最近、ブータンが注目を浴びるにつれ、
お気に入りのマイナーミュージシャンが売れてしまった時の、
えも言われぬもの寂しさ、みたいなものを感じている。
こんなことを前回のコラムで書いてしまったがためかどうか、
そこのところは定かではない(いや、ほぼ無関係だろう)が、
どうやら、ここ10日ばかり、ブータン周辺が騒がしい。
岩波書店『科学』6月号がブータン特集号だとか、
http://www.iwanami.co.jp/kagaku/yokoku.html
糸井重里さんが、ブータンを訪問して首相と会ったりとか、
http://www.1101.com/home.html
嵐の相葉くんが、これまたブータンを訪れた様子が6/3放送だとか。
http://www.ntv.co.jp/eco/2011/program.html#tv1
最後のひとつが、特に、気がかりである。
それはもう、いろいろな意味で。
………………………………………………………………………
で、極めつけがコレ。
「国民総幸福量」NO1のブータン国王が10月結婚へ┃MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/world/news/110520/asi11052023200005-n1.htm
31歳の若き国王が独身であったことは割と有名な話。
いや、有名なのは、自分の周りでだけか?
まあ、いいや。
ここ最近も、かのウィリアム王子とキャサリン妃の結婚の際に、
「世界でまだ独身の王族特集」みたいなバラエティ番組で、
しっかり取り上げられていた。
さすがに、日本で、ブータン王妃の座を狙っていた人は皆無だろうが、
ブータン国内では、おそらく、結構な関心事だったはずだ。
なんせ、人口70万人の国。
面積は九州くらいだが、人口は鹿児島市とどっこいどっこい。
東京で言えば、大田区と同じくらい。
鹿児島市長の嫁、とか、大田区長の嫁、ぐらいなら、
なんだか狙えないことはないような気がして…こないか。
お相手のお姿は、ここでお写真を載せるのは憚られるので、
コチラを見て確認していただくことにしよう。
Royal wedding in October┃Kuensel
http://www.kuenselonline.com/2010/modules.php?name=News&file=article&sid=19477
なんと、若干ハタチ。
しかも、ウィリアム王子の場合と違って、
こちらは、もう既に王として即位しているので、
その妃になるということは、即、Queenになることを意味する。
しかし、世の独身女性の玉の輿の夢は、破られたのかというと、
ところがどっこい、そうでもない。
ブータンは、一夫多妻制の国。
どうやら、2番目の椅子を狙うことも、まんざら不可能ではない。
第一夫人の了承さえ得られれば、だが。
前国王にも、実は4人の王妃が居た。
しかも、その4人、姉妹だったというから、なかなか事態は複雑だ。
何はともあれ、今後、さらなる王妃が増えないとは限らない。
………………………………………………………………………
と、完全なワイドショーネタでお送りした今回のコラム。
少しマジメな話をするなら、
今年は、1986年に日本とブータンの国交が結ばれてから、
25周年に当たる年。
その少し前、1981年に設立された「日本ブータン友好協会」は、
30周年を迎えることになる。
そのあたりの絡みで、今年は、いろいろと、
日ブ間の公式行事が予定されているらしい。
せっかくの貴重な機会、
研究者という立場をふんだんに利用して、
あちこち顔を出せるよう、画策してみることにしよう。
最近、ブータンが注目を浴びるにつれ、
お気に入りのマイナーミュージシャンが売れてしまった時の、
えも言われぬもの寂しさ、みたいなものを感じている。
や、単なる我が儘なわけだが。
そもそも、マイナーな研究対象を選ぶということは、
参考になるものが何も無く、イチからはじめなきゃならない、とか、
フィールドワークをしようにも、足がかりになるものがない、とか、
基本、議論の相手もおらず、朝から晩まで一人きり、とか。
割と、デメリットが多くある。
と同時に、
うまくやれば、先駆者の地位に収まれる、とか、
必要以上の批判を浴びずにのびのびやれる、とか。
それなりにメリット(らしきもの)もある。
まだ、ブータンを対象に研究をはじめて、1年そこそこ。
最初の1年は、研究というよりも、上のようなデメリットに気付く1年。
今年、修士論文を出さなければならないわけだが、
なんだか、最近になってようやく、研究がはじまったような気がする。
………………………………………………………………………
さて、そんな絶賛売り出し中のブータン研究も、
このたび、研究会なるものが催される運びとなった。
日本にもしかしたら十数人程度しかいないブータン研究者のうち、
院生やらが集まってあーだこーだ言い合う会。
有難いことに、その場で発表する機会にも恵まれた。
おそらく、普通の院生だと、早い段階からこういう会に参加して、
自分なりのスタンスとかを作り上げていくものなのだろうが、
いかんせん、1年経って、ようやくここに漕ぎ着けることができた。
自分なりにブータン人脈を辿っていった結果ではあるが、
既に長い間、研究を進めてこられていた方々のご尽力の賜物。
