義と、新しく受け入れられつつある語義と、どちらが「正しい」のかは、かなり微妙な問題です。
たとえば、平成23年度の調査では
「煮え湯を飲まされる」 の語義として、本来の意味とされる(ア)「信頼されていた者から裏切られる」を選んだ人が64.3%いますが、(イ)「敵からひどい目に遭わされる」を選んだ人も23.9%います。
この場合、本来の意味がまだ優勢といえますが、2割強の人には異なるニュアンスで伝わる可能性があるということです。
一方、「うがった見方をする」の調査では、本来の意味とされる(ア)「物事の本質を捉えた見方をする」を選んだ人は26.4%、(イ)「疑って掛かるような見方をする」を選んだ人が半分近い48.2%。
白状すれば、私なおも、(イ)の意味で使っていました。
「にやける」に至っては、本来の意味とされる(ア)「なよなよとしている」を選んだ人はわずか14.7%、
(イ)「薄笑いを浮かべている」が76.5%と、(イ)の意味がかなり優勢になっています。
難しいのは、ことばは「本来の意味」であれば正しい訳ではない、ということだろうと思います。
「美しい日本語を子供に伝える!」というような議論も、まあ結構だとは思いますが、ひっきょう、「ことば」はなによりも第一に伝達の手段なのです。 伝えようとする内容が、たいていの人に伝わらなくなった時点で、そのことばの意味は変化した、もしくは「死語」になったと考えるべきでしょう。
乱暴な言い方ですが、ことばが「正しいか」「正しくないか」は、通じるか通じないかによって决定しているという面があります。言ってみれば、日本語話者たちの、多数決の世界です。日本語は長い間、そうやって変化してきたのです。
というわけで、なおは、研究者見習いの冷徹な目(?)で「ことばの本義」にこだわる批判を「だったら、古語で話せば!?」と、冷ややかに見ています。NHKなどのことばの「誤用」が取りざたされるのも、多くの場合、ことばの「本来の意味」にこだわりすぎているか、好みの問題の場合かが多く、「誤用」と言い切れない例が多いように思うのです。
(一方で、NHKアナウンサーが、クイズ番組かなにかで「「弱冠」ということばは、20歳の男子にしか使わないでください」と言っていたのを見て、唖然としたことがあります。これなどは、述べてきた「本来の意味」にこだわりすぎた、極めて偏った主張でしょう。かなり「規範的」な辞書である『日本国語大辞典』でも、(2)の意味として、「年齢の若いこと。若年。」を挙げています。)
とはいえ・・・自分のことばが通じない時にショックを受けてしまうというのもまた事実で・・・
先日ついに、「日本語が通じない」という経験をしてしまいました。
あるファストフード店でのこと。
アルバイトの若い男性が(多分マニュアル通りに) 「こちらで召上りますか?持ち帰りますか?」と聞いてくれたので、なおは、 「こちらでいただきます」と答えました。
ところが、どうも様子がおかしい。この人なに言ってるんだろう?という顔を男性はしています。
繰り返して「ここでいただきます」と言ったら、「テイクっすね?」と確認されました。
今度は、私が??です。「テイク」って何?という状態です。
結局、店内で食べようと思っていたハンバーガーその他が持ち帰れるように、包まれようとしているのを見て、自分のことばが意図したとおりに伝わらなかったことを理解したのでした。
なおが、「こちらでいただきます」と言ったのは、「こちらで(=店内で)いただきます(「食べます」の謙譲語)」というつもりでした。
一方、お店の男性は「こちらで(カウンターで)いただきます(受け取ります)」と理解したのだろうと、後になって分析してみました。(もちろん「テイク」は、「テイクアウト」の略語です。) 「食べる」の意味で、「いただく」を使わなくなってきたことが、コミュニケーションの失敗の原因だったのだろうと思います。
と、今では冷静に(?)分析していますが、自分のことばが通じなくなったというのは、実に苦い感慨を伴うものでした。ちょうど自分が中年と言われる年齢にさしかかりつつあるのと時を同じくして、若い人と会話が成立しなくなってしまったというのは、なんとも象徴的で、ショックを受けると同時に、もの悲しさを感じました。
ちなみに、「いただきます」事件(?)の翌日、タモンと会ったなおは、ことのあらましを訴えてみました。
タモンは、「「こちらでいただく」が通じないなんてはずはない」の一点張り。 なおの話をなかなか信じようとしてくれません(事実なのに!!)
ところが。そのタモンもまた、なおと会ったその日に某カフェで、「こちらでいただきます」を、テイクアウトの意味に取られる、という経験をしてしまったそうです。
私の使う日本語が正しいのだ!と胸をはって「こちらでいただきます」を使うか、伝わるように「店内で食べます」と言い換えることをするべきか、悩ましい年の瀬です。
今年も一年Junk Stageにコラムを連載させていただいたこと、らっこの会を代表して感謝申し上げます。
皆さまどうぞ良いお年をお迎えください。