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すっかり寒くなってきました。冷え性のなおには辛い季節です。
先月の予告(?)どおり、和泉式部の「帥宮挽歌群」についてお付き合いください。
和泉式部の最初の結婚の相手は同じ受領階級の橘道貞です。この結婚で、和泉式部はやはり歌人として有名な娘小式部を設けますが、二人の仲が冷め、結婚生活が終わると(終わらないうちに、という説も)、次にお付き合いしたお相手は為尊親王でした。 しかし為尊親王は、わずか26歳の若さで亡くなってしまいます。和泉式部と為尊親王の関係がいつから始まったかは明確ではありませんが、二人の関係は長くても数年のことだったと思われます。為尊親王を失った喪失に沈む和泉式部の姿から、和泉式部の次の恋の顛末を描く『和泉式部日記』は始まっています。 その『和泉式部日記』冒頭で、和泉式部にアプローチしてきたのが、為尊親王の弟、敦道親王でした。敦道親王と和泉式部は急速に接近、和泉式部は敦道親王の寵愛を得るようになります。『和泉式部日記』は、和泉式部が敦道親王邸に迎え入れられるまでを描いています。敦道親王には、身分にふさわしい北の方がいたのですが、和泉式部の親王邸入りの後、北の方は実家に退居しています。結果として、和泉式部が北の方を追い出すような形となってしまったわけです。 和泉式部は、敦道親王に出会う頃には恋多き女として評判になっていたようで、敦道親王の乳母も、和泉式部に夢中になる親王にそのことで苦言を呈したりもしています。 また、このころの敦道親王は、もしかしたら次の東宮になるかもしれない・・・というポジションにいたと言われ、そのような立場の人が夢中になる相手として和泉式部はふさわしくありませんでした。ただでさえ親王と受領の娘では身分差がありすぎたのです。親王が、たまに気が向いたときに関係を持つ、一人前の恋人としては扱われない通い所の一つであればよかったのでしょうが、身分差にもかかわらず二人は強い共感で結ばれていました。ただ、身分差は厳然としてありますから、いくら親王に愛されていて、親王の妻のようであっても、和泉式部の立場はあくまで「お手つきの侍女」です。男主人の寵愛を受ける侍女のことを「召人(めしうど)」と呼んだりしています。
敦道親王邸で親王と生活を共にした和泉式部ですが、敦道親王もまた、わずか27歳で亡くなります。親王邸での生活は、4年ほどでした。 敦道親王を悼んで詠んだ和歌の連作が「帥宮挽歌群」です。(「帥宮」は敦道親王のこと)
後に、和泉式部が藤原道長の娘彰子のもとに出仕した際(和泉式部は、紫式部の同僚だったのです!)、道長に「うかれ女」と評されたというエピソードもある和泉式部、どうやら最初の夫、為尊・敦道兄弟、彰子のもとに出仕後再婚した夫・藤原保昌の他にも複数の男性との関係があったようで、超セレブ貴公子から、身近な男性まで次々とたぶらかす「魔性の女」、あるいは「愛欲にまみれた業の深い女」というようなイメージをもたれても、一面では仕方ないのかもしれません。
しかし、帥宮挽歌群を読んでいくと、和泉式部はむしろ女としての業の深さよりも、作家として業が深かったのではないか、という気がさせられます。 女として次々する恋愛の、喜びや悲しみを糧として「絶唱」といわれる数々の歌を詠んでいったのではないかと。
というのも、この「帥宮挽歌群」全部で120首ほどあるのですけれども、なんというか「やりすぎ」感が漂うのですよね・・・
敦道親王の四十九日を終えて歌を詠む、とか、新しい年を迎えて歌を詠む、とかは良いのです。当時よく哀傷歌が詠まれる機会ですから。ちなみに、大切な人が亡くなった後、新しい年を迎えて悲しみを新たにするのは、現在の「喪中のお正月」の感覚に近いでしょうか。
だけれども、雨が降っても夜にふと目覚めても、梅の花を見ても悲しいと思い、思うのは当然でしょうけれども、その悲しい思いをいちいち歌にして書き記していく。そのような営為の中に、いくばくかの演技性が含まれていないとは言い切れないように感じてしまいます。
たとえば、「頭をいと久しう梳らで、髪の乱れたるにも」(髪の毛をとても長い間梳らないで、髪が乱れているのにつけても)という詞書をもつ次の歌。
ものをのみ乱れてぞ思ふたれにかは今はなげかんむばたまの筋(72番)
(ただひたすら物思いに心が乱れているので、梳ることも忘れた髪もまた乱れたままになっている。今はいったいだれに嘆くことができようか)
・・・。物語の一つの情景としてはまことに美しいのです。最愛の恋人を失って、物思いにふけるあまりに、髪をとかすことも忘れ、乱れ髪のまま、行き場のない嘆きを嘆く女の姿。 凄絶で、妖艶な美しさを感じます。
でもねえ。和泉式部さん。物思いにふけっていてとかすことを忘れたって言っているけど、あなた絶対気付いていたでしょう、髪が乱れているの。もしそうじゃなくても、歌詠む前にまずは髪をとかそうよ・・・
というような、突っ込みを入れたくなってしまう、ちょっと行き過ぎた悲しみの表明がなされている歌が、「帥宮挽歌群」には結構見受けられます。(悲しみを表現する様々な状況を「ネタ」にして歌を詠んでいくというような・・・だいたい、和泉式部が「黒髪の乱れ」の美しさを詠む歌人であることは、有名な訳で・・・)そしてこの歌のような、うつくしい歌が多いです。
和泉式部がどうしてこのようなうつくしい哀傷歌の連作を詠み得たか、理由は単純ではないのでしょうけれども、悲しみをただ率直に吐露しても決して今の我々の胸をうつ歌にはならなかったでしょう。かといって、和泉式部が敦道親王の死を悲しんでいないわけではもちろんありません。ただ、悲しみを昇華して、よりよい和歌を詠もうという心意気のようなものが(演技性とか、少々の嘘っぽさとかが)、透けて見えてしまうこともまた、指摘できるだろうと思います。
圧巻は、挽歌群の終わり近くに配される46首の連作。悲しみが尽きないので、思ったことをそのまま書き集めたものが、歌のかたちであった、という説明の後「昼しのぶ」「夕べのながめ」「宵の思ひ」「夜中の寝覚」「暁の恋」と題を分けて、(つまり一日中かなしんでいたということ!!)十首前後の歌を配列しているのですが・・・背景に見える作為性に、とても「自然に心に浮かんだことば」をそのまま書き留めたとは思えません。 あなた、絶対に一日のそれぞれの時間ごとの歌を考えて詠んだでしょう!!と言いたくなってしまいます。
「帥宮挽歌群」についてと言いながら、1首しか歌の紹介が出来なかった・・・ 機会があれば、今度はもっと具体的な歌をご紹介したいです。 ちなみに、「帥宮挽歌群」、一番手近に見られるのは、岩波文庫の『和泉式部集・和泉式部続集』なのですが、今は古本でしか手に入らないようです。角川ソフィア文庫『和泉式部日記』には、付録として「帥宮挽歌群」が載せられていますので、興味のある方はそちらもおすすめです。