この場を借りて感謝したい。
さて、ここを訪れる読者が、
どれくらいブータン研究に興味があるかはちょっとわからないが、
この研究会、特に参加に制限があるわけではない。
ので、とりあえず、詳細を以下に掲載しておくことにする。
うっかり興味を持った方は、まずは藤原までご連絡を。
もちろん、以下から直接コンタクトされてもOK。
第1回日本ブータン研究会
http://kokucheese.com/event/index/11112/
(以下転送歓迎)
===========================
「第1回日本ブータン研究会」のご案内
このたび、
ブータンをフィールドにしている若手研究者や大学院生が日頃の研究
成果を披露し、意見交換を行う場として、「第1回日本ブータン研究会」を開催
いたします。当研究会は、立場や専門分野を限定せず、多くの人に開かれた学際
的な相互向上の場を目指しています。各人が普段親しんでいるブータンへのアプ
ローチとは異なった、別のスタイルの視点や接触方法を知り、互いの差異を認識
したうえで、忌憚のない議論ができたらと思います。
万障お繰り合わせのうえ、ぜひご参加ください。
1.日 時
2011年5月29日(日)
2.場 所
JICA地球ひろば セミナールーム301室
〒150-0012 東京都渋谷区広尾4-2-24
東京メトロ日比谷線 広尾駅下車(3番出口)徒歩1分
http://www.jica.go.jp/hiroba/about/map.html
3.プログラム
10:00~10:30 開催趣旨/参加者自己紹介
10:30~12:00 発表①
藤原 整(早稲田大学大学院社会科学研究科修士課程)
「ブータンの情報化過程における特異性とその文明史的意義」
12:00~13:00 昼食/休憩
13:00~14:30 発表②
平山 雄大(早稲田大学大学院教育学研究科博士後期課程)
「ブータンにおける近代学校教育の歴史と現状―初等教育段階を中心に―」
14:30~14:45 休憩
14:45~16:15 発表③
脇田 道子(慶應義塾大学大学院社会学研究科後期博士課程)
「辺境から眺めたブータンのツーリズム政策
―牧畜民の村メラを事例として―」
16:15~16:45 講評等
※当日は森 靖之様(元JICAブータン駐在員事務所長、日本ブータン友好協会
副会長)にご出席いただき、コメント及びご講評をいただきます。
※終了後、広尾駅近辺にて懇親会を予定しております。
4.参加費
500円(会場使用料、資料印刷代として)
5.参加申込み
参加申込期限 2011年5月22日(日)
※当日参加も可能ですが、人数把握及び資料準備の関係上、事前にお申込みい
ただけると幸いです。
参加を希望されるかたは、「①氏名、②所属、③連絡先(携帯電話番号及びメ
ールアドレス)、④懇親会参加の有無」をメール本文に記載し、日本ブータン
研究会事務局(bhutanstudies@gmail.com)までお申込みください。
6.お問合せ先
日本ブータン研究会事務局 bhutanstudies@gmail.com
担当:須藤 伸、平山 雄大
長い長い春休みが終わった。
大震災後の計画停電等の影響を受け、授業開始が延期されていたのだが、
GW明けに、ようやく再開される運びとなった。
で、大学再開で慌てふためく。
そういえば、3月、あの地震が起きた、まさにあのとき、
自分は、バングラデシュに居た。
(そのあたりの経緯は、過去の本コラム参照)
で、バングラデシュで何をしていたのかというと、
日本の一大事を傍目に、呑気に観光を…していたのも事実だが、
一応、大義名分としては、JICAが推進する、
「ICTを活用したBOP層農民所得向上プロジェクト」
なるモノを見学しに行く、ということだった。
で、その見学した結果をまとめ…
なければならないのを、すっかりしっかり放置していたわけだ。
もうかれこれ2ヵ月余りが過ぎてしまったが、
なんとか思い出しながらレポートしてみることにしよう。
………………………………………………………………………
バングラデシュの首都、ダッカ。
本来あるべきサイズの何倍もの人口を呑み込んだこの街では、
至るところでクラクションと怒号が響き、
異様な喧噪と熱気に満ち満ちていた。
そんなダッカの中では珍しく閑静な住宅街の一室に、
目指す、プロジェクトのオフィスがあった。
まずは、JICAのコーディネーター(日本人)から説明を聞く。
話によると、まだプロジェクトが立ち上がって半年と日が浅く、
現時点では準備がようやくメドが立ってきた、という段階らしい。
というわけで、プロジェクトサイト(実際の農地)には足を運ばず、
「ひとつ、プロジェクトの会議に出てみませんか?」
という提案を受けた。
有難い申し出と、即、快諾してしまったのだが、結果として、
何故か、6人のバングラデシュ人と卓を囲んで会議をすることに…
もちろん、話されている言葉は、現地の言葉(ベンガル語)。
かろうじて資料だけは英語で配られたので、
パワーポイントと資料とを食い入るように見つめること1時間半。
自分も相当、狐につままれたような心境だったが、
同席のバングラ人たちは、おそらく、より一層、
「あのジャパニーズはなんだったんだ?」状態に陥ったことだろう。
何はともあれ、
その後、改めてプロジェクトマネージャー(バングラ人)から、
プロジェクトのあらましについてじっくり話を聞くことができた。
それによると、要するに、
「農業専門のソーシャルネットワークを構築し、
農民は、各農村に置かれたテレセンター(通信端末)、
または、個人の携帯電話等からアクセスすることができるようにする。
農民の他に、研究者、卸業者も参加し、
農民からの質問に答えたり、実際に作物の取引をすることもできる」
というものを作ろうとしているようだ。
もちろん、まだプロジェクトは軌道にすら乗っていない状況。
現時点では、何らかの評価を下せる状態では無い。
素人考えでは、農民、特に貧困層の人々の間では、
コンピュータリテラシーがまだまだ低く、
こうしたシステムを果たして使いこなせるのか、大いに不安も感じた。
とはいえ、バングラデシュの人々は、案外簡単にICTを習得し、
そんな心配は杞憂に終わるかもしれない。
………………………………………………………………………
さて、ここで日本の農業にも少し触れておこう。
日本の農業(水産業も含む)は、
今回の大震災で、計り知れないダメージを負った。
6月に結論を出すと言われていたTPPについても、
どうやら先送りとなりそうな情勢だ。
既に各所で議論が噴出しているが、
特に、東北地方の農業は、これを機に、
一気に大規模化に舵を切ろうかとか、若返りを図ろうとか、
そんな抜本的な案も飛び出してきているようだ。
個人的には、大規模化にはだいぶ抵抗があるが、
若返りは、必要不可欠であろうと思う。
例えば、
これまで、農業に従事してきたお年寄りの元に、
農業に就きたい若者を就労させる、
いわゆる、徒弟制度のようなモノを制度化してもいいかもしれない。
あくまでもフラッシュアイデアでしかないが、
もしかしたら、バングラデシュで立ち上がろうとしているシステムは、
これからの日本で、これから農業に従事する若者を主体とした、
有用な農村コミュニティを構築できるかもしれない。
全ては机上の空論でしかないが、
ふと、そんなことを考えてみた。
Facebookが、今、爆発的にキテいる!
と、言ったら、みなさんはどう感じるだろうか?
「Facebook? たしかに流行ってきてる気もするけど…」
「最近はじめてみたけど、イマイチ、使い方がよくわからない…」
「半年くらいやってみて、ようやく楽しさがわかってきた」
「ようやく来たか。俺はもう2年以上前から使ってるぜ!」
などなど、おそらく反応はさまざまだろう。
自分の周りでも、じわじわとキテいる感覚はあるが、
それでもまだまだ利用者は圧倒的に少数派だ。
数年前、mixiが、それこそ爆発的に普及した頃の勢いでは無い。
さて、前置きが長くなってしまったが、
実は、冒頭の話、日本のことを指しているのではない。
ヒマラヤ山麓の小国、ブータンで、いまFacebookが大流行中なのだ。
そう聞いて、ブータンに対する見方が変わる人も居るのではないだろうか。
だって、まさか、1999年にようやくテレビ放送がはじまった、
あのブータンで、日本に先駆けて…(以下略)
いや、正直にいえば、早いから凄いとか、
そういうことは露ほども思わないのだが、
しかし、驚嘆に値する事実であることは間違いない。
………………………………………………………………………
昨年8月に初めてブータンを訪れる前から、実は、
ブータンでFacebookが流行りはじめている、という噂は耳にしていた。
しかし、その時は、さほど気にも留めていなかったし、
実際、ブータンを訪れた際に、お世話になった農家の長女が、
「Facebookアカウントを交換しよう」
と言ってきた時も、
「おー、ほんとに流行ってんだ、すげー」
ぐらいにしか思っていなかった。
が、それからわずか半年。
この3月に、再びブータンを訪れると、状況は一変していた。
インタビュー調査のため、官公庁や企業を訪問すると、
どこへ行っても口をついて出てくるのは、
「みんなFacebookばっかりやっていて、仕事にならない」
と、こうだ。
ある国営企業では、こんなことを言っていた。
Facebookへのアクセスが多く、朝晩は通信が混雑する。
業務効率が下がるので、業務中はアクセスを遮断している。
始業前1時間、昼休み、終業後1時間だけアクセスできる。
多くのオフィスで、同じようにアクセスをブロックしている。
社員からは、自由の侵害だ、という苦情も出ている。
仕事場に来てFacebookばかりやっていて自由も何も無いと思うのだが、
そこはそれ。
ブータンは、ごく最近まで農業で生計を立てている人が圧倒的多数で、
会社勤めをする、なんていうこと自体、初めての経験なのだ。
農作業中にぼんやりとラジオを聞く、くらいの感覚、と考えれば、
なるほど、わからなくはない異議申し立てなのかもしれない。
また一方では、こんな意見もある。
Facebookの普及によって、みんながオフィスに居るようになった。
(各家庭にはPCは普及していないので、オフィスのPCを使うから)
用事があるときに居てくれるので捕まえやすくなった。
なんだかもう、呆れるを通り越して微笑ましくすらある。
………………………………………………………………………
なぜ、ブータンでは、すんなりFacebookが受け入れられたのか?
なぜ、日本では、Facebookが普及するまで、時間を要しているのか?
ブータン人に、普及した理由を尋ねてみても、いまいち釈然としない。
冗談めかして、「離婚率が高いからさ」なんて言う人も居た。
曰く、
離婚する→新しい出会いを求める→FacebookへGo!
と、こういう図式らしいのだが、真偽のほどは定かではない。
そもそも、流行っている流行っていると騒ぎ立てているものの、
実際、どれくらいの人数が利用しているのか、
そこのところが、もうひとつよくわからない。
Facebookは、世界中で普及が進んでいるが、
ことブータンについては、その広がり方そのものが、
情報化の広がりとリンクしている節が多分にあるのではないか。
そんなふうに思われてならない。
どうやら、この謎の解明が、
今夏のフィールドワークの新たな課題になりそうだ。
前回から早10日。
その後、徐々に関連する調査や提言が出始めてきたので、
ここで改めて、整理してみることにしようと思う。
まずは、野村総研が発表した、メディア接触動向に関する調査。
震災時に重視した情報源は何か、との問いに対する回答が以下。
1位 テレビ放送(NHK) 80.5%
2位 テレビ放送(民放) 56.9%
3位 ポータルサイト(Yahoo!、Google等) 43.2%
4位 新聞 36.3%
:
7位 ソーシャルメディア(twitter、mixi、facebook等) 18.3%
テレビが相変わらず重要なのはこれまで通りだが、
ポータルサイトが新聞を上回ったというのは興味深い結果。
ソーシャルメディアも、順位は低いが2割近い人が触れている。
ただ、この調査には、ちょっとしたからくりがある。
それは、調査対象が、「関東(一都六県)在住の20歳から59歳の
インターネットユーザー3,224名」という縛り。
まず、被災地である東北が含まれておらず、
さらに、被災した多くがお年寄りであった点ともズレる。
インターネットユーザーに絞っていることも、
ポータルサイトやソーシャルメディアの値を引き上げていそうだ。
震災に伴うメディア接触動向に関する調査┃野村総合研究所
http://www.nri.co.jp/news/2011/110329.html
野村総研はまた、震災復興に向けた緊急対策の推進について、
という提言もまとめており、順次発表している。
その中にICT(情報通信技術)に関する内容があった。
固い部分の話はこの際置いておくことにして、
以下に、掲載されている要約の、そのまた抜粋を引用する。
大切なことは、ICTはあくまでも“手段“であり、ICTを導入することが目的ではない。当該自治体の住民ニーズや課題に対して、関連主体と歩調を合わせながら、ICTが貢献できることを見極め、しっかりとやり抜くことが肝要である。
それができれば苦労は無い、という小綺麗な文句なのだが、
そこと経済合理性をどこでどうやって折り合いをつけるのか。
例えば、携帯電話が有用であったならば、皆が携帯を持つ必要がある。
普段全く使わないお年寄りに、災害時のためだけのために買わせるのか。
かといって、1人1台、国が携帯電話を支給、というわけにもいくまい。
震災後のICTインフラ整備及びICT利活用のあり方┃野村総合研究所
http://www.nri.co.jp/opinion/r_report/pdf/201104_fukkou7.pdf
その他にも、慶応義塾大学を中心として幅広く識者を集めた、
「IT復興円卓会議」なるものが立ち上がっており、
4/13には第1回が開催されたようだ。
震災後のメディア状況を時系列で追った資料が掲載されていたので、
興味のある方はご確認いただきたい。
発表資料(慶応義塾大学・菊池尚人)┃IT復興円卓会議
http://ithukko.com/wp-content/uploads/2011/03/20110413_kikuchi.pdf
………………………………………………………………………
ここで少し、震災後ずっと追いかけてきた、
twitterの功罪について、少し持論を述べておこう。
個人的には、twitter上でのつぶやき(ツイート)は、
街中での噂話レベルと大差無いと考えている。
電車に乗っていたら、隣の席の女子高生の会話が聞こえてきた。
それがつぶやき。
それをRT(リツイート)するというのは、
耳にした噂を、「いまこんなのが流行ってるらしいよ」と、
したり顔で誰かに話す、そんなレベル。
もちろん、登場人物が女子高生であることに特に意味は無い。
知り合い同士のお喋りでも、テレビで芸能人が喋った内容でも、
普段の生活の中で聞いたら、ただの世間話程度のことが、
なまじタイムラインにいつまでも残ってしまうせいで、
思わぬ副産物を生んでしまったりする。
皆、あまりにもtwitterにメディア能を抱かせたがるが、
せいぜい、井戸端会議の延長線がいいところで、
話題の真偽を議論する以前の段階のように思う。
………………………………………………………………………
実は今、このひと月ほど、実家のある仙台に居る。
被災地の人々と接して感じたこと。
圧倒的に多い、お年寄り。
もちろん、彼らからは、
twitterという言葉を、まだ一度も耳にしていない。
テレビも滅多に見ていないし、せいぜいあるのはラジオの情報。
そして、避難所での口コミ情報。
ソーシャルメディアも含めて、多くのメディアは、
あくまでも、被災者のためではなく、支援者のためのメディア。
先に紹介した野村総研の調査や提言も、
どうやら支援者のためのメディアでありICTについて触れられている。
もちろん、それはそれで立派な役割がある。
一瞬の力で引き裂かれた地を復興させるには、
多くの支援者が多くの時間を費やさねばならない。
ただ、その一瞬の被害を最小限に留める。
そのためのICT(情報通信技術)の在り方も、やはり考えねばなるまい。
ICTを活用する、という道筋だけではなく、
その分野に置いては、ICTを一切排して、人力に頼る、という、
一見真逆の解決策も含めて。
どうせ、ライフラインを断たれてしまえば、
情報は、人から人へと伝えていくしかないのだから。
大規模災害時の情報ツールの活用について、
語られだしたのは、いつの頃からだろう。
1995年「阪神淡路大震災」のとき。
インターネット元年と呼ばれたのがちょうどこの年ではあるが、
まだ、そういった話は、うすぼんやりと影があるだけだった。
2004年「新潟県中越地震」のとき。
携帯電話やインターネットはある程度普及してきていたが、
まだまだ、マスメディアが支配的な地位を占めていた。
おそらく、世界的に見て、
情報化と災害を結びつけて語るようになったのは、
2010年「ハイチ地震」あたりからではないだろうか。
酷く曖昧な根拠になるのだが、一応目安として、
単純にGoogleの検索件数を拾ってみると、以下のようになった。
(全て、2011年4月7日時点)
「関東大震災」 約 16,400,000 件
「阪神淡路大震災」 約 74,900,000 件
「新潟県中越地震」 約 1,100,000 件
「スマトラ沖地震」 約 408,000 件
「Indian Ocean earthquake」 約 1,020,000 件
「ハイチ地震」 約 1,210,000 件
「Haiti earthquake」約 31,300,000 件
「東日本大震災」 約 60,500,000 件
「東北地方太平洋沖地震」 約 184,000,000 件
「新潟県中越地震」に比べて、「阪神淡路大震災」の件数が多いのは、
その当時に多くの情報が飛び交ったわけではなく、
日本においては、この15年間、災害についてのあらゆる調査や研究が、
「阪神淡路大震災」をベースに構築されているためであろう。
さらに遡れば、1995年以前、その地位は「関東大震災」が担っていた。
この数字から見て取れるように、今回の震災の情報の拡散ぶりは、
発災からわずか1ヵ月足らずにも関わらず、群を抜いている。
発災直後の「東北地方太平洋沖地震」という名称と、
4月1日に命名された「東日本大震災」という名称を合わせると、
実に、2億5千万件もの情報が、ネット上に掲げられていることになる。
ただし、これには、発災直後だからこそ、という側面もあるだろう。
個人の日記から何から、あらゆる場面で、今回の震災に触れるのが、
ある種の約束事のようになってしまっている。
これは、時間が経てばやがて収束し、件数も減っていくものと思われる。
本来ならば、「阪神淡路大震災」等も同じ時間が経過した段階で、
検索件数が拾えていれば比較のしようもあったのだが、
いまとなっては、それも難しい。
………………………………………………………………………
さて、情報、情報、と何の気無しに使ってきたこの単語。
もちろん、その内容はピンからキリまで。
まだ落ち着きを取り戻したとは到底言えない今においてなお、
海の物とも山の物ともつかない情報が溢れては消えていっている。
twitterは、今回、そんな泡のような情報の発生装置のひとつとなった。
例えば、「#prayforjapan」のハッシュタグは、
瞬く間に全世界を駆け巡り、秒速10tweetを超えたとかなんとか。
気が付けば、prayforjapan.jp なるサイトが立ち上がっていた。
あるいは、「#edano_nero」なんてハッシュタグも登場。
震災前には見向きもされなかった枝野官房長官が、
何故か俄然人気になり、不眠不休のヒーローとしてもてはやされた。
被災者の切実な声、安否情報、避難所、給水所、支援物資etc…
急を要する多くの声が、叫ばれ、拡散されていった。
さらには、
節電を呼びかける「ヤシマ作戦」や、
買い占めへ警鐘を鳴らす「ウエシマ作戦」など、
twitter発のさまざまな試みが、同じように、拡散されていった。
ここまでは、それはそれは、美しい話。
日本人は世界一モラルが高い、などと海外メディアからも称賛を浴びた。
そして、その裏側で、歪みが少しずつ広がっていた。
節電は、最初は純粋な善意からスタートした。
計画停電も不発に終わるほど、想定外の善意の輪が広がった。
しかし、やがて節電が当たり前のことになり、
節電をしなければ国賊のような扱いを受けるようになる。
煌々と灯りをつけて営業するパチンコ店は目の敵にされ、
プロ野球セ・リーグは開幕延期に追い込まれた。
いつしか、合言葉は節電から自粛に代わり、
卒業式、花見、結婚式、祭り、花火、あらゆるものが中止になった。
これじゃあまるで、自粛じゃなくて萎縮だと誰かが言った。
何をやるにも、周りの目を気にしなければ動けなくなっていった。
twitterで何か発言をする。
自身のフォロワーはさほど多くなかったとしても、
フォロワーのフォロワーのそのまたフォロワーへ伝わるうちに、
その数はねずみ算式に大きくなる。
うかつなことを言えば、1億総スカンを食う羽目になりかねない。
この、現代版「隣組」の仕掛けは、自由に情報を発信できる傍らで、
密かに思想統制が行われる可能性を孕んだ諸刃の剣にもなる。
………………………………………………………………………
震災後、いろんな支援サイトが立ち上がった。
何万人ものヒトが、それを「いいね」と言った。
これみよがしに、新しいメディアの誕生と祝福する声が上がった。
ただ、自分は、どうしても手放しでこれを受け入れられない。
イイモノだ。
なくてはならないモノだ。
と、どうしても胸を張って言えない。
情報科学を研究している一人として、
人一倍、情報の果たす役割には懐疑的でありたい、とも思う。
ただ、古いタイプの人間だから、かもしれない。
今回の震災で、インターネットが活用された、と口々に言われているが、
「インターネットを通して情報が広まった」ことと、
「インターネットが震災時に有効なツールである」ことは、
似て非なるモノ。
拡散し、やがて集積し、綺麗に整ったところで満足している。
なんてことはないだろうか。
情報は、時間財なので、
綺麗に整った段階では、実はもう役に立たないことも多い。
ところで。
今回、被災者の多くはお年寄りだった。
当然、ITリテラシーの低さは言うまでもない。
彼らにとって、twitterも災害伝言板も、役に立ったとは思えない。
これからも、たぶんそうなるだろう。
技術が進めば進むほど、情報格差は確実に発生する。
ITリテラシーが高かった者がより多く助かったのか。
これが一つ目の問題。
ITリテラシーが高かった者だけが助かればいいのか。
これが二つめの問題。
いずれも、やがて、そう遠くない未来に、
解決すべき大きな問題となって立ちはだかることになるはずだ。
世は、卒業式シーズン真っ只中。
だが、街を見渡しても、この時期に大挙現れるはずの、
袴姿の女子大生はどこにも見当たらない。
さすがに、卒業式を「不謹慎」と後ろ指さされるいわれはないが、
周囲を包む「自粛」の空気は、いかんともし難いものがある。
勿論、「自粛」だけが中止の主な理由ではなく、
そこには、交通の混乱や、さらなる余震への警戒など、
イベント運営につきもののリスクへの最大限の配慮が見え隠れする。
当然、我がゼミ恒例の、夜通し騒ぐ卒業コンパもあえなく中止。
「ただひたすらに呑む」
その一点のためだけに、都内に旅館まで手配して開かれる、
饗宴ならぬ凶宴が開かれないのは、不幸中の幸いか。
そんな状況下にあって、なんのなんの、
被災地では、手作りの卒業式が挙行され、感動を呼んでいると聞く。
文字や映像が混じると涙腺が緩んでしまう恐れがあるので、
ここは、写真だけでその様子を伝え知ることにしよう。
被災地での卒業式の様子┃NAVERまとめ
http://matome.naver.jp/odai/2130077106455007001
一方、卒業式を「自粛」した埼玉の高校では、
ネット上に掲げられた校長からの祝辞が、ちょっとした話題を生んだ。
高校生諸君よりも、大の大人に響いてしまいそうなメッセージ。
そして、大学に身を置く者としては、少し耳の痛いメッセージ。
いまこのときに、卒業を迎えようとしている全ての若者が、
必然的に背負わなければならないモノの重さを思うと、少し辛い。
卒業式を中止した立教新座高校3年生諸君へ。┃立教新座中学校・高等学校
http://niiza.rikkyo.ac.jp/news/2011/03/8549/
………………………………………………………………………
さて。
この時期、卒業式だけでなく、その他のイベントも何かと騒がしい。
例えば、元同僚の送別会。
例えば、元同僚、さらに元同級生の結婚式。
あるものは延期になり、
あるものは中止になり、
あるものは決行された。
いつまでも、日本中でお通夜をしているわけにもいくまい。
かといって、どうやら、3.11以前のような馬鹿騒ぎもやれまい。
その狭間で、誰もがバランスを取りながら、
もっと嫌らしい言い方をするなら、空気を読みながら、
しばらくは日々が続いていくことになるのだろう。
当の自分はと言えば、
大学院の新学期開始が、ゴールデンウィーク明けに延期と相成った。
降って湧いた、1ヵ月の猶予期間を無駄にするわけにもいかない。
微々たる戦力ではあるが、第二の故郷である仙台へ赴き、
自分に出来る限りの支援活動を行うことにしようと考えている。
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今回の大震災で人生観が変わった、なんて話を耳にする。
助けられた小さな命が、大きくなったら「自衛官」になりたいと言う。
物資を運ぶ「トラック運転手」が、実は命を繋ぐ大切な仕事だと気付く。
常に危険と隣り合わせの「原発職員」のリアルな姿を知る。
ただ、勘違いしちゃいけないとも思う。
命を張ることが美しい、という風潮が、時に蔓延するけれども、
本当に目指さなければいけない社会とは、
「誰も命を張らなくてもいい」社会なんじゃないか。
ほんの少し冷静になった今、そんなことを思いはじめている。
最初の一報は、バスの中で聞いた。
そのバスは、バングラデシュ南西の街クルナから、首都ダッカへ向かう、
およそ9時間の行程の、だいたい中間地点に差し掛かっていた。
友人からのメール着信を示すランプが灯る。
「緊急」と書かれたタイトルと、
「震源地は三陸沖、宮城県北部で震度7」の文字。
すぐさま、仙台の実家の番号をダイヤルする。
が、繋がらず。
その後も、数回に渡り電話をかけるが、コール音は鳴らない。
メールを入れてはみたが、やはり返事は無い。
ただ、このときはまだ、
これほどまでに甚大な被害が出ていようとは、想像だにしていなかった。
オンボロのバスは、対向車との正面衝突の危機を何度も迎えながら、
そんなことは日常茶飯事と言わんばかりに、
のどかな田園風景に囲まれた一本道を、猪突猛進していた。
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ダッカでは、ある程度まともな宿を確保することにした。
状況を確認するために、テレビくらいは見れた方がいいだろう、
そう思ったからだ。
はじめに映ったのは、CNNが地震を伝える様子。
「世界で五本の指に入る巨大地震が日本を襲った」
そう繰り返し報じていた。
かろうじてネットが繋がり、NHKも受信できるようになり、
さらに情報を集める。
わかってきたのは、とにかく地震後の津波の被害が大きいこと。
被災地域は非常に広範囲に渡り、ライフラインも壊滅状態であること。
仙台の実家は、海からは多少離れた地域にあるものの、
それでも、隣の地区で数百人の遺体が発見されたという報には、
やはり一瞬、息を呑んだ。
このときはまだ、仙台から、無事の報は届いていなかった。
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翌朝。
昨夜は結局、夕食のことも忘れてテレビに見入っていたので、
ホテルの朝食を摂りにロビーへ下りる。
すぐさま、バングラデシュ人の従業員が、声をかけてくる。
「おい、ジャパニーズ、昨日の地震は知ってるか?」
朝食の間も、他の滞在客、給仕たちが、次々と言葉を投げかけてくる。
「ごめんなさい、お悔やみを申し上げることしかできなくて」
「大丈夫。俺たちも去年、酷い洪水があったが、こうして立ち直った」
温かい言葉のシャワーを浴びながら、
ああ、この旅はこれで切り上げよう、と密かに思った。
元々、この日はマレーシアのクアラルンプールへ発つ予定の日だった。
そのままマレーシアに1週間ほど滞在し、その後帰国、
というのが当初のスケジュール。
2月末日に研究旅行に出てから、2週間が経とうとしていた。
残り1週間、このまま、旅を続けることもできただろう。
ただ、直観的に、それは難しいだろうな、と感じていた。
まだ、家族の無事が確認できていなかったことも勿論だが、
この、大きな “Pray for Japan” のうねりの中で、
一人の Japanese として、
安穏と旅を続けることへの、強い抵抗感が芽生えはじめていた。
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クアラルンプールから成田への便はすぐに手配することができた。
ダッカからクアラルンプールに飛び、一泊して、翌朝成田へ飛ぶことに。
成田便の欠航や遅延が頻発していることや、
首都圏の交通網も相当マヒしていることは伝え聞いていたが、
一昼夜空ければ多少回復しているだろうという希望的観測と、
それでもなお、足を止めるよりはマシだろう、という思いが背中を押した。
遠いバングラデシュの地から、
たしかにそのとき、生まれて以来、一番強く、
日本へ、そして3年間過ごした第二の故郷への思いが溢れていた。
その後、
実家からの無事の連絡は、成田便に搭乗する直前に入った。
今回の話は、ひどく不謹慎な話かもしれない。
しかし、あえて今、書いておきたい。
実は、密かに、チェルノブイリに行ってみようと思っている。
そう、1986年、世界最悪の原子力発電所事故を起こした、あの場所に。
チェルノブイリ原子力発電所事故│Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/チェルノブイリ原子力発電所事故
なんでまた、急にそんなことを言い出したのかというと、
というのも、昨年末に、こんなニュースが飛び込んできたからだ。
原発事故のチェルノブイリ観光を解禁へ│CNN.co.jp
http://www.cnn.co.jp/world/30001211.html
その後の続報がぱったり途絶えてしまったので、
今夏なのか、まだ先になるのか、それはまだわからない。
ただ、解禁になったら、できるだけ早く訪れたい。
チェルノブイリの名を初めて耳にしたのは、
正に、この事故が起きたときのこと。
当時、まだ小学校にも上がっていなかった自分には、
もちろん、何が起きているのかなどわかっていなかったと思うが、
その土地の名前は、耳の奥にずっとこびりついていた。
あれから25年、ふいに耳にしたその名前が、
気が付いたら、四六時中、頭から離れなくなっていた。
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もちろん、かの地には、今もヒトは住まない。
しかし、山には動物が戻り、川には魚が戻ってきた。
木々は、ヒトのいない街を我が物のように覆っているという。
ただ、そのどれもが、どこか現実離れしていて、
写真で見せられても、強い違和感が残っていた。
自分の目で、いまそこで何が起きているのかを見たい。
その好奇心は、あるいは今回は暴走しているのかもしれない。
報道では、放射能汚染の可能性は著しく低いとされているが、
それだって、ある意味、行ってみなければわからない。
いや、行ってみたところでわからないかもしれないし、
行ってみたら、それで手遅れになるのかもしれない。
自分が汚染されて日本に帰ることで、
それが身近な人に悪影響を与えるかもしれないし、
そんなことは起こりえないのかもしれない。
で、普通の人は、あらゆる可能性を鑑みて、
きっと、行かない、という結論を導き出す。
そんな何もかもをわかっていて、それでも行くことは、
もしかしたら、それだけで罪なのかもしれない。
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記事の中にもあるが、実はいまでもチェルノブイリに行くことはできる。
調べてみたところ、以下のようなツアーが見つかった。
Ecological Tour to Chernobyl Nuclear Power Plant│Chernobyl Tour
http://tourkiev.com/chernobyltour/
ウクライナの首都キエフからの日帰りで、
あらかじめ企画されたグループツアーが1人160ドル(≒13,000円)。
これを高いとみるか安いとみるかは、意見の分かれるところだろう。
高いカネを払って、さらにリスクを重ねるなんて正気の沙汰じゃない、
と思う人がいて当然だし、安いと思う人にはきっと相応の根拠がある。
そして、たぶんその議論は、どこまでいっても平行線を辿る。
自分は、いま、160ドルなら、間違いなく払う。
そういう人間だし、これからもそういう生き方しかできそうにない。
大学院生の本分は、やはり論文の執筆、ということになる。
少なくとも、酒を飲んで、旅に出ることではないことは、
一応、重々承知している。
この文章を、酒を飲みながら、旅の準備をしながら、
いそいそと書いているとしても、だ。
さて。
そんな論文の執筆には、いくつかの作法というものがある。
そのひとつが、「先行研究」についての記述。
論文と言うと、ノーベル賞レースなんかを見ていると感じるのが、
誰が最初に言った言わないの、いかにも、アイデア勝負的なもの、
という印象を世間は抱いているのではないか、ということ。
だが、この世界、
自分の研究分野における過去の研究者の成果を、
無に帰すことはあっても、無視するということはできない。
これまでと全く逆転の発想から生まれたものであっても、
過去に無い、ということを証明するために、
過去を徹底的に調べ尽くさなければならない。
もちろん、調べる過程で、インスピレーションを得ることもあるだろう。
そんなときに、パクるのはどこの世界でも御法度だ。
そういう場合は、引用することで、出元を明らかにするのが通例だ。
引用の全く無い論文は、オリジナリティに溢れている気もするが、
実は、先行研究の調査が不十分なだけ、というケースも少なくない。
ただ、そんな引用の仕方については、ルールがあるようで実は無い。
政治家の発言の前後をカットして、さも失言のように見せかける、
なんて操作をたまにメディアがやってたりするわけだが、
残念ながら、そういうことが論文でも十分に起こりうる。
引用元が示されている分、検証は容易ではあるのだが、
全ての論文について、引用元を全て検証して、
さらに、引用元の論文の引用元についてまた検証して、
…と辿っていくことは、実質的にはほとんど不可能に近い。
かつて、自分で埋めた土器を掘り出して大発見を捏造した、
ゴッドハンドの事例を引くまでもなく、
結局は、研究者の良心に依るところが極めて大きいのが実情だ。
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一方、中身についての作法も。
特に、自分のようなアジアをフィールドに研究していると、
良く言い含められるのが、アジア研究=安易な西洋批判にはなるな、
ということ。
わざわざアジアを研究するような連中というのは、
どこか斜に構えたところがあるというか、メインストリームに抗う、
みたいな美学を持っている部分が往々にしてある。
が、それが、特に若いうちは滲み出過ぎてしまって、
アジアの諸問題を突き詰めていくと、西洋からの影響が大きい、
というような結論、とも言えない精神論に陥りがちだ、という。
たしかに、「資本主義経済はもう限界だ」、
なんて、声高に叫んでみたところで、
実際に、資本主義が、現代社会の諸悪の根源であることは、
なんら証明が成されたわけでもない。
みんなが心の何処かで、仮にそう思っていたとしても、
そのことは、論拠としては何の足しにもならない。
学術的文章において、その種の曖昧さはタブーなのだ。
そして、それを前提に論が組み立てられている場合などは、
その論自体が結果的に砂上の楼閣に過ぎないことになってしまう。
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ただ、困ったことに。
自分自身は、そんな曖昧さが、結構好きだったりする。
虚言妄言で大衆を煽動するような文章が書きたいとは思わないが、
世界の何もかもを明らかにしないと気が済まない、
というのは、人間の驕りのような気がしている。
どうやら、素直に学究の徒では居続けられそうにないが、
郷に入っては郷に従え。
まだもう少し、ここでやりたいことがある